放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

つま先を揚げていこう!

2012年09月14日 12時42分05秒 | Weblog
 運動不足なのだろう、足を引きずるような歩き方をすることがある。

 足の裏になんだか違和感がある。足指の第一関節のところで軟骨がはみ出しているらしい。
 それが足裏の肉球にはさまれ、体重をかけるとイタイ。

 ここはときどき痛くなる。
 こうなると板の間は歩きづらい。階段はしんどい。
 まるでオジイチャンのような歩き方になってしまう。

 足をかばうあまり背中は曲がり、腰にまで違和感が生まれる。

 そこで、ときどき話題にする「なんば歩き」を思い出した。
 これは実は足裏の使い方にも特徴がある。
 
 重心はやや踵(かかと)寄り。だけど地面を足全体で踏む。
 つま先を上げる、特に親指は一番高く上げる。

 往年の武道家と呼ばれる人たちは、常にこの親指がピンと上がっていたらしい。

 ためしにつま先を上げてみる。親指もピンと上げる。
 すると不思議と歩き方が変わった。

 つま先を上げると、スネの筋肉に緊張が加わり、足裏がそっくり返るような勢いで歩き出す。自分の足なのに不思議。すいすいと前へ進む。

 おおー、ジイチャン歩きから脱却か?

 つま先を上げていると、はみ出ていた軟骨も若干だけど引っ込むらしい。それほど痛みを感じない。いいね、コレ。

 しかし、つま先を上げ続けているのは疲れる。スネの筋肉もビンビンしびれてきた。
 昔の人はよくこれで過ごしていたな。感心するぜ。

 まあ、あとは椅子に座っちゃえば、つま先を休めることはできる。
 
 ちょっとミラクルな体験だったな・・・。
 昔の人はすごいな。現代人よりもはるかに自分の体のこと研究していたんだね。

 ヨタヨタ歩いている自分がいやだったので、スタスタ歩けたことは少なからず感動だった。つま先を上げるのも鍛錬かもね。こりゃしばらく革靴は履けないや。
 

 
 
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怨恨と好き嫌い

2012年09月14日 11時27分25秒 | Weblog
 この辺はちゃんと区別しましょうよ、という話し。


 日本と韓国、中国、台湾、ロシアなどと領土問題が噴出し続けている。
 この問題は離島であるから発生したわけではない。
 資源などのオイシイ話しがあればどこの国も節操をなくすということが問題なのである。

 歴史的資料はいくらでも歪曲できる。
 いわずもがな、歴史的認識、歴史教育も。

 すなわち、「オキナワ」「ホッカイドウ」は日本に不法占拠されている、などという理論すら容易に筋立てができるのである。

 これは民族解放などというリクツを持ち出しても可能なことである。

 しかしその背景には漁場の奪い合い、アホウドリなどの乱獲、地下資源の独占などの目的があり、さらには国や軍の面子までもカブってくる。

 極東は、今も昔も火薬庫なのである。
 怨恨は怨恨を生み、それは誰かの血を求め、それがまた新しい怨恨を生む。

 このところの国内の報道は、(特に)中国、韓国に対し、よくない感情を抱かせるように出来ている。

 いつの間にか隣国を嫌悪し、恨みを感じてしまう。
 自身の中に生まれてきた「嫌い」の感情は、その90%以上がマスコミによって醸成されている。気をつけなければならない。特に、個人の財産、身体、生命が侵されていないうちから「恨み」を持つことだけは避けなければならない。

 人間は弱いから、弱いからこそ攻撃的になる。
 「好戦的」という言葉があるが、何の動機もなく他者を侵すことをためらわない人間はほとんどいないだろう。何らかの不安や、怖さが人に「攻撃」を思い立たせるのである。
 いま自分が心に飼ってしまった「嫌い」の感情は、容易に「攻撃」に孵化できるだろう。これは自分が弱いからである。不安や怖さに弱いからである。

 極東にすむ人々は、この弱さに押し流されない気持ちを作るところから国際感覚を磨かなくてはならないのではないか。
 個人的に、僕は隣国の人々を恨まないように心がけなければならない。
 経済的有利だとか、面子だとか、そういう価値観に自身が踊らされないように戦わなければならない。
 「好き嫌い」と「怨嗟」は別なのである。別にしておかないと、いつまでも仲良くなれない。

 ある反日活動家のコメントを新聞で(またマスコミかよ)読んだことがある。
 「自身は反日分子だが、個人たる日本の人を恨むことは、もう、しないだろう。」

 東日本大震災で被災者が取った人道的な行動、またはガマンする姿を評価しての発言だったようだ。


 
 


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最高位の鎮魂者

2012年09月10日 12時24分41秒 | Weblog
 天皇陛下ご夫妻は「最高位の鎮魂者」であると思う。

 ヒロシマ、ナガサキ、オキナワ、神戸、新潟、それから3.11の被災地など、悲しい記憶が刻まれた地へ赴かれ、祈ってくれる。
 「天皇制」への賛否は国内外ともにいろいろあるだろうが、今の有りようはまさに「鎮魂者」である。誰にもマネのできない「鎮魂者」。
 首相が祈ったって、アイドルが泣いたって、それほどまでに人々の心を鎮め和らげるということができるだろうか。

 皮肉を言えば、政治家や自治体の一部の役職の態度にくらべ、おだやかで丁寧で、国民に寄り添う姿勢が圧倒的な好感を呼んでいるということだけであり、特に今の日本の状況を変えられる力があるわけではない。それでも、どんなエライ人の話よりも心のヒビに沁みこんでくる。この力はいったい何なのだろう。

 お隣の大韓民国では天皇に謝罪を要求する動きがある。
 従軍慰安婦問題、その他日本軍が大陸に渡り荒らしまわった事実について、認め、謝罪しろというのだ。それを日本政府ではなく、国民の象徴である天皇が自らの言葉で謝罪するように求めている。
 
 とんでもない、と思うむきもあるのだが、冷静に考えると、一考の価値はあるのかもしれない。

 太平洋戦争当時、日本は昭和天皇の命で大陸に渡り、昭和天皇の命で戦火を広げ、昭和天皇の命で民の財産や身体、命までも侵した。だから敗戦直後には、アジアでは日本の謝罪と天皇の断罪を求める声が少なくなかった。
 日本がこれまでアジアの謝罪要求に対して態度を明確にしてこなかったのはなぜか。
 一口に言ってしまえば、おびえていたのだろう。
 日本は敗戦し、街は荒廃しており、他国に謝罪すれば、賠償としてこの国の一切合財はすべて持ち出されてしまうのではないか、という恐怖があったのだろう。食料も財産も文化も、そして王族である天皇の身柄でさえ、差し出さなければならなくなったかもしれない。
 日本が隣国の自権をさんざん踏みにじっておきながら、一方で自国の自権を護りつつ、潔く詫びるというのは、並大抵の難しさではない。時代的にも、周囲が日本の自権を容認してくれるほど国際法が機能してもいなかったのだから。
 
 さて、現在はどうだろう?

 国際法は完全とは言い難いが、機能している。たとえ制裁中であっても、自国の最低限の権利は主張してよい時代となった。
 日本は積極的に過去の歴史を清算する方法を模索したほうがよいのではないか。
 では、だれが隣国との関係改善の大使たる人と言えるのか。

 コロコロ代わる無責任は政権では、残念ながらだれも耳を貸さないだろう。
 事務的な手続きは進められても、全権を代表する人は、残念ながらいつ消えるか判らない首相(候補を含む)ではない。
 そこまで考えると、やっぱりあのご夫妻のことが頭に浮かんでくる。日本人の自分でさえ、やっぱりそうかな、と思ってしまう。
 ご夫妻がご高齢であり、当時の日本を昭和天皇とともに見ていたということもその理由になる。鎮魂者のお言葉であれば、大陸で死んでいった人たちも、恨みを鎮めてくれるのではないか・・・。

 では、誰に向かってお話をすればよいのだろう?

 これが難しい。

 隣国の政権に対してなのか、当時の悲惨な体験をした人に対してなのか、それとも反日教育を受けてきた現代の若者に対してなのか。

 僕は、実際に日本軍の横暴にあって財産、身体、生命を侵された人に対してお話ができたらいいな、と思う。
 いわゆる「当事者同士で」という話しだ。

 僕は戦後に生まれた。だから当事者ではない。ぼくらは所詮、整理のつかなかった案件を、どんどん歪曲させながら語り継いでいるだけの存在なのだ。
 暴走もするし、政局的に利用もされる。
 または目をふさがれ耳をふさがれ、加害者意識から遠いところに置いてかれる。そこは国際的な認識から隔絶された、発展性の無い世界なのだ。だから日本と中国、韓国、北朝鮮などは、年代を重ねれば重ねるほどに戦時中のことについて話が合わなくなってくるだろう。

 もしかしたら、今が過去を清算する最後の機会なのかもしれない。平成天皇がご存命のうちに、当時の被害者が一人でもご存命のうちに・・。


 なにをどうすればよいのかわからないが、相手が不愉快だからといってそっぽを向いていても火種は消えない。その火種は、当初のことを知らない人々にどんどん受け継がれて、謂れのわからない暗黒の火種になってゆく。東アジアがパレスチナのようになってしまうのではないかと危惧している。
 
 
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映画「ガレキとラジオ」

2012年09月01日 11時26分17秒 | 東日本大震災
 ドキュメント映画「ガレキとラジオ」 
 先月25日に観て来ました。

 これも東日本大震災に関連した映画です。
 震災から2ヶ月、壊滅的な状況に陥った南三陸町に開局されたFMラジオ局「FMみなさん」。そこを立ち上げた人々の奮闘と苦悩を綴った記録。

 そこは南三陸町ベイサイドアリーナという町の中心的な場所。当時は避難者でごったがえしになり、遺体安置所として使われた時もある。
 そこの二階デッキ、トイレのまん前、ここが「FMみなさん」のブースとなる。
 ここ、寒みぃべな、防音もなにもしていないから騒音もそのまま入るし。
 活動目的は被災地情報、災害関連情報、そして、「和み」をお届けすること。

 機材はそれなりにそろっているんだけれど、どこかヘン。
 あ、スマホにマイク貼り付けてゲスト対話しているし。
 すごい状態。シロートから見ても、いかにもここは「仮設局」だなという感じがする。  
 でもみんな一生懸命。
 みんなみんな職場と住居や家族を失い、それでも誰かと誰かがつながってゆくようなコミュニティを目指している。

 実は、このFM局は期間限定でした。
 放送期間は平成24年3月31日まで。立ち上げからたったの8ヶ月。

 理由は南三陸町の財源不足。
 そりゃそうですよね。これから膨大な復興費用がかかるわけで。
 行方不明者もいるし、見つかった遺体の身元でさえほとんどわからない、避難所は食料、衣料、衛生用品、そして医療品が足りないし、なによりも流された町の職員がいっぱいいたわけで。そのなかでコミュニティラジオの立ち上げをしたというのは、むしろ奇特というか、殊勝というか、あの気が狂いそうな状況でよく思いついたな、という感想を持っています。

 こうしてFM局のスタッフさんたちは、被災後の生活苦に耐えながら、さいごまで突っ走ってゆくのでした。

 うん、人って、頑張っている瞬間はとりあえず美しい。
 誰かのために、って奔走している姿は、やがて被災地で還らない子を待ち続けるおばあちゃんの心に小さな希望を灯して終わります。
 その潔さ、明るさ、みんなみんな立派だと思いました。
 どんなエラソーなこと考えるオトナよりも、ずっとずっと尊くて、そして何だかちょっぴり切なかったです。

 「FMみなさん」を卒業したスタッフさんみんなに幸せが届きますように。
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