放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

試論「100年の銀河鉄道」#7 最終論・幻想の天地にて

2025年01月11日 02時18分22秒 | 賢治さん
 ミヒャエル・エンデの代表作「はてしない物語」は幻想世界「ファンタージエン」を滅亡させようとする「虚無」との戦いのお話。
 また「いわゆるピーターパン」作品群では、妖精を信じないと消えてしまうと語るエピソードがある。どちらにも言えるのは「関心」という一種のエネルギーが自分に向けられることを要求しているということ。これが常に供給されていないと幻想世界やその住人たちは存在を維持できない、らしい。
 
 <坂の下に大きな一つの街燈が、青白く立派に光って立っていました。ジョバンニが、どんどん電燈の方へ下りて行きますと、いままでばけもののように、長くぼんやり、うしろへ引いていたジョバンニの影ぼうしは、だんだん濃く黒くはっきりなって、足をあげたり手を振ったり、ジョバンニの横の方へまわって来るのでした。
(ぼくは立派な機関車だ。ここは勾配だから速いぞ。ぼくはいまその電燈を通り越す。そうら、こんどはぼくの影法師はコムパスだ。あんなにくるっとまわって、前の方へ来た。)>(銀河鉄道の夜(最終形)より)

 空想癖の強いジョバンニは、機関車(初期形3では「軽便鉄道」とも)になり切ることで、どうも面白くならない自分の生活を紛らわそうとする。それこそが未知の世界への渇望であり、それこそが幻想四次元とよばれる空間を走る銀河鉄道を起動させることにつながった。本来であればそれは夢だから醒めれば消えてしまう。それっきり思い出さなければ二度と銀河鉄道が走ることはない。でもこれは物語として紡がれたものであり、仄青くすきとおった幻想性を愛する人が後を絶たない。「銀河鉄道の夜」は、1924年(推定)から書き溜められたまま賢治が没し、発表されることなく埋没の危機にあった。しかし遺族による保護と整理の甲斐あって世に出る事ができた。それから今日にいたるまで「関心」という暖かいエネルギーを供給され続けている奇跡的な作品となった。

 さて、「幻想」という特殊な天地で作品を展開してゆく上で、もっとも人の関心を引き付ける強力な手段がある。ある意味、反則技なのだけど、むしろ読む人を喜ばせる効果もある。それを簡単に説明するには「風の又三郎」が好都合だ。
 御存知の通り、「風の又三郎」は謎の転校生が主人公のお話だ。転校生の背後には、東北地方などで言い伝えられてきた風の子「又三郎(または風の三郎とも)伝説」の存在が影のように伺える構成になっている。いっぽう「風野又三郎」という草稿もあり、そちらは明らかに風の子(妖精か)又三郎として登場する。いわずもがな、これを改作したのが「風の又三郎」だろうと推察される。どこが改作されたかというと、人ならぬ者・又三郎を人間の転校生・高田三郎に置き換えたことだ。やはりどこか風の子の属性を帯びており、それについて肯定も否定もしない。そして風の強い日(二百二十日)に彼は去ってゆく。転校生の正体はついに明かされないまま、ただ強い風だけが校舎の曇ったガラス窓をがたがた鳴らすばかり。読み手は当然、消化不良な気分になって読了することになるだろう。でもその後についてあれこれ空想しはじめる。この瞬間、幻想世界は無限に拡大してゆく。登場人物について作者の責任において説明しないのはある意味では無責任である。でもその匙加減(説明の引き算?)は作品をイオン化し、読み手の興味と空想を強烈に吸い寄せる。読み手は空想を楽しむことで作品を多角的に味わうことができる。賢治が晩年に獲得した「引き算」の表現力といってよい。

 「銀河鉄道の夜」に話を戻そう。
 幻想四次元の鉄道について、その成り立ちを科学的に説明しない(最終形で削ぎ落とした)、駅で別れる人々の行方を説明しない、カムパネルラがどこへ行ったのか説明しない、などなど、絶妙な匙加減がこの物語にも見て取れる。ブルカニロ博士および黒い帽子のおとなを削除したのも同じ匙加減だったかもしれない。いずれも幻想の感度を高めようと工夫したのだろう。

< 「ひかりといふものは、ひとつのエネルギーだよ。お菓子や三角標も、みんないろいろに組みあげられたエネルギーが、またいろいろに組みあげられてできてゐる。だから規則さへさうならば、ひかりがお菓子になることもあるのだ。たゞおまへは、いままでそんな規則のことに居なかつただけだ。ここらはまるで約束がちがふからな。」 >(初期形三)

 これはジョバンニにどこからともなくセロのような声が聞こえて幻想四次元の世界を説明した部分。物理学的な表現で、知的好奇心をくすぐるような意図を感じる。しかしこの部分は最終形で削除されてしまった。理由は多分、ブルカニロ博士を排除したからだろう。それとともに、説明的な表現で物語の幻想性が濁るのを(というか、読みにくくなるのだろうか?)嫌ったのかもしれない。この引き算が正しいのか正しくないのか正直わからない。じっさいこれまでも校本や全集の編集に当たり、物語の質を問う議論や、物理的な推敲過程の調査などと共に、「引き算」への評価も俎上に上がってきた。現在は「最終稿」という暫定的な結論が出てはいるが、まだまだ議論されるべき作品だと思っている。

 小学5年の頃に出会ってから、今日に至るまで、あの本は常に手元にある。居所が替わっても、本棚の一番上に必ず鎮座している。もう表紙は折り目から擦り切れ、原型を留めていない。仕方なく表紙を自作し、そこに元表紙の紙片をはさんで保管している。
 日常の忙しさにかまけて普段は本棚に飾られている。けれど暑い季節が遠のき、乾いた秋風が吹くようになって空も遠くまですっきりと澄みわたる季節には、また本を手に取り、心の中の無人停車場に行って、いつまでも読みふけっていたくなる。読み続けることで、幻想四次元の住人たちは枯れることなく生き生きと活動し続けるだろう。いつかはジョバンニのその後の消息も知れるかもしれない。そして、この無人駅にも遠く遠く汽笛が届いて、線路を伝って列車の振動が少しづつ近づいてくるのを聴くのだろう。 (了)
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試論「100年の銀河鉄道」#6 プレシオスの鎖

2024年12月29日 01時56分21秒 | 賢治さん
 <「ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。
 だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。
 紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう。このときにはこうなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」
 そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消きえると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
「さあいいか。だからおまえの実験は、このきれぎれの考えのはじめから終わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない」>(新潮文庫「銀河鉄道の夜」昭和48年・第21刷より)

 黒い帽子のおとながジョバンニにこれから進むべき道を説くシーン。なかなか難解である。しかし最終形では「ばっさりと」削除されてしまった。
 黒い帽子のおとなは言う。今われわれが認識している地理・歴史というものが絶対普遍なものではないと。さらに言えば、天の川だって汽車だって歴史だってすべて概念・観念に過ぎず、時代とともに尺度や価値観が変わればどんどん変わってしまうということ。
 「これはこうだ」という一方的な考え方をせず、もしくは自分の損得や希望的観測を勘定に入れずに世の中は見なければならないということを、二千二百年前、一千年前を例にして(そのくらい時を隔てていなければ人は過去を客観的に見られないのだろう)ジョバンニに示した。それは膨大な知識を必要とし、さらに累積された知識を過去に遡って見るのではなく、時系列を横から俯瞰しなければならない、これは大変な作業である。
 「銀河鉄道の夜」が執筆された当時は、大正期末から昭和初期にあたる。「神武天皇即位」から数えて、二千五百年を超えている。「皇紀」という考え方だけで地歴を総括することも可能であり、実際多くの人がそれで思考停止していたと想像できる。その環境にあって、このように深い検証を大事に考える賢治の見識は稀有と言える。

 そのくらい気が遠くなるような検証や考察を経て、うそとまことを見分ける(ものごとの本質を見抜く)ようになって、初めて「みんなのまことの幸い」を見出すことができる、・・・ということなのだろうか。
 これは久遠の菩薩行であり、ジョバンニだけがその任を受けるのは不公平な気がする。それとも黒い帽子のおとなも既にその道の行者であり、共に歩むことを願っているのだろうか。または、ジョバンニが寝入った黒い丘は、実は彼の眠る終焉の地であり、土神となって彼に「行」を託しているのだろうか。

 「プレシオスの鎖」になぞらえた宿題を少年は与えられ、彼は現実の世界へと還ってゆく。この巨大な宿題に比べれば、自身の孤独は、ささいなことなのだ。
 なお、「プレシオス」については、浅学の輩にはどの天体(または星雲・星団)のことをさしているのか判らなかった。詳しい方のご教示を請いたい。
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試論「100年の銀河鉄道」#5 まことの完成形を求めて

2024年12月22日 00時16分03秒 | 賢治さん
 「銀河鉄道の夜」は幻想的文学の最高峰だと思う。
 幻想、と簡単に書いたが、「幻想」とは何かと問われても、うまく説明できない。
 「幻想」を言葉で定義しようとすると、たちまちそれは消え失せる。
 「幻想」に条件付けを試みると色褪せる。
 「幻想」とは掴みどころがないもの。「幻想」とは自由な空想のその先にあるもの。
 それでも文学において、幻想性には「感度(純度?)」のようなものがある。そして一定の感度を損なわずにいる幻想文学は魅力的である。感度と言ってしまえば、それは度合いの比較が可能ということにもなるわけで、「こうしたほうがいいんじゃないか」「こうすればもっと感度があがる」といった工夫の余地もあるということだ。
 「銀河鉄道の夜」は、ブルカニロ博士の不純なる実験のおかげでその幻想性が大きく損なわれてしまった。彼はある意味、「幻想」のダークサイドに居るのかもしれない。彼はネクロマンシー(屍人術)や降霊・口寄せの技術をもってジョバンニを騙した嫌疑をもかけられている。
それゆえ最終形において、博士および「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせたおとな」に関する文章は、ばっさりと削除された。でもそれはそれで幻想性が損なわれたままだ。いわば大きな傷跡がむき出しのまま、修復もされずに放置された観が、最終形には、ある。原作者の命が尽きたわけだから仕方がない話だが、これだけ多くの研究者たちが作品の構成について議論してきたのだから、ベストな完成形(仮)についても試論があって然るべきと考える。

 やはり銀河鉄道は、大人が意図したまがい物であってほしくない。少年たちと人知を超えた存在との共鳴が織りなす幻想四次元の奇跡であってほしい。
 張り裂けそうな不安と孤独を抱え、少年は夜の林の小道を駆け抜け、牧場のうしろの黒い丘に上って、どかどかするからだを冷たい草原に投げ出した。夜空には、しらしらと天の川が映る。
 同じ頃、街のケンタウル祭ではもう一人の少年が川で溺れた同級生を助けようとして水に呑まれた。黒い水面にもしらしらと天の川が映る。
 少年の声にならない叫び。孤独でちぎれそうな心の闇。いくつかの偶然が重なって、銀河ステーションはまるでダイヤモンド箱をひっくり返したように眩しく出現した。まるで以前から存在していたかのように、列車はごとごと走っていた。そこへあらゆる旅人(霊体)が集まってくる。灯台守や鳥を捕る人はときどきこの列車を利用しているのだろうか。タイタニック号の遭難者たちはどこで列車のことを知ったのだろうか。乗る人も降りる人も目的や考え方はさまざま。生業を成す人、天上を目指す人、巡礼、こういったプリズムのような出会いと別れが「幻想」の感度を無限に上げて、物語はますます透明になってゆく。銀河鉄道の物語は、そのようなものであってほしい。

 いっぽうで気になってしまうのは、ときどき聞こえるやさしいセロのような声。これはやはりブルカニロ博士なのだろうか。それともアバター?
 最終稿ではすっかり亡き者である。しかし正直勿体ない。
 「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせたおとな」(以下略して「黒い帽子のおとな」とする)の言葉がとてもすばらしいのだ。

<「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです。」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しょに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしよう。」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけあいけない。おまえは化学をならったろう。水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんとうにそうなんだから。
 けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる」>(新潮文庫「銀河鉄道の夜」昭和48年・第21刷より)

 「黒い帽子のおとな」は、初期形一~三において、やさしいセロのような声でさまざまにジョバンニたちに語りかける。彼は、「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた。」「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた。」と言われるくらいジョバンニやカムパネルラにとって馴染まれている存在となっている。このあたり、いかにも夢の世界らしい勝手すぎる設定なんだけど、彼がファシリテーターとして物語に寄り添っていることで、銀河鉄道はごとごとと走り続けているようにも思う。

<そのときまっくらな地平線の向こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ」
 ジョバンニは唇を噛んで、そのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしにほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決っしておまえはなくしてはいけない」>(新潮文庫「銀河鉄道の夜」昭和48年・第21刷より)

 ここが物語の最高潮ではないだろうか。このくだりを踏まえてのち、夢から醒めたジョバンニが牧場でおっかさんの牛乳を受け取り、帰路、川辺で「こどもが水へ落ちたんですよ」と聞かされるラストにたどり着く。夢の世界から現実の悲劇への暗転。最後のシーンがこれで際立ってくる。だから読後感がまるで違う。
 ブルカニロ博士の削除(追放)には賛成する。だが「黒い帽子のおとな」は復活させてほしい。最終形には彼が入る接続点が当然ながら残されているわけで、そこに挿入して物語が壊れることはない。「黒い帽子のおとな」の復活は可能だと思う。これをもって「銀河鉄道の夜」の完成形(仮)と言えはしまいか。
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試論「100年の銀河鉄道」#4<ブルカニロ博士の犯罪>

2024年12月14日 02時42分33秒 | 賢治さん
 当時にも「エイリアス」または「アバター」という概念があったのだろうか。
 そのように思ってしまう登場人物が、物語に、いる。
 その人物は、初期形には存在しているが、最終形ではブロカニロ博士とともに忽然と消滅している。
 セロのような声。
  銀河鉄道のすべてを知っている。
   黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせたおとな。
  大きな一冊の本をもっている。
 その本は、あらゆる時代の人々が考えていた地理と歴史のことが載っている辞典。

 その人は名前を持っていない。ただ上記の通り形容されているだけ。
 夢の中でだけ登場する。はじめは銀河鉄道について声だけで話をする。カムパネルラが去ったあと、その席にいつの間にか座っていて、これから大人になって激しい時代を大股でわたってゆかなければならないとジョバンニを諭す。
 この人は最終形の推敲においてブロカニロ博士とともに削除されているから、博士と同一人物または博士と同一の役割をもっていると推察できる。しかし彼は初期形におけるストーリーテラーであり、ファシリテーターでもある。その発言の重要さはブロカニロ博士の比ではない。一緒に削除する必要性について賢治に再考を促したいほどだ。
 いっぽうブロカニロ博士が削除された理由は明快だと言ってもいい。

 博士は罪を犯した。その決定的な発言は以下のとおりである。

「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。」(初期形三)

 これは、ジョバンニが銀河鉄道の夢から醒めた時に博士が声をかけてきたときの様子である。
 実験とはなんのことだろう?

 物語という限られた設定の中で考えるならば、それはジョバンニを催眠誘導し、夢という劇場型空間において博士の考えを理解できるよう体験させることではなかろうか。
 夢は#2でも述べた通り、ひどく無責任なものだ。
 夢で見たものは体験したに等しく、しかもどんなに荒唐無稽でも、すんなり受け入れてしまう。夢は一方的で支配的なのだ。これを自分の思考を伝える実験の手段にしてしまうとは、何と傲慢なことか。
 こういうのを何というのだろう。「催眠術」、「刷り込み」、「劇場型の洗脳」・・・。
 やや無責任な形容を羅列したが、とにかく褒められたものではない。
 博士は夢から醒めたジョバンニに、小さく折りたたんだ切符に金貨を2枚包んで返している(初期形三)。これがなんだかひどく嫌だ。実験に付き合わせた謝礼なのか。

 さてジョバンニの夢体験がブロカニロ博士の実験ということになれば、「銀河鉄道」という壮大かつ幻想的な舞台装置も、登場する人々も、カムパネルラでさえ、すべて博士の手のひらの中で作り出された偽世界ということなのだろうか(これについて、博士がネクロマンシー術を使った疑惑も浮上してくる)。その結果ジョバンニが辿り着いた「すべての人のまことの幸い」も、博士が仕組んだ答えということなのか。こうなると「銀河鉄道の夜」は、「幻想」が聞いて呆れるとんでもない駄作ということになってしまう。
 ブルカニロ博士の思考はおそらく良心に満ち満ちているのだろう。しかし伝達方法には問題がある。こんな傲慢な方法は実験とは言わない。そしてあの発言は致命的だ。
 賢治はおそらく、そのことに気づき、瞋(いか)りと羞恥に苛まれながら原稿にバツを入れたのではないだろうか。
 こうしてブロカニロ博士はその罪ゆえに物語から追放されたのである。
 しかし、これだけでは作品の完成からは遠いように思う。
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試論「100年の銀河鉄道」3<無為の幸福論>

2024年12月07日 02時01分53秒 | 賢治さん
 本文に出てくる「まことのみんなの幸(さいわい)」とは何なのか、何度も書いてみるが、どうも手が止まる。あんまり漠然としていて、掴みようがなさ過ぎる。
 おそらく賢治も「まことのみんなの幸(さいわい)」とは何なのか、答えを見つけることなかっただろう(または見つけても見失うことを繰り返したのではないか)。「銀河鉄道の夜」最終形を読んでも、ジョバンニもカムパネルラも、そして大型客船で遭難した姉弟を連れた青年も、誰一人確固たる自信をもってそれが何なのか語ってはいない。もしくは統一した答えを打ち出せなかったか。

- 「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。 ―
・・・
― 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
 燈台守がなぐさめていました。 ―
・・・
― 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。 ―
(引用文はいずれも「銀河鉄道の夜」最終形)

 かつて賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(農民藝術概論綱要)」と断じた。これに比べ、「銀河鉄道の夜」では「幸」について疑問形で話すことが多い。明らかにトーンが落ちている。これはなんとしたことだろうか。

 「銀河鉄道の夜」を読んで、小学生だった自分もジョバンニと同じように「まことのみんなの幸」を意識した。あれから45年以上経つが、いまだにそんなものを見たことがない。そもそも「まことのみんなの幸」って何だ。そんなものが本当にあるのだろうか。
 幸せというものは、人によってその形が違う。時はうつろい人の心もうつろう。そして価値観の多様性に気づかされてばかりいる昨今、個々の幸せはひとつとして同じものがない。さらに言えば、幸福は不幸と表裏一体で分離不可。だから他者に人の幸福なんぞ解るはずがない。
 幸福と不幸が表裏一体、分離不可であるのと同じく、厚意と傲慢(押し付け)もまた表裏一体、分離不可である。「良かれ・悪しかれ」は受け取り方次第。他者が勝手に決めつけるわけにはいかない。
 結局、人間ひとりの決意で何ができるというのか。まことの(真実の)みんなの(全人類の)幸(恒久的幸福)を実現することは到底不可能だし、ともすれば我々はみんな等しく幸せを追求すれども(まだ)叶っていないと嘆く日々を何千年、何万年、永劫に続けているではないか。これは「業(ごう)」である。
 「業」に挑み、なんども弾かれた経験をした賢治は元・教え子あてに書簡で自身の慢心を述懐しているが、それは多くの研究成果があるので、そちらに委ねたい。
 ここで別のことに注目したい。

 ジョバンニは、「ほんとうの幸」は一体何かわからないというのに、それを求めることに少しも迷っていないのだ。
 彼だけではなく、登場人物たちはみんな「ほんとうの幸」が何か解明できていないのに、誰一人として迷いを口にする者はいない。

 誰しもこんな経験はないだろうか。
 周囲に異変を感じて、とっさに身体が動いてしまうような。
 誰かを支えようとして思わず手を伸ばしてしまうような、そんな経験はないだろうか。難しいことを考えるまでもなく、良かれとも思う暇すらなく。
 こういう行動が、一定の割合で誰かの幸いに結びつくならば、それは蠍の火と同じだ。その時がきたら惜しまず行動しよう、という覚悟(いや態度か)を晩年の手帳に書かれた詩篇「雨ニモマケズ」にも見ることができる。
 こんな手でよかったら使ってください。この身でよかったら使ってください。自己犠牲とか、デクノボーとか、よくわかりません。ただ、この手が利くなら有効に使いたい。手がなくとも、この身が現存するならば、何かの足しにはならないだろうか。消耗品には消耗品の扱われ方というものがある。それが正しい扱われ方ならば、身が削れてゆくこともきっと正しいことなのだ、という「無為」の心地、いや「覚悟」というべきか。
 ジョバンニは、「別れ」ばかりが繰り返される銀河鉄道で、この「覚悟」を授かり培った。登場人物たちは、望むと望まざるとに拘らず、だれもが消耗品のように消え去る。しかしそこに醜さや惨めさはない。ただ不思議と明るくさっぱりとその役割を尽くして消えてゆく。これを無常とよぶ。
 実は誰でも、偉業や革命または大それたことをした人でも、広大な銀河にあっては無常の風に吹かれゆくひと粒の消耗品にすぎない。
 傲慢も偽善も無常。
 善意も嫉妬も無常。
 ほんとうのさいわいも無常の彼方にある。そう思えてならない。

 「銀河鉄道の夜」が書かれてからずいぶん時が経った。
 大きくなったジョバンニは、ザネリは、
その生涯の最期においてもほんとうの幸せを探し続けていただろうか。
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試論「100年の銀河鉄道」 #2<嫉妬からの幸福論>

2024年11月30日 15時59分51秒 | 賢治さん
 「銀河鉄道の夜」は、いうなれば「ある少年が見た夢の話」である。
 ジョバンニ少年のとてつもない想像力が創りだした(あくまでも最終形において=それは神秘的な宇宙や、大好きな鉄道への憧れをぎゅっと詰め込んだ)、「飛躍的」な夢である。

 ・・・つくづく思う。
 夢って、なんと無責任で人騒がせな現象なんだろう。
 ・・・常識では考えられないような状況に陥ったり、自分がそんなことをするだろうかという驚きの行動をしてしまったり、しかもその場なりの必然性、構築性がしっかり確保されていて、最後はいつも唐突な終わり方をする。

 どこからそんな設定が出てくる?と、目が覚めてから自問するが、なにもかも夢の中に置いてきてしまって思い出せない。夢が展開するときにはもう自分をとりまく設定がすっかり出来上がっていて、それに疑問ぬきで従っている。突然破れるように目が覚めて、初めて夢だったことに気がつく。夢を夢だと認識しながら見ていることはまず無い(まれに、ある、けど)。

 ジョバンニという少年は、銀河ステーション、銀河ステーションという声とともに列車の座席に座っている自分を知覚する。その時、ここどこだ、とはならない。なんでこんなところにいるんだ、とパニックになることもない。濡れたような少年の肩を見ながら落ち着いて座っている。そしてそれが誰だかすっかり判っている。
 カムパネルラ(旧仮名のほうが現行「カンパネルラ」より自分は馴染が深い。)という少年は、そこではジョバンニの親しい友だちという事になっている。だがジョバンニがそう信じ込んでいても、実際そのとおりかどうかはわからない。むしろザネリやカトウといった子供たちと遊ぶことのほうが多い子なのかもしれない。またはかつてジョバンニと親しかったけれど交友関係が移ろう時期がきて疎遠になっているのかもしれない。でもジョバンニのなかでカムパネルラは、自分のことをほんとうに解ってくれる親友なのである。これも夢のなせる飛躍であろう。カムパネルラに対する感情は、少し執着的な感じがする。これこそが「銀河鉄道の夜」の主題へと主人公を導く大事な設定だったと思っている。

 「銀河鉄道の夜 初期形一」は主題を簡潔にまとめた試作版であった。
 それはジョバンニの「嫉妬」を描くところから始まる。カムパネルラが同席した女の子たちと楽しそうに話している。その横でジョバンニはそっぽを向いてひたすら孤独に耐えている。
 『カムパネルラ、僕もう行つちまふぞ。僕なんか鯨だつて見たことないや』
 それは気後れて会話に乗れなかっただけかもしれない。女の子たちだってジョバンニを避けていたわけではない。ただ、カムパネルラが驚くほどスマートに女の子たちと溶け込んでしまい、ジョバンニは急に自分だけ取り残されたような気持ちになってしまったのだ。だれでもちょっとは経験のある嫉妬。それは親友に対する独占欲であり、裏返せば「そっちじゃなくて、こっちを見て」いてほしいという欲求でもある。ましてやジョバンニはいま同級生と上手くやれず孤独の只中にいる。人に言えば笑われてしまうような恥ずかしい感情を、宮澤賢治という人はよくもここまで正直に表すものだと、子供ながらに感心したことを覚えている。
(このあとジョバンニの心持ちがだんだん晴れてゆく描写が、とても丁寧で美しい)

 女の子たちの話は、やがて「蠍の火」へと移行する。
 サソリはあるときイタチに追われ、井戸へと転落する。サソリは虫などを捕食する肉食動物。イタチもまた肉食動物だからサソリを捕食しようとしたのだ。
 井戸で溺れかけたサソリは自身を悔いて言う。
 「あゝ、わたしはいままでいくつのものの命をとつたかわからない、(中略)どうしてわたしはわたしのからだをだまつていたちに呉れてやらなかつたらう。そしたらいたちも一日生きのびたらうに。どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸のために私のからだをおつかひ下さい。」
 物語(初期形一)の終盤、「まことのみんなの幸(幸い)」ってなんだろう、とジョバンニとカムパネルラは話し合う。女の子たちとはすでにサザンクロス駅(=天上)で別れていた。
 カムパネルラに対する独占欲とも言える嫉妬に陥っていたジョバンニが「まことのみんなの幸」を口にするまでの成長。これが「銀河鉄道の夜」の主題だろう。
 そしてそれは、親友との別れによって一層深い想いになってゆく。
 やっと二人きりになれたのに、これから「まことのみんなの幸」についていっぱい話したいことがあったのに、カムパネルラはそこにはもういなかった。眼の前の座席はただ黒いびろうどばかり光っているだけ。
 この時『ジョバンニ、カムパネルラの死に遭ふ』の筋書きは、すでにあったのではないか。おそらく初期形から最終形までに混在するあらゆるエピソードは、最初から賢治の中にあったのではないか。
 ジョバンニの心の視野が広く開拓されてゆく過程を主題としつつ、それを促すためのエピソードを、取ったりくっつけたりしたのが初期形から最終形への推移ではないか。
 
 これは道徳的な物語であり、明らかに自分より若い世代への普遍的なメッセージを残そうとしている。だから原作者の私事情などというものは、完全に浄化されてから執筆されていると考えてよいと思う。
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試論「100年の銀河鉄道」#1<幻の未分類版>

2024年11月22日 00時39分06秒 | 賢治さん
 その本と出会ったのは小学校5年生のときだった。
 新潮文庫の「銀河鉄道の夜」。
 表紙は加山又造。深い藍色の宇宙に銀色の鉄道が描かれている。
 おそらく、それ以後に読んだ「銀河鉄道の夜」と違い、一番中身が濃い本だった。
宮澤賢治の代表作として「銀河鉄道の夜」を世に広めたのは、当時の解釈に基づいたこの本ではなかったか。

 <午后の教室>、
  <活版印刷所>、
   <おっかさんの牛乳>、
    <ケンタウル祭り>
     <銀河ステーション>
      <鳥獲り>
       <ジョバンニの切符>
        <青年とふたりの姉弟、さそりの火>
         <カムパネルラと石炭袋>
          <ブルカニロ博士>
           <カムパネルラの死>。

 おや、と思った人がいるかもしれない。ブルカニロ博士、って誰?
 現在出版されている「銀河鉄道の夜」にはブルカニロ博士という人物は登場しない。
 僕が最初に出会った「銀河鉄道の夜」は、現在出版されている「銀河鉄道の夜」とは違う。言うなれば「未分類版」。
 
 1924年ころから執筆されはじめたと推測されている「銀河鉄道の夜」。
 だが賢治が死の間際まで推敲をかさね続け、ついに完成することはなかった。賢治は他の原稿とともにこれらを令弟・清六氏に託し、この世を去った(1933.9.21、享年37)。
 その後花巻空襲があり、燃えさかる蔵からやっと持ち出せた兄の遺品は、焦げたトランクひとつ。「銀河鉄道の夜」推敲原稿もそこにあった。

 原稿は夥しい書き込み(推敲痕)でいっぱい(一部は焼失または減失)。素人目にはどの順番で加筆されていったのかわからない。推敲痕を整理するために、原稿用紙がいつ・どこで買われたものなのか、また推敲に使われた鉛筆またはインクがどういう順番で使用されているのか、長い長い時間をかけて丹念に調査された。
 初出版の文圃堂版全集(1934年)では「銀河鉄道の夜」は未完成作品とされ、どの書き込みが最終的なものなのか未分類のまま収録されている。
 これを底本として岩波文庫、新潮文庫から本作が出版されている(昭和36(1961)年)。
 さらに昭和43(1968)年、岩波文庫、新潮文庫は「銀河鉄道の夜」について独自とも言える改訂を行った。もちろん、最初の原稿整理者、令弟・清六氏を交えた検討の結果である。
自分が初めて手にした「銀河鉄道の夜」はこれだ。
その表紙の絵の美しさとともに、紡ぎ出される幻想世界の絢爛さ、無限大の想像力に圧倒されて、いつしか僕の心に、「幻想」という概念が生まれた。そして「幻想」の荒野には、銀河鉄道の名もなき無人駅舎がぽつんとひとつ、できた。

 賢治による「銀河鉄道の夜」の推敲痕は、その後の研究で初期形一~三と名付けられ、それとは別に所謂「異稿」が分類された。異稿はそれまでの記述を大幅に削除しており、初期形三までとはその内容が大きく異なる。現在「異稿」は「最終形(第四稿)」(1974年 筑摩書房版全集(校本)) と位置づけられている。
 以後、新潮文庫も校本、つまり最終形「銀河鉄道の夜」を「新編」として出版している。それ以前に出版された未分類版は今や「幻の銀河鉄道の夜」となった。未分類稿はブルカニロ博士も親友の死もどちらも入っており、「いいとこ取り稿」といってもよい。これが幻となるのは惜しい、と正直思う。でもこれが賢治の意図に沿うものかどうかは知る術もない。一方で最終形が決定稿であるとは誰にも断言できない。むしろ多くの人が指摘するように未完成、つまりまだまだ改稿の余地があったのではないかと個人的にも思う。

 「銀河鉄道の夜」において、主題を主人公ジョバンニの心の成長に置こうとしていたことは明白である。親友との決別や妹の死などを掘り下げて、作品への反映度として推し量る研究が多くあるが、それらは一旦整理され・浄化された上で物語は構築されていると思いたい。「みんなのほんとうの幸」という、人類史上もっとも難しい課題を提言しているからである。そもそも、今になってこれほどまでに賢治の私的な部分が執拗にほじくり返されるのは何故だろうか。宗教のことはさておき、友人達に対する感情または妹への愛、さらには交流のあった女性にいたるまで、時には同性愛めいた、またはシスコンめいた推測までされている。しかし彼には世間の耳目をあつめるような醜聞があったわけでもなく、背任行為があったわけでもない。ただ真面目に、農民を想い、行者として生き、早逝した献身の詩人である。そんなにイジくらなくても・・・と思ってしまう。
 いや、詩歌・詩篇などには心情や心理、立場が色濃く織り込まれることがあり、それをよく理解するために原作者の私事情を掘り下げることはあるかもしれない。では児童文学など少年少女を読者として想定している物語ではどうだろう。原作者の私事情を露わにすることで作品を解説するような事例はあるのだろうか。

 話題が逸れた。
 「銀河鉄道の夜」において推測される賢治の意図はただひとつである。
 不安定な家庭環境(父親の不在=密漁と暴力沙汰や拿捕説まである!、母親は貧困と心労で病を得る)と、それゆえに同年齢の子どもたちとも上手くいかなくなっている孤独な主人公ジョバンニが、日常とは違う幻想四次元の世界に飛ばされる。孤独感に苛まれている彼だったが、そこで出会う人々の言葉や体験から次第に「みんなのほんとうの幸(さいわい)」について考えるようになる。自分のではなく、友の、誰かの、みんなの。
 そんな物語なのだから、もう作家の私生活を暴いて、作品の背後に並べるようなことはそろそろやめたらいいのではないか。
 むしろこのように利己を柵を乗り越えて、「みんなのほんとうの幸」を追求するようになった、そのような視点を、賢治はいつごろ、どこで獲得したのだろう。そこからジョバンニの決意に至るまで、どのような軌道を描いていたのか。そういった研究成果をいまこそ読みたい。
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80年後の賢治

2013年03月21日 01時32分28秒 | 賢治さん
NHKでしばらくこういうタイトルの番組をやっていましてね。
ちょっとヒネたことでも書いてやろうかと思ったんですが、思いのほか良かったんですよ。なんか。

宮沢賢治の文学を、ただ「幻想」とか、「挽歌」とかいう目で見ているのは、偏っているのではないかと思っていたんですがね、
ここのところが、わりかし、さっくりと切り替えてあったので、見ていて新鮮だったんです。

「注文の多い料理店」なんか、現代風にやってしまえば、そりゃバリバリと山猫に喰われちゃう話になるわけで。
「月夜のでんしんばしら」がいきなりハイテンションで行進していたっていいわけですよ。
それも現代風な「いきなり」感で。

最後の「銀河鉄道の夜」は役者と脚本がよかったけど、ここは却って斬新な映像を用意する方が難しい。
いままで散々クリエイター達が挑んできていますからね。

それならちゃんと「石炭袋」をリアルに描くべきだったし、月夜に列車が霧散するのではなく、マゼラン星雲をバックに散ってほしかった。

賢治さんについては、好きな人が、みんなそれぞれのイメージを持ちすぎていますからね、それに付き合うってのも大変なことでしょ。
おもしろく観させていただきました。
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