あの旋律は「亡き王女のためのパヴァーヌ」(ラヴェル)と言うのだそうだ。
某カローラの宣伝がいっぱい流れていたので、どうしてもあの旋律が頭から離れない。
もの悲しい曲調だからだろうか、鎮魂歌としてよく多用されるらしい。「野辺送り」の観がある。
石巻のことを書くのに、月日を要した。
「石巻」という特別な場所に行くのにも月日を要した。
甚大な被害の出た石巻
震災直後から交通障害が続き、連日の渋滞報道。
物資の応援はしたが、それがどれだけ行き渡っているのかも見当がつかない。
「商店街がやられたよ」
「萬画館も教会やられたよ」
「門脇小は・・・、大川小は・・・。」
これらの話は、大抵マスコミかボランティアに行った人たちがもたらした。
石巻に縁のある知人たちは、むしろ沈黙した。
たとえ家族が無事であっても、自分の育った街や港が流されたのだ、平気なはずがない。
僕らは、特に会うべき人が石巻にいたわけではない。けれど、それゆえに、石巻は気軽に行けるところではなくなった。
ただ、出来る範囲で支援物資を送り、それらが誰かの一日をほっとさせてくれるものであってほしいと祈った。
そうして月日が1年以上も経った。
きっかけはBELAちゃんだった。
「あのさあ、石巻行きたいんだけど」
「石巻?」
仕事のためいちど見に行っておきたい寺院跡があるという。
地図で調べると位置は容易に見つかる。けれど震災でどんな被害を受けたか分らない。ネットで調べると、やっぱり震災関連で色々なものを置いているらしい。
こういうところへいくと、地元の目が気になる。「コイヅら何サしに来たベ」と思うだろう。
自分がすこし臆病になっているのがわかる。
おそらく、行けばとても受け止めきれないものを見聞きするのだろう、そんなときに住み続けている人の目線や言葉はどれだけ鋭く重いのだろうか。
しばらくシブッてから10月15日に行くことを承諾した。
当日は、晴れ。やや風がある。
三陸自動車道を北上する。このごろやっと渋滞しないで通れるようになってきた。
それでも今度は道路の改修工事が始まるらしい。そうすると、夜間の通行はできなくなる。通勤でここを使っている人は大変だ。
三陸自動車道をそのまま東北へすすみ石巻河北で降りる。
そこから東進。まっすぐ北上川へ向かった。
頭の片隅で静かに旋律が流れていた。
「亡き王女のためにパヴァーヌ」だ。
大橋の手前で右折。
やけに静かな街をぬけていくと、突然川っぺりにどん、と出た。
目の前に中州と、石ノ森萬画館の銀色のドームがあった。
ほこりっぽい荒地に変わり果てた姿で潮風に吹かれている。
「パヴァーヌ」が頭の中いっぱいに流れ出す。
川沿いはどこも横穴のあいた住宅や、壊れた道路ばかり。そして、どこの被災地でも同じように、ひどく埃っぽい。おそらく多量に潮を含んでいることだろう。
自分がどこを走っているのか分らなくなる。
地図見たってわからない。目印なんか、川の中州と、西向こうの日和山だけ。
ぐるぐるまわって、ひとまず日和山の山頂に。
そこから北上川を見下ろした。
そこには埃っぽくて痛々しい、さっきの中州があった。
「パヴァーヌ」が何度も何度も流れている。
海はあんなにキレイなのに、あんなにやさしい光でキラキラしているのに、
どうして・・・。
山を降りて夜の街(だった)通りからメインストリートへ。
ここらは以前、怖くて一人では通れない雰囲気だった。地元でも顔の広いオニイチャンと仲良くならないかぎり連れて行ってもらえないようで・・・。
それがいっぺんに濁流に呑まれた。
いまとなっては、店舗の一つ一つが持ち主にとってタカラモノであっただろうと想像できる。一人一人にとって、やっとこ構えた大切なお店だったのではないだろうか。
それでも気丈な人たちは建物を補修し、ノボリを出して、営業中であることをアピールしている。
(強いなぁ)
駅前から左折。そのまま直進すると製紙工場があり、そこから海の方へ向かった。
先の信号機が点滅している。するととつぜん周囲ががらんとひらけ、海まで見渡せる広いところへ出た。
まっすぐ続く道路と、土台だけを残した住居の痕
手作りの祭壇と、そこで座り込んでいる人
風にばさばさ揺れるテント、焼け焦げた校舎
ここが門脇かぁ。
あれから、1年と7ヶ月が経過したと言うのに、ここはまるで時計が止まったかのようだ。ガレキが膨大すぎて、その撤去に多くの時間を費やしているからなのだろう。
この砂を噛むような時間を過ごしてきた人々のことを思うと、胸が痛くなる。
さっきから「パヴァーヌ」が鳴り止まない。
ぶしつけでごめん
何も出来なくてごめん
どうかこの無礼な見物人を許してほしい。
宮城に在住していて、いまの被災地を見ないことのほうがよっぽど無礼な気がしてならない。自分に何が出来るのか、見に来て感じるこの痛みを、どこかに伝えていくべきではないのか。災害の記憶が風化してしまわないように、支援者の関心が薄れてゆかないように。そして、昨日の僕のように被災地を見る勇気の持てない人にも、少しでも今のありさまを伝えるために・・・。
捜していた寺院の址は、結局、石碑数基を認めるだけに終わった。
「パヴァーヌ」は、その日一日中鳴り響いていた。
某カローラの宣伝がいっぱい流れていたので、どうしてもあの旋律が頭から離れない。
もの悲しい曲調だからだろうか、鎮魂歌としてよく多用されるらしい。「野辺送り」の観がある。
石巻のことを書くのに、月日を要した。
「石巻」という特別な場所に行くのにも月日を要した。
甚大な被害の出た石巻
震災直後から交通障害が続き、連日の渋滞報道。
物資の応援はしたが、それがどれだけ行き渡っているのかも見当がつかない。
「商店街がやられたよ」
「萬画館も教会やられたよ」
「門脇小は・・・、大川小は・・・。」
これらの話は、大抵マスコミかボランティアに行った人たちがもたらした。
石巻に縁のある知人たちは、むしろ沈黙した。
たとえ家族が無事であっても、自分の育った街や港が流されたのだ、平気なはずがない。
僕らは、特に会うべき人が石巻にいたわけではない。けれど、それゆえに、石巻は気軽に行けるところではなくなった。
ただ、出来る範囲で支援物資を送り、それらが誰かの一日をほっとさせてくれるものであってほしいと祈った。
そうして月日が1年以上も経った。
きっかけはBELAちゃんだった。
「あのさあ、石巻行きたいんだけど」
「石巻?」
仕事のためいちど見に行っておきたい寺院跡があるという。
地図で調べると位置は容易に見つかる。けれど震災でどんな被害を受けたか分らない。ネットで調べると、やっぱり震災関連で色々なものを置いているらしい。
こういうところへいくと、地元の目が気になる。「コイヅら何サしに来たベ」と思うだろう。
自分がすこし臆病になっているのがわかる。
おそらく、行けばとても受け止めきれないものを見聞きするのだろう、そんなときに住み続けている人の目線や言葉はどれだけ鋭く重いのだろうか。
しばらくシブッてから10月15日に行くことを承諾した。
当日は、晴れ。やや風がある。
三陸自動車道を北上する。このごろやっと渋滞しないで通れるようになってきた。
それでも今度は道路の改修工事が始まるらしい。そうすると、夜間の通行はできなくなる。通勤でここを使っている人は大変だ。
三陸自動車道をそのまま東北へすすみ石巻河北で降りる。
そこから東進。まっすぐ北上川へ向かった。
頭の片隅で静かに旋律が流れていた。
「亡き王女のためにパヴァーヌ」だ。
大橋の手前で右折。
やけに静かな街をぬけていくと、突然川っぺりにどん、と出た。
目の前に中州と、石ノ森萬画館の銀色のドームがあった。
ほこりっぽい荒地に変わり果てた姿で潮風に吹かれている。
「パヴァーヌ」が頭の中いっぱいに流れ出す。
川沿いはどこも横穴のあいた住宅や、壊れた道路ばかり。そして、どこの被災地でも同じように、ひどく埃っぽい。おそらく多量に潮を含んでいることだろう。
自分がどこを走っているのか分らなくなる。
地図見たってわからない。目印なんか、川の中州と、西向こうの日和山だけ。
ぐるぐるまわって、ひとまず日和山の山頂に。
そこから北上川を見下ろした。
そこには埃っぽくて痛々しい、さっきの中州があった。
「パヴァーヌ」が何度も何度も流れている。
海はあんなにキレイなのに、あんなにやさしい光でキラキラしているのに、
どうして・・・。
山を降りて夜の街(だった)通りからメインストリートへ。
ここらは以前、怖くて一人では通れない雰囲気だった。地元でも顔の広いオニイチャンと仲良くならないかぎり連れて行ってもらえないようで・・・。
それがいっぺんに濁流に呑まれた。
いまとなっては、店舗の一つ一つが持ち主にとってタカラモノであっただろうと想像できる。一人一人にとって、やっとこ構えた大切なお店だったのではないだろうか。
それでも気丈な人たちは建物を補修し、ノボリを出して、営業中であることをアピールしている。
(強いなぁ)
駅前から左折。そのまま直進すると製紙工場があり、そこから海の方へ向かった。
先の信号機が点滅している。するととつぜん周囲ががらんとひらけ、海まで見渡せる広いところへ出た。
まっすぐ続く道路と、土台だけを残した住居の痕
手作りの祭壇と、そこで座り込んでいる人
風にばさばさ揺れるテント、焼け焦げた校舎
ここが門脇かぁ。
あれから、1年と7ヶ月が経過したと言うのに、ここはまるで時計が止まったかのようだ。ガレキが膨大すぎて、その撤去に多くの時間を費やしているからなのだろう。
この砂を噛むような時間を過ごしてきた人々のことを思うと、胸が痛くなる。
さっきから「パヴァーヌ」が鳴り止まない。
ぶしつけでごめん
何も出来なくてごめん
どうかこの無礼な見物人を許してほしい。
宮城に在住していて、いまの被災地を見ないことのほうがよっぽど無礼な気がしてならない。自分に何が出来るのか、見に来て感じるこの痛みを、どこかに伝えていくべきではないのか。災害の記憶が風化してしまわないように、支援者の関心が薄れてゆかないように。そして、昨日の僕のように被災地を見る勇気の持てない人にも、少しでも今のありさまを伝えるために・・・。
捜していた寺院の址は、結局、石碑数基を認めるだけに終わった。
「パヴァーヌ」は、その日一日中鳴り響いていた。