古本屋で、偶然、欲しかった本を見つけた。
鈴木大拙・著「妙好人」と福山暁菴・編纂訓註「売茶翁」の二冊。
即・購入。その日から二冊を同時に読み始めた。
妙好人とは、生活の中に信仰が深く浸透しており、感謝、歓喜と懺悔の念を表現し続けて生きた人のこと。かつてはろくに字を教えてもらえなかった人に多く、それゆえたどたとしい文字で書いた書籍が多く残っている。しかし、その内容は「無分別の智」ともいうべき深い悟りの境地にあって、迷いを知らぬという。
妙好人は主に浄土真宗系の人に多いが、そもそも「妙好」とは、「妙法蓮華(プンダリーカ)」の意。「汚泥の中にあって清く咲く蓮の花のよう」という賛称で、仏教のどの宗派でも使える名であろう。
たとえば、宮沢賢治のデクノボウ精神はまさに汚泥の中の白蓮の如き清潔感を漂わせてはいまいか。
「売茶翁」(1675-1763)は、肥前(佐賀県)の出身。初め黄檗僧となるが、61歳の時に寺を出て京の東山や清水寺のあたりで煎茶を売る生活を始める。一日に暮らせるほどの銭が集まれば、さっさと店をたたんでしまう暮らし振りで、時には銭を得られず物乞いをすることもあったらしい。高齢となり、茶を売って暮らせなくなった時、愛用の茶道具を焼却し、以後は揮毫により生計を立てる。死に臨んでは、遺骸を荼毘・粉骨して川に流すよう遺言したという。
「妙好人」は他力宗(特に浄土真宗)の「清風」ともいえる存在、かたや「売茶翁」も自力宗(特に黄檗宗)でこれまた「清風」と膾炙される存在。
売茶翁は茶聖とも呼ばれ、煎茶のお稽古をなさる方で売茶翁を好きな人は実に多い。だがそもそも、日本人は「妙好人」とか「売茶翁」とかこういう人たちが好きなんじゃないだろうか。
日本人では「おかげさま」「もったいない」などの思考が好まれる。いずれもなかなか外国語にし難い思考(または言葉)である(最近「モッタイナーイ!」と叫ぶガイジンさんがいるけど・・・)。こういう思考を生活のすみずみまで染み込ませているのが「妙好人」ではないか。妙好人こそが「おかげさま」「もったいない」の祖系といってもいい。
また一方で日本人には「いさぎよい」という思考も好まれる(これも外国語でどう表現するんだかねぇ・・・)。これは「確執」「欲」などを棄てる勇気を賛える思考。ものごとにこだわらない生き方こそが「自由」であり、これが日本人独特の清潔感(観)である。
妙好人はこの心境を「悪の根を切られた」と表現する。他力宗は「切られた」と表現するが、自力宗では「棄てる」「毀(こわ)す」である。それを生涯かけて実践したのが売茶翁というわけ。
僧籍を棄て、茶器を棄て、我が身を棄てた。我が身を棄てたは言い過ぎかもしれないけど、己のよりどころ、甘えどころをばっさりと切り棄てる。甘えどころをそのままにしておくのは怠惰と思考停止を招く悪そのものだからである。そう、売茶翁は僧籍を棄ててまで禅者の如く生きたのだ。甘えを断ち切る「いさぎよさ」は、「清貧」という形容を呼び、やはり、どこか妙好人と通ずる清潔感がある。
日本はすっかり汚泥に埋没したような国になってしまった。
それから逃れようとして宗教にすがる人たちがいる。その人たちの受け皿のごとくに新しい宗教もどんどん増えてゆくのだろう。それではたして逃れられるのだろうか。さらに弱いものへと抑圧が片寄ってきていないだろうか。ああ、なにが本当に正しいのか僕にはわからない。空には透明な溜め息だけが昇ってゆく。はたして今日(こんにち)、宗教というものが健全に機能しているのだろうか。かつての日本のように、人々に清潔感ある生き方を提案できているのだろうか。
二冊の古本を読みながら、こんなことを考えている。
鈴木大拙・著「妙好人」と福山暁菴・編纂訓註「売茶翁」の二冊。
即・購入。その日から二冊を同時に読み始めた。
妙好人とは、生活の中に信仰が深く浸透しており、感謝、歓喜と懺悔の念を表現し続けて生きた人のこと。かつてはろくに字を教えてもらえなかった人に多く、それゆえたどたとしい文字で書いた書籍が多く残っている。しかし、その内容は「無分別の智」ともいうべき深い悟りの境地にあって、迷いを知らぬという。
妙好人は主に浄土真宗系の人に多いが、そもそも「妙好」とは、「妙法蓮華(プンダリーカ)」の意。「汚泥の中にあって清く咲く蓮の花のよう」という賛称で、仏教のどの宗派でも使える名であろう。
たとえば、宮沢賢治のデクノボウ精神はまさに汚泥の中の白蓮の如き清潔感を漂わせてはいまいか。
「売茶翁」(1675-1763)は、肥前(佐賀県)の出身。初め黄檗僧となるが、61歳の時に寺を出て京の東山や清水寺のあたりで煎茶を売る生活を始める。一日に暮らせるほどの銭が集まれば、さっさと店をたたんでしまう暮らし振りで、時には銭を得られず物乞いをすることもあったらしい。高齢となり、茶を売って暮らせなくなった時、愛用の茶道具を焼却し、以後は揮毫により生計を立てる。死に臨んでは、遺骸を荼毘・粉骨して川に流すよう遺言したという。
「妙好人」は他力宗(特に浄土真宗)の「清風」ともいえる存在、かたや「売茶翁」も自力宗(特に黄檗宗)でこれまた「清風」と膾炙される存在。
売茶翁は茶聖とも呼ばれ、煎茶のお稽古をなさる方で売茶翁を好きな人は実に多い。だがそもそも、日本人は「妙好人」とか「売茶翁」とかこういう人たちが好きなんじゃないだろうか。
日本人では「おかげさま」「もったいない」などの思考が好まれる。いずれもなかなか外国語にし難い思考(または言葉)である(最近「モッタイナーイ!」と叫ぶガイジンさんがいるけど・・・)。こういう思考を生活のすみずみまで染み込ませているのが「妙好人」ではないか。妙好人こそが「おかげさま」「もったいない」の祖系といってもいい。
また一方で日本人には「いさぎよい」という思考も好まれる(これも外国語でどう表現するんだかねぇ・・・)。これは「確執」「欲」などを棄てる勇気を賛える思考。ものごとにこだわらない生き方こそが「自由」であり、これが日本人独特の清潔感(観)である。
妙好人はこの心境を「悪の根を切られた」と表現する。他力宗は「切られた」と表現するが、自力宗では「棄てる」「毀(こわ)す」である。それを生涯かけて実践したのが売茶翁というわけ。
僧籍を棄て、茶器を棄て、我が身を棄てた。我が身を棄てたは言い過ぎかもしれないけど、己のよりどころ、甘えどころをばっさりと切り棄てる。甘えどころをそのままにしておくのは怠惰と思考停止を招く悪そのものだからである。そう、売茶翁は僧籍を棄ててまで禅者の如く生きたのだ。甘えを断ち切る「いさぎよさ」は、「清貧」という形容を呼び、やはり、どこか妙好人と通ずる清潔感がある。
日本はすっかり汚泥に埋没したような国になってしまった。
それから逃れようとして宗教にすがる人たちがいる。その人たちの受け皿のごとくに新しい宗教もどんどん増えてゆくのだろう。それではたして逃れられるのだろうか。さらに弱いものへと抑圧が片寄ってきていないだろうか。ああ、なにが本当に正しいのか僕にはわからない。空には透明な溜め息だけが昇ってゆく。はたして今日(こんにち)、宗教というものが健全に機能しているのだろうか。かつての日本のように、人々に清潔感ある生き方を提案できているのだろうか。
二冊の古本を読みながら、こんなことを考えている。