放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

追悼のRyuich Sakamoto

2023年04月16日 01時08分36秒 | Weblog
「The End OF Asia」のLIVE版が聴きたくなった。
ぼくはこれが坂本龍一の最高傑作ではないかと思う。
ただし、これが故人の最終形態かと問われればもちろん違う。
ただ、シンセ・ソロの無限かつ壮大な世界観を聴けば、やはり最高傑作と思ってしまう。
ちなみに一番好きな曲は「The End OF Asia」ではない。大好きだけど。

やっぱり一番好きなのは「千のナイフ」。
「千のナイフ」または「Thousand Knives」。
本人のソロ曲だったり、ダンスリーとの合作もあるが、YMOアルバム「BGM」に収録されている版が重厚かつ一番カッコイイと思う。
その後の「Mr.ロレンス(「戦メリ」のこと)」を始めとする映画音楽で世界を席巻する前にこれだけの熱量で制作しているということを、どこかで特集してほしい。

思えばYMOには制約があった。
テクノポップには連続性、メリハリより平坦、さらには非ドラマチックであることが求められる。
「機械的」という定義から外れると「テクノ」と言う言葉がウソになるからだ。

坂本龍一という巨人にYMOは窮屈だった。
「The End OF Asia」のLIVE版はいくつか発表されているが、どれもテクノ(機械的)の枠から逸脱している。
それを一言で言ってしまえば「旅情的」「旅愁的」。
伊武雅刀のモノローグ「ああ、NIPPONは、い~い国だなぁ」が背後について回る。
テクノとは矛盾する楽曲だった。
それでもYMOの傑作には堂々と枚挙されるだろうし、だれも異論はないはずだ。
そこにYMOの裏テーマが垣間見えるからだ。

YMOは、あれだけ機械にこだわる音楽ユニットだったけど、実は高橋幸宏のドラム、細野晴臣のベース、坂本龍一のキーボードプレイがしっかり聴ける純粋なバンドサウンドであった。高い技術を携えた(=機械的なことを人の手で正確にやってのける)職人バンドだったのだ。
彼らが人間らしい感情を表出してしまえば他のバンドとやっていることが同じになってしまう。だからYMOは制約を設けた。
テクノポップの定義(=機械的)を軸とし、常に実験的であるように。それが表のテーマ。
裏のテーマは、「あくまでも人の手で」である。

そもそも坂本龍一のソロ楽曲だった「The End OF Asia」は、むしろこの表のテーマに収まっていた様に思う。
4ビット時代のコンピューターゲームサウンドのような表情のない音色。後半の渡辺香津美ギターが吠えるまでは単調に徹している曲だった。
それをスネークマンショーでは馬子唄のようなリズムに改変し、YMOのLIVEでは、より一層旅情感たっぷりにした。
どういうロジックでテクノ・ポップの定義を逸脱する楽曲に仕上げたのだろうか。
ゴリ推しだったのか、それとも実験的という枠だったのか、その伸び伸びとしたサウンドを聴くと、今でも奇跡を感じてしまう。テクノを逆手に取った奇跡。表も裏も超越した音楽観。

後年語られる坂本サウンドの+11や+13は確かに発明と言ってよい出来事だけど、メロディーラインの秀逸さがそもそも故人の才能であることも強調しておきたい。

YMOのさまざまなものを削ぎ落としたと言って良い名曲がもう一つある。
「Epilogue」。アルバム「(いわゆる)テクノデリック」に収録された逸曲。

この曲こそメロディーラインの美しさの究極といってよい。こんなキレイな曲は聴いたことがない、と思ってしまうほど異次元な美しさである。機械的であるのに感情的。ここでやっとYMOの表と裏のテーマが融合したような気がした。

早世した高橋幸宏さんに誘われるようにして逝ってしまった坂本龍一さん。
この曲を紹介することを以て、故人への追悼としたい。お二人のご冥福をお祈りします。
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The Life Eater 2023

2023年04月01日 18時22分30秒 | 東日本大震災
2023年3月、石巻へ行った。
今年の3月は、明るくて温かい。
それでも海の耀きは、あの日のことを思い出させる。
そう
この季節は海の色が最も碧く、とても澄み渡っている。
なぜあんなに狂ったような禍をもたらしたのか戸惑ってしまうほど美しく碧い海。
そのあと、天地には涙のような霙(みぞれ)がざんざんと降った。

しばらく石巻へは行けなかったが、道路が改善してからやっと日和山の下の道を通った。
そうそう、更地になって砂埃だらけの土地に「がんばろう石巻」と書かれた看板があったっけ。
あの看板は今、どうなっているのだろうか。
 
日和山の懐には痛々しい壁をさらす門脇小学校の旧校舎がある。当時の校舎を左右ともに短くしてしまったが、まるで児童を護る城壁のように構えたその姿は変わらない。
津波火災、という最も怖ろしい災害をこの城壁は黒焦げになりながら受け止めた。
水平避難でも垂直避難でもなく、シンプルに山に逃げる、という行動が助け合いを生み、多くの人が難を逃れた。
これまで宮城県内の多くの震災学校遺構を見てきた。
それぞれに災害への教訓を持っており、答えが一つではないことを教えてくれる。

亘理の中浜小学校は究極の垂直避難で命を繋いだ。
仙台の荒浜小学校も垂直避難。ほかの選択肢はなかった。
石巻の大川小学校は、迷いと水平避難が被害を大きくした。

そして門脇小学校の場合、垂直避難も水平避難も正解ではなかった。
児童と引率する教諭はいち早く校庭から裏山への道を辿って日和山へと逃れていた。
一方、避難してきた住民と一部教諭は校舎と屋内運動場に残っていた。
そこへ津波が迫る。

この時の怖ろしい映像が残っている。
映像は校舎の屋上から撮られたものだ。
車から漏れたガソリンや埠頭にある燃料などが海面に集まり、そこへ漏電火災などの火花が引火する。
すなわち、海が燃えながら陸に押し寄せてくるのだ。漂流物が炎上しながら押し寄せる場合もあるという。
門脇小学校校舎の屋上に避難していた市民は燃えながら校舎にぶつかる波頭を目撃した。
 押し寄せる衝撃と轟音、アブラの匂い、熱風。
   どんなにか怖かったことだろう。
少し波が引いたとき、みんなは決断した。山へと伝い逃げる方法を模索しよう。
時間は限られている。校舎の裏山はそそり立つ擁壁があって、直接渡れない。
誰かが教壇を担ぎ出して2階から擁壁へと渡した。
教壇は重い。市民は高齢者や女性が多かった。文字通り火事場の怪力である。
こうしてみんなは裏山へ逃れた。

今、校舎に残る机や椅子は天板や座面がすべて焼け落ちている。
黒板も焼けてひしゃげた鉄板だけが残っている。戦場のようだ。
生生しい震災の資料。
当時のラジオから避難を呼びかける音声データ(よく残っていたね)。
地震の膨大なデータ。
そして今なお残る裏山の擁壁。
防災や減災が身近な課題であることを教えてくれる。

もしも亘理の中浜小学校のケースで津波火災に襲われた場合、屋上倉庫に避難した児童はどうなっていたことだろう。
避難の仕方に答えはない。いつも結果だけが存在する。

体育館に向うと、そこに「がんばろう石巻」の看板があった。おう、ここにいたか。
その左をぐるっと廻るとなんと災害公営住宅が残っていた。この展開は重い。
東北仕様の二重扉。当時の家電製品。
壁に空いた穴。
阪神淡路の震災より進化しているという応急住宅だが、やはり悲しい記憶でいっぱいになってしまった。

震災直後、この辺はびょうびょうと吹く浜風と灰色または茶色い世界だった。
やがて歳月が経ち、避難の丘やメモリアル施設ができて、様子がすっかり変わった。
きっとそのほうが良いんだろう。
いつまでも灰色と茶色の世界ではやりきれない。
でも、失ったものを忘れないようにしてあげないと、誰かが覚えていてあげないと、この浜辺に刻まれた悲しみは封印されて行き場がなくなってしまうような気がする。
少しづつ蒸発・・・いや、昇華するように癒やされてゆくことが、人にも土地にも必要なんだと思う。
メモリアル施設や震災遺構は、誰かの記憶を喚起したり、伝承したりすることで、その地の悲しみを昇華させることも役割の一つではないかと思った。
もちろん防災教育も大事な役割ですけど。
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