かわたれどきの頁繰り

読書の時間はたいてい明け方の3時から6時頃。読んだ本の印象メモ、展覧会の記憶、など。

【画集】『マーク・ロスコ』(みすず書房、2009年)

2015年06月22日 | 鑑賞


川村記念美術館監修
『マーク・ロスコ』(以下、「画集」)
(みすず書房、2009年)


マーク・ロスコ(クリストファー・ロスコ編、中林和雄訳)
『ロスコ 芸術家のリアリティ――美術論集』(以下、「論集」)
(みすず書房、2009年)

 

 画集を見ることがあっても画家が書いた文章というものをあまり読まない。なのに、図書館で『ロスコ 芸術家のリアリティ』を見つけたとき、ふと読んでみる気になった。よく知らないロスコを知りたいと思ったのだが、それなら画集を見るのがよいと思い直し、検索して『マーク・ロスコ』という画集を見つけ出した。
 「『芸術家のリアリティ』はロスコの作品への直接の道案内とはならない」(「論集」、p. xiv)とクリストファー・ロスコが述べているとおりで、画家の美術論がその画家の絵を鑑賞する際の役に立つとは思えないのは確かだ。絵をめぐるもろもろの事情についての知識は、美術史家や評論家がその論述を膨らませるのに役立っても、私のような者にとっては絵を鑑賞するさいの邪魔にこそなれ助けにはならないように思えるのだ。もう少し丁寧に言えば、鑑賞力の乏しい私のような人間が、あらかじめ絵をめぐるもろもろを知ってしまうとそれに引きずられて自力での鑑賞ができなくなると恐れるのである、
 それで、結局、『芸術家のリアリティ』を借り出した動機とはうらはらに、画集を眺めることに主眼が移ってしまったのである。

  一人の画家における画業のドラマティックな変容ということはよくあることだが、マーク・ロスコのようにあまりにもはっきりと変わってしまうというのは珍しいだろう。なにしろ、村田真が「ロスコが1946年の時点で制作をやめていれば美術史には残らなかったということだ」(「画集」、p. 138)と断言するほどの変容が起きているのである。1946年といえば、ロスコが43歳の頃のことだ。
 『マーク・ロスコ』は、2009年に川村記念美術館で開催された展覧会「マーク・ロスコ」に関連して出版された画集で、ロスコが変容を遂げた後の1949年から1969年の作品が収められている。都合がよいことに、それ以前の作品は、『芸術家のリアリティ』に収められた図版で見ることができる。
 マーク・ロスコの画業の変容については、「シュルレアリスムに影響された神話的なイメージの作品から脱して、「マルチフォーム」と呼ばれる、複数の色面が画面上に並置される抽象絵画を手がけるようになる」(「画集」、p. 158)と加治屋健司がごく簡明に評している。


《水浴図、あるいは浜辺の風景》1933/34年、油彩・キャンバス、53.3×68.6cm、
クリストファー・ロスコ蔵 (「論集」、図版3)。

 シュールレアリスムの影響を受ける以前の初期の作品が『芸術家のリアリティ』に図版として紹介されている。クリストファー・ロスコが「粗削りな仕上げの、時としてぎこちなくも見える人物像、空間のイリュージョンをほとんど与えない平坦化された遠近法、そして、細部はいつも描かれない。こういったことは、この芸術家には力のある作品は描けないのではないかという印象を与えてしまいかねない」(「論集」、p. xxvii)と評している《水浴図、あるいは浜辺の風景》である。


《メアリーの肖像》1938/39年、油彩・キャンバス、91.4×71.4cm、
ケイト・ロスコ・プリゼル蔵 (「論集」、図版8)。

 《メアリーの肖像》を眺めていると、ロスコに「力のある作品」を描く描写力がなかったとは私には思えないのだが、ロスコ自身が「技術」について次のように述べていることは心に留めておくべきだろう。

芸術家は自分自身に固有の目的を達成するための固有の技巧を持っていなければならない。それ以外の技巧を持っていたとしても、それは見せない方がよい。技術の過剰なひけらかしはその芸術をただ台無しにするだけだから。(「論集」、p. 32)


《無題》1943年、油彩・キャンバス、76.2×91.1cm、
ケイト・ロスコ・プリゼル蔵 (「論集」、図版9)


《リリスの儀式》1945年、油彩・カンヴァス、208.3×270.8cm、
ケイト・ロスコ・プリゼル&イリヤ・プリゼル蔵(「画集」、p. 137)。

 『芸術家のリアリティ』に収められたロスコの論考の「大半の部分は一九四〇年から四一年に書かれた」(「論集」、p. xxii)ものだが、ちょうどその時期はシュールレアリスムの影響を強く受けた《無題》や《リリスの儀式》などの絵を描き始める時期に相当する。ロスコがシュールレアリスムについて述べている一文がある。

シュルレアリスムは象徴主義に専心し、本能的な、あるいは意識下の象徴の貯蔵庫である夢、そして新旧の魔神学の研究にいそしんだ。象徴を整理することによって本質的な表現を再構築できると考えたのである。言うなれば彼らは精神の世界と情動の世界の間にある通行不可能な闇に橋を架けようとしているのである。 (「論集」、p. 179)

 ロスコは、「神話は象徴的な逸話である」(「論集」、p. 135)として神話を優れた主題と見なしていた。「今日私たちは、魂のためには宗教を持ち、世俗的正義や所有権については法律を持ち、物とエネルギーの構造的世界について述べるためには科学を持ち、人間の行動を扱うためには社会学を持ち、人間の主観性を扱うためには心理学を持っている」けれども、「古代の神話に特有の性質は、その並外れた統一性」(「論集」、p. 136)だというわけである。
 しかし、こうしたシュールレアリスムへの傾倒から「マルチフォーム」なる抽象画への変容を跡づけるロスコ自身の論考は見あたらない。強いて言えば、次のような芸術観が基礎になっていたのかもしれない。

絵画とは芸術家にとってのリアリティを造形的な要素によって表現したものである。造形的な統一を創り出すことによってその時代のあらゆる現象は官能性による統一へとまとめ上げられ、その結果、主観的なものと客観的なものが人間との関連性において結びつけられる。それゆえ芸術とはひとつの一般化である。(「論集」、p. 41)

 「一般化」のためには「主観的だろうが客観的だろうが感覚され得るすべての要因が取りこまれなければならない」のであって、芸術は「すべての知、直感、経験、その他、その時代においてリアリティを持つとされるあらゆる物事」(「論集」、p. 39)の相関や人間との関わりを明らかにしなければならないと主張する。

芸術家が主観的なものも客観的なものもすべてを集約しようとするのは、人間の官能性にうったえるためである。芸術家は永遠の真理を、人間のあらゆる経験における基礎的言語である官能性の領域に還元することで、これらの真理と人間との直を目指す。
 官能性は客観性、主観性のいずれにも属していない。抽象的なものであろうと、直接的な経験の結果であろうと、あるいはそういった経験への迂遠な参照からもたらされたものであろうと、すべての概念はまず官能性という最高の計器に照らして検討されなければならない。官能性はリアリティの指標である。主観と客観という両方の視点を擁護する者は最終的には官能性に行き着き、存在することの根拠をそこに見て取らなければならない。観念にも物にもあるテクスチュアルな質、つまり触知的な感覚と出会うことが必要なのだ。(「論集」、pp. 39-40)

 1946年以降、ロスコが描き続けた「マルチフォーム」は、正方形や長方形を配したきわめて単純な構図を持つ抽象画である。しかしそれは、直線によって区切られた色彩の異なる矩形が描かれるモンドリアンのいわゆる「モンドリアン・コンポジション」とは大きく印象が異なる。
 モンドリアンのそれはきわめてドライな明るさを示しているのに対して、ロスコの「マルチフォーム」はどこかウェットな情感を表現している。


【左】《No. 18/No. 16》1949年、油彩・カンヴァス、172.1×106.4cm、
ルフィーノ・タマーヨ国際現代美術館、メキシコ・シティ(「画集」、p. 67)。

【右】《No. 9/No. 24》1949年、油彩・カンヴァス、223.5×146.1cm、
ハーシュホーン美術館・彫刻庭園、ワシントン(「画集」、p. 69)。


【左】《No. 61(赤褐色と青)》1953年、油彩・カンヴァス、294×232.4cm、
ロサンゼルス現代美術館(「画集」、p. 73)。

【右】《無題》1955年、油彩・カンヴァス、207×151.5cm、
ケイト・ロスコ。プリゼル&イリヤ・プリゼル蔵(「画集」、p. 77)。


【左】《無題》1958年、ミクストメディア・カンヴァス、264.8×252.1cm、
川村記念美術館(「画集」、p. 87)。

【右】《「壁画No. 1のためのスケッチ》1955年、ミクストメディア・カンヴァス、266.7×304.8cm、
川村記念美術館(「画集」、p. 89)。


【左】《無題》1964年、油彩・カンヴァス、228.6×175.3cm、
ロケイト・ロスコ・プリゼル&イリヤ・プリゼル蔵(「画集」、p. 116)。

【右】《No. 7》1964年、ミクストメディア・カンヴァス、236.4×193.6cm、
ナショナル・ギャラリー、ワシントン(「画集」、p. 119)。

 ロスコの抽象画は、1949年の《No. 18/No. 16》や《No. 9/No. 24》のように構図は単純であっても色彩のドラマティックな配置が見られるものから、構図、色彩とも次第に単純化されていく。つまり、抽象度が次第に高まっていくのである。
 1964年の《No. 7》に至っては、黒に近い正方形を暗灰色が取り囲んでいるだけのきわめてシンプルな絵にまで「深化」している。一見、彩度が乏しいと思える絵であるが、いわく言い難い「深み」があるのは確かだ。アヒム・ボルヒャルト=ヒュームは、このような一連の絵を次のように評している。

一般には〈ブラック・フォーム〉ペインティングと呼ばれるこの作品群は輪郭の明瞭な暗色の長方形を、同じく暗色の背景に配するという簡潔をきわめた構図をとり、両者の色調があまりに近いため見分けるのに苦労するほどだが、これはロスコのそれまでの作品には前例のないものだった。絵画は黒に近いにもかかわらず、奇妙なことに光を発するように思われ、中央の長方形は何も映っていない映画館のスクリーンと似通った役割をはたして、ヴェルヴェッ卜のような質感が底知れない奥行きを感じさせる。(「画集」、p. 58)

 この評言に率直に同意する。正直に言えば、画集をめくって「マルチフォーム」絵画を次々に眺めていくと次第にうんざりし始めることも確かである。しかし、ただ一点の絵に絞って眺め込めば、それはまさしくロスコ独特の「質感」と「情感」を味わうことができる。
 そのような意味で、画集を見ているとたいていは実物を見たいという欲求に駆られるものだが、ロスコの「マルチフォーム」の絵がたくさん並べられている展覧会会場を想像するといくぶん途惑ってしまう自分が了解できるのである。しかし、それもロスコ絵画の特性には違いない。

 私は、第二次大戦後のアメリカの美術事情に疎いのだが、「マーク・ロスコの生涯」という一文のなかの村田真の次のような記述をたいへん興味深く読んだ。

 思えば、シーグラムの壁画 [註1] からニューヨーク近代美術館の回顧展あたりまでが、ロスコの画家としてのピークだったかもしれない。カラー•フィールド・ペインティングの第一人者として地位と名声を確立し、十分な収入も得た。いまや押しも押されもせぬアメリカ美術の巨匠である。しかしピークとは非情なもので、あとは下り坂をころげ落ちるしかない、という意味でもある。
 ロスコ自身はまだ衰えを見せていないというものの、もう10年もアー卜シーンを席巻している抽象表現主義にアメリカ人はそろそろ飽きてきた頃だ。事実、1950年代末からジャスパー・ジヨーンズやロバー卜・ラウシェンバーグといった若い世代の画家たちが、「ネオ・ダダ」的作品で反旗をひるがえし始めたし、1960年代に入るとアンディ・ウォーホルやロイ・リキテンスタイン'らが、マンガや広告などの安っぽい大衆的イメージをそのまま絵に描いて売り出している。ロスコはこうしたポップ・アートを憎悪していた(「画集」、pp. 147-8)

 1903年ラトビアで生まれたマーク・ロスコは、66歳の1970年ニューヨークで亡くなった。自死であったという。

 

[註1] 〈シーグラム壁画〉は、シーグラム・ビル内に新規開店する「フォー・シーズンズ」というレストランのために30点の壁画作品が制作されたが、そのレストランのコンセプトに失望したロスコが契約を破棄したため飾られることのなかった壁画群を指す。これらの絵は、ロスコの死後、ロンドンのテート・ギャラリー、ワシントンD.C.のフィリップス・コレクション、千葉県佐倉市DIC川村記念美術館の分割所蔵となった。

 


原発を詠む(23)――朝日歌壇・俳壇から(2015年5月18日~6月14日)

2015年06月14日 | 鑑賞

          朝日新聞への投稿短歌・俳句で「原発」、「原爆」に関連して詠まれたものを抜き書きした。

 

相馬からいわきは迂回しています復興リレーの地図の悲しみ
             (福島市)武藤恒雄  (5/18 佐佐木幸綱選)

戦争で象が殺され原発で牛が殺され絵本になった
             (四街道市)中村登紀子  (5/18 佐佐木幸綱選)

格納容器あまた抱えし列島にしづごころなく花散りにけり
             (福島市)美原凍子  (5/18 高野公彦選)

ウミガメのくる浜にごみ拾う子のうしろに迫る原発の壁
             (浜松市)松井惠  (6/1 馬場あき子選)

原爆を二度も投下し反省を一度だに聞きしことのなきかな
             (前橋市)荻原葉月  (6/1 佐佐木幸綱選)

原発の司法判断可否割れて避難生活五年目に入る
             (国立市)半杭螢子  (6/1 高野公彦選)

ヒメジョオンセイヨウタンポポネコジャラシよく来てくれた除染の庭に
             (福島市)米倉みなと  (6/8 馬場あき子選)

ネジバナにホタルブクロにイカリソウ庭の除染土のみ込んでゆく
             (さいたま市)箱石敏子  (6/8 佐佐木幸綱選)

オキナワやフクシマ眼中に無きごとく安保法制に見せる昂ぶり
             (西海市)前田一揆  (6/14 佐佐木幸綱選)

カッコウの声ひびきてふくしまの空一枚が洗われてゆく
             (福島市)美原凍子  (6/14 高野公彦選)

 

福島は卯の花腐(くた)し思ひ遣る
             (鴻巣市)佐久間正城  (5/18 金子兜太選)


【書評】奥井智之『アジールとしての東京――日常のなかの聖域』(弘文堂、平成8年)

2015年06月10日 | 読書

 

 私の中で〈東京〉に関心が高まったのは、定年退職が2年後に迫ったある日のことである。東京メトロに乗っていて、アナウンスされる駅名をいくつか聞いた後だった。どの駅名を聞いてもその名前をよく知っていて懐かしい感じが生じるのだが、その感覚を裏付ける実質がないことに気付いたのである。その地名を初めて知り、あるいはふたたび、みたび聞いたときの私自身に湧いた諸々がその地名にまつわる私の内なる実質なのだろうが、あまりにも頼りなく曖昧模糊としている。住んだこともなく歩いたことも見たこともない土地なのに、その地名を「よく知っている」という感覚に少しばかり驚いて、そんな東京のあちこちを歩いてみようと思い立ったのである。
 東京の街歩きを始めてそれなりに歩き回ってみたのだが、特別な目的があるわけではない。強いて言えば「東京の街を歩く」ことだけが目的というしかない。なんとなく頼りないのである。本屋でも図書館でも、東京を主題とした本に目は行くのだが、その頼りなさを何とかしてくれそうな都合のいい本は当然ながらあまりないのである。姜尚中『トウキョウ・ストレンジャー』、山下柚実『五感で楽しむ東京散歩』、北田暁大『広告都市・東京』、吉見俊哉・若林幹夫編著『東京スタディーズ』、森達也『東京番外地』などなど、読書として大いに楽しんで終わってしまう。

 本書は、前田愛の『都市空間のなかの文学』と同じように文学作品に描かれた東京(都市)を主題としているのだが、都市空間をアジールとして解き明かしている。本書が私の興味を強く引いたのは、著者がアジールとしてまず取り上げているのが、「駅」、「坂道」、「橋」などだという点にある。
 街歩きの中でキイポイントとなるところは、駅や坂、橋などである。少なくともそういう場所があることが街歩きをする私の情感に変化を与え、足取りを強くしてくれるものなのだ。厳密に言えば、駅や坂、橋であれば東京に限らないわけだが、街歩きをするただの散歩人がなぜそのような場所に心惹かれるのか、その答えが本書で見つけられそうなのである。

 著者が論考の出発点とする考えは、ごくシンプルに「アジールが、不特定多数の人々が集う一種の聖域であるということ」 (p. 16) である。そう考えることで、アジールを広い意味で考えることができ、東京そのものが「一個のアジールとして理解することが可能」 (p. 17) となり、古来からアジールと考えられてきた神殿・寺院・墓地・道路に加えて、駅や坂道をアジールと考えることができることになる。そうして、アジールとしての東京に包摂される形で「坂」や「駅」のアジールが二重に存在することになる。
 アジールの原義的な意味としてもっとも重要だと思えるのは、社会的な規律、規範を犯した者が逃げ込み、捕縛されない聖域という点である。そう考えてしまうと、近代の日本にはアジールとしての空間はほとんど存在しなくなってしまうが、人間が心性においてある場所を強くアジールと見なしうる空間はいくらでも存在しうる。
 おのれが生きる場所では規律に違背した不特定多数が互いに咎め、咎められることなくすれ違う空間として「駅」はあるだろう。あるいは、「坂」や「橋」は規律を異にする集落、国の境界であることが多いとすれば、その空間においては相異なる規律の共在する空間として高いアジール性を帯びることになる。したがって、アジールは時として反権力的であり、無政府的であるという強い政治性をも帯びることになるが、本書はそれを主題とはしない。近代的自我が東京という都会において身をもって体験するアジールを探し出し、その意味を解き明かすことが主題のように思える。

 アジールとしての「駅」を語るとき、著者は漱石の『三四郎』において、九州から上京する時の主人公を引いている。京都駅から名古屋駅まで列車で相乗りになり、名古屋で三四郎と同宿する女との出会いと別れの場所として、駅は「男女にとって「無縁」の空間」 (p. 24) としてのアジールと捉えられる。

 駅は都市にとって、外部の空間としてある。しかしまたそれが内部の空間でもあるということに、その複雑な様相はある。要するにそれは、駅が境界的な空間であることをいう。ここでアジールとしての駅というのは、そのことをさす。 (p. 30)

 おそらく東京駅は、東京の内部の空間でも外部の空間でもないのであろう。それはまさに、境界的というほかはない空間である。東京駅は鉄道を通じて、日本全国と結びついていた。いやそれが現実に結びついていたかどうか、は問題ではない。そのような幻想が人々の間にあった、ということが重要なのである。近代の産物である鉄道は、人々の幻想を組織する装置でもあったのである。 (p. 33)

 鴎外の『雁』によって語られるのは、坂道のアジール性である。高利貸しの妾であるお玉の家は無縁坂の途中にあり、無縁坂を散歩する岡田への秘かではかない恋情を主題にした物語である。無縁坂の近くの称仰院は無縁仏を葬る無縁寺で、無縁坂がアジールの空間であることを象徴している。
 しかし、無縁坂に限らず「坂」がアジールの空間であることは、地方出身者で医学生の岡田が山の手に住み、東京定住者の住む下町へ向かう散歩の途中に無縁坂があるということにも顕われている。その坂が象徴するものは、「山の手と下町との対立」ばかりでなく、「上京者と定住者との対立」でもある。上京者の山の手と在京者の下町という互いにとって異界であり、その端境にある無縁坂で岡田とお玉は出会い、お玉の思いとは「無縁」に別れがやって来るのである。

落日の坂を登りて来たりしかげに漂泊の歌はうたわず
               福島泰樹 [1]

いくばくかわれの心の傾斜して日当たる坂を登りつつあり
               宮柊二 [2]

ああわがみじめなる詩集を携ち
本屋より斷はられし詩集を持ち
悄として
されど踊りつつ坂をのぼらざるべからず

坂は谷中より根津に通じ
本郷より神田に及ぶ
さんとして
眼くらやむなかに坂はあり
             室生犀星「坂」部分 [3]

 著者はまた、道もまたアジール性に富むことがあると示唆するものの、坂は「道のなかでアジール性に富んだもの」 (pp. 61-2) として区別している。アジールの定義上はともかく、感覚的にはよく理解できる。

 佐多稲子の『私の東京地図』は、文字通り東京が舞台の小説である。著者は、隅田川の西側で働いていた佐多稲子が「川向こう」の東側に住んでいたことに着目している。ここで「川向こう」というのは「西側からの、差別的な表現である」 (pp. 113-4) ということだ。佐多が生きる二つの世界を分けているのは、隅田川に架かる橋である。

その際橋は、東京と郊外との境界としての意味をもっている。一般に橋が、都市と郊外との境界であるというわけではない。しかしそれが、二つの異なる世界の境界であることはまちがいない。佐多稲子の『私の東京地図』の場合橋は、山の手と下町との境界としての象徴的な意味をもっている。おそらく山の手と下町との本来の境界は、坂であろう。しかし隅田川の橋に、そのような意味合いがないわけではない。 (pp. 120-1)

わたしたちはさきに、行逢坂に関する折口信夫の所説を問題にした。それは坂が、山と里との境の空間であること。そしてそれが、二つの共同体に属する人々の出会いの場であるといった趣旨のものであった。その際折口は、行逢橋についても書いている。というよりも行逢坂と行逢橋とを、まったくパラレルに論じている。すなわち橋もまた、村と村との境の空間であること。そしてそれは、二つの共同体に属する人々の出会いの場であるということである。橋が人々の出会いの場であるということは、わたしたちの共通の心性に属するであろう。 (pp. 123)

 確かに橋は出会いの場所であり、物語の始まる場所には違いない。そのような例をいくつも文芸作品の中に見つけることができる。

旅をしてたれに逢ひたき夕暮のこころか古き木の橋渡る
              大口玲子 [4]

「小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていった」。山本周五郎の『さぶ』の書きだしだ。橋ほど物語のはじまりにしっくり似あうものはない。じぶんのなかにいる橋上の人に出会う。それが物語のはじまりなのだ。
              長田弘「橋をわたる」部分 [5]

 アジールとしての無縁坂で、岡田とお玉は出会いもするが、またついに無縁であることを暗黙の内に知らされる場所であった。橋もまた、異界との端境のアジールであってみれば、ついに無縁の人との別れの場所でもある。

 別れを言いに行ったとき、斧次郎は、これでいい、きっぱりと縁を切るから、俺のことは忘れろ、と言った。
「永代橋のこっちに、俺がいることは、もう忘れるんだぜ。どんなことがあろうと、橋を渡ってきちゃならねえ」
 斧次郎は、そのときの自分の言葉を守って、病気になっても知らせなかったのだ。だが、死に際になって、やはりひと眼あたしに会いたいと思ったのだろうか。
 ……(中略)……
 永代橋を渡り切ったとき、おもんは立ち止まって橋をふりむいた。月明かりに、橋板が白く光って、その先に黒く蹲る街が見えた。
 ――橋の向うに、もう頼る人はいない。
と思った。突然しめつけられるような孤独な思いがおもんを包んだ。
              藤沢周平「赤い夕日」 [6]

どのような死にざまあるや橋あるや疾風、駆けてゆきし一人に
                  福島泰樹 [7]

 「スラム」も「病院」もアジールの場所として著者は取り上げている。スラム・貧民窟は、古典的な意味での聖域に近いイメージを与える。社会のしがらみや規範から逃れてきたもの、あるいは外のコミュニティから排除されたものが肩を寄せ合っている。
 著者は、『再暗黒の東京』の著者の松原岩五郎を取り上げて、故郷の村や町への「埋没不安」によって故郷を離れた上京者が否応なく持たざるを得ない共同体からの「乖離不安」を癒す空間として貧民窟がアジールの役割を果たすと指摘している。
  病院もまた、収容所や避難所を意味するアジールそのものである。精神病院や療養所は、刑務所や収容所などと同じく半ば強制的に外界と遮断された閉鎖的な場所としてある。収容所も避難所も本来のアジールの意味に含まれ、「ともに日常性から隔絶された空間である」 (p. 91) ことを意味している。しかし、著者はあくまでアジールを不特定多数が出会う開放的な場所と見なし、病院を収容所と見なすよりも避難所と見立てることが可能であることを示唆する。
 泉鏡花の『外科室』において、伯爵夫人と高峰の出会いの場所は「公園」と「病院」である。その「無縁」の場所は、「二人が、身分や境遇の相違を越えることのできる場」 (p. 94) であったのである。その上で著者は、病院を「日常性から隔絶された空間」というネガティヴな場所としてではなく、「さまざまな人々の出会いの場」である「すこぶる社会的=社交的な空間である」 (p. 94) と捉えているのである。

 著者はさらに「下宿」、「郊外」、「住宅」、「百貨店」。「カフェ」などに次々にアジール性を見出していく。たしかに、著者は東京そのものをアジールとして捉えているので、東京の中のすべてにアジールを発見するのは何ら不思議ではない。ただ、坂や橋に見た異境性、あるいは端境としての混淆性、異界への怖れや憧憬などの複合感情など興味深く魅力的なことどもが東京にあまねく広がっていると考えてしまうのは、私としては多少もったいない行いに思えるのである。
 最後に、著者は生死をめぐるこの世界をアジールの空間として提起している。

 生の世界がアジールの空間であるというのは、わたしたちがともに生を受けたことをさす。そして死の世界がフジールの空間であるというのは、わたしたちがともに死を迎えることをさす。ここで「わたしたち」というなかには未来に生を受ける人々。あるいはまた過去に死を迎えた人々も、当然含まれるであろう。というのは話を、いささか大きくしすぎたかもしれない。さしあたりわたしが強調したいのは、死の世界がアジールの空間としての性格をもつということである。そのことは生の世界と死のせ界との境界としての、墓所を通してもうかがい知ることができる。『無緣・公界・楽』のなかで網野善彦は、中世の墓所が「無縁」の空間であったことを書いている。具体的にはそれは、山中・河原・寺院などをさす。網野は墓所が、と密接な関係をもつこと。それはが、葬送に従事したことに基づくものであること。そして墓所が、の宿の近傍にあったことを指摘している。 (pp. 193-4)

 一人で生れ、一人で死ぬという感覚はここにはない。著者はあくまで、アジールは開放的な社交・外交の場であって、人と人が出合うポジティヴな空間であると考えているのである。「はじめに」でも触れているのだが、私たちは「カインの末裔」としてアジールとしての都市を持ったのではないか、というのが著者のモティーフだった。そして、「近代になって、アジールは社会の論理から一掃されてしまったというのが一般の理解である」 (p. 203) にもかかわらず、東京をアジールとして解き明かそうとする試みが本書として結晶化したということであろう。

 

[1] 福島泰樹「歌集 柘榴杯の歌」『福島泰樹全歌集 第1巻』(河出書房新社 1999年)p. 388 。
[2] 『宮柊二歌集』宮英子・高野公彦編(岩波文庫 2002年、ebookjapan電子書籍版)p. 77。
[3] 室生犀星「抒情小曲集」『世界名詩集大成17 日本II』(平凡社 昭和34年)p.142。
[4] 『大口玲子歌集 海量(ハイリャン)/東北(とうほく)』(雁書館 2003年)p. 74。
[5] 長田弘『詩集 記憶のつくり方』(晶文社 1998年)p.60。
[6] 藤沢周平『橋ものがたり』(新潮文庫 昭和58年)p.119,135。
[7] 福島泰樹「歌集 エチカ・一九六九年以降」『福島泰樹全歌集 第1巻』(河出書房新社 1999年)p. 84。


【書評】小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年) 【2】

2015年06月04日 | 読書

【続き】

 


《夏》1807年頃、油彩…カンバス…71.4×103.6cm、
ミュンヘン、ノイエ・ピナコテーク (画集 p. 18)。


《グライスヴァルトの草原》1820-22年頃、油彩…カンバス…34.5×48.3cm、
ハンブルグ、美術館 (画集 p. 18)。

 ドイツ・ロマンティクの風景画には「山頂からの眺望と地平線を意識したパノラマ的絵画作品が数多く描かれる」 (p. 205) のだが、フリードリッヒの絵にはその風景を眺めているであろう人物が後ろ向きで小さく描かれることが多い。それは絵を見る者の視点をその人物の位置に誘導する効果があると評されている。
 著者は、パノラマ的な風景の中に佇む人物によってもたらされる効果を「パノラマ効果」と呼び、次のように説明する。

自然に囲まれている状態とは、とりもなおさず社会や人間関係から離れるということである。つまり自然の真っ只中で人は自動的に孤立する。そうすると、この孤立が外へのまなざしを内に反転させるという現象が生じる。広大な自然を前にしたとき、それを見る者は同時に自分自身をも、というか自分自身のみを見るのである。こうしていわゆる「内省」とか「反省」と呼ばれるものが自然観察の対現象のようにして生じてくる。ただし、これにはひとつの条件がなければならない。それは離れる「社会や人間間係」がすでに自然と明確なコントラストをなすほどに発展していなければならないということである。 (pp. 208-9)

 それは、「自然の中に一人立って自らの内面を眺める孤独な近代人の姿」 (p. 210) そのものである。フィヒテはそのような自らの内面を眺める自我を「何ものにも媒介されない最初の明晰判明な「直接的認識」」をもつことと「自分自身を見る、または自分自身のことを考える「反省」」 (p. 217) することの両面で捕らえている。シュレーゲルやノヴァーリスなどの初期ロマンティクの人々はフィヒテの哲学を熱狂的に迎え入れたものの、「反省」する自我という点においてフィヒテとは異なっていた。その点を著者は、ベンヤミンの言葉を引用して説明している。

 ロマンティクの思惟は存在と措定を反省において揚棄する。ロマンティクの人々は現象としての、たんなる自己自身を考えることSich-Selbst-Denkenから出発する。これはすべてに当てはまる。なぜならすべては自己〔自体〕Selbstだからである。フィヒテにとっては自己Selbstは自我Ichにのみ属する。つまり反省はもっぱら措定に相関するものとしてのみ存在するのである。フィヒテにとって意識とは「自我Ich」であり、ロマンティクの人々にとっては「自己selbst」である。言い換えれば、フィヒテにあっては反省は自我に、ロマンティクの人々にあってはたんなる思惟に関わっており、まさにこの後者の関係を通して(略)独特なロマンティクの反省概念が構成されることになるのである。(Benjamin: Der Begriff der Kunstkritik in der deutschen Romantik, S.29)  (p. 218-9)

ベンヤミンによれば、この自我のもとに展開される無限の反省的思惟の結果がロマンティクにとっての「小説Roman」なのであり、さらにそれを概念化するのが「批評」だということになるが、まさにそれこそロマンティクの人たち自身が言う「ポエジー〔詩情〕」にほかならない。またシュレーゲルはこの無限のポエジーの広がりを「累乗化Potenzieren」と呼び、ノヴァーリスはさらに象徴的に「ロマン化Romantisieren」と呼んだのであったが、それはまた奥深い自我の「内面」への旅立ちでもあった。 (p. 220)

 おそらく、このあたりのことが、私(たち)が若い頃に持ったドイツ・ロマンティクの印象を形作り、次第にドイツロマン派から離れてしまった所以であったと思う。正直に言えば、「ポエジー〔詩情〕」で括ってしまう芸術的感情や思念が疎ましかったのだ。政治的な闘争が激しかった時代に、ポエジーなどと口走ることが恥ずかしかったということもあった。私的なことはさておき前に進もう。
 「奥深い自我の「内面」への旅立ち」によって、「フリードリッヒの風景はたんなる外的自然の模写ではなく、画家の内的な心象風景、そう言ってよければ、内的自然の表現でもあるということにほかならない」 (p. 221) と著者は語る。自然の風景の美しさではなく、コラージュ風に再構成された創作された風景である。私が、フリードリッヒを初めとするドイツ・ロマンティクの絵画につぎ込まれた過剰な感情を見てしまうのは、おそらくそのせいである。それがたとえ宗教的感情に溢れ、自然の「崇高」の表現だとしても、である。

見られるように、ノヴァーリスやシュレーゲルの「内面」にはありとあらゆるものが 「ポエジー」の名のもとに取り入れられていた。なかでもわれわれの目を引くのが神話、宗教、メルヒェンにもつながる夢やファンタジーである。それはひとつ 狂えば幻覚や妄想にもなりかねない反理性的な存在である。別の言い方をすれば、それは合理を目指す自我の内面に宿る反合理的な「我ならぬ我」であり、自我 が自然と対立するものであるなら、それはまた「自我の中の自然」にほかならない。後の言葉で言えば、意識の奥に位置する「無意識」である。  (p. 228) 

 著者は、この「内面」と「無意識」にドイツ・ロマンティクのもっとも特徴的な心性を見ているように思う。それは一見前近代的な意識の残差のように見える。しかし、著者によれば、近代科学のような近代性によって見えにくくなった人間の内面に光を当てていると見なすことができると主張する。「「神性」といった言葉もたんなる過去の神学的名残りというより、ドミナントな「近代」に対抗する「別の近代」の代名詞」だと擁護したうえで、次のように評している。

ロマンティクはたんに「非科学的」なのではない。そうではなく、あくまで「科学的であること」との対質において姿を現すオールターナティヴな運動であり、その意味でむしろ近代の一部なのである。ゲーテの色彩論、シェリングの自然哲学、カールスの病理学はいずれも当時の先端科学の成果を意識したところに生み出されたものである。 (p. 239-40)


《朝日の中の村の風景》1822年頃、油彩…カンバス…55×71cm、
西ベルリン、国立絵画館 (画集 p. 18)。


《大狩猟場》1831-32年頃、油彩…カンバス…73.5×102.5cm、
ドレースデン、国立美術館 (画集 p. 19)。

 ドイツ・ロマンティクの熱狂がドイツを席巻していた時代、ドイツにはネイションとしての統一国家は成立していなかった。それだけいっそう人々は自分たちの国をもとめていた。その「家郷喪失(ハイマート・ロージッヒカイト)」の意識は、「理想化された中世への憧れや廃墟への偏愛」や「あるときは古代ゲルマンであり、あるときは古代ギリシア」 (p. 275-6) への憧憬として表象された。フリードリッヒもまた、新石器時代の遺跡を主題とした《雪の中の石塚》や《昔の英雄たちの墓標》などを描いて「民族の起源への関心」 (p. 243) を強く示していた。
 自分たちの国を希求する人々の思いは「自由・平等・博愛」を標榜するフランス革命の精神に大いに鼓舞されたであろうし、ナポレオンは英雄として崇められていたであろう。しかし、1806年にナポレオンがドイツに侵攻して事態は大きく変わった。占領下のベルリンにおいて一般大衆に向けてかの有名なフィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』と題する講演が行われたのであった。

 かくしてフィヒテにとってドイツ人こそが「民族」と呼ぶに値する「原民族」として、唯一共和国の憲法にふさわしいネイションでもあると宣言され、それがそのまま「祖国愛」に直結されていく。「民族」とは何かと問うこと、それはとりもなおさず「祖国愛」とは何かと問うことと同じだとして、こう主張される。

これまでのわれわれの考察の進行が正しいとすれば、同時に次のことが明らかになるはずである。すなわち、ドイツ人、しかも恣意的な決まりの中で死に絶えた人間ではなく、根源的なドイツ人のみが真に民族をもち、それに依拠する資格をもっているのであり、さらにはまたこのドイツ人にのみ自らのネイションに対する本来の理性に適った愛をもつ能力が備わっているのである。(Fichte: Reden an die deutsche Nation, S.127 )  (p. 260)

 著者は、「自由と祖国の独立」を訴えて運動を起こしたブルシェンシャフトという学生運動団体を取り上げている。自由を求める彼らの運動は、新しい統一国家としてのドイツを求める運動であって、「つまり自由を前提にしたネイションへの希求である。このブルシェンシャフトに内在していたナショナリズムが後の歴史でプロイセンによるドイツ統一(ドイツ帝国)やナチの運動(第三帝国)に糾合されていく歴史」 (p. 251) に連続していくのである。
 フィヒテもまた「世界や人類という普遍性に行き着く前に、いやでもその中間にある共同体ないしネイションという問題に突き当たらざるをえなかった」のであり、「本意とはまったく裏腹に、ずっと後のナチの歪められた世界主義となって実現してしまうという歴史の皮肉をわれわれは知っている」  (pp. 260-1) と著者は記す。

 最終章は「ふたたびフロイトとハイデッガーへ」として、序章を受けている。

 象徴的なのは、二人における「Heim」という言葉へのこだわりである。とりわけわれわれの関心を刺激してやまないのは、「家」「住処」を意味するこの言葉の近親概念たる「Heimat (家郷)」に始まって、さらにはそれらから派生した「heimlich (内々に、ひそかな)」や「unheimlich(不気味な)」といった形容詞を哲学や病理学の概念にまで高めようとする試みに掛かっているバイアスである。ハイデッガーはそこに「存在」を、フロイトは「無意識」を見ようとしたのであった。近代以降の思想史ではこうした概念に着眼することはかなり特異な出来事であり、この彼らの独創的な着想はおそらくロマンティクに見られるようなドイツ語圏特有の精神文化の風土を離れてはありえなかっただろう。 (p. 284)

 ここでは、ハイデッガーが1934-35年に行ったヘルダーリンの詩作についての講義録が取り上げられている。

  ハイデッガーによれば、われわれ人間は個人として限られた時間を生きることを知っている。しかし、民族の時間を知ることはない。へルダーリンが「われわ れ」「彼ら」と言うとき、それはわれわれに隠されたままの「本来的な歴史的時間」「われわれの民族の世界時間」「根源的な時間」すなわち優れた意味での 「存在」を指し示している。そしてこの歴史的時間がほかならぬ詩作から生まれるとされる。つまり詩の中にこそ民族が宿っているということなのだ。 (p. 288)

 そして、ハイデッガーの「「存在」にアクセントを置いた特異な読解を裏返せば、ハイデッガーの存在論がそれだけへルダーリンの詩作に近づいているということでもあるわけだが、これが著者のいうハイデッガーにおける自覚されたロマンティクの影の一端」 (p. 292) だとしている。
 著者は、このようにハイデッガーとフロイトの二人とドイツ・ロマンティクに通底する近代を見たうえで、「ロマンティクはあくまで近代の現象である」 (p. 308) と主張する。しかし、「ロマンティクには漠然とした理念のほかに一貫した政治的スタンスというのは結局成立しえなかった」 (pp. 311-2) のであり、「その「場当たり主義」を逆手に取られて現実の暴力に抵抗なく籠絡されてしまったとき、あのような悲劇に加担してしまった」 (pp. 313-4) のである。

 本書は、ハイデッガーとフロイトの視座から一世紀前のドイツ・ロマンティクを読み解き、そこからふたたび一世紀後に引き戻り、ハイデッガーとフロイトに流れ込んでいるロマンティクの影について論じている。 したがって、本書には19世紀初頭から20世紀初頭までのドイツ精神の歴史的俯瞰が与えられていると言ってもいいだろう。
 著者は、最後の章でヘルダーリンの詩作についてのハイデッガーの講義録を取り上げて論じているが、そのハイデッガーの講義から70年の後、ジョルジョ・アガンベンはハイデッガーについて次のように述べている。

 ハイデガーは、ポリス――隠匿性と非隠匿性、人間の動物性と人間性のあいだの葛藤を統べる天蓋――が、いまだなお実践可能な場であると、善意から信じることのできた、おそらくは最後の哲学者だった。ポリスという危険な場に身を置くことで、いまだなお人々――ひとつの人民(ポポロ)〔民族〕――は、みずからの歴史的な宿命を見出すことができるというわけだ。つまり、疑念や齟齬もないわけではないが、すくなくともある程度までは、ハイデガーは人類学機械が、人間と動物、開かれと開かれざるものとのあいだの闘争をたえず裁決し再編することによって、ひとつの人民にとつての歴史や命運をいまだなお生み出すことができると信じた最後の人物だったのである。 [2]

 一方、本書の著者は、上に引用したように、ハイデッガーがヘルダーリンの詩の中に「本来的な歴史的時間」、「われわれの民族の世界時間」、「根源的な時間」すなわち優れた意味での「存在」を見ていると指摘して、「そしてこの歴史的時間がほかならぬ詩作から生まれるとされる。つまり詩の中にこそ民族が宿っているということなのだ」と継いでいるのである。
 ところが、上記のように述べたアガンベンは、ハイデッガーが自分の誤りに気付いていたのではないかと指摘したうえで、本書で引用しているハイデッガーの講義録(Heidegger : Hölderlins Hymnen GermanienundDer Rhein”, GA 39)から次のような文章を引用している。

人民の歴史的実存の大いなる震撼の可能性は潰えてしまった。神殿も図像も衣装も、人民の歴史的召命を帯びて、これを新たな使命へと衝き動かすことは、もはやできない。 [3] 

 もちろん、アガンベンの関心はヘーゲル-コジェーヴ的な「歴史の終焉」後の世界や実際の歴史上の全体主義のことにある。とはいえ、アガンベンの言葉に誘われるように、現代からハイデッガーを経てドイツ・ロマンティクに突き抜けて行くような視座はないものかと思ったのである。
 本書は、フリードリッヒ論にとどまらず、総合的なドイツ・ロマンティク論であり、近代自我論ですらある。このような幅広い視座を横軸とすれば、縦軸である時間軸を伸ばすことは著しく仕事の困難さを増すことになるだろう。そう思いながらも、現代の視座からハイデッガー、フロイトを経てドイツ・ロマンティクまで描ききる才能を期待してしまうのである。絵を楽しみつつ、哲学も歴史も楽しめるという書籍はそうは見つからないのであるから。

 

[1] 『ドイツ・ロマン派画集(ドイツ・ロマン派全集 別巻)』(以下、画集)(国書刊行会、1985年)。
[2] ジョルジョ・アガンベン(岡田温司、多賀健太郎訳)『開かれ――人間と動物』(平凡社、2011年) p. 132。
[3] 同上、p. 133。


【書評】小林敏明『風景の無意識――C・D・フリードリッヒ論』(作品社、2014年) 【1】

2015年06月04日 | 読書

 

ロマン主義の無限憧憬は、遠い過去、遠隔の地方に関心を示す点に窺われる。ノヴァーリスによれば、距離をとることからすべてのものは詩的になり、すべてのものは浪漫的になる。魔術的な空想力は、過去においても未来においても、時間や空間や事実によって限界づけられることから自由である。したがって、ドイツ・ロマン主義には、さすらいの歌や彼方への憧れがきわめて多い。さらに種々の華やかな戦いにまつわる冒険、封建制や騎土道、恋愛歌謡、カトリック、神秘主義、十字軍、東方との接触による人間的地平の拡大を内容とする中世に対する偏愛を見出しても、われわれは驚かない。(ブランケナーゲル「ドイツ・ロマン主義の主要特徴」p.52) (本書、p. 37)

 

 魅力的な題名に惹かれて手に取ったが、もちろんドイツ・ロマン派の代表的な画家フリードリッヒを論じていることにも私の読書欲は刺激されたのである。ドイツ・ロマン派というのは幼い頃から私の周囲のいろいろなシークェンスで顔を出していたように思えて、どこか親しみや懐かしさを伴うのだが、かといって具体的にロマン派の何かを判然と思い出すわけでもない。カール・ブッセのような新ロマン派も渾然となっている記憶だと思うが、青年期になって雑多な本を読み出すと、ロマン派はどんどん遠くへ離れて行って、無縁になってしまった。
 私はフリードリッヒの画集を持っていないので、仙台市図書館から「ドイツ・ロマン派全集」の別巻である『ドイツ・ロマン派画集』 [1] を借り出してきた(『風景の無意識』ではフリードリッヒの絵が挿絵として引用されているが、ここでは可能な限り『ドイツ・ロマン派画集』から引用する)。

 本書はかなり意欲的な書物である。哲学の本であり、歴史の本であり、そして芸術に関する本である。序章では、「フロイトとハイデッガーをめぐる疑問」として、二人の思想の重要な概念である「不安」、「不気味さ」、「死を志向する存在」「死の欲動」、「無意識」を論じている。彼らによって相対化された「近代的自我」を、ドイツ・ロマン派の伝統的な宗教的感情や自然への畏怖的感情と近代の始まりにおける自我の葛藤(ないしは調和)を解明するための主要なキイとして、論が進められている。

 端的に言おう。これまで長々と説明してきたフロイトとハイデッガーの「啞然とするような」類似性、つまり「不安」「不気味なもの」「死への志向」「隠された本来性」「命名し難いエス」といったものに、このハイデッガーの抱く原風景のイメージを重ね合わすとき、著者の想像力を鼓舞してやまないのは、一八〇〇年頃に隆盛を見た、あの「ドイツ・ロマンティク(ロマン主義)である。それは文字通り「風景」としても描き出された芸術思想史上の一大エポックであった。近代的自我や理性的言語に対する懐疑とその反動としての美的衝撃ないし戦慄的美への傾倒は、ニーチェを経て、やがて表現主義において爆発的に顕在化するように、確かに一九〇〇年を前後するドイツ語圏の芸術、思想領域における著しい潮流を成している。フロイトやハイデッガーがそうした流れの中に位置するのは言うまでもない。だが、こうした「近代に反逆する近代」はドイツの場合、すでにそれを一世紀ほど遡った時代、すなわちロマンティクの時代に始まっていたと見ることができるのではないか、というのが本書の出発点である。  (pp. 36-7)

 ヨーロッパ絵画おいて風景画というカテゴリーが歴史的に確立するのは、けっして古い時代ではない。ギリシア(ローマ)神話やキリスト教の逸話は西洋絵画の主要な主題で、たしかにそこには背景としての風景はずっと描かれてきた。しかし、著者も指摘するように (p. 73)、風景自体が主題として描かれるようになるのはニコラ・プッサンやロイスダールが現われる17世紀になってからである。
 19世紀初頭にドイツ・ロマン派(著者は「ドイツ・ロマンティク」と記している)の風景画が現われるが、それはプッサンやロイスダールの風景画とは大きく異なるものであった。


《バルト海の十字架》1815年頃、油彩…カンバス…45×33.5cm、
西ベルリン、シャルロッテンブルグ宮美術館 (画集 p. 10)。


《リーゼンゲベルゲの朝》1810-11年、油彩…カンバス…108×170cm、
西ベルリン、シャルロッテンブルグ宮美術館 (図2、画集 p. 11)。

 一八二一年のベルリンでの展覧会で一躍芸術家仲間の注目を浴び、時のプロイセン国王フリードリッヒ・ヴィルヘルム三世とその皇太子の関心を引くことにもなった一連の作品の一つである「リーゼンゲビルゲの朝」(図2)は、フリードリッヒの山岳風絵画の特徴をもっともよく表わしている。画面の中央を左右に横切る水平線を境界にして、朝の陽光に輝く天空と、淡い逆光に浮かび上がる大地が対比的に描かれ、見渡すかぎりの広大なパノラマを展開している。手前のどっしりとした質感をもった岩塊の頂上には小さな磔刑のキリストが置かれ、それだけが水平線を超え、明るい天空の領域に突き出している。そしてその十字架の下には白装束の女性が岩塊を登ってきた若い男性の手を取って、さらに上へ登ろうとするのを助けている。この小さく描かれた天使のような女性は信仰ないし宗教のアレゴリー、男性はフリードリッヒ自身と思われる。こうした荘厳な風景の中に宗教的モチーフを織り込むこと、これはフリードリッヒ絵画の常套手段である。 (pp. 45-6)

 きわめて印象的な風景画であるが、フリードリッヒはけっして実在の風景を描いたわけではない。「異なった場所でスケッチされたもの」を「キャンバスの上でコラージュ風に再構成」したもので「風景全体のコンセプトはあくまでフリードリッヒ自身の創作」 (p. 46) なのである。その創作は、当然ながら「自然の対象はそれ自体がすでに聖なる創造の所産」 (p. 47) と考える画家の美意識を反映する。そして、それは現代を生きる私にとって自然への過剰な感情移入に見えるのだ。
 これは後世の評価にかかわることでもあるが、文学であれ、絵画であれ、こうした過剰な感情移入こそがドイツ・ロマンティクの特徴であると考えることができる。私が「過剰な感情移入」と評するものこそ、著者がフロイトやハイデッガーを援用しつつ解き明かそうとするドイツ・ロマンティクの精神性なのである。
 フリードリッヒの時代、自然は恐怖の対象から美の対象へと変わりつつあった。著者は、文学や絵画に描かれるアルプスを取り上げて、ニュートンなどによる近代自然科学の登場に見合った自然観の時代的変遷を明らかにしている。
 しかし、近代科学に見合った自然観とはいえ、上のフリードリッヒの絵にも見られるように、そこには科学的自然を越える過剰が存在する。著者が、「それは美しいとか綺麗といった平穏な感受性の枠を越えて、場合によっては恐怖や驚愕さえも誘発するような勇壮さや深遠さを湛えた独特な「美」の創出」 (p. 67) と評するものだ。

〔……〕ここでは新たに生まれつつあった近代科学の知見と宗教的信念が矛盾なく共存していると言ってもよいが、まさにそこにこの時代、この文化圏の大きな特徴があるのである。フリードリッヒと並んでドイツ・ロマンティクを代表する画家ルンゲの風景画観においても、別の形であるが、この近代と反近代の両義性が著しい。〔……〕自然現象の中に「自分たち自身」や「自分たちの本性や情熱」をみるという、いわば近代的な自己反省ないし内省という行為は、〔……〕さきに見たルソー以前にはありえなかった新しい事態である〔……〕。しかしルンゲにおいてこの新たなパースペクティヴは「深遠な宗教的神秘主義」と共存する。そしてそうした両義性に基いて、あの崇高を旨とする新たな美観が生まれ、それとともにまたあの直接ロマンティクにつながる山岳風景画が、まさにジュピターの頭から突如として立ち現われてきたのである (pp. 79-80)


《氷の海》1823-24年頃、油彩…カンバス…96.7×126.9cm、
ハンブルグ、美術館 (図11、画集 p. 23)。

 ドイツ・ロマンティクの自然観をフィヒテ、シェリング、ショーペンハウアーらの哲学から取り出して議論する第二章「産出する自然」も、フリードリッヒの絵画を取り上げることから始まる。たとえば《氷海》(画集では《氷の海》)については、シャルル・サラの的確な評を紹介している。

「氷海」は、一九世紀の初頭フリードリッヒによって創出されたロマン主義的で霊的な風景画の目的を模範的な形で体現している。几帳面なまでのリアリズムは、ここでは深遠な倫理と宗教的象徴を表現することに貢献している。この画家が綿密な人間描写や自然描写の背後に込めたモラルの教え。その筋書きは沈思に取ってかわられ、内に向かった絵はその観賞者にむしろ懐疑と内省を呼び起こし、ドイツ的世界観という概念を媒介してくれるのである。(シャルル・サラ、Sala: Caspar David Friedrich, S.21) (p. 86)

 つまり、「自然は解読されるべき「神の言葉」だった」 (p. 90) ということであろう。そのようなドイツ・ロマンティクの芸術家たちを捉えたのはフィヒテの自然論であった。フィヒテは、自然をNatura naturataとNatura naturansという対概念で説明する。

〔……〕しばしば「能産的自然」と訳されるNatura naturansはここでは自己原因としての神のことを指しており、けっして今日われわれが理解する自然を意味しているわけではないことに注意しなければならない。あえて言えば、今日の自然に当るものはそのNatura naturansの創造活動の結果として生み出される「所産的自然」たるNatura naturataの側に属すると言うことができよう。にもかかわらずここでこの創造する神がNaturaと言い換えられたことの意味は大きい。なぜなら、さきにも述べたnaturaの多義性に基いて、そこから自然そのものが自己産出的な働きをもつという着想が開かれてくるからである。むろん、そこにはあくまで神性が隈なく染み渡っている。 (p. 96)

〔……〕この神を内在させているすべての「事象の本性naturaの内には偶然的なものはなく、すべてはある特定の仕方で存在し働くよう、神的本性naturaの必然性から決められている」のである。 (p. 95)

 シェリングもまた「単なる所産としての自然natura naturataをわれわれは客体としての自然」と呼び、「産出性としての自然natura naturansをわれわれは主体としての自然」 (p. 98) と呼んでいると言う。ここで言う「主体」は近代的自我ではなく、自然の根源的な産出性を意味し、「宇宙霊/世界霊weltseele」と名指されたものに対応している。これはまた、その産出性により「生命の源泉」、「大いなる母」と形容されるものでもある。しかし、その本質(存在)は「あくまでそれ自身が「産出したもの」すなわち「所産」を介して「考えられる」だけ」 (p. 99) しかないものである(このあたりの議論に、私の若い頃に感じていたドイツ・ロマン派のフレーバーを感じることができる)。
 フィヒテ、シェリングに続いて取り上げられるのが「カントを継いで美と崇高を論じたショーペンハウアー」 (p. 114) の哲学である。

周知のように、ショーペンハウアーにとって自然とは、カントの不可知な「物自体」と等置された「意志」が「客体化」したものである。言い換えれば、まさに「意志と表象/としての世界」である。表現こそはちがえ、この発想法もやはりnatura naturansが産み出すnatura naturataという考えと基本的に同じである。だからこの自然においては、スピノザやシェリングにおいてと同じように、無機物から有機物にいたるまで同一の原理が働いていることになる。つまり無機と有機の相違はあくまで根源的で産出的な自然としての意志が客体化していく過程における段階的な相違にすぎない。要するに、自然はその合目的的な意志発現の結果なのである。そのように客体化され、産出された、われわれの目に触れられるnatura naturataとしての自然を直接対象とする芸術としてショーペンハウアーが挙げているのが造園と風景画である。 (pp. 114-5)

 著者は、ショーペンハウアーが風景とともに建築、廃墟、教会などに言及していることに触れたうえで、「ほかならぬこれらの対象はフリードリッヒをはじめとするロマンティク絵画の特徴をなすモティーフの一部である」 (p. 117) と指摘している。


《オーク林の僧院(楢林の中の大修道院)》1809-10年、油彩…カンバス…110.4×171cm、
西ベルリン、シャルロッテンブルグ宮美術館(図30、画集 p. 15)


《海辺の僧(僧侶)》1809-10年、油彩…カンバス…110×171.5cm、
西ベルリン、シャルロッテンブルグ宮美術館(図35、画集 p. 14)

 自然は神の産出物であり、人間は自然を通して自然を産出する存在(神)に近づくしかない。そのドイツ・ロマンティクの美学理念を特徴付けるものは「崇高」である。

図30「楢林の中の大修道院」は「海辺の僧侶」(第五章図35)とセットで描かれ、一八一〇年にベルリン・アカデミー展示会で披露された作品だが、このときプロイセンの皇太子の目にとまって帝室購人となり、一躍フリードリッヒの名声を高めた作品である。
 ここに描かれているのは、新月を頂いた薄明の空の下、楢林に囲まれてまだ闇の中にひっそりと姿を見せているゴシック大修道院の廃墟である。葬列とおぼしい僧たちの黒い影、見捨てられた墓標、葉を落とした楢の異様に歪んだ枝ぶりが霧がかった闇の不気味さをいっそう高めているが、こうした不気味さは「崇高」の理念とは折り合っても、いわゆる「美」のそれとは折り合ってはいない。つまり崇高とはたんに愛でられる美とちがって、何か不気味とか、場合によっては恐怖や不安といったネガティヴな感情とも一体となった特別な「美しさ」なのである。
〔……〕このように、夜、闇、月光、静寂、廃墟、これらは不安、不気味、場合によってはおどろおどろしさといった、ある意味でネガティヴな感情と一体となっているがゆえにこそ、それら固有の特別な美的効果を発揮するのである。そしてそのかぎりでまた夜や死を偏愛するロマンティク一般の理念とも一致したのであった。 (pp. 161-4)

 ここに、宗教的自然から近代自然科学の成立へ、あるいは近代的自我の形成が進みつつある時代の特徴があると、著者は言う。

つまり、自然が(自然)科学の対象として扱われるようになるにしたがって、その対象化された自然が同時に美の対象ともなっていったのである。この移行過程をさらに別様に表現するなら、自然の「脱魔術化」(ヴェーバー)を補うようにして「美学化」が進行したということでもある。「美学」はある面で「魔術(神)」を代償していったのである。その意味でこのパラダイム・チェンジを先取りするかのように、まず近代を先駆けた商業資本国家オランダに静物画と風景画が登場したことは絵画史上画期的かつ象徴な出来事だったと言うことができよう。 (pp. 165-6)

 ドイツ・ロマンティクはフランス革命から強い刺激を受けたのであるが、著者は、恐怖や不安を伴う「崇高」概念を説き明かすために、皮肉なことにフランス革命を全面的に否定した保守思想家エドモンド・バークの考えを援用している。

 話をバーク自身の恐怖/不安概念に戻せば、その崇高概念との関係は次のように説明される。われわれの心に強い印象をもたらすのは基本的に「自己維持self-preservation」と「社交society」の二つに関わってのことだが、なかでも崇高に関して大事なのは、病気や死といった苦ないし危険に反応する自己維持[的な本能]にもとづいて生ずる恐怖心である。だから、崇高は確かに最終的には美に似たプラスの快さをもたらすにもかかわらず、その快はたんに美しいものを見るときのような「快pleasure」とちがって、あくまで恐怖をはらむ快さ、すなわち「喜悦delight」であるという。 (pp. 168-9)

 そして、崇高と美の違いについてバークとカントの次のような語りを引いている。

崇高と美は互いに全く異なった原理にもとづいて成立しており従ってそれが惹き起す感動もまた互いに異なること、偉大はその基礎に恐怖を有し、この恐怖が柔らげられる時には心の中に私がかつて驚愕と呼んだ情緒を生ぜしめること、これに反して美は単なる積極的な快にもとづいており魂の中に愛と呼ばれる感情を生み出すものである… (エドマンド・バーク『崇高と美の観念の起原』p.173)   (p. 172)

雪を被った頂が雲にそびえる山岳の眺めは崇高であり、荒れ狂う嵐の叙述やミルトンの地獄の描写は喜びを引き起こすが、恐怖を伴っている。これに対し、豊かな花咲く草原、蛇行する小川を伴い、放牧の群れにおおわれた谷間の眺望、エリュシオンの叙述やホメロスによるヴィーナスの帯の描写もまた快適な感覚を引き起こすが、それは朗らかで、笑いかける。前者の印象がわれわれに対してふさわしい強度で生じうるためには、われわれは崇高の感情を持たなければならないし、後者を適切に享受するためには、美に対する感情を持たなければならない。神苑の高い楢の木と寂しい影は崇高であり、花壇、低い生け垣、ものの姿に刈り込まれた木々は美しい。夜は崇高であり、昼は美しい。(『カント全集』2、 p.324/5)  (p. 174)

崇高は感動させ、美は魅了する。(『カント全集』2、 p.325)

 カントにおいても「崇高のベースにバーク以来の「恐怖」が働いていることは確か」だと著者は述べているが、そのカント自身は中庸を重んじた哲学者らしく「崇高あるいは美がよく知られた中庸の度を越えると、ひとはこれをロマン的と呼びならわしている」(『カント全集』2、 p.332)  (p. 176) と否定的なのだが、著者はカントの時代からドイツ・ロマンティクの時代への間に「ロマン」概念のパラダイム・チェンジが起きたのだとする。
 カントは、「崇高」を「理性」に、「美」を「悟性」に対応させる。理性は無形式、無制限なので「崇高」は無制限に大きく、「「尊敬」が伴うと同時に、その大きさに圧倒されての「動揺」や「恐れ」が伴うことに」 (p. 180) なる。 

つまり、崇高の感情はたんに恐怖をもたらす自然対象から生じるのではなくて、まずそれに応ずる人間(主観)の構想力がその能力の限度を知らされるほどに刺激を受け、それを通してその恐るべき自然に抗することができるような自らの力が感じられるからこそ生じてくるというのである。つまりここで考えられている崇高は、対象のではなく、主観の側の崇高にほかならない。 (p. 182)

 カントの「崇高」は、見られる対象(自然)の側にあるのではなく、それを見る主観の側に成り立っているのだとして、著者はそれを「崇高のコペルニクス的転回」とよぶ。

 こうして崇高 に固有な、恐れつつ魅了されてしまうというアンビヴァレントな感情、バークの言葉で言えば、快と不快の共存たる「喜悦」が理論づけられるのだが、それとと もにカントはこうした共存が可能となる前提として、そこに「開化Kultur」すなわち「文化」が成立していなければならないと言う。一種の啓蒙主義の立 場である。これがなければ、人間の側に自然を凌駕する感情も生まれようがないからである。  (p. 183) 

 ショーペンハウアーもまた、カントと同じく「認識する純粋な主体」の働きを重要視する。それは、「恐怖や不安、矮小化や無化といった負の感情をもたらす〔……〕強大な対象が知覚されると、主体はそのことを認めつつも、〔……〕脅かされた自分の意志とそれの関わりから強引に身を引き離す〔……〕と、そこに純粋な認識が得られ、それによって意志に恐怖をもたらす対象も観想できるようになり、〔……〕崇高の感情が成立するという論理」で、「観照によって生み出される崇高」 (pp. 189-90) なのである。

崇高の対象となるものとして、ショーペンハウアーはこのほかにも荘厳な建築物、ピラミッド、廃墟を挙げ、さらにはカントに迎合するように、人間およびその行為の偉人さをも挙げてはいるが、記述は圧倒的に自然の景観に傾いており、その分ロマンティクの風景画に接近している。言い換えれば、この頃には、ここでも挙げられているような高山、岩塊、滝、夜、嵐といった表象がロマンティクの代表的イメージとなって共有されていたと同時に、初期ロマンティクの画家たちが描いてきた表象がようやく美的形而上学にまで登りつめたということでもある。 (p. 191)

 崇高を論じる著者は、さらにシェリングやシラーのほかにドイツ・ロマンティクの芸術家たちの言葉も取り上げているが、ずっと後年のアドルノの「崇高が芸術に侵人するに当たっては、かつて啓蒙の自然概念が寄与したのであった。〔……〕荒々しい自然を解き放つことは主体の解放と一体となり、それゆえまた精神の自覚とも一体だったのである」(Adorno: Ästhetische Theorie, S.292)  (p. 197) という時代認識を引用したうえで、次のような述べている。

〔……〕崇高はたしかに一面で近代的な、主体と自然の解放を象徴するが、他方でその解放にともなって見捨てられていく非合理・反合理の、あるいは陽の目を浴びるロゴスの陰に置かれるパトスの代理表象であり、さらにはまた次第に光彩を失っていく神の座を埋めるための匿名の代理超越とでも言うベきものでもある (p. 197-8)

【続く】