かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

『「ヴァロットン――冷たい炎の画家」展』 三菱一号館美術館

2014年08月30日 | 展覧会

【2014年8月29日】

 かつて見たことがあったたった1枚の版画のことを覚えてはいたが、作家の名前は失念していた。フェリックス・ヴァロットンという名前を聞いても思い出さなかった。そのヴァロットン展である。1枚の版画のことを思い出したにせよ、それ以外のことはまったく知らないのだから、「冷たい炎の画家」という惹句に気分を合せたわけではないが、期待するもしないもなく、じつに平静な気分で新幹線に乗ったのである。

 フェリックス・ヴァロットン、1865年スイス、ローザンヌ生れ。パリで絵を学び、画家となる。1925年没。

【左】《20歳の自画像》1885年、油彩・カンヴァス、70×55.2cm、ローザンヌ州立美術館 (図録 [1]、p. 60)。
【右】《帽子を持つフェリックス・ヤシンスキ》1887年、油彩・カンヴァス、65.5×60.5cm、ヘルシンキ、
アテネウム美術館 (図録、p. 64)。

 展示は、《20歳の自画像》から始まる。「慎重な視線と控えめな容貌」 (図録、p. 60) と解説にある。どことなく陰鬱な背景と相俟って、私にはなにか悲しみを湛えている表情に思えた。
 《20歳の自画像》とほぼ同じようなポーズを取る人物の肖像画《帽子を持つフェリックス・ヤシンスキ》にも、ほぼ同じような印象を受けたが、それは「悲しみ」とは微妙に違う。二人の人物の表情から共通して窺えるのは、どうも「抑制された感情」とでも呼べるもののようだ。幾つかの肖像画の中で、この2作品に惹かれたのは、感情を抑制しなければならない人生の事情にまで想念が拡がりそうな感覚が生まれるからではないか。もちろん、それは拡がらないままで終るのだが。

《休息》1911年、油彩・カンヴァス、88.9×116.9cm、シカゴ美術館 (図録、p. 72)。

 展示作品には女性の裸像が多かったが、《休息》はその中で最初の展示作品である。暗い背景に、淡々しい色彩で描かれる女性の半身裸像をとても美しいと思った。その後に展示されるであろう多くの女性像の美しさを期待させるに十分だったのだが、結果的に言えば、私の期待と微妙にずれが生じるのだった。それは、上の2作品の肖像画の魅力から生じた期待が、他の肖像画ではすっと外されていたことと同じなのかもしれない。

【左】《4つのトルソ》1916年、油彩・カンヴァス、92×72.5cm、ローザンヌ州立美術館 (図録、p. 72)。
【右】《臀部の習作》1884年頃、油彩・カンヴァス、38×46cm、個人蔵 (図録、p. 168)。

 《休息》のすぐあとに《4つのトルソ》が展示されていて、だいぶ後の展示の《臀部の習作》と併せて考えれば、ヴァロットンが女性の肢体の美を追究した画家だということ自体は問題がないだろう。それがシャヴァンヌ [2] やデルヴォーのように [3] ギリシャ的な造形美に向かうのか、もっと人間くさい女性美に向かうのか、そんなことを考えたのだが、そのどちらでもない。
 イザベル・カーンは図録に寄せた論文で、シャヴァンヌのギリシャ的アルカディアの絵画によく似たヴァロットンの《夏》という作品を紹介している(図録、p. 52)が、それ以外に類似や共通性を見出せない。たしかに、ヴァロットンの絵は、「我々は、彼の絵を見て「ここには有名なこれこれの流派の影響が見られる」などと考えたりは決してしない。……彼の絵は、『これはヴァロットンだ』としか形容しようがないものなのである」 (マリナ・デュクレの引用によるアンドレ・テリーヴの言葉。図録、p. 27)

【左】《正面から見た浴女、灰色の背景》1908年、油彩・カンヴァス、130.5×97cm、グラールス市立美術館
 (図録、p. 158)。

【右】《秋》1908年、油彩・カンヴァス、115×73cm、スイス、ミラボー・コレクション (図録、p. 160)。

 《正面から見た浴女、灰色の背景》は、素直に美しく女性が描かれた「美しい絵」だと受容できる。女性のつつましさと美しさを誇るような肢体、つまり、感情と造形のバランスがとてもいい作品だと私には感じられる。
 《秋》もまた、女性のポーズがいくぶんあざといが、女性の肢体の美しさは十分に過ぎる。

【左】《オウムと女性(部分)》1909-13年、油彩・カンヴァス、114×163cm、スイス、個人蔵 (図録、p. 155)。
【右】《赤い絨毯に横たわる裸婦(部分)》1909年、油彩・カンヴァス、73×100cm、ジュネーヴ、プティ・パレ美術館
(図録、p. 156)。

 女性の肢体の美しさ、艶めかしさという点では《オウムと女性》や《赤い絨毯に横たわる裸婦》が典型的な構図の絵だろう。もちろん、裸婦像としてはすばらしいのだが、このどちらの絵も、私には、女性の表情がことさらに目についてしまう。
 美しい肢体に目を取られ、表情に目を取られしているうちに、なんとなく鑑賞のリズムが狂ってしまうような感じなのだ。《休息》や《正面から見た浴女、灰色の背景》のような裸婦像が私の好みなのは、たぶんそういうことがないためだろう。どこかに固定されずに視野、視線を安心して画面全体に開放することができる。大げさに言えば、そういう鑑賞ができるということだ。

 《赤い絨毯に横たわる裸婦》の解説にこう書いてある。「完璧に化粧した女性は、なんの主題も物語性もなく、抽象化した背景の前に、ただ現実的なモデルとして横たわっている」(図録、p. 156)。そうなのだ。たとえば、《20歳の自画像》や《帽子を持つフェリックス・ヤシンスキ》の肖像画に「悲しみ」や「抑制された感情」を見るということは、そこからはじまる物語の契機を見ていることと思われるのだが、他の肖像画にはそのような感じがまったくない。ヴァロットンの絵を見る私は、絵を見た瞬間の感動から始まる物語を期待して、それがふっとかわされるという感じなのだ。《休息》という裸婦像の先に、私が期待する女性像とは微妙に異なる裸婦像が連なる、ということも同じ事情なのだろう。

【左】《室内情景》1900年、油彩・厚紙、55.5×30.5cm、パリ、オルセー美術館 (図録、p. 108)。
【中】《室内、戸棚を探る青い服の女性》1903年、油彩・カンヴァス、81×46cm、パリ、オルセー美術館
(図録、p. 109)。

【右】《赤い服を着た後姿の女性のいる室内》1903年、油彩・カンヴァス、93×71cm、チューリッヒ美術館
(図録、p. 113)。

 女性が出てきて物語性の強い絵の代表は、室内に一人で佇む、あるいは手仕事をしているという構図を描くフェルメールだろう。ヴァロットンの上の三作品もそのような構図には違いないものの、物語性から遠く、素っ気ない。
 それでは、物語性からもっとも遠いと考えられるハンマースホイの室内の絵と似ているかと言えば、それともまったく違う。ハンマースホイは人物に執着せず、誰もいない(家具もない)室内の絵が多いが、ヴァロットンには女性像が必須のようである。つまり、描かれる情景の中に配置された造形として必要な女性像と考えるべきなのだろうか。もしそうであれば、シャヴァンヌやデルヴォーと似ていなくもないが、ヴァロットンはヴァロットンにしか似ていないと言っておくのが無難なようだ。

《赤ピーマン》1915年、油彩・カンヴァス、46×55cm、ソロトゥルン美術館、デュビ・ミュラー財団 
(図録、p. 164)。

 ヴァロットンは、何でも描く。肖像画や裸婦像に加えて、静物画も風景画も描く。何の不思議もないけれども、画家は主題や対象にこだわりはないのだろうかと、やはり思ってしまう。ヴァロットンは、対象にのめり込むことがない。だから、心性において「冷たく」、画力において「炎」なのだと、展覧会の惹句に牽強付会したくなる。

 《赤ピーマン》の質感に驚く。静物画には、「なんの主題も物語性」もないからであろうか、ヴァロットンの静物画はどれもとてもいい。

《残照》1911年、油彩・カンヴァス、100×73cm、カンペール美術館 
(図録、p. 96)。

 ヴァロットンの風景画は、少し奇妙である。風景を描く画家が、どこからその風景を見ているのかといぶかってしまう絵が多い。空中の仮想的な位置から俯瞰しているような絵が多いのだ。
 そのような風景画の中で、《残照》だけは画家が地面に立って描いている構図になっている。もちろん、《残照》の良さは画家の立ち位置の問題ではない。構図も色合いもいい。どこか浮世絵の構図と色彩を思わせるものがある。
 赤い木の幹には驚いたが、寄生する蔦の緑や裸木との対比があることが赤い木肌を際立たせているようだ。背景の空のグラデーションもいい。しかし、これを風景画と呼んでいいのだろうか。そう思えるほど、構成的な絵である。

《くっきりと浮かび上がるスーアンの教会》1917年、油彩・カンヴァス、97×130cm、
ワシントン・ナショナル・ギャラリー (図録、p. 195)。

 スイス生れのヴァロットンは、第一次世界大戦にフランス兵として従軍しようとして叶わず、最前線に赴いたという。そうして描かれた絵の一つが《くっきりと浮かび上がるスーアンの教会》である。
 戦争を主題とする展示作品のどれもが、戦いの後の荒れた風景を描いている。《くっきりと浮かび上がるスーアンの教会》は、色の配置がことさらに美しい。手前の崩れた白壁の破片、赤い煉瓦壁、緑の草地、ほとんど黒色の木々、その中の青灰色の破壊された教会。ヴァロットンは、その現地で風景画を描かないということから考えて、この絵もまた画家の風景にたいする審級が美しく再構成したものだろう。

 ヴァロットンの絵を見終えても、印象がまとまらない。薄いヴェールの上からなぞるように絵を眺めた気分がある。対象を突き放しつつ、対象に接近する。そんな風にしか思えない画家の心性を窺いえない感じが残ったということである。


[1] 『ヴァロットン――冷たい炎の画家』図録(以下、『図録』)(三菱1号美術館、日本経済新聞社、2014年)。
[2] 『水辺のアルカディア――ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの神話世界』(「シャヴァンヌ展」図録(島根県立美術館、2014年)。
[3] 『ポール・デルヴォー展 ―夢をめぐる旅―』(「ポール・デルヴォー展 -夢をめぐる旅-」実行委員会、2012年) 。


【書評】久永強(絵・文)『友よねむれ――シベリア鎮魂歌(レクイエム)』(福音館書店、1999年)

2014年08月19日 | 読書

 2013年9月28日、世田谷美術館ではじめて久永強の絵を見た。1949年夏までの4年間のシベリア抑留体験を絵にしたものである。『アンリ・ルソーから始まる――素朴派とアウトサイダーズの世界』 [1] という美術展で、久永の絵は一つのコーナーを飾っていた。その美術展について文章を書いてみたのだが、久永強の絵には触れなかった。いずれ、久永強単独でなにか書いてみたいと思ったからだったが、手つかずのままだった。
 その後、同じように8年間のシベリア抑留を体験した詩人・石原吉郎を論じた勢古浩爾の『石原吉郎 寂滅の人』 [2] を読んだ。香月泰男の〈シベリア・シリーズ〉の絵も画集 [3] で見た。そして、その都度、久永強の絵について言葉を紡ぐことがますます難しくなったと感じたのだ。
 それは、ラーゲリ体験がまったく私の体験と接点がないためだと思うのだが、想像上の追体験としてもきわめて困難な作業だということなのだ。石原吉郎のシベリア体験 [4] を語りつつも、次のような勢古浩爾の述懐に、私は強く同感する。(なお、石原吉郎はラーゲリと呼び、久永強はラーゲルと表記するが、引用する場合はそのままとする。)

 それが、極限でも、酷薄でも、異常でも、地獄でも、あるいは日常でも、平安でも、秩序でもよい。明言するが、わたしは石原吉郎が体験した強制収容所という事実の質量にうちのめされない。いや、ただ言葉を放りだすだけなら、わたしは口先だけでうちのめされたと書いてもよい。石原の体験どころか、アウシュヴィッツにも、南京虐殺にも、広島にもしこたまうちのめされたと書いてよい。しかし所詮それだけのことではないか。むろん、放りだされたその言葉の背後に多少の真実がないわけではない。だが結局は、わたしの退屈で平凡な日常の事実の質量が、ラーゲリの、アウシュヴィッツの、南京虐殺の、広島の事実の質量を致し方なく凌駕してしまうのだ。なんと日常性はふてぶてしく、なんと狡搰なことか。 (『勢古』p. 79)

 石原吉郎が、あるいは久永強が、香月泰男が体験したそれぞれのシベリア抑留体験にうちのめされた、とたしかに書こうと思えば書くことができる。しかし、それは「うちのめされない」と書くこととほとんど同じだと思ってしまうと、その断絶のあわいで言葉を失ってしまう。

 しかし、今年も8月15日がやってきた。自民党政府の官房長官が、国民に向けて黙祷を捧げるようにと要望したという。解釈改憲で集団的自衛権行使を可能にして、海外での戦争に日本人兵を送ろうと企み、特定秘密保護法によって批判勢力を押しつぶそうと準備している自民党政権が戦死者への黙祷を強要しようと企む。将来の戦死者への無批判の礼賛と祈禱への地ならしのように思える。そのことに腹を立てて、今年は8月15日の黙祷を止めた。9月2日の正式な敗戦記念日に黙祷することにした。
 なにも8月15日だけが戦争や戦争の死者を思う日ではないのだ、と力みかえったものの、私は久永強の絵を放ったままではないか。それなら、力んだエネルギーをバネにして久永強の戦争も逃げずに考えてみよう。そう思ったのである。紡げそうにもない言葉を綴ろうという野蛮、無謀を決意したのである。

 久永は、60歳を機に油絵の手ほどきを受け始めたという。『アンリ・ルソーから始まる』展で、久永が取り上げられたのは、正式な美術教育を受けずに自らの欲求にしたがって絵を描き続けた市井の画家というカテゴリーに含まれ、世田谷美術館が久永の絵のほとんどを収蔵しているためである。
 画壇に高く評価されている香月泰男も有名な〈シベリア・シリーズ〉で抑留体験を絵画として表現している。その香月泰男の展覧会を見た久永は、「私はもう、ほんとに感動してしまってね。背中がこう、ずうーんとくるような感じになって、時間のたつのもわかりませんでした」と語る一方で、「<自分のシベリアは、これとはちがう。こういうのではない> という気持もはっきりとありました」 (p. 92) とも述べている。
 「自分のシベリアは、これとはちがう」という思いは、容易に一般化できそうな気がする。体験が過酷であればあるほど、それは極端に個別的なものになるだろう。勢古浩爾は、それを「体験に一般的な体験はない。相対的な体験もない。体験とはつねに個別的であり絶対的である。また体験に抽象的な体験というものはない。つねに具体的であり身体的である。ようするにどのような瑣末な体験であっても、体験の身体的な事実の質量の絶対性は体験者にとってけっして動かすことのできないものだといってよい」 (『勢古』 p. 77) と説明している。シベリア抑留体験者のそれぞれがそれぞれの体験に向かって「自分のシベリアは、これとはちがう」と語っても不思議ではない。

 しかし、私には久永強が香月泰男に向けた「自分のシベリアは、これとはちがう」には、もう一つの意味があったように思えてしかたがない。それは、シベリア体験を表象しようとするプロセスの違いがあるのではないか、ということである。香月泰男は、プロフェッショナルな画家としてシベリア体験を再現する。そこには、優れて芸術的な昇華作用が働き、絵画芸術として完成されたものを目指された形で表現されている。一方、香月の絵にインスパイアされながらも、久永の心象におけるシベリア体験像は、芸術的に昇華されない生々しいものとして息づいていたに違いない。言い換えれば、個別的な生々しい体験が香月のように芸術的昇華を経て表現されてしまうと、久永にとっては己の生々しい体験像そのものと遠く隔たったものだと感じられたのではないか。
 しかし、香月泰男の絵を「自分のシベリアは、これとはちがう」と思った久永も、それを絵画で表現しようとすれば、表現手段に必然的にまとわりつく昇華作用や抽象作用を自らのイメージに施さざるをえない。そうすると、ある種の体験像の喪失感や欠如感、あるいは単純な不足感のようなものが生れ、タイトルを持つ一つ一つの絵にさらに言葉を添えざるをえなかったのではないかと思う。いわば、香月泰男においては、彼の画業によってシベリア体験が受け止められたのに対して、久永強においては、シベリア体験に「絵を描く」という行いが投げ込まれたのである。絵画表現と主体経験の構成的関係が二人においては逆なのではないかと思える。
 これは、勢古浩爾が詩人である石原吉郎を論じるときに、石原の詩よりも散文である『望郷と海』の記述にそのほとんどを依拠していることと相似的である。石原は抑留体験も詩にしているが、詩的昇華(抽象化)によって良い意味での多義性、一般性を獲得している。それに比べれば、散文に拠る方が過酷で個別的な抑留体験の生々しさに近づきやすかったのではなかろうか。

 さて、本書の収録作品は、すべて世田谷美術館の収蔵品である。図版は、本書と『アンリ・ルソーから始まる――素朴派とアウトサイダーズの世界』展の図録による。また、久永強の絵は、添えられた文章と一体であると考えられるので、その文章も併せて引用している。

《過ぎ去った五十年の風景》1994年/油彩、カンヴァス/27.5×41.2cm
 (p. 6-7、『図録』p. 60)。

《過ぎ去った五十年の風景》
 
五十年が過ぎ去り、豊かな日本の穏やかな毎日の中に浸っていると、あのシベリアのつらい日々は何だったのだろうと思う。しかし、六十歳になって絵を習いはじめて十数年たった私の心の中に、あの抑留時代のひとコマ、ひとコマが年とともにかえって鮮明に甦って来つつあるのに気がついた。まわりの人たち、とくに戦争の経験のない人たちにとっては、凍土に眠る多くの同胞のことに想いを馳せるなどということは、現在の繁栄と平穏の中にあってはとうてい無理な話である。へたな私の絵でもよい、望郷の念をひたすらに抱きながら異郷の地に死んでいった戦友のために、今私が彼らのことを描いておかないと、私自身が死んでも死にきれない気がしだした。戦争の問性の「いけにえ」になって何ひとつ報われることのなかった、ひとりひとりの事実を五十数年たった今、もう一度提示することで、私の手で葬った戦友への挽歌としたい。
 (p. 6-7)

《ダローガ(道)》1994年/油彩、カンヴァス/27.5×41.2cm (p. 8-9、『図録』p. 61)。

《ダローガ(道)》
 湿原と原生林のシベリアのさいはての地に、第一シベリア鉄道と言われるバーム(BAM=バイカル・アムール)鉄道建設のため、日本兵捕虜収容所がタイシェットの町からさらに奥深く作られていった。五キロメートルごとに千名ほどの捕虜が収容されていた。私たちは日本兵の中でも先発隊で、まず森林を伐採して道を作り、その先に自分たちの入る建物を作らなければならない。毎日、自分たちの作った道(ダローガ)を隊を組んで歩き、たどり着いた原生林でさらに新しいダローガを作るために悪戦苦闘した。夕方になると、疲労困憊した体に鞭打って、また自分たちの作ったダローガを重い足を引きずりながら帰路につく。希望も安息も削り取られてしまった悪夢の毎日であった。
 (p. 10)

 久永強は、1945年11月、シベリア・タイシェット地区第十七収容所に収容され、第二のシベリア鉄道といわれるバーム鉄道(バイカル・アムール鉄道)建設の労役につく。20日以上の列車移動を要して着いたのは雪深い山中の収容所であるが、シリーズの最初の絵は、なぜか冬ではない。いずれにせよ、シベリアの針葉樹林帯(タイガ)での4年間の収容所生活が始まる。
 収容所に入れられた時の久永の心境は、少なくとも文章では記されていない。戦争犯罪人として「重労働25年」という刑を宣告されて刑務所に収容された石原吉郎は、タイガを見ながら考える。

 密林(タイガ)のただなかにあるとき、私はあきらかに人間をまきぞえにした自然のなかにあった。作業現場への朝夕の行きかえり、私たちの行手に声もなく立ちふさがる樹木の群に、私はしばしば羨望の念をおぼえた。彼らは、忘れ去り、忘れ去られる自我なぞには、およそかかわりなく生きていた。私が羨望したのは、まさにそのためであり、彼らが「自由である」ことのためでは毫もない。私がそのような心境に達したとき、望郷の想いはおのずと脱落した。 (『石原』 p. 111)

 「望郷の想い」が脱落したというのは、諦めたということでない。恐怖によって、「望郷の想い」を超える感情が沸き立ったのである。

帰るか、帰らないかはもはや問題ではなかった。ここにおれがいる。ここにおれがいることを、日に一度、かならず思い出してくれ。おれがここで死んだら、おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。地をかきむしるほどの希求に、私はうなされつづけた(七万の日本人が、その地点を確認されぬまま死亡した)。もし忘れ去るなら、かならず思い出させてやる。望郷に代る怨郷の想いは、いわばこのようにして起った。 (『石原』 p. 109)

 「望郷に代る怨郷の想い」ということを私は想像できない。怨郷の想いは、シベリアから日本に帰還してからの心性をひどく複雑なものするだろう。そのような石原の心の問題を、勢古浩爾は『石原吉郎』で論じているのである。

【左】《耐え忍べダモイ(帰還)の時まで》1994年/油彩、カンヴァス/53×45.5cm
(p. 17、『図録』p. 61)。
【右】《一時の憩い》1993年/油彩、カンヴァス/33.5×24.4cm (p. 63)。

《耐え忍べダモイ(帰還)の時まで》
 
少量の、それも飼料としか言えないような貧弱な食事、零下三十度をこえる極寒の冬、蚊とブヨと伝染病の夏、その中でロシア人に監視されながらの、想像を絶するノルマ、ノルマの重労働。ふらつく足につきまとう栄養失調は重病を誘発し、次々と倒れて人院する。帰心矢のごとき想いとはうらはらに、果てしない失意の日々が続く。ああ帰りたい。ただもう帰りたい。
 (p. 16)

《一時の憩い》
 
腰まで雪に埋まっての森林伐採作業は、もっとも苛酷な作業である。酷寒の中、防寒衣服を萎えた体でようやく支えての重労働。やっとむかえた小休止での焚火のぬくもりは、爪の先ほどの極楽なのだが、そのぬくもりはまた、いつ会えるともない母への想いの束の間のぬくもりでもあった。
  (p. 62)

 労働は過酷である。とくに、極北の地の白夜にあっては、「深夜でも、たそがれくらいには明るい。昼間のノルマが達成できないと、残業が強制的に強いられる。恐怖の明るさが残る白夜の地獄がえんえんと続く。戦友の命は、バ一ム鉄道が伸びるだけ縮んでいく」 (p. 38) のである。
 焚火もまたぬくもりの時間であるが、「大輪の花が咲いたようなロシア娘の華やかさ」 (p. 53) を見ることも、「慰問の楽劇団がやってくる」 (p. 58) こともあった。束の間のぬくもり、やすらぎがないわけでもなかった。

【左】《生ける屍》1993年/油彩、カンヴァス/41.2×27.5cm (p. 35、『図録』p. 64)。
【右】《ラーゲルの医務室》1993年/油彩、カンヴァス/41×27.5cm (p. 41)。

《生ける屍》
 
一日三百グラムの黒パン一個と雑穀のスープで命をつなぎながら、酷寒と重労働の中で、ミイラのようにやせ細った捕われの身。この男に何を考えろというのだ。失意の果てにただ呼吸している屍。
 (p. 34)

《ラーゲルの医務室》
 
医務室には日本の軍医とソ連の女医がいた。日一日と目に見えて衰えていく体力のチェック。一、二、三、四級と区別され、一、二級はふつうの作業、三級は軽作業、四級ともなれば歩くのがやっとの重症、即入院なのだがなかなか入院できず、しかたなく所内での静養となる。ひどい栄養失調で過酷な環境に耐えきれず充分な看護も受けないまま、ある朝収容所のべッドの上で冷たくなっていた戦友も数知れない。

 その体力検査が変わっていて、捕虜の臀部の皮膚を引っぱって、その伸び具合で等級が決まる。女医は少しでも等級を上げようとし、軍医は等級を落として捕虜を守ろうとするのだが、軍医とてしょせん捕われの身である。軍医の努力もむなしく、多くの病人の戦友が一、二級に査定され、重労働へと追い立てられていった。 (p. 40)

 強制収容所であれ、刑務所であれ、少なくとも国家機構の中で管理された施設である。にもかかわらず、飢えは進行し、病を得なければかろうじて生き延びることができる。しかし、実際のところ、飢えはシベリア抑留者だけを襲ったわけではない。太平洋戦争において戦没した日本兵士はおよそ230万人で、そのうち60%強の140万人は餓死だといわれている。兵站なしで戦線を拡大した帝国陸海軍の無謀、無能な戦略のゆえである。
 《生ける屍》や《ラーゲルの医務室》の痩せ衰えた兵士にそのまま重なる日本兵の写真がある。

異常に痩せた日本海軍兵士(1945年9月、マーシャル群島)(BEN AND BAWB'S BLOGから引用)

 餓死は、戦場で死んだ死ではない。戦いの中で敵によって殺された死でもない。140万人もの惨めな日本人の餓死、つまりは兵站なしで送った軍部に拠って殺された死を「名誉の戦死」とか「英霊」と讃える人びとが企図しているのは、事実の隠蔽と歴史の悪しき修正である。私は、戦争の悲惨、無惨、反人間的な意味をいくらでも知ることができるのに、それを見ることも理解することも拒否している「非知性」主義が今でも多く存在することを訝かしむ。なぜ、人は積極的に無知蒙昧を選ぶのだろう。

【左】《母のもとへ》1993年/油彩、カンヴァス/14.2×18.2cm (p. 42、『図録』p. 65)。
【右】《オイ飯だよ》1993年/油彩、カンヴァス/22.2×27.5cm (p. 64-5、『図録』p. 64)。

《母のもとへ》
 
苦しい一日の作業が終った後の親友A君の話題といえば、まず食べ物の話、そして母親の話、母ひとり子ひとりの彼にしてみれば当然のことと私には思えた。その母上も彼の招集の後、間をおかずして他界されたと聞く。今は亡骸となった彼の落ちくぼんだ顔を見ていると、その魂はシベリアの寒空を飛びこえ、故郷に眠る母親の懐へと飛び帰っていくのが見えた。友よ眠れ! 安らかに眠れ! (p. 42)

《オイ飯だよ》
 
故郷の味を限りなく懐かしみ、その話しかしなかった友よ。腹いっぱいその料理を食べられたら、いつ死んでもよいと言っていたのに、空腹のまま、鍋底のように腹をへこませて、ひと粒の米粒も口にしないで死んでしまった友よ。あの世でおまえに会ったら、手のひらに大きなニギリ飯をのせ、「オイ飯だよ」と言ってやりたい
 (p. 64)

 食べ物の話をする飢えた日々から去っていく仲間がいる。飢えと望郷、そして、仲間の死の瞬間は、自分の明日の姿だというシンパシーを激しく超えてしまう感情で満たされる時でもあろう。
 石原吉郎の経験もまた、次のように過酷である。

食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応をうしなっているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった。すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感は、その後ながく私の記憶にのこった。はかないというようなものではなかった。
 「これはもう、一人の人間の死ではない。」私は、直感的にそう思った (『石原』 p. 8)

 私がそのときゆさぶったものは、もはや死体であることをすらやめたものであり、彼にも一個の姓名があり、その姓名において営なまれた過去があったということなど到底信じがたいような、不可解な物質であったが、それにもかかわらず、それは、他者とはついにまぎれがたい一個の死体として確認されなければならず、埋葬にさいしては明確にその姓名を呼ばれなければならなかったものである。 (『石原』 p. 9-10)

【左】《白夜の午前零時》1994年/油彩、カンヴァス/32×41.2cm (p. 70-1、『図録』p. 69)。
【右】《霊安室》1993年/油彩、カンヴァス/32×41.2cm (p. 60-1、『図録』p. 69)。

《白夜の午前零時》
 
シベリアの夏は一日が長い。そして安らぎの夜は、ほの暗いというより少し明るいといった感じのまま、また太陽が顔をのぞかせて、朝になってしまう。慣れてくると、明るい夜でもけっこう眠れるようになるものである。

 しかしその夜は、妙に寝つかれなかった。眠れぬままに外に出てみたら、何人かの人々がやはり眠れないのか空を仰ぎ、あるいは地にうずくまって時を過ごしていた。私は見るともなく所内の枯れた大木に視線を移してギクリとした。生きることに疲れ果てた戦友の亡骸が、そこにぶらさがっていたのである。私は彼に向かって黙禱をささげ、一刻も早く彼の魂が故郷の母のもとにたどり着くよう祈った。そして私は、もうほんの少ししか残っていない己の希望の灯を決して消すまいと誓っていた。 (p. 70-1)

《霊安室》
 
ひとりの戦友の命の灯火が消えると、その屍は、霊安室というにはあまりにも粗末な小屋に移される。暖房のないところで一夜を明かした屍は、極寒の中で芯の芯まで冷凍人間になってしまう。亡骸を埋葬地まで運ぶ橇に乗せるとき、あるいは墓穴に入れるときには、慎重な作業が要求される。誤って床に落としたりすると、氷が割れるように屍がポッキリと折れて、ふたつにも三つにもなってしまうことがあるからである。心では御霊の安らかなることを願っていても、体力の衰えてしまった生存者にとっては、かなりつらい仕事であった。
 (p. 62)

 それは絶望の果てだろうか、絶望を超えた精神の寂滅のためだろうか。「忍耐の限界に来た」うら若い青年将校は、「ある日、己の指を自ら切ってしまった。そうすれば働くことができなくなり、故国へ自分だけが送還されるとでも錯覚してしまったのか」 (p. 50) という錯乱もあった。《白夜の午前零時》に描かれる自死もある。
 そうして、餓死した屍、病死した屍、自死した屍は一時的に名ばかりの霊安室に安置(?)され、酷寒のシベリアで氷そのものに化すのである。

【左】《互い違いに》1994年/油彩、カンヴァス/41.2×27.5cm (p. 33)。
【右】《レクイエム・その1》1992年/油彩、カンヴァス/27.4×22.2cm (p. 46)。

《互い違いに》
 
ソ連収容所に入所当初、収容所には建物もなく、空き地にテントを張り、狭い面積に雑魚寝するはめになった。とにかく鮨詰めの大人数である。やむなく互い違いに寝ることで、全員がやっと眠ることができるありさまである。頭の上に足を乗せられて眠りを妨げられるのはザラである。しかし外は雪。お互いの体温で酷寒を少しでも防げたのは、せめてもの幸せであった。

 後日、戦友の埋葬のときまで、命令で屍を互い違いにさせられたのはみじめであった。  (p. 32)

《レクイエム・その1
 
極寒の地、シベリア。重労働。小さなパンとわずかなスープ。この極限の世界で生き残るのがふしぎなくらいである。疲労と栄養失調、そして失意の中で、戦友は骨と皮に成り果て、次々と死神の招待を受けていった。心は生きているときからもう骸骨となっていたのだ。
 (p. 46)
《レクイエム・その2
 
死がソ連兵に認されると、彼らは生き残った捕虜に、屍の着ているものすべてを剥ぎ取らせた。屍の着物は彼らにはたいせつな物資である。私たちにとっては、極寒の地でのせめてもの死者へのはなむけであったのに……。私は涙でかすんでしまった視野の中で、屍に謝りながらその肌着を剥いだ。明日はわが身と覚悟しながら。
 (p. 47)

 驚くべきことに、生きた人間が眠る姿と、死んだ人間が埋葬される姿は全くの相似形なのである。頭と足を交互に並べて、兵士は眠る。短いまどろみの眠りと永遠の眠りをともに眠る。
 《互い違いに》から《レクイエム・その1》に至るまで、誰が生き延び、誰が死んだのか。ラーゲリで生き延びるということはどういうことか。

 いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰がはじまったのである。
 適応とは「生きのこる」ことである。それはまさに相対的な行為であって、他者を凌いで生きる、他者の死を凌いで生きるということにほかならない。この、他者とはついに「凌ぐべきもの」であるという認識は、その後の環境でもういちど承認しなおされ、やがて〈恢復期〉の混乱のなかで苦い検証を受けることになるのである (『石原』 p. 66-7) 

 生き延びるためには、何が必要だったのか。「妻がいないからできる。子どもが目の前にいないからできる」 (p. 13) 、そのようなあれこれ。想像しつつも、想像を絶するというしかないあれこれ。

【左】《戦友(とも)を送る・夏》1992年/油彩、カンヴァス/27×22.2cm (p. 18-9、『図録』p. 62)。
【右】《友よさらば(埋葬)》1993年/油彩、カンヴァス/41×37.5cm (p. 72、『図録』p. 62)。

《戦友(とも)を送る・夏》
 
今日もまた、親しい戦友が死んだ。彼には妹がいた。「気立てのやさしい、顔立ちも愛くるしい、すばらしい娘だ」と私にいつも語っていた。そして最後に「君が無事、日本に帰れたら、妹をぜひ嫁にもらってくれ」というのが彼の口癖であった。
 (p. 19)

《友よさらば(埋葬)》
 
さいはての地、シベリア。今まで日本人のだれも踏んだことのない、この黒い土を掘り、今、ふたりの戦友の亡骸を穴の底に置く。 「俺がもし命あって故国の土を踏むことができたら、必ず君の肉親たちにその最後のありさまを告げるから」と涙ながらに誓って、その亡骸の上に土をかぶせる。
 (p. 73)

 埋葬は、もはや日々の行いになる。肉体と魂の分離を信じることで救われるのかもしれない。せめて、魂は故郷へ帰還する。それは、もはや信仰などというものではなく、生への執着の裏返しのような静かな「寂滅」するような心のあり方ではないか。これは、根拠を求めようがない私の想像である。

《塀の向こうには海がある》1993年/油彩、カンヴァス/
4l×27.5cm (p. 75)。
 

《塀の向こうには海がある》
 
収容所と外界は高い板塀でへだてられ、その内側にはさらに有刺鉄線の柵が設けられ、無断でそこに一歩でも近づけば、銃弾がうなり飛んだ。ある夜、頭のおかしくなった戦友が、「塀の向こうは日本海だ」という考えにとりつかれた。そして深夜、がまんできなくなって塀によじ登った。――彼は海を見ることもなく、魂だけを日本海に走らせた。
 (p. 74)

 故国と私を隔てているのは「海」だという想いは、船で戦地に赴いた日本人の避けがたいイメージには違いない。国境はすべて海なのである。ラーゲリの塀は国境と同じだと錯乱する。錯乱しない精神にあっても、海への想いは切実なのである。

 海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草原(ステップ)と凍土(ツンドラ)がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。 (『石原』 p.100)

 シベリア虜囚の生にとって、海、日本海こそが故国へ帰還する唯一の道なのである。不思議なことに、香月泰男の〈シベリア・シリーズ〉にも《日本海》と題する絵がある。勢古浩爾の解説はこうである。

 香月泰男の作品に「日本海」と題された大部の油彩がある。「日本海」という題名とは裏腹に、真っ青な日本海が描かれているのはカンパス上部のわずか四分の一ほどでしかない。残された大半の部分には、ナホトカの丘に埋葬されたひとりの日本人の姿が黒一色によって厚く塗りこめられている。死者は折り曲げた両手を腹のうえで交差したまま、「日本海」に背を向けて横たわっている。まったくの牽強付会にすぎないが、わたしは石原の「ロシヤの大地に置き去りにしたとりもどすすべのない重さ」という言葉をイメージするとき、むしろ石原にとって象徴的なこの一枚の絵を思い出さないわけにはいかない。 (『勢古』 p. 91)

 石原のいう「ロシヤの大地に置き去りにしたとりもどすすべのない重さ」を象徴しているのは、《戦友(とも)を送る・夏》や《友よさらば(埋葬)》、《レクイエム・その1》で描かれたシベリアの大地に埋葬された戦友たちの屍の重さである。
 その「重さ」を自らの手の感触で再確認するために、石原吉郎は詩を書き、香月泰男は絵を描き、久永強は文章を添えた絵を描いたのである。

 

[1] 『アンリ・ルソーから始まる――素朴派とアウトサイダーズの世界』(以下、『図録』)(世田谷美術館、2013年)。
[2] 勢古浩爾『石原吉郎――寂滅の人』(以下、『勢古』)(言視舎、2013年)
[3] 『生命の讃歌 香月泰男画集』(小学館、2004年)。
[4] 石原吉郎『望郷と海』(以下、『石原』)(筑摩書房、1972年)。


【書評】ジョージ・マイアソン(竹田ちあき訳)『ハイデガーとハバーマスと携帯電話』(岩波書店、2004年)

2014年08月16日 | 読書


ジョージ・マイアソン(竹田ちあき訳、大澤真幸解説)
ハイデガーとハバーマスと携帯電話
(岩波書店、2004年)

 ハイデガーとハバーマスの名前が並んではいるが、七面倒くさい本ではない。「新しいケータイ文化と古いコミュニケーション哲学」 (p. 73) をごく「常識的」に論評した読みやすい本である。つまり、「新しいケータイ文化」をハイデガーやハバーマスの「古いコミュニケーション哲学」によって批判しているのだ。

 本書は、「ハイデガーとハバーマスと携帯電話」という論述に、〈付録〉としての「ハイデガーとハバーマスの基礎知識」、さらに大澤真幸の「もう一つの「ハイデガー、ハバーマス、ケータイ」」という批判的解説から構成されている。
 その大澤真幸は、ジョージ・マイアソンの論考を次のように要約している。

 コミュニケーションとは何か? ケータイのそれは、個人の自由の極大化をめざす私的なものだが、哲学者たちの思い描くコミュニケーションは、「われわれ」という関係を志向する。なぜコミュニケーションをとるのか? ケータイのコミュニケーションは、功利的な目的を充足させるためだが、哲学者たちのそれでは、会話それ自身が享受されている。誰がコミュニケートするのか? ケータイでコミュニケートしているのは、実際には装置だが、哲学者たちが目指すコミュニケーションは、生活世界に内属する声が主役である。何がやりとりされるのか? ケータイでは、メッセージが交換され、哲学者たちのコミュニケーションでは、意味の共有に基づいて理解が達成される。コミュニケーションがうまくいくとは、どういう場合なのか? ケータイでは、即座の応答が得られるときであり、哲学者にとっては、合理性の相互批判の可能性や相互の接触が成功を含意する。コミュニケーションから何を学ぶか? ケータイでは、情報が学習され、哲学者のコミュニケーションでは、知識の獲得の過程が重要であって、世界は理解可能だという感覚が得られるだろう。それぞれのコミュニケーションが目指すユートピアは何か? ケータイのそれは、貨幣の獲得を指向する商取引に漸近しており、哲学者たちのそれは、システムから独立した生活世界に固有の価値を目指している。 (p. 107-8)

 著者は、ケータイに関わる資本の広告やマスコミの論調を「新しいケータイ文化」の言説として取り上げる。

この国における携帯電話の数は七七〇〇万台近く、無線電話サ—ビスの加入者は一日に三万七五〇〇人以上(と推定されている)。しかもこれらのユーザーは今まで以上に話をしている……。電話ネットワーク上の通信量は過剰である……(下線は著者)  
        『ニューヨーク・タイムズ』二〇〇〇年八月一九日 (p. 9)

申し分なくぴったりです人々に話しかけるのにも、短いメッセージの受信にも、映画の予告編チェック、移動テレビ会議、新聞の見出しの受信にも。(下線は著者)
        オレンジのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一三日 (p. 11-2)

コミュニケーションという概念そのものが、いま変えられていくのです。
        オレンジのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一三日 (p. 23)

今日、無線電話が九四〇〇万以上の人々、つまりアメリカ人の三人に一人へ提供しているのは、コミュニケーションをとる自由です――みなさんが欲しいときにいつでも、みなさんが欲しいところでどこでも。
        ノキアのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一二日 (p. 24)

(新しい電話機器は)文字通り、あなたの個人的なコミュニケーション・センターになります……
        オレンジのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一三日 (p. 26)

……このモデルは、生命を持たないモノどうしのコミュニケーションを反映し、通常の声やデー夕の通信に対する請求だけでなく、付加価値サービスに対する支払いも受け取るためのもので……(下線は著者)
オレンジのプレス・リリース、二〇〇〇年七月一三日 (p. 36)

 このような資本やマスコミの言説は、ケータイ文化そのものをほとんど表現している。つまり、ケータイを道具として消費する人びとの動向は、このような言説によって作られるからである。消費文化は消費者ではなく、資本によって形成されのだから。

 上のような「新しいケータイ文化」に対して、著者は次のようなハバーマスやハイデガーの「コミュニケーション哲学」を対置させる。

〔マルティン・ハイデガー〕

会話と言説は
・メッセージないし情報を伝達する、という目的をもたない
・われわれが欲しいものを、より効率的に手に入れる手段ではない
・「私という人間」を、表現しない

・意味を発見する、という目的をもつている
・理解を共有する、という目的をもっている
・人間の世界内存在を表現する。  (p. 88-89)

〔ユルゲン・ハバーマス〕

コミュニケーションの合理性とは
・自分自身の目標や興味を、人と争って追い求めること、と定義されるものではない。
・成功のための「戦略」をあみだすことをいうのではない

・言語その他、コミュニケーションの媒体を通じて、共通理解を得ることをいう
・批判をおおらかに受け入れるとともに、自らの信条・決定・行為について十分な理由を述べることができる状態をいう (p. 91-2)

 著者は、ケータイで私たちが行なっていることは「コミュニケーション」ではなく、メッセージの交換にすぎないと考える。「欲しいときにいつでも」、「欲しいところでどこでも」、「通信量は過剰」であっても、それは「個人的なコミュニケーション・センター」にすぎない。単独では、コミュニケーションは成立しない。

 じつに目を引くのは「個人的な……センター」という発想だ。これがコミュニケーションのモバイル化の根本原理なのだ――コミュニケーションとはじつのところ孤独な行為である。あなたは自分だけのコミュニケーション・センターをもつ。こうしてわれわれがたどりつく重要な忠告は、モバイル化の基本方針を示している。コミュニケーションはかかわるのがひとりだけのときにいちばんうまくいく (p. 26)

 メッセージは意味とは大違いである。どう甘くみてもせいぜい、メッセージは意味の極端な縮約版――意味の薄っぺら版としか言いようがない。ハバーマスの哲学のおかげでわれわれは、メッセージを意味のある表現とはっきり区別できる。 (p. 51)

 ここで「コミュニケーションをとる」というのは、接続すること、ネットワークに入ることである。繰り返して言うが、この新しい言い方では「コミュニケーションをとることができる」のは機器である。コミュニケーションの「相手」はネットワークであり、行為者ではない。 (p. 65-6)

 私たちの「新しいケータイ文化」は、「古いコミュニケーション哲学」と鋭く対立する。それは歴史的なものゆえに回避できないものなのか、あるいは相容れない概念として同時代的に対立したままなのか。

 またも大きな違いが、対立するユートピア像に見られる。ケータイのユートピア像は、目先の必要にぴったり合致する情報へ瞬時にアクセスできる、というものである。これはできるだけ効率よく入手・獲得することに終始する。これとは対照的に、哲学者がこだわるのは獲得の過程であり、それはまさにケータイによって極力切り詰められる段階なのだ。いってみれば、ハバーマスは「最小限の時間で最大限の情報を得る」というのを「学ぶ」ということのよい定義とは思わないだろう。しかしそれこそ、データ出力や即刻アクセスというケータイのレトリックが、暗黙のうちに踏まえている定義なのである。 (p. 69-70)

小説『ミドルマーチ』でジョージ・エリオットが書いたのは「沈黙の裏にある怒号」であった。今ここにあるのはおそらく、メッセージの怒号の裏にある沈黙だ。  (p. 83)

この〔大学の学期の授業後の〕アンケートの書式はささやかながら、絶望から生まれたものであり、その絶望とは、これほど多くの人数を相手にして、また評価される学生と評価する教師を隔てずにはおかないような、これほど絶対的な利害の違いをこえて、本当の接触をもつことなどはとうていできない、という思いである。これもまた、深い沈黙を裏にもつ怒号なのだ。 (p. 84-5)

 著者は、m(=mobile)とs(=still)という対立する形容詞を用いて、次のように論考を終える。

本書の「出会い」では、ハイデガーとハバーマス、それに「会話」や「話」から「コミュニケーション的行為」に至る真のコミュニケーション哲学との対話の中で、このm未来の定義が煮詰まってきた。あのコミュニケーション哲学は終わっていない――それはケータイの宣伝が終わっていないのと同じことである。古い哲学は、m未来に代わる新しいものをこれから見出すだろうか。願わくは、われわれが「sコミュニケーション」の手ごたえを取り戻しますように――その「s」とは、「静止(スティル)」のことなのだ。 (p. 86)

 本書で取り上げられていることは、ハイデガーやハバーマスをきちんと読みこんでいなくても、おそらく容易に理解できる内容だし、「新しいケータイ文化」もまた日常的にメディアで語られ、描かれていることだ。希望は、「古いコミュニケーション哲学」も「新しいケータイ文化」も未だコミュニケーションの未来を決定していないということだ。

 ジョージ・マイアソンは、否定的な現状把握を行なった上で希望を述べているのだが、「解説」を書いている大澤真幸は、マイアソンとは異なった分析に繫がるような社会学的アプローチについて触れている。

 マイアソンはモバイル化したコミュニケーション、ケータイのコミュニケーションに「コミュニケーション」とは名ばかりであって、実際には孤独な行為であり、個人の欲望や目的の充足をのみ志向している、と論じている。だが、いくつかの社会調査は、こうした説明には回収できない側面が、ケータイによる関係性にはあることを示唆している。例えば辻大介の調査によれば、互いのプライベートにまで立ち入るような「深い」人間関係を求める者の割合は、ケータイや電子メールの使用頻度が高くなるほど多くなる。こうした事実は、マイァソンが指摘している事実とは別の側面があることを含意しているだろう。それは何であろうか? (p. 109)

 あるいは、新海誠のアニメ『ほしのこえ』のストーリーを引用しながら、「他者への近接性の要求」が私たちがケータイを求める契機になっているのではないかと言う。

 このアニメ〔『ほしのこえ』(新海誠作)〕は、ケータイを必須の道具として用いている若者たちがケータイを通じて何を希求しているかを、反照してみせる。そこで求められているのは、近接性の感覚ではないか。もう少し丁寧に言い換えれば、遠く隔たったものの間の近さの感覚、他者の近接性の感覚ではないか。ほとんど完全な同時性を覚えるほどまでの――本来的には遠いはずの――他者の近接性への欲求、ケータイによってすらも完璧には到達しえない極度の近接性への欲求が、ケータイの使用を駆り立てているのではないか。 (p. 110)

 その「近接性」とはどんなものか。私などには信じられない事例もあるのだ。

和田伸一郎は、次のような例を挙げている。街で知り合った若い男女六人が、カラオケで台コンをやることになった。何となく白けたムードが漂う中で、一人の女の子が突然、ケータイでメールを打ち始めた。彼女はどこか遠くにメールを送ろうとしていたのではない。テーブルを挟んで反対側にいる気に入った男に、メールを送ろうとしていたのだ。なぜか? 和田が述べているように、ケータイでつながる極限の近さ――距離ゼロの近さ――は、テーブルの幅よりもさらに近いからではないだろうか。この少女のやっていることは、冒頭のパズルでロバートがやったことの裏返しだ。 (p. 119)

 バーチャルな消費空間の実体化であって、笑い話のネタではないのだ。「近接性への欲求」を満たす道具としてケータイは肯定的に受け入れられ、利用されている。この「近接性への欲求」をめぐるこうした事態がいかに「社会学」的事実であり、「社会学」的解釈が可能であるとしても、そのまま受容しうる事柄だとはとても私には思えない。少なくとも、擁護しつつ受容するのというのは難しい。ここには、現代社会に特有の心理学的な問題があるのではないか、と思う。私にはそれが健康でノーマルなことなのか、病的でアブノーマルなことなのか判断できないが、そのような切り口は必要だろうと思う。
 大澤真幸は、「求められているのは他者の極限の近接性である。これは無論、ありえない近接性だ」と言い、「ケータイは、決して踏破できないはずの距離を無化する魔術的な装置として迎えられている」 (p. 118) としている。

ハイデガーによれば、遠さ―除去の運動との相関で、現存在の「現」がそこにいるところの場所、つまり空開が開かれるのであった。空開は、現存在の最小限のアイデンティティ(ここにいること)を保証する。それならば、極限の近接性を感受させるケータイが導入されたときには、事態はどのようになるのだろうか。現存在の「現」が、相互に無関係なものへと二重化し、破綻してしまうのだ。一方で現存在は、現実の、通常の空間の内部に、自身の「現(ここ)」を確保している。だが同時に、他方で、彼/彼女は、極限の近接性がその内部で実現するような、もう一つの「現」が根付く、もう一つの空開を構成してしまう。遠さ―除去の過程が、あるいは旅程が無化されているということは、このもう一つの空開は前者の「現」が住まう現実の空開と関係を持ち得ない、ということである。こうして、現存在は分裂してしまう。 (p. 119-20)

 問題は、分裂した現存在なのだ。時代が現存在を分裂させ、ケータイとマッチングさせたのか、ケータイへの没入が現存在を分裂させたのか、あるいはまた、現存在そのものが他者への関わり(コミュニケーション、会話、共通理解)の中で本質的に分裂せざるを得ない存在としてあるのか。
 論考すべきテーマは残されているのではないか。


原発を詠む(15)――朝日歌壇・俳壇から(2014年6月30日~8月10日)

2014年08月10日 | 鑑賞

朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

原発に囲まれて逃げ道なき小浜UPZとなるも方策はなし
             (小浜市)田所芳子  (6/30 高野公彦選

原発の映らぬ日々なりテレビには民を守ると総理は映る
             (本宮市)廣川秋男  (7/6 佐佐木幸綱選)

清志郎生きていたならどう叫ぶ原発輸出解釈改憲
             (青森県)中村範彦  (7/14 佐佐木幸綱選)

原発のせいとは誰も言わないで目立たぬように住む人は減る
             (浜松市)桑原元義  (7/14 佐佐木幸綱選)

少年の「僕は大人になれますか?」原発事故のあの時の声
             (横浜市)田口二千陸  (7/21 馬場あき子選)

病院も学校もスーパーも2キロ圏 原子力空母街に食い込む
             (横須賀市)梅田悦子  (7/21 高野公彦選)

原発も戦争(いくさ)も許すこの国を知らで園児ら七夕飾る
             (大分市)児玉直  (7/28 高野公彦選)

線量を忘れかけてた三年目除染作業の通知が届く
             (福島市)稲村忠衛  (8/4 永田和宏選)

大き根を宙に突き上げ炭になりし国泰寺の楠悼む原爆忌
             (水戸市)中原千絵子  (8/10 馬場あき子選)

どっかーんと爆発をしたそのあとじゃ遅いのだけど再稼働する
             (小平市)萩原慎一郎  (8/10 佐佐木幸綱選)

 

廃炉まで怯えながらの端居かな
             (いわき市)中田昇  (7/14 金子兜太選)

原発と基地とまたぞろ原発忌
             (福津市)松崎佐  (8/10 金子兜太選)

原発を睨んで立つは原爆忌
             (青梅市)津田洋行  (8/10 長谷川櫂選)

戦争へまた戦争へ原爆忌
             (前橋市)吉江充慶  (8/10 長谷川櫂選)

フクシマを忘るる国に原爆忌
             (いわき市)中田昇  (8/10 長谷川櫂選)

 

【註1】
UPZ : 緊急時防護措置準備区域(Urgent Protective action planning Zone, UPZ)。国際原子力機関(IAEA)が概念を示し、原子力施設からおおむね半径30kmの範囲で防災対策を重点的に行う区域のこと。東電福島第1原発事故で明らかになったように、地形、風向きで放射能汚染分布は著しく異方的になるうえ、被曝線量限度をどの程度に定めるかによって避難区域の範囲は大きく異なるため、UPZはごく恣意的(政治的)な概念に過ぎない。

【註2】
このブログの抜き書きのシリーズでは、これまで原爆に関する歌、句を除いてきたが、フクシマから4年目に入った現在では原爆と原発事故による放射能被爆が私たち日本人にもたらした(これからもたらすであろう)不幸と苦痛はまったく同じであることから、原爆に関するものも含めることにした。


【書評】ジャック・ブーヴレス(宮代康丈訳)『アナロジーの罠』(新書館、2003年)

2014年08月03日 | 読書

 ジャック・ブーヴレスの著作を読んだことはなかったが、名前はかろうじて知っていた。ジャック・デリダの対談集『言葉にのって』に、ブーヴレスとデリダがフランスの哲学教育についての報告書を共同で執筆したという記述 [1] があったことをなぜか覚えていたのだ。
 さらに、「フランス現代思想批判」という副題を持つ本書を読んでいる途中で、アラン・ソーカルとジャック・ブリクモンの『「知」の欺瞞』にもブーヴレスの名前が出ていたことを思い出した。『「知」の欺瞞』 [2] は、本書にとっては主題の出発点ともいうべき重要な本である。

 ことは「ソーカル事件」から始まる。本書の註にソーカル事件について簡明な説明が与えられている。アラン・ソーカル(ニューヨーク大学)と『「知」の欺瞞』の共著者となるジャック・ブリクモン(ルーヴァン大学)は、ともに理論(数理)物理学者である。

この事件は、偽作文学の伝統に棹差すいたずらから始まった。物理学者アラン・ソーカルは、一九九六年、いわゆるカルチュラル・スタディーズを扱うアメリカの雑誌「ソーシャル・テキスト」に、「境界を侵犯すること――量子重力の変形解釈学に向けて」と題する論文を投稿し、受理された。認識や政治の問題を扱うこのパロディー論文は、その手の世界や分野で当節流行の純正「ポストモダン的」スタイルで書かれている。引用や敷衍説明がふんだんに盛り込まれ、現在アメリカで名声を博し、絶大な影響力を持っている一部のフランス知識人の著作を読者が参照するようになっている。しかしそれと同時に、自然科学や認識論に関するあからさまな間違いやでたらめが見過ごせないほどあり、そこに著者の真の狙いはあらわれていたのである。その後、ソーカルは自分の論文がいんちきであったことを明らかにし、物理学者ジャン・ブリクモンと、パロディーを書く前にまとめていた教訓に富む材料を徹底的に活用して、本格的な著書『「知」の欺瞞』を出版した。 (p. 13)

 「ポストモダン的」な著作がいかにでたらめな科学的知識をベースとしてこの世に出回っているかを、かなり荒っぽく証明したソーカル事件は、当然のように、「ポストモダン的」著作を生業とする人びとに大きなショックを与えた。もちろん、人文系知識人からの反論も激しく、現代の新しい「サイエンス・ウォーズ」が起きた。この辺の事情は、ブラウンの『なぜ科学を語ってすれ違うのか』 [3] に詳しい。
  しかし、サイエンス・ウォーズがあるといっても、人文系知識人と科学者のきわめて非対称な闘いであることは注意を要する。まず、前提として、「ポストモダン的」著作が物理学や数学などの自然科学の知識を引用(ソーカル-ブリクモンによれば誤用、濫用)するものの、物理学者や数学者は「ポストモダン的」思想を引用するなどということはない。ソーカル事件や『「知」の欺瞞』の出版以降、日本の人文系雑誌にもこの話題は取り上げられ、なかには「物理学者は物理を知らない」という意味のことを書いていた論者もいたのだが、その当時、職業的に物理学者であった私のまわりでは、このサイエンス・ウォーズに関心を示す自然科学者を見ることはなかった。人文的文化と科学的文化の対立などというにはほど遠い、人文的著作界での論争のようにしか見えなかった。ソーカル事件や『「知」の欺瞞』によって大いに名誉を傷つけられたのは、「ポストモダン的」知識人であって、一方、彼らからの反論があっても自然科学の論文が批判されることはないので、自然科学者が傷ついたり怒ったりすることはなかった。

 あらためて『「知」の欺瞞』を書棚から引っ張り出してみると、いくつか付箋を貼っている箇所があった。その一つはノーム・チョムスキーの文を引用した箇所で、サイエンス・ウォーズに関してではないものの、自然科学と人文科学の世界の違いを語っているので、少し長いが書き出しておく。人文科学界のことは知らないが、自然科学の世界はこのようなものだと考えてよい。

 私は自分の研究活動の中で、いろんな分野に関わってきまし、数理言語学の仕事をしましたが、数学の本職の資格があるわけじゃない。数学は完全に独学だし、それもちゃんとやったというほどでもありません。それでも、何度も大学の数学のセミナーに呼ばれて数理言語学について話してきました。だれも私がこのテーマについて話す資格があるかとか聞きませんでしたよ。数学者は気にもしてません。彼らが知りたいのは私が話すことなのであって、私が数学の学位をもっているかとか、このテーマに関して進んだ講義を取ったかとか聞いて、私がしゃべる権利に文句をつけた人はいませんでした。こんなことは考えもしなかったでしょうね。知りたいのは、私が正しいか誤っているか、この問題は面白いのかどうか、もっとよいアプローチが可能かどうか、あくまで話の内容が議論になるのであって、私がそれを議論する権利じゃない。
 ところが、社会問題や、米国の外交政策、たとえばヴェトナムや中東に関する議論になると、こういうことが相も変わらず問題にされるんです、それもかなりの毒を含んでですね。話す資格について何回も異議を唱えられ、こういったテーマについて話していいだけの特別な教育を受けたのかと訊かれたたものです。私のように、プロの目から見て門外漢は、これらの問題については発言する資格がないと端から決めてかかっているんです。
 数学と政治学をくらべて見てください。歴然たるもんです。数学や物理では、みんなあなたが言うことに関心を持っています、あなたの資格にじゃない。ところが、社会的現実について発言するには、正しい資格が要るのです。あなたが普通受け入れられている考え方の枠からはずれればなおさらです。だいたい、分野の知的な中身が濃いほど、免状への関心が薄れ、内容についての関心が高まるといっていいでしょう。 (Chomsky, Noam. 1979. Language and responsibility. Based on conversations with Mitsou Ronat. pp. 6-7) (『「知」の欺瞞』 p. 16)

 サイエンス・ウォーズがあったとしても、いわば人文系の内部のことではなかったかと、私は思っていた。『「知」の欺瞞』で主として批判されたのはフランスのポストモダンの思想家たちの著作だったが、本書は、コレージュ・ド・フランス教授であるジャック・ブーヴレス(分析哲学、科学哲学)による人文系知識人の「科学」知識のアナロジー的濫用・誤用への批判である。

 「序」において『「知」の欺瞞』に触れて、次のように述べている。

 ソーカル事件の数ある功績のなかで一番のものは、人々の注意を、特別な関心の対象となるに値する二つの「リヒテンベルク的」なカテゴリーへと引き寄せたことである。一つ目のカテゴリーは、ソーカルやブリクモンのように、よく知っている事柄が論じられているがゆえに理解できない人々であり、もう一つは反対に、自分の知らない事柄が論じられているがゆえに理解できる人々である。ソーカルとブリクモンは、自分たちが基本的に習熟しているはずの数学や物理学の概念が、文学や哲学の文章では、控え目に言っても奇妙なかたちで用いられ、しかも論旨とまったく関係がなく、なんら好ましい効果を挙げていないことに驚いている。ところが、ソーカルとブリクモンに対立する論敵たちは、たいていの場合、数学や物理学についてはほとんど無知であるにもかかわらず、二人が理解しない事柄は実際にはきわめてよく理解できると主張している。言いかえると、ソーカルとブリクモンは、理解できるはずのことなのに理解できないと感じているのだが、その目の前には、自分たちが理解できるはずもないような事柄を理解している者たちがいるのだ。 (p. 13-4)

 自然科学の知識を自分の思想的著作に織り込む人文系知識人は、そのことを知悉していると自負するのだが、物理学者や数学者にはその内容が理解できないのである。人文系知識人は、世界の自然科学者が理解できない物理学や数学を駆使している、というわけである。私のささやかな経験で言えば、ジル・ドゥルーズの『差異と反復』 [4] を読んだとき、微分に関する記述に邪魔されてよく理解できないことがあって、結局、数学的記述の部分を無視すると理解しやすいということに気付いたのだった(ドゥルーズも『「知」の欺瞞』で批判されている)。
 私は哲学者や思想家に物理学や数学の知識を求めないので、さほど気にもしないで読み飛ばしていた。正直に言えば、彼らが自然科学に無知であっても私にどんな不利益があるわけではないし、彼らの学説で世界の物理学や数学が影響を受けるなどということはありえないと考えていた。間違った物理学(数学)を「理解」(言葉の正しい意味で)することは不可能なのだから、影響力などはないに等しい。『「知」の欺瞞』を読むまでは、そんなふうに思っていた。それに、数学的知識がどうであれ、ドゥルーズの思想の面白さは変わらないと思っていた。

 さて、本書の主たる批判対象は、クルト・ゲーデルの「不完全性定理」を「社会的・政治的システムの理論に応用」 (p. 35) したレジス・ドブレである。

 同じような困惑は、眩暈を誘うようなドブレの発言を読んでいるときにもわいてくる。例えば、次のようなものだ。「ゲーデルがこの理論の枠組みの中で定式化できるペアノ算術の無矛盾性の証明の不可能性を示して以来(一九三一年)、政治学者たちは、何故にレーニンをミイラにして国民共同休センターの霊廟に安置し、『偶然的』に同志となった者たちに展覧する必要があるか、理解する手段を持っていた」。私は、数学者ジャン=ミッシェル・カントールと同様に、この手の主張は『たわごと辞典』の次の版に載せられるべきではないかと思う。 (p. 36)

 ゲーデルの不完全性定理がセンセーショナルだったのは、いかなる形式的システムも、ある数学的命題が真であることを示す手続き全体を適切に表現できないがゆえに、数学的真理という概念を形式的証明可能性の概念で置き換えようとしても決して置き換えられない、ということを証明したからである。なんなら、客観的真理は形式的証明可能性に対していわば「超越」していると言ってもよい。またドブレは、おそらくそうした点に、不完全性の問題における論理学に固有の側面と宗教的な側面とに内的連関があるという自説の裏づけを見ているのだろう。しかし、実際には、ここで問われている超越という概念に宗教的なところはまったくなく、要するに形而上学的なところすらないのである。この概念が意味するのは、充分な表現力を持ったどの形式的システムにも、そのシステムが証明できない数学的真理(しかも証明できないだけでなく――幸運にもというか、ゲーデルの決定不可能命題は真なのだから――反駁もできない)が少なくとも一つは存在するということだけであり、通常の手段による決定可能性をことごとく超越した数学的真理があるということではもちろんないのである。 (p. 70)

 つまりゲーデルの発見によれば、真理と形式的証明可能性とを区別せざるを得ないのだから、もしゲーデルの定理を大胆に一般化しようとするなら、その一般化されたものが適用される分野でも真理と形式的証明可能性との区別に類するものが可能であるのかどうか、最低限そのことは問わなければならないだろう。もし区別できないのなら、ゲーデルが得た帰結を別の文脈にそのまま移し入れる、あるいはただのアナロジーとしてそうする場合でも、そうした試みになんの意味があるのか、あまりよくわからないのである。社会的・政治的システムにおける真理を証明可能性の概念に還元しょうとしたのかもしれないが、突際のところ、そうした証明可能性が社会的・政治的システムのいったいどこにあると言うのだろうか。確かに、論理学的システムにさえ不可能なことなら、きっと社会的・政治的システムにも不可能であり、まさしくそれが興味深いことなのだとは言えるかもしれない。しかし、もう一度繰り返すけれども、無分別な人間や誇大妄想狂は別として、社会的・政治的システムにそうした証明が可能だと言った人間がいまだかっていただろうか。 (p. 71)

 私がまだ現役だった頃の大学では新入生面接というのがあったが、一年に一人くらいは「ゲーデルの不完全性定理」を持ち出しては自分の不都合を糊塗しようとする学生がいた。物理学科なので、まもなく知ったかぶりのゲーデル話はしなくなるだろうと放っておいたが、ドブレは放っておけないと、ブーヴレスは考えたのである。ドブレは、もちろん『「知」の欺瞞』でも批判されている。

 フランスの知識人のなかには、ジョン・サールがデリダについて「滑稽と陳腐の往復」の技術と呼んだものと、見事に一致するような振舞いをしている者も多い。その典型的な例を示しているのがドブレであり、自分はゲーデルの定理を「単にメタファーあるいは同形的なものとして」〔邦訳『「知」の欺瞞』二三六頁を参照〕利用しているのだと認めてしまっている。ドブレによると、なんなら「メタファー的直観」(最低限の明確化すら不可能に近い類似性や同一性の直観という意味なのだろう)、もしくは「ゲーデルの定理へのメタファー的呼応」(いわば単なる概念的「共鳴」)と言ってもよいらしい。……「メタファー的」という語を使えば、ここでは何よりもまず過ちを赦してもらえないかと要求することができ、たいがいは本当に許してもらえるわけで、結局のところ、その過ちは過ちではなかったことになってしまうのである(「思考」と「比喩」という言葉は、明らかにここで、あらゆる脅威を追い払い、あらゆる批判を骨抜きにできる呪文として機能している)。 (p. 88-9)

 本書では、レジス・ドブレの間違いを批判するために、ゲーデルの不完全性定理の説明にページを費やしているが、完全性定理を引用、応用する際の問題点を次のように列挙している。なお、不完全性定理については、数学的に易しいわけではないが、ゲーデルの論文そのものも載せている岩波文庫の『不完全性定理』 [5] に詳しい解説がなされている。

(1)   ゲーデルの定理は、先に述べたように、完全に形式化されたシステムにしか当てはまらない。ところが社会的システムは、今のところわかっている限りで言うと、形式的システムはおろか、形式化可能なシステムとも類似しておらず、さらに付け加えるなら、幸いなことにおよそ似ても似つかぬまったくの別物である。このことだけでも、実際には、この定理を拡大適用できるかという問いへの完璧な答えになる。 (p. 105-6)

(2)   ゲーデルの決定不可能命題は、システムの内部で証明も反駁もできないが、それにもかかわらず真であり、ゲーデルが念を押しているように、この決定不可能命題が真であることは、メタ数学的な論証によって証明できる。ドイツの詩人ハンス・マグヌス・エンツェンスベルガーがゲーデルに棒げた詩にあるように、ミュンヒハウゼンの定理とゲーデルの定理の違いは、ミュンヒハウゼンは嘘つきだが、ゲーデルが述べていることは真だということである。とはいえ、真であるのは、算術の充分な部分を形式化できるような形式的システムには、決定不可能な命題が少なくとも一つは存在するということだけではない。決定不可能なゲーデル命題Gそれ自体が真であり、それゆえにこそ、この命題は興味深くなるのである。 (p. 106-7)

(3)   ゲーデルの定理に関する哲学的な議論において、たいていの場合、まったく性質の異なる二つの決定不可能性概念、つまり相対的決定不可能性と絶対的決定不可能性の二つが混同されるという惨憺たる傾向がある。ゲーデルで問題になるのは、常に相対的決定不可能性に限られる。つまり、ある形式的システムに関する、あるいは、なんらかの形式的システムの一つの階層に関する決定不可能性である。ゲーデルは、絶対的決定不可能性にはそれこそいかなる意味も与えておらず、不完全性定理も、絶対的に決定不可能な数学的命題が存在するかもしれないといった考えを後押しするようなものではまったくない。したがって、ゲーデルの帰結から、数学にさえ真でも偽でもない命題が存在するという結論はもちろん導けないし、真か偽かわからない命題が存在するという結論すら導いてはならないのである。  (p. 111)

(4)   ゲーデル命題は、その命題が関わるシステムのなかでは決定不可能であるが、それよりも強いシステムでならいつでも決定可能である。そうすると、形式的システムの階層構造が考えられるわけで、あるシステムのなかで、表現可能ではあるが決定することのできない命題も、その次のシステムでなら決定できるようになる。しかし、もちろんそのシステムにも決定不可能な命題が含まれているのである。果たして、同じようなことが社会的システムの理論の場合にもあり得るのか否か、ぜひともドブレの口から聞いてみたい。例えば、最初のシステムで决定不可能な命題が、次のシステムでは決定可能となり、以下そうした状況が続くといった社会的システムの階層構造を考えることはできるのだろうか。 (p. 112)

 ブーヴレスの批判は、ドブレだけに向かうわけではない。ドブレが著名であるがゆえに、擁護にまわるジャーナリズム、あるいはソーカル-ブリクモンの厳しい批判に同情して「ポストモダン」知識人の擁護にまわる思想家にも及んでいる。
 『「知」の欺瞞』や『なぜ科学を語ってすれ違うのか』を読んだ後では、本書で取り上げられた事例に驚くということはない。ソーカル事件後において、人文系知識人は多く「ポストモダン的」著作の擁護にまわって、振り向きもしない自然科学者に批判の矛先を向けているという印象しか私にはなかったのだが、フランスの哲学者による厳しい批判がきちんとなされている本書は、人文系思想の世界にとってはとても意味のあることではないかと思う。

 今村仁司は、『アルチュセール全哲学』で次のように述べている。ちなみに、ルイ・アルチュセールは『「知」の欺瞞』の批判対象ではない。どちらかと言えば、アルチュセールの弟子の世代が批判されている。

 歴史との科学革命と哲学革命との間に明白な関連がある。圧縮していえば、哲学革命は必ず科学革命の結果である。その逆はない。ギリシア数学の後にはプラトンの哲学が出現し、ガリレイの科学の後にデカルトの哲学が、ニュートンの科学の後にはカントの哲学が、数学論理学の後にフッサールの哲学が、結果として出現する。そしてマルクスの歴史字の後にはマルクス自身の唯物論哲学が出現する。どの哲学も性格は違うにしても必ず認識論を含んでいるが、それは科学的認識なしにはありえないことだ。
 ………
では、哲学と科学との本質的関係とはどういうことか。一方では、哲学は科学を哲学より下位におき、それの成果を政治的正当化の目的に利用するが、他方では、哲学は科学から論証手続きを学ぶ、つまり科学の合理性形式を受け取る。アルチュセールはこの関係を搾取的利用とよぶ。哲学は科学と現実的関係を結ばないで、科学のイメージを作り、そのイメージと関係する。これを彼は「哲学的関係」とよび、ギリシアにおける数学とプラトンとの「哲学的・搾取的関係」がその後のあらゆる時代の母型になったという。 [6]

  哲学における「科学の搾取的利用」は、まことに適切な「哲学的関係」ではないか。量子力学や相対性理論、ゲーデルの不確定性定理などという現代自然科学(トーマス・クーン流に言えば、ニュートン力学パラダイムを乗り越えた科学革命後の自然科学パラダイム)の「科学の搾取的利用」として新しい思想が生まれたのかどうか、私には分からない。ガリレイとデカルトのような関係が、ゲーデルとドブレの間にあるとは信じがたいが、それなら、ディラックとドゥルーズの関係は、ニュートンとカントの関係と似ているだろうか。
 明らかに20世紀の自然科学は、それ以前の科学と明白な認識論的断絶がある。私(たち)は新しい哲学を期待してもいいはずだ。それとも、私だけが新しい哲学に気付いていない、現代思想を新しい思想として理解できていないということなのだろうか。

 最後に、ブーヴレスの次のような率直な(切実な)感想を書き写しておく。

『「知」の欺瞞』を最後まで読み終えてみると、どうしても次のような疑問を抱いてしまう。なぜ、このように科学用語をでたらめに用いなければならなかったのか。そうすることで何か得るものがあったのか。また、思考というものは――まさしくこの思考というのが問題なのだが――、科学用語を使わないと、何か本質的なものが失われたのだろうか。  (p. 194-5)

 

[1] ジャック・デリダ(林好雄、森本和夫、本間邦雄訳)『言葉にのって』(筑摩書房、2001年)p. 45。
[2] アラン・ソーカル、ジャック・ブリクモン(田崎晴明、大野勝嗣、堀茂樹訳)『「知」の欺瞞――ポストモダン思想における科学の濫用』(以下、『「知」の欺瞞』)(岩波書店、2000年)。
[3] ジェームズ・ロバート・ブラウン(青木薫訳)『なぜ科学を語ってすれ違うのか――ソーカル事件を超えて』(みすず書房、2010年)。
[4] ジル・ドゥルーズ(財津理訳)『差異と反復 上・下』(河出書房新社、2007年)。
[5] ゲーデル(林晋、八杉満利子訳・解説)『不完全性定理』(岩波書店、2006年)。
[6] 今村仁司『アルチュセール全哲学』(講談社、2007年)p. 274-5。