放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

試論「100年の銀河鉄道」#6 プレシオスの鎖

2024年12月29日 01時56分21秒 | 賢治さん
 <「ちょっとこの本をごらん、いいかい、これは地理と歴史の辞典だよ。この本のこの頁はね、紀元前二千二百年の地理と歴史が書いてある。よくごらん、紀元前二千二百年のことでないよ、紀元前二千二百年のころにみんなが考えていた地理と歴史というものが書いてある。
 だからこの頁一つが一冊の地歴の本にあたるんだ。いいかい、そしてこの中に書いてあることは紀元前二千二百年ころにはたいてい本当だ。さがすと証拠もぞくぞく出ている。けれどもそれが少しどうかなとこう考えだしてごらん、そら、それは次の頁だよ。
 紀元前一千年。だいぶ、地理も歴史も変わってるだろう。このときにはこうなのだ。変な顔をしてはいけない。ぼくたちはぼくたちのからだだって考えだって、天の川だって汽車だって歴史だって、ただそう感じているのなんだから、そらごらん、ぼくといっしょにすこしこころもちをしずかにしてごらん。いいか」
 そのひとは指を一本あげてしずかにそれをおろしました。するといきなりジョバンニは自分というものが、じぶんの考えというものが、汽車やその学者や天の川や、みんないっしょにぽかっと光って、しいんとなくなって、ぽかっとともってまたなくなって、そしてその一つがぽかっとともると、あらゆる広い世界ががらんとひらけ、あらゆる歴史がそなわり、すっと消えると、もうがらんとした、ただもうそれっきりになってしまうのを見ました。だんだんそれが早くなって、まもなくすっかりもとのとおりになりました。
「さあいいか。だからおまえの実験は、このきれぎれの考えのはじめから終わりすべてにわたるようでなければいけない。それがむずかしいことなのだ。けれども、もちろんそのときだけのでもいいのだ。ああごらん、あすこにプレシオスが見える。おまえはあのプレシオスの鎖を解かなければならない」>(新潮文庫「銀河鉄道の夜」昭和48年・第21刷より)

 黒い帽子のおとながジョバンニにこれから進むべき道を説くシーン。なかなか難解である。しかし最終形では「ばっさりと」削除されてしまった。
 黒い帽子のおとなは言う。今われわれが認識している地理・歴史というものが絶対普遍なものではないと。さらに言えば、天の川だって汽車だって歴史だってすべて概念・観念に過ぎず、時代とともに尺度や価値観が変わればどんどん変わってしまうということ。
 「これはこうだ」という一方的な考え方をせず、もしくは自分の損得や希望的観測を勘定に入れずに世の中は見なければならないということを、二千二百年前、一千年前を例にして(そのくらい時を隔てていなければ人は過去を客観的に見られないのだろう)ジョバンニに示した。それは膨大な知識を必要とし、さらに累積された知識を過去に遡って見るのではなく、時系列を横から俯瞰しなければならない、これは大変な作業である。
 「銀河鉄道の夜」が執筆された当時は、大正期末から昭和初期にあたる。「神武天皇即位」から数えて、二千五百年を超えている。「皇紀」という考え方だけで地歴を総括することも可能であり、実際多くの人がそれで思考停止していたと想像できる。その環境にあって、このように深い検証を大事に考える賢治の見識は稀有と言える。

 そのくらい気が遠くなるような検証や考察を経て、うそとまことを見分ける(ものごとの本質を見抜く)ようになって、初めて「みんなのまことの幸い」を見出すことができる、・・・ということなのだろうか。
 これは久遠の菩薩行であり、ジョバンニだけがその任を受けるのは不公平な気がする。それとも黒い帽子のおとなも既にその道の行者であり、共に歩むことを願っているのだろうか。または、ジョバンニが寝入った黒い丘は、実は彼の眠る終焉の地であり、土神となって彼に「行」を託しているのだろうか。

 「プレシオスの鎖」になぞらえた宿題を少年は与えられ、彼は現実の世界へと還ってゆく。この巨大な宿題に比べれば、自身の孤独は、ささいなことなのだ。
 なお、「プレシオス」については、浅学の輩にはどの天体(または星雲・星団)のことをさしているのか判らなかった。詳しい方のご教示を請いたい。
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試論「100年の銀河鉄道」#5 まことの完成形を求めて

2024年12月22日 00時16分03秒 | 賢治さん
  「銀河鉄道の夜」は幻想的文学の最高峰だと思う。
 幻想、と簡単に書いたが、「幻想」とは何かと問われても、うまく説明できない。
 「幻想」を言葉で定義しようとすると、たちまちそれは消え失せる。
 「幻想」に条件付けを試みると色褪せる。
 「幻想」とは掴みどころがないもの。「幻想」とは自由な空想のその先にあるもの。
 それでも文学において、幻想性には「感度(純度?)」のようなものがある。そして一定の感度を損なわずにいる幻想文学は魅力的である。感度と言ってしまえば、それは度合いの比較が可能ということにもなるわけで、「こうしたほうがいいんじゃないか」「こうすればもっと感度があがる」といった工夫の余地もあるということだ。

 初出版の文圃堂版全集(1934年)において、カムパネルラの死は「四 ケンタウル祭の夜」に書かれていた(配置されていた)。つまり「天気輪の柱」から「銀河ステーション」に展開する前にすでにジョバンニは友の死を知っていた設定だった。のちにこれは「おかしい」という議論になり、カムパネルラの死は物語の最後に配され、今日に至っている。
これまでも「銀河鉄道の夜」はその構成について議論が重ねられてきた。著者による清書稿がない上に、草稿もノンブル(ページ)が振られていない状態だからみんな頭を悩ませたことだろう。こうして遺族と研究者による原稿整理が長い時間を費やして行われてきた。

 さて、「銀河鉄道の夜」は、ブルカニロ博士の不純なる実験のおかげでその幻想性が大きく損なわれてしまった。彼はある意味、「幻想」のダークサイドに居るのかもしれない。彼はネクロマンシー(屍人術)や降霊・口寄せの技術をもってジョバンニを騙した嫌疑をもかけられている。
それゆえ最終形において、博士および「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせたおとな」に関する文章は、ばっさりと削除された。でもそれはそれで幻想性が損なわれたままだ。いわば大きな傷跡がむき出しのまま、修復もされずに放置された観が、最終形には、ある。原作者の命が尽きたわけだから仕方がない話だが、これだけ多くの研究者たちが作品の構成について議論してきたのだから、最終形のさらにその先、いわゆる「完成形」(仮)についても試論があって然るべきと考える。

 ここからは私情を挟みつつ、完成形(仮)について試論してみたい。
 やはり銀河鉄道は、大人が意図したまがい物であってほしくない。少年たちと人知を超えた存在との共鳴が織りなす幻想四次元の奇跡であってほしい。
 張り裂けそうな不安と孤独を抱え、少年は夜の林の小道を駆け抜け、牧場のうしろの黒い丘に上って、どかどかするからだを冷たい草原に投げ出した。夜空には、しらしらと天の川が映る。
 同じ頃、街のケンタウル祭ではもう一人の少年が川で溺れた同級生を助けようとして水に呑まれた。黒い水面にもしらしらと天の川が映る。
 少年の声にならない叫び。孤独でちぎれそうな心の闇。いくつかの偶然が重なって、銀河ステーションはまるでダイヤモンド箱をひっくり返したように眩しく出現した。まるで以前から存在していたかのように、列車はごとごと走っていた。そこへあらゆる旅人(霊体)が集まってくる。灯台守や鳥を捕る人はときどきこの列車を利用しているのだろうか。タイタニック号の遭難者たちはどこで列車のことを知ったのだろうか。乗る人も降りる人も目的や考え方はさまざま。生業を成す人、天上を目指す人、巡礼、こういったプリズムのような出会いと別れが「幻想」の感度を無限に上げて、物語はますます透明になってゆく。銀河鉄道の物語は、そのようなものであってほしい。

 いっぽうで気になってしまうのは、ときどき聞こえるやさしいセロのような声。これはやはりブルカニロ博士なのだろうか。それともアバター?
 最終稿ではすっかり亡き者である。しかし正直勿体ない。
 「黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせたおとな」(以下略して「黒い帽子のおとな」とする)の言葉がとてもすばらしいのだ。

<「おまえのともだちがどこかへ行ったのだろう。あのひとはね、ほんとうにこんや遠くへ行ったのだ。おまえはもうカムパネルラをさがしてもむだだ。」
「ああ、どうしてなんですか。ぼくはカムパネルラといっしょにまっすぐに行こうと言ったんです。」
「ああ、そうだ。みんながそう考える。けれどもいっしょに行けない。そしてみんながカムパネルラだ。おまえがあうどんなひとでも、みんな何べんもおまえといっしょに苹果をたべたり汽車に乗ったりしたのだ。だからやっぱりおまえはさっき考えたように、あらゆるひとのいちばんの幸福をさがし、みんなと一しょに早くそこに行くがいい。そこでばかりおまえはほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょに行けるのだ。」
「ああぼくはきっとそうします。ぼくはどうしてそれをもとめたらいいでしよう。」
「ああわたくしもそれをもとめている。おまえはおまえの切符をしっかりもっておいで。そして一しんに勉強しなけあいけない。おまえは化学をならったろう。水は酸素と水素からできているということを知っている。いまはだれだってそれを疑やしない。実験して見るとほんとうにそうなんだから。
 けれども昔はそれを水銀と塩でできていると言ったり、水銀と硫黄でできていると言ったりいろいろ議論したのだ。みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えとを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も化学と同じようになる」>(新潮文庫「銀河鉄道の夜」昭和48年・第21刷より)

 「黒い帽子のおとな」は、初期形一~三において、やさしいセロのような声でさまざまにジョバンニたちに語りかける。彼は、「あの声、ぼくなんべんもどこかできいた。」「ぼくだって、林の中や川で、何べんも聞いた。」と言われるくらいジョバンニやカムパネルラにとって馴染まれている存在となっている。このあたり、いかにも夢の世界らしい勝手すぎる設定なんだけど、彼がファシリテーターとして物語に寄り添っていることで、銀河鉄道はごとごとと走り続けているようにも思う。

<そのときまっくらな地平線の向こうから青じろいのろしが、まるでひるまのようにうちあげられ、汽車の中はすっかり明るくなりました。そしてのろしは高くそらにかかって光りつづけました。
「ああマジェランの星雲だ。さあもうきっと僕は僕のために、僕のお母さんのために、カムパネルラのために、みんなのために、ほんとうのほんとうの幸福をさがすぞ」
 ジョバンニは唇を噛んで、そのマジェランの星雲をのぞんで立ちました。そのいちばん幸福なそのひとのために!
「さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしにほんとうの世界の火やはげしい波の中を大股にまっすぐに歩いて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの、ほんとうのその切符を決っしておまえはなくしてはいけない」>(新潮文庫「銀河鉄道の夜」昭和48年・第21刷より)

 ここが物語の最高潮ではないだろうか。このくだりを踏まえてのち、夢から醒めたジョバンニが牧場でおっかさんの牛乳を受け取り、帰路、川辺で「こどもが水へ落ちたんですよ」と聞かされるラストにたどり着く。夢の世界から現実の悲劇への暗転。最後のシーンがこれで際立ってくる。だから読後感がまるで違う。

 こんな名場面を、なぜ賢治は削除したのだろう。
 ここを削除したのは「決断」だったのだろうか。それとも「迷い」「羞恥」それとも「諦め」。
 いまとなってはいずれにしてもそれを知る術はない。
 個人的には「黒い帽子のおとな」はうっかり物語のオモテで顔を出してしまった賢治自身に思える。
 「黒い帽子」「セロのような声」など賢治を思わせる形容がつきまとうからだ。ずっと裏方で銀河鉄道を運行していたのに、伝えたいことが溢れ出て賢治は我慢できなくなったのだ。書いたあとで、自身を出してしまったことに気づき、賢治はそれを一旦引っ込めようとした。そのときに「黒い帽子のおとな」と役割を一にする想定だったブルカニロ博士もその登場の仕方が不自然であり、また洗脳めいた発言までするので削除する「判断」に至ったのかもしれない。

 ブルカニロ博士の削除には賛成する。だが「黒い帽子のおとな」は復活させてほしい。最終形には彼が入る接続点が当然ながら残されているわけで、そこに挿入して物語が壊れることはない。「黒い帽子のおとな」の復活は可能だと思う。これをもって「銀河鉄道の夜」の完成形(仮)と言えはしまいか。
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試論「100年の銀河鉄道」#4<ブルカニロ博士の犯罪>

2024年12月14日 02時42分33秒 | 賢治さん
 当時にも「エイリアス」または「アバター」という概念があったのだろうか。
 そのように思ってしまう登場人物が、物語に、いる。
 その人物は、初期形には存在しているが、最終形ではブロカニロ博士とともに忽然と消滅している。
 セロのような声。
  銀河鉄道のすべてを知っている。
   黒い大きな帽子をかぶった青白い顔のやせたおとな。
  大きな一冊の本をもっている。
 その本は、あらゆる時代の人々が考えていた地理と歴史のことが載っている辞典。

 その人は名前を持っていない。ただ上記の通り形容されているだけ。
 夢の中でだけ登場する。はじめは銀河鉄道について声だけで話をする。カムパネルラが去ったあと、その席にいつの間にか座っていて、これから大人になって激しい時代を大股でわたってゆかなければならないとジョバンニを諭す。
 この人は最終形の推敲においてブロカニロ博士とともに削除されているから、博士と同一人物または博士と同一の役割をもっていると推察できる。しかし彼は初期形におけるストーリーテラーであり、ファシリテーターでもある。その発言の重要さはブロカニロ博士の比ではない。一緒に削除する必要性について賢治に再考を促したいほどだ。
 いっぽうブロカニロ博士が削除された理由は明快だと言ってもいい。

 博士は罪を犯した。その決定的な発言は以下のとおりである。

「ありがたう。私は大へんいゝ実験をした。私はこんなしづかな場所で遠くから私の考を伝へる実験をしたいとさっき考へてゐた。」(初期形三)

 これは、ジョバンニが銀河鉄道の夢から醒めた時に博士が声をかけてきたときの様子である。
 実験とはなんのことだろう?

 物語という限られた設定の中で考えるならば、それはジョバンニを催眠誘導し、夢という劇場型空間において博士の考えを理解できるよう体験させることではなかろうか。
 夢は#2でも述べた通り、ひどく無責任なものだ。
 夢で見たものは体験したに等しく、しかもどんなに荒唐無稽でも、すんなり受け入れてしまう。夢は一方的で支配的なのだ。これを自分の思考を伝える実験の手段にしてしまうとは、何と傲慢なことか。
 こういうのを何というのだろう。「催眠術」、「刷り込み」、「劇場型の洗脳」・・・。
 やや無責任な形容を羅列したが、とにかく褒められたものではない。
 博士は夢から醒めたジョバンニに、小さく折りたたんだ切符に金貨を2枚包んで返している(初期形三)。これがなんだかひどく嫌だ。実験に付き合わせた謝礼なのか。

 さてジョバンニの夢体験がブロカニロ博士の実験ということになれば、「銀河鉄道」という壮大かつ幻想的な舞台装置も、登場する人々も、カムパネルラでさえ、すべて博士の手のひらの中で作り出された偽世界ということなのだろうか(これについて、博士がネクロマンシー術を使った疑惑も浮上してくる)。その結果ジョバンニが辿り着いた「すべての人のまことの幸い」も、博士が仕組んだ答えということなのか。こうなると「銀河鉄道の夜」は、「幻想」が聞いて呆れるとんでもない駄作ということになってしまう。
 ブルカニロ博士の思考はおそらく良心に満ち満ちているのだろう。しかし伝達方法には問題がある。こんな傲慢な方法は実験とは言わない。そしてあの発言は致命的だ。
 賢治はおそらく、そのことに気づき、瞋(いか)りと羞恥に苛まれながら原稿にバツを入れたのではないだろうか。
 こうしてブロカニロ博士はその罪ゆえに物語から追放されたのである。
 しかし、これだけでは作品の完成からは遠いように思う。
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試論「100年の銀河鉄道」3<無為の幸福論>

2024年12月07日 02時01分53秒 | 賢治さん
 本文に出てくる「まことのみんなの幸(さいわい)」とは何なのか、何度も書いてみるが、どうも手が止まる。あんまり漠然としていて、掴みようがなさ過ぎる。
 おそらく賢治も「まことのみんなの幸(さいわい)」とは何なのか、答えを見つけることなかっただろう(または見つけても見失うことを繰り返したのではないか)。「銀河鉄道の夜」最終形を読んでも、ジョバンニもカムパネルラも、そして大型客船で遭難した姉弟を連れた青年も、誰一人確固たる自信をもってそれが何なのか語ってはいない。もしくは統一した答えを打ち出せなかったか。

- 「ぼくはおっかさんが、ほんとうに幸になるなら、どんなことでもする。けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう。」カムパネルラは、なんだか、泣きだしたいのを、一生けん命こらえているようでした。 ―
・・・
― 「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
 燈台守がなぐさめていました。 ―
・・・
― 「けれどもほんとうのさいわいは一体何だろう。」ジョバンニが云いました。
「僕わからない。」カムパネルラがぼんやり云いました。
「僕たちしっかりやろうねえ。」ジョバンニが胸いっぱい新らしい力が湧くようにふうと息をしながら云いました。 ―
(引用文はいずれも「銀河鉄道の夜」最終形)

 かつて賢治は「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない(農民藝術概論綱要)」と断じた。これに比べ、「銀河鉄道の夜」では「幸」について疑問形で話すことが多い。明らかにトーンが落ちている。これはなんとしたことだろうか。

 「銀河鉄道の夜」を読んで、小学生だった自分もジョバンニと同じように「まことのみんなの幸」を意識した。あれから45年以上経つが、いまだにそんなものを見たことがない。そもそも「まことのみんなの幸」って何だ。そんなものが本当にあるのだろうか。
 幸せというものは、人によってその形が違う。時はうつろい人の心もうつろう。そして価値観の多様性に気づかされてばかりいる昨今、個々の幸せはひとつとして同じものがない。さらに言えば、幸福は不幸と表裏一体で分離不可。だから他者に人の幸福なんぞ解るはずがない。
 幸福と不幸が表裏一体、分離不可であるのと同じく、厚意と傲慢(押し付け)もまた表裏一体、分離不可である。「良かれ・悪しかれ」は受け取り方次第。他者が勝手に決めつけるわけにはいかない。
 結局、人間ひとりの決意で何ができるというのか。まことの(真実の)みんなの(全人類の)幸(恒久的幸福)を実現することは到底不可能だし、ともすれば我々はみんな等しく幸せを追求すれども(まだ)叶っていないと嘆く日々を何千年、何万年、永劫に続けているではないか。これは「業(ごう)」である。
 「業」に挑み、なんども弾かれた経験をした賢治は元・教え子あてに書簡で自身の慢心を述懐しているが、それは多くの研究成果があるので、そちらに委ねたい。
 ここで別のことに注目したい。

 ジョバンニは、「ほんとうの幸」は一体何かわからないというのに、それを求めることに少しも迷っていないのだ。
 彼だけではなく、登場人物たちはみんな「ほんとうの幸」が何か解明できていないのに、誰一人として迷いを口にする者はいない。

 誰しもこんな経験はないだろうか。
 周囲に異変を感じて、とっさに身体が動いてしまうような。
 誰かを支えようとして思わず手を伸ばしてしまうような、そんな経験はないだろうか。難しいことを考えるまでもなく、良かれとも思う暇すらなく。
 こういう行動が、一定の割合で誰かの幸いに結びつくならば、それは蠍の火と同じだ。その時がきたら惜しまず行動しよう、という覚悟(いや態度か)を晩年の手帳に書かれた詩篇「雨ニモマケズ」にも見ることができる。
 こんな手でよかったら使ってください。この身でよかったら使ってください。自己犠牲とか、デクノボーとか、よくわかりません。ただ、この手が利くなら有効に使いたい。手がなくとも、この身が現存するならば、何かの足しにはならないだろうか。消耗品には消耗品の扱われ方というものがある。それが正しい扱われ方ならば、身が削れてゆくこともきっと正しいことなのだ、という「無為」の心地、いや「覚悟」というべきか。
 ジョバンニは、「別れ」ばかりが繰り返される銀河鉄道で、この「覚悟」を授かり培った。登場人物たちは、望むと望まざるとに拘らず、だれもが消耗品のように消え去る。しかしそこに醜さや惨めさはない。ただ不思議と明るくさっぱりとその役割を尽くして消えてゆく。これを無常とよぶ。
 実は誰でも、偉業や革命または大それたことをした人でも、広大な銀河にあっては無常の風に吹かれゆくひと粒の消耗品にすぎない。
 傲慢も偽善も無常。
 善意も嫉妬も無常。
 ほんとうのさいわいも無常の彼方にある。そう思えてならない。

 「銀河鉄道の夜」が書かれてからずいぶん時が経った。
 大きくなったジョバンニは、ザネリは、
その生涯の最期においてもほんとうの幸せを探し続けていただろうか。
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