放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

「妙好人」と「売茶翁」

2008年03月30日 01時50分21秒 | Weblog
 古本屋で、偶然、欲しかった本を見つけた。
 鈴木大拙・著「妙好人」と福山暁菴・編纂訓註「売茶翁」の二冊。
 即・購入。その日から二冊を同時に読み始めた。

 妙好人とは、生活の中に信仰が深く浸透しており、感謝、歓喜と懺悔の念を表現し続けて生きた人のこと。かつてはろくに字を教えてもらえなかった人に多く、それゆえたどたとしい文字で書いた書籍が多く残っている。しかし、その内容は「無分別の智」ともいうべき深い悟りの境地にあって、迷いを知らぬという。
 妙好人は主に浄土真宗系の人に多いが、そもそも「妙好」とは、「妙法蓮華(プンダリーカ)」の意。「汚泥の中にあって清く咲く蓮の花のよう」という賛称で、仏教のどの宗派でも使える名であろう。
 たとえば、宮沢賢治のデクノボウ精神はまさに汚泥の中の白蓮の如き清潔感を漂わせてはいまいか。

 「売茶翁」(1675-1763)は、肥前(佐賀県)の出身。初め黄檗僧となるが、61歳の時に寺を出て京の東山や清水寺のあたりで煎茶を売る生活を始める。一日に暮らせるほどの銭が集まれば、さっさと店をたたんでしまう暮らし振りで、時には銭を得られず物乞いをすることもあったらしい。高齢となり、茶を売って暮らせなくなった時、愛用の茶道具を焼却し、以後は揮毫により生計を立てる。死に臨んでは、遺骸を荼毘・粉骨して川に流すよう遺言したという。

 「妙好人」は他力宗(特に浄土真宗)の「清風」ともいえる存在、かたや「売茶翁」も自力宗(特に黄檗宗)でこれまた「清風」と膾炙される存在。
 売茶翁は茶聖とも呼ばれ、煎茶のお稽古をなさる方で売茶翁を好きな人は実に多い。だがそもそも、日本人は「妙好人」とか「売茶翁」とかこういう人たちが好きなんじゃないだろうか。

 日本人では「おかげさま」「もったいない」などの思考が好まれる。いずれもなかなか外国語にし難い思考(または言葉)である(最近「モッタイナーイ!」と叫ぶガイジンさんがいるけど・・・)。こういう思考を生活のすみずみまで染み込ませているのが「妙好人」ではないか。妙好人こそが「おかげさま」「もったいない」の祖系といってもいい。
 また一方で日本人には「いさぎよい」という思考も好まれる(これも外国語でどう表現するんだかねぇ・・・)。これは「確執」「欲」などを棄てる勇気を賛える思考。ものごとにこだわらない生き方こそが「自由」であり、これが日本人独特の清潔感(観)である。
 妙好人はこの心境を「悪の根を切られた」と表現する。他力宗は「切られた」と表現するが、自力宗では「棄てる」「毀(こわ)す」である。それを生涯かけて実践したのが売茶翁というわけ。
 僧籍を棄て、茶器を棄て、我が身を棄てた。我が身を棄てたは言い過ぎかもしれないけど、己のよりどころ、甘えどころをばっさりと切り棄てる。甘えどころをそのままにしておくのは怠惰と思考停止を招く悪そのものだからである。そう、売茶翁は僧籍を棄ててまで禅者の如く生きたのだ。甘えを断ち切る「いさぎよさ」は、「清貧」という形容を呼び、やはり、どこか妙好人と通ずる清潔感がある。

 日本はすっかり汚泥に埋没したような国になってしまった。
 それから逃れようとして宗教にすがる人たちがいる。その人たちの受け皿のごとくに新しい宗教もどんどん増えてゆくのだろう。それではたして逃れられるのだろうか。さらに弱いものへと抑圧が片寄ってきていないだろうか。ああ、なにが本当に正しいのか僕にはわからない。空には透明な溜め息だけが昇ってゆく。はたして今日(こんにち)、宗教というものが健全に機能しているのだろうか。かつての日本のように、人々に清潔感ある生き方を提案できているのだろうか。

 二冊の古本を読みながら、こんなことを考えている。 
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みちあむ春秋

2008年03月21日 01時31分29秒 | Weblog
仙台市では昨年、斉藤報恩会の資料館が閉館。また、こども宇宙館も(一時)閉館した。
こども宇宙館は錦が丘に新しく出来る天文台に統合されるのだろう。
いずれにしても、今現在、子供を連れて遊べるところが一つまた一つと減ったことになる。

とか言っていたら、今度は国土交通省の「みちあむ」が閉館となった。
道路特定財源の使い道について国会では騒がしいようだが、そのとばっちりがなぜかこんな小さな資料館にまで及んだようだ。

河北新報でも、「天下り」「無駄な経費」と手厳しい。

が、「みちあむ」はなぜそんなに憎まれなければならないのか、さっぱりわからない。

道路資料館「みちあむ」は、道路状況について豊富な資料を展示し、道路の維持管理にどれだけ多くの人が労を供し、また工夫がされているかを市民に知らせていた。一方で、郷土史家・高倉先生や故・菅原雪枝先生のご鞭撻により「歴史街道」の研究も盛んであった。
そして子供たちにも安心して遊べる憩いの場でもあった。

これは健全で文化的な社会資源ではなかったか?
少なくともその検証をメディアは正しく酌量したのだろうか?
政治家(ぶっちゃけ民主党のこと)に迎合した記事を書いて民意を汲んだつもりになってはいまいか?

先月、河北新報の「みちあむ」批判記事はかなり強引であった。
そして昨日、同紙面の「河北春秋」では、「みちあむ」閉館のことに触れ「情けないの一言」と言下した。どこが情けないのだ。

地元誌は、中央の論に流されず、むしろ、仙台市内で科学的・社会的資料館が相次いで閉館している事実を憂いてほしかった。これは文化的な後退であり、早い再開を待ち望んでいる市民は確かに存在しているのだ。

仙台市は大都市であるにもかかわらず、文化的施設に乏しい。
(ナンチャッテ施設も確かにあるし。)
子供が感動できる演劇もない。イベントも子供だましばかり。恐竜の首がうごいて吠えたところで科学的探究心が育つとはだれも信じていないでしょ。

市民の木鐸たるメディアがこれに気がつかないのならば、仙台に文化は育つはずがない。




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「COZY」という肖像

2008年03月17日 01時42分45秒 | Weblog
 以前地域限定のあるサイトにお邪魔していたが、余所者には居づらいところだったので「暇乞いの礼」を尽くして退所した。ところが同サイトのメンバーさんが、僕の職場の関係者に「COZY」という名をバラしてしまった。
 「僕の職場の関係者」=正確には、施設利用者のご家族。

 翌日、その利用者さんがいきなり僕のところに来て、
 「事務員さん、あんたのハンドルネームって「COZY」っていうんだって?」
 とのたまった。
 びっくりしたが、気に留めないフリをして、「誰が言っていたの?」と聞いてみた。
 その利用者さんは、心の成熟が遅れがちで、個人の情報をあれこれとしつこく訊きたがる。さらに聞き出した話をしゃべって回るという、ちょっと厄介な特徴がある。偶然でも知り得た情報を胸の奥に仕舞っておくなどという気の利かせ方は、まず期待できないのだ。
 いつもの調子でしゃべり出した利用者さんの話では、
 「ウチにも来たことのある民生委員さんが、施設の事務員さんのことを「COZYさん」と呼んでいて、地域限定サイトのオフ会で出会ったっていっていたよ」とのこと。

 福祉施設の利用者と職員の微妙で緊張感ある関係がおわかりいただけるだろうか?
 利用者は自分に適したサービスを施設に求め、職員はサービスの提供に努める。
 だが、サービスの提供とは生活指導や職業指導である場合も少なくない(もちろん、すべて契約に基づいている)。
 この関係は、小学校の児童と担任の先生の距離感に似ている。

 いうなれば、ここでの問題点は、小学校の児童に、「キミの担任は、夜に別名でバイトしているんだよ」と近所の誰かがバラしたようなもの。

 教師のバイトなら背任行為だが、僕の場合、インターネットで金儲けしているわけでもなんでもない。ただエチケットを守りつつ、つれづれに日常を綴っているだけ。利用者は知らなくてよい情報なのだ。だからむしろ背任行為(背信行為)はバラした近所の誰かさんである。僕のハンドルネームを知る利用者が他の利用者に話すなどして、僕が地域限定サイトに書き込んでいたレスに辿り付く人が出てくるかもしれない。これからもそうだが、現実の「僕」を知る人が不特定で存在する中で、果して「COZY」の願うとおり外見とか年齢とかも超越して自由奔放に書き綴ることができようか。また現実世界において、利用者から「あんた、こんなこと書いていたんだ」と突きつけられるようでは、仕事がやり難くて仕様がないではないか。

 ご近所の誰かさんにはエチケットとしての「守秘義務」があったのではないか。それも民生委員ともなればなおさらである。さらにいうなれば、ご近所の誰かさんは聞くところによれば僕と同業者である。同業者だったらば、施設における利用者と職員の微妙な関係は理解できるはずである。あなたの罪は三重に重いのだ。

 その日のうちに、地域限定サイトに行き(行きたくなかったが)、その人をハンドルネーム名指しで抗議した(書きたくなかったが)。
 
 いちおう詫びのREは返ってきたが、それでも「そんなに悪かったかな?」程度の文章。
 はっきり言ってがっかりした。

 「プライバシー侵害」というだけでも問題だが、その他に上記の三重の罪がある。どうやったら解ってもらえるのだろうか・・・。いやいや解ってもらうのは無理なのかもしれない。
 施設内での善後策といえば、すらっとぼけることである。下手にリアクションを取れば、ますます利用者の関心を深めてしまう。そうなれば、いずれこの「放菴」もアブない。いつか利用者の関心が別の方へ行き、「COZY」の名を忘れる日を待つしかない。  

 あんたの「詫び」なんて、クソの役にもたたねーよ! 
 
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