放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

石巻へ・・・

2012年10月30日 01時31分12秒 | 東日本大震災
 あの旋律は「亡き王女のためのパヴァーヌ」(ラヴェル)と言うのだそうだ。
 某カローラの宣伝がいっぱい流れていたので、どうしてもあの旋律が頭から離れない。
 もの悲しい曲調だからだろうか、鎮魂歌としてよく多用されるらしい。「野辺送り」の観がある。



 石巻のことを書くのに、月日を要した。
 「石巻」という特別な場所に行くのにも月日を要した。

 甚大な被害の出た石巻
 震災直後から交通障害が続き、連日の渋滞報道。
 物資の応援はしたが、それがどれだけ行き渡っているのかも見当がつかない。
 
 「商店街がやられたよ」
 「萬画館も教会やられたよ」
 「門脇小は・・・、大川小は・・・。」

 これらの話は、大抵マスコミかボランティアに行った人たちがもたらした。
 石巻に縁のある知人たちは、むしろ沈黙した。

 たとえ家族が無事であっても、自分の育った街や港が流されたのだ、平気なはずがない。
 
 僕らは、特に会うべき人が石巻にいたわけではない。けれど、それゆえに、石巻は気軽に行けるところではなくなった。
 ただ、出来る範囲で支援物資を送り、それらが誰かの一日をほっとさせてくれるものであってほしいと祈った。

 そうして月日が1年以上も経った。
 きっかけはBELAちゃんだった。

 「あのさあ、石巻行きたいんだけど」
 「石巻?」

 仕事のためいちど見に行っておきたい寺院跡があるという。
 地図で調べると位置は容易に見つかる。けれど震災でどんな被害を受けたか分らない。ネットで調べると、やっぱり震災関連で色々なものを置いているらしい。
 こういうところへいくと、地元の目が気になる。「コイヅら何サしに来たベ」と思うだろう。
 自分がすこし臆病になっているのがわかる。
 おそらく、行けばとても受け止めきれないものを見聞きするのだろう、そんなときに住み続けている人の目線や言葉はどれだけ鋭く重いのだろうか。

 しばらくシブッてから10月15日に行くことを承諾した。

 当日は、晴れ。やや風がある。
 三陸自動車道を北上する。このごろやっと渋滞しないで通れるようになってきた。
 それでも今度は道路の改修工事が始まるらしい。そうすると、夜間の通行はできなくなる。通勤でここを使っている人は大変だ。
 三陸自動車道をそのまま東北へすすみ石巻河北で降りる。
 そこから東進。まっすぐ北上川へ向かった。

 頭の片隅で静かに旋律が流れていた。
 「亡き王女のためにパヴァーヌ」だ。

 大橋の手前で右折。
 やけに静かな街をぬけていくと、突然川っぺりにどん、と出た。
 目の前に中州と、石ノ森萬画館の銀色のドームがあった。
 ほこりっぽい荒地に変わり果てた姿で潮風に吹かれている。
 「パヴァーヌ」が頭の中いっぱいに流れ出す。

 川沿いはどこも横穴のあいた住宅や、壊れた道路ばかり。そして、どこの被災地でも同じように、ひどく埃っぽい。おそらく多量に潮を含んでいることだろう。
 
 自分がどこを走っているのか分らなくなる。
 地図見たってわからない。目印なんか、川の中州と、西向こうの日和山だけ。

 ぐるぐるまわって、ひとまず日和山の山頂に。
 そこから北上川を見下ろした。

 そこには埃っぽくて痛々しい、さっきの中州があった。
 「パヴァーヌ」が何度も何度も流れている。
 
 海はあんなにキレイなのに、あんなにやさしい光でキラキラしているのに、
 どうして・・・。

 山を降りて夜の街(だった)通りからメインストリートへ。
 ここらは以前、怖くて一人では通れない雰囲気だった。地元でも顔の広いオニイチャンと仲良くならないかぎり連れて行ってもらえないようで・・・。
 それがいっぺんに濁流に呑まれた。 
 
 いまとなっては、店舗の一つ一つが持ち主にとってタカラモノであっただろうと想像できる。一人一人にとって、やっとこ構えた大切なお店だったのではないだろうか。
 
 それでも気丈な人たちは建物を補修し、ノボリを出して、営業中であることをアピールしている。
 (強いなぁ)

 駅前から左折。そのまま直進すると製紙工場があり、そこから海の方へ向かった。
 
 先の信号機が点滅している。するととつぜん周囲ががらんとひらけ、海まで見渡せる広いところへ出た。

 まっすぐ続く道路と、土台だけを残した住居の痕
 手作りの祭壇と、そこで座り込んでいる人
 風にばさばさ揺れるテント、焼け焦げた校舎

 ここが門脇かぁ。
 あれから、1年と7ヶ月が経過したと言うのに、ここはまるで時計が止まったかのようだ。ガレキが膨大すぎて、その撤去に多くの時間を費やしているからなのだろう。
この砂を噛むような時間を過ごしてきた人々のことを思うと、胸が痛くなる。 

 さっきから「パヴァーヌ」が鳴り止まない。
 ぶしつけでごめん
 何も出来なくてごめん
 どうかこの無礼な見物人を許してほしい。
 宮城に在住していて、いまの被災地を見ないことのほうがよっぽど無礼な気がしてならない。自分に何が出来るのか、見に来て感じるこの痛みを、どこかに伝えていくべきではないのか。災害の記憶が風化してしまわないように、支援者の関心が薄れてゆかないように。そして、昨日の僕のように被災地を見る勇気の持てない人にも、少しでも今のありさまを伝えるために・・・。

 捜していた寺院の址は、結局、石碑数基を認めるだけに終わった。
 「パヴァーヌ」は、その日一日中鳴り響いていた。

 
                                                                                                                
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映画「ガレキとラジオ」

2012年09月01日 11時26分17秒 | 東日本大震災
 ドキュメント映画「ガレキとラジオ」 
 先月25日に観て来ました。

 これも東日本大震災に関連した映画です。
 震災から2ヶ月、壊滅的な状況に陥った南三陸町に開局されたFMラジオ局「FMみなさん」。そこを立ち上げた人々の奮闘と苦悩を綴った記録。

 そこは南三陸町ベイサイドアリーナという町の中心的な場所。当時は避難者でごったがえしになり、遺体安置所として使われた時もある。
 そこの二階デッキ、トイレのまん前、ここが「FMみなさん」のブースとなる。
 ここ、寒みぃべな、防音もなにもしていないから騒音もそのまま入るし。
 活動目的は被災地情報、災害関連情報、そして、「和み」をお届けすること。

 機材はそれなりにそろっているんだけれど、どこかヘン。
 あ、スマホにマイク貼り付けてゲスト対話しているし。
 すごい状態。シロートから見ても、いかにもここは「仮設局」だなという感じがする。  
 でもみんな一生懸命。
 みんなみんな職場と住居や家族を失い、それでも誰かと誰かがつながってゆくようなコミュニティを目指している。

 実は、このFM局は期間限定でした。
 放送期間は平成24年3月31日まで。立ち上げからたったの8ヶ月。

 理由は南三陸町の財源不足。
 そりゃそうですよね。これから膨大な復興費用がかかるわけで。
 行方不明者もいるし、見つかった遺体の身元でさえほとんどわからない、避難所は食料、衣料、衛生用品、そして医療品が足りないし、なによりも流された町の職員がいっぱいいたわけで。そのなかでコミュニティラジオの立ち上げをしたというのは、むしろ奇特というか、殊勝というか、あの気が狂いそうな状況でよく思いついたな、という感想を持っています。

 こうしてFM局のスタッフさんたちは、被災後の生活苦に耐えながら、さいごまで突っ走ってゆくのでした。

 うん、人って、頑張っている瞬間はとりあえず美しい。
 誰かのために、って奔走している姿は、やがて被災地で還らない子を待ち続けるおばあちゃんの心に小さな希望を灯して終わります。
 その潔さ、明るさ、みんなみんな立派だと思いました。
 どんなエラソーなこと考えるオトナよりも、ずっとずっと尊くて、そして何だかちょっぴり切なかったです。

 「FMみなさん」を卒業したスタッフさんみんなに幸せが届きますように。
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荒浜街道

2012年07月25日 13時38分06秒 | 東日本大震災
 日曜日に秋保で太鼓を叩かせてもらって、ニノ腕が上がらなくなった。

 どうも楽しくて楽しくて。
 楽しすぎて限界を忘れて叩きまくっていたらしい。
 とても濃厚で有意義な一日だったけど、その代償はそれなりにあった。

 ニノ腕の力こぶを作る筋肉がすっかり炎症を起こしていた。ここが使えないとかなり不便。
 顔が痒くても手が上がらない。
 味噌汁飲む時にもお椀が上げられない。
 受話器が持ち上がらない。
 カバンはどうにか持てるけど、今度は机の上まで上がらない。
 
 こういう状態が火曜日まで続いた。
 情けないど、寝具のタオルケットさえ自分で畳めなかった。

 さてその火曜日。
 次男坊(小4、夏休み中)にせがまれて、モーターショーに行った。
 (もちろん、お仕事は休暇取得しました。どうせ腕上がんないし・・・。)

 正直言うと、子供にはイマイチ乗り切れないイベントだったように思う。
 未来の自動車体験コーナーったって、自動車免許ないとNGだもんね。これでは子供はシラけるでしょ。
 (子供を喜ばせないと、未来の購買者は育たないと思うんだけどなぁ)

 次男坊も1時間半ぐらい居たら、「も、帰る」と一言。
 お昼前には帰路についていた。

 きっと産業道路は渋滞と信号で進まないだろうと判断し、浜辺の道をゆくことにした。

 広い地平線まで真っ直ぐにつづく埃っぽい一本道。
 雑草だらけ。ヒビだらけ。
 そこを作業用車両に混じって走った。
 大型車両が列をなしているのだが、信号や分岐がないのですいすい進む。

 あたりは右も左も作付をしておらず、ただただ荒地が広がっている。
 半壊の建物がそのまんま日差しと風にさらされている。
 ところどころに水溜りがあり、やけに赤い水が澱んでいる。その周りにはススキとクマザサだけが威勢いい。

 これらはみんな、津波の爪痕なのだ。
 人も住めない。作付もできない。
 道路に沿って電信柱は整備されていたが、おそらくあちこちの半壊した民家には電気なんて行っていないだろう。せいぜい護岸(盛り土)工事用の電源か、一つ二つの信号機につないでいるくらいだろう。
 上下水道だって壊れたまま手付かずではないか。
 
 いつのまにか荒浜に入っていた。
 ガレキはきれいに片付けられていて、人影もない。時々ヘルメットとニッカポッカ姿の人が道具をもって歩いているくらい。
 これはこれで復興の一段階なのだろうけど、住民が去った風景は、やっぱりあの時の悲しみを呼び寄せる。

 道はあいかわらず大型車両がえんえんと列をなしている。
 ハンドルをにぎる腕がズキズキ痛い。
 次男坊はすっかり無口になっていた。

 二木地区の交差点を見つけて沖野方面へ曲がった。
 それ以外は、どこも封鎖されていて、右も左も許可なく曲がれなかった。

 二木から東部道路に向かうころ、やっと民家が見え始めた。
 そして東部道路の高架をくぐると、風景は一変する。
 あたりは緑にあふれ、平地は作付された苗が青々としている。
 この極端な場面転換には、やっぱり戸惑いを覚える。

 一年四ヶ月経った今でも、復興に差がありすぎる。

 復興の仕方が違うといえばそうなのだが、「そこ」に住めなくなった人の想いを想像すると、酷さに言葉が出ない。
 
 
 
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核エネルギーを考えよう(5)

2012年06月28日 12時13分08秒 | 東日本大震災
 なんだか横道にそれてばっかり。
 ちゃんと論点をまとめないと。

 人類は「核物質」というものを作ってしまった。
 自然界ではプルトニウムという物質は存在しないらしい。
 
 いや、ホントは人類が知らないだけで、宇宙のどこかにはあるのかもしれない。
 しかし、こんな簡単に核崩壊するような物質が長く形態を保持できるものかどうか。

 とにかく、人間は、この毒性の強い物質を自身で作り出したことに恐れを感じている。 
 修羅のような宇宙の中ではさして障りのない物質かもしれないが、ことに地球で生まれた生物にとって、この毒性は脅威なのだ。

 さて、この脅威とは、どうやって付き合ったらいいのだろうか。

 ①封じること?
 ②壊すこと?
 ③利用(消費)すること?

 あらゆる選択肢が研究されている。
 そのなかで、一番長続きしない付き合い方は、①ではないだろうか。
 こんなことを言ったら、福島の人は怒るだろうか・・・。

 ①はあくまで一時的な考え方だ。早急に対応する方法としては大いに必要なことではある。現に、被災者は早く生活の基盤を取り戻さなければならない。帰る家、働くところ、健康で安全な食物。当然の権利が、ある日突然に奪われた。放射能を封じなければ復興の手がつけられない。(それさえも、なかなかはかどらない状況ではあるが・・・。)
 では封じたものはどうするのか。コンクリはいずれ酸化して劣化するのである。やはり壊すか、消費することを考えなければならない。

 そう、①には、あわせて善後策が必要なのだ。
 たとえ、原子炉の廃炉を訴えても、再稼動反対の狼煙を上げたとしても、放射能のリスクはちっとも減っていないのである。なぜならば廃炉にしろ休炉にしろプルトニウムを冷却し続けなければならないし、圧力隔壁だっていずれ劣化してゆく。一方でプルトニウムの半減期はほぼ永遠に来ない。永遠に封じる技術もないのに安全性なぞ、どこにあるものか。
 
 ②はなんとか研究が進んでほしいものである。プルトニウムから「永遠」という看板を引き剥がすのだ。
 ③は、あるていどは可能ではないか。もちろん、それは原子力推進派と呼ばれる人々と同じことを言っているのかもしれない。しかし現実的な推進派であれば、まずハザード・スキルにこだわるべきだし、間違っても「原発は安全です」とは叫んではならない。
 原発は危険なのだ。クリーンエネルギーが聞いてあきれる。一旦制御不能に陥れば、今の技術ではどうにもならないのだ。
 原発の経済性に夢を見てはいけない。原発のハイリスクと経済性とを天秤にかけるのは、ラスベガスのチップを切るのと大差ない。明日をも知れぬ行為である。 

 人類は、その種の責任として、これら人口核物質に向き合い、その危険性をしっかり認識し、これを積極的に消滅させることに努めなければならない。利用(消費)も、その一環であるべきだと思う。
 
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核エネルギーを考えよう(4)

2012年06月25日 16時38分09秒 | 東日本大震災
 どうも政治家たちの言葉が信用できない。
 「『原子力は安全です』ということについて、充分に説明を尽くしてきた」

 ソレは「説明」ではなく、宣伝でしょ。
 J×&%に電話しちゃうぞ。

 大飯原発にいたっては、時空を超えた論理で空いた口がふさがらない。

 「大飯原発の安全を確認できた」
 「免震重要棟やベント設備は平成27年までに竣工する」

 出来てもいない設備で確認できた「安全」ってどないやねん?

 なぜ、「安全、安全」といって強引に原発再開を急ぐのか、と思ったら、今度は関西圏の大規模停電のリスクを持ち出してきた。
 そういうリスクがあるんなら、初めっから提示したほうが話は解りやすかったんじゃないだろうか。まあ話の順序を間違えたお陰で、そのリスク計算も胡散臭く見えてくる。
 どうやら、永田町では「フクシマ」は過去の話で、それすら経済性の前には「他人事」に等しいようだ。

 僕たちは「フクシマ」で泣いたけど、世界は「フクシマ」を直視しない日本国民を嘲笑するだろう。

 この延々と続く茶番は、その制作費用と規模と、バカバカしさにおいて、世界最高と言える。
 いずれ「トニー賞」のお誘いが来るんじゃない。

 
 ところで、「停止した原発は安全」なのか?

 たぶん、そんなはずはないだろう。
 原発「停止」とは、発電しなくなった状態を言う。
 決して核分裂が収束したわけではない。当然、放射能も発生し続けている。
 ただ、触媒を引き上げ、核反応がこれ以上起きないようにしてあり、さらに格納容器内部を冷すことにより、かろうじて放射性物質を制御しているのだ。
 ようするに「刺激」を与えないよう、沈静化をはかっているだけ。現在の人間の技術では、これが精一杯。
 
 これはこれで大規模停電でも起きれば(しかも停電対策が取られていなければ)、原発の冷却システムは停まり、格納容器では温度が上昇してゆく。そうすれば容器の圧力隔壁では耐えきれないほど大量の水素や放射性ヨウ素が発生する。
 大規模停電だって、別に大地震が来なくたって、太陽の活動が活発になれば容易に起きるそうな。

 だから、原発は、稼動してしまえば、その後停止していても放射能被害を出す可能性は十分にある。
 原発の停止も稼動も、実はどっちも安全ではないのだ。
 
 大飯原発の「停止」「再稼動」は、安全性の本則には一歩も近づいていない。マスコミがなぜこの問題をあおるのか、なぜ安全性の本則を訴えないのか。これは報道の怠慢だと思う。
 こんなかたちで政府の茶番劇の盛り立て役にさせられるのは不愉快だ。
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核エネルギーを考えよう(3)

2012年06月13日 10時56分20秒 | 東日本大震災
 核エネルギーと呼ばれているが、利用しているのはその発生する熱だけらしい。
 軍事利用でさえ、核の膨大な熱エネルギーを武器とするわけで、一方で放射線を発生させてしまうことはむしろ厄介なことという認識である。

 きっと残留してしまうからだろう。

 原子力発電で使われるエネルギーも当然「熱」だけ。
 同時に発生する放射能をどう利用するか、という研究は、聞いたことがない。
 あまりにも危険すぎて、研究する科学者も少ないのだろう。けれど、生体を変容させるほどの物理的な力があるのだから、これもエネルギーであることには変わりがないのではないか?

 人間が作り出してしまった物質は、人間に使う権利がある一方で、人間が償却する義務があると思う。人口物質(プルトニウム)から生じる放射能とて例外ではあるまい。そうでなければ人間は他の生物に、一方的に毒を押し付けていることになる。(実際そのとおりなのだが・・・)

 
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核エネルギーを考えよう(2)

2012年06月11日 14時03分35秒 | 東日本大震災
 昨日テレビでもやっていたが、福島県ー宮城県南部を流れる阿武隈川は、依然として高濃度の放射線量が観測されている。

 そもそも阿武隈川はたいへん長い川で、西白河郡西郷村より流れ、白河市、郡山市、福島市を貫き、伊達市や阿津加志山の名所を経て梁川、丸森町、角田市を過ぎ最後は岩沼市のフチをめぐって大洋へと注ぐ。
 
 お判りだろうか。
 この川は、放射能による汚染が懸念される都市を順に廻ってから大洋へ注いでいる。
 いわば震災以後より延々と放射能による汚染物質を集めてまわり、それを大洋へ排出し続けているのだ。
 これはこれで天然の浄化(除染)作用ではあるのだが、厄介なのは、放射性物質が流して安心できるようなシロモノではないということ。それどころか周囲を次々と汚染してまわり、生態へがっちりと喰い込んでゆく。
 
 この環境にニンゲンはどのような態度を取ればよいのだろうか。
 ある程度あきらめて付き合ってゆく?
 出来うる限りの除染を試みる?
 住み慣れた土地を棄てて、どこか遠いところを目指す?

 双葉町や飯舘村の悲しい決断を聞けば、そう簡単な話ではないことは想像に難くない。
 地元で酪農や事業を展開する人の中には支援が間に合わず自殺する人も出ている。
 躊躇している間に、僕らの身体にも放射性物質はどんどん入り込んできている。

 この契約は、もう解約できない。
 
 契約の履行すなわち現存する核燃料の完全消費だけが根本解決と言える。皮肉にも。
 そして流出した放射性物質にも同じ原則が実は存在する。
 隔離したところで、コンクリの箱はいずれ酸化して崩れてゆく。
 結局はエネルギーとして消費しない限り核物質は無くならないのだ。

 除染も隔離もエントロピーの拡散と集約に過ぎない。僕たちが繰り返しているのはそれだけのことなのだ。
 児戯に等しい。
 児戯に等しいながらも出来うるかぎり放射能を遠ざけようとしているのだ。それしか出来ない。それしか出来ない核エネルギーが、なぜ「安全でクリーン」だといえるのか。
 
 
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核エネルギーを考えよう(1)

2012年06月11日 13時11分10秒 | 東日本大震災
 まあ、核エネルギーを一言で言ってしまえば、それは「クーリングオフ期間をうっかり過ぎちゃった契約」なんでしょうね。

 ヤバい契約。
 いまさら「ナシ」にできない契約。
 
 でも契約したのはそれなりにメリットがあったからだ。
 無尽蔵のエネルギー。
 おそらく人類が作り出せる最高出力のエネルギーだろう。

 でも制御できない。
 遮断できない。消すことが出来ない。
 中和も出来ない。
 
 唯一沈静化させる方法がただ「冷す」だけ。
 なんて原始的・・・。

 東日本大震災による原発事故で、電力会社や保安員などの最終的な対応が、結局「ただ冷すだけ」だったことに絶句だった。
 完全に隔離できるわけでもなし、高温のプルトニウムを仕舞える容器があるわけでもなし(しかも溶けてるし)。
 電力会社のくせに停電の想定をしていなかったことも絶句。


 ところでさっき「契約」という言葉で核エネルギーをなぞらえたけれど、それは市民だって核エネルギーの導入に無関係ではなかったはずだから。
 きっと当初は何らかの説明が開発者から市民になされ、どんなに簡素化したものであれ、核エネルギーを導入することについて合意形成がなされただろうと想像するからである。
 もちろん、放射能の恐ろしさをよく知る当時のオトナたちには不安があっただろう。
 それでも日本の経済の発展には高出力の電力が必要だったのだろうし、それが市民の生活をも便利にしたはずなのだ。
 僕などはその便利になりつつある日本の世相をおぼろげながら覚えている世代でもある。
 家の家電はどんどん高出力になっていった。
 冷蔵庫、エアコン、オーディオヴィジュアル・・・。
 
 だから核エネルギーの導入は「契約」といえる。
 つまりは僕らもこれをとりあえずは納得して受け容れてきたのだ。

 けれど、いったん発生した放射能は消すことができないらしい。
 漏れ出した放射能は隔離できない。
 拡散した放射能は消えるまで長大な時間を要する。
 
 これ、かなり悪質な「契約」をさせられた感があるなぁ。
 そのとき人類はどうすればいいのだろう。
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ご支援くださった方々に。

2012年03月13日 09時58分32秒 | 東日本大震災
 多くの方々が、この震災で衝撃を受け、その気持ちを支援という形にしてくれました。
 そのいくつかは、僕らの生活にも届いています。


 あらためて、ありがとうございました。


 見捨てられていない、と感じた瞬間が、いくつかありました。
 と、同時にこの支援が、孤立した地域にも早く届いてくれればいいなと祈る日々でもありました。
 僕は仙台市で被災しました。
 ライフラインと物通が一度にダウンするという恐怖を体験しました。
 怖かったけれど、それでも比較的恵まれた状況でした。
 家も津波をかぶらず、身体も医療を頼らなくて済む状態でした。

 僕たちは、沿岸部の悲惨な状況を知り、被害程度に差が生じていることを知りました。
 雪雲のした、何時間も並んでいるときに、誰もが沿岸部のことを考えていました。自分の都合でわがまま言える状況ではないことを、犠牲者の命から教えられていました。
 そして、見捨てられていないということも僕らを冷静にさせていました。

 少しずつ、少しずつ、僕らも力をつけてきています。
 少しずつ、少しずつ、支援できることをさがしていきます。

 一方、BELAちゃんの美術館はいまだに再開にこぎつけていません。
 建物には亀裂が入り、雨水が建物内部に滲出している状態です。
 行政の支援体制から漏れてしまい(調査が入りませんでした)、お付き合いのあった上部団体は沈黙したまま。
 美術館は長いこと孤立状態が続いています。
 仙台市では、被災した私立の文化施設への応援体制が全く機能していないのです。


 美術館の支援を初めにしてくれたのは、民間と一部の研究機関でした。それからはずうっと草の根運動をつづけて再開をめざしています。おかげさまで少しづつ支援の輪が広がりつつあります。

 個人の方々のメッセージに、孤立感はどれだけ癒されたことか。
 こちらに関しても感謝の気持ちでいっぱいです。

  
 まだまだ時間のかかることだらけです。
 それでも、前にしか進めないので、がんばってゆきます。
 
 どうか、この災害を忘れないでください。
  僕たちは、明日生きれなかった人たちの命を受け継いでいるのですから。
 
 
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閖上へ・・・2(The Life Eater37)

2012年03月12日 13時28分35秒 | 東日本大震災
 2012年3月11日。

 花粉症のピークかな、涙が止まらない。
 まるで震災の日に連動するようにひどくなってゆく。
 ちょっとでも日の光がまぶしいと感じるとすぐにぼろぼろと涙がこぼれる。
 それでも、行くことに決めていた。
 

 そこはまるで霊場のようだった。
 土台だけの家のあと。
 砕いた屋根瓦を積み上げた山。
 その上にあがり、海を見る人々。

 すっかりなんにもなくなってしまった。
 街も信号もお店も港も・・・。

 それでも今日は、大勢の人々がここに集まってきていた。
 あちこちの住居跡にみんな車を突っ込み、みんなでがやがやと日和山に集まってゆく。

 あおぞらと砂ぼこり
 瓦礫と花たば
   潮かぜと読経
    ヘリコプターの騒音がまるであの日を思い出させる。

 今日はどこもこういう「霊場」がいっぱい出来ているのだろう。

 日和山にはヒゲがピンピンと跳ねたような文字の幟が立つ。お題目が書いてある。
 僧侶と信者とそして遺族が優先的に上へ上がっているのだろう。

 やがてもの悲しい鉦の音が上より聞こえてきた。2時46分だ。
 みんなで黙祷する。
 てんでばらばらに集まってきただけの人々が、この瞬間に同じ行為をしている。なんだか不思議。
 小さな子供のおしゃべりは聞こえるものの、圧倒的な静寂が生まれた。

 (日和山に向かって黙祷していたのは、きっとここだけかも。石巻も気仙沼もいわきも海に向かって祈ったに違いない)

 読経は上で延々と続いている。
 泣きはらした目をした遺族が山を下りてきた。ころあいを見て僕らも日和山にのぼる。
 日和山は石段三十段くらいの丘である。瓦礫の山の方がよっぽど高い。
 それでも上にあがると青い海が見えた。3月の海は青がひときわ鮮やかで綺麗。あの時もそうだったが、そのギャップが、僕らを戸惑わせている。
 
 あらためて合掌。

 それまで覚えていた町並みがすっかりない。
 うす茶色の荒地が広がっているだけ。だからその向こうの海が怖いくらい青く光って見えた。

 あー、まぶたがイタイ。
 多分、(初めての)花粉症なんだろうけど、なんで今日はこんな目にばっかり来るのかな。
 まるで今日に照準を合わせたかのように花粉症のピークが来た。
 もしかしてオレ泣いてるの?とか思ったけど、たぶん違う。
 というか、それは欺瞞でしょ。花粉症でないという証しがない限りは。

 帰りの道すがら、閖上中学校の前に流し灯篭(のようなもの)が並べられていた。
 ここも霊場である。生々しい悲劇がくりひろげられた場所でもあるのだから。

 このなつかしい港町がこれからどのようになってしまうのか・・・。
 残すのか、壊すのか。残るのか、去るのか・・・。
  
 朝市には時々顔を出しながら、ずうっと見守ってゆきたいと思う。

 
 
 
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