翌朝、8月6日(月)。
寝苦しいということもなく気持ちよく目が覚めた。
昨晩は特に異変はなかったということでいいかな? 金縛りも、天井から異音も、窓を誰かが叩くということもなかったし、快眠できた、よね?
一同異議なし。
ということで、とても良く休めました。
朝食も隣の広間貸し切り。それにしても、階段だらけの建物だから、お膳やら布団やら運ぶのは相当大変なんじゃないかと思われる。
「慣れましたよ」
と仲居さん。
いや・・・、慣れたといってもヒザ軋んできたり、相当大変なはず。山肌にそってひな壇のように階を積み上げて出来ている建物だからエレベーターなんて技術的にムリ。100%足で運ぶしかない筈ですよ。でもそれ以上は何を訊いてもニコニコしているばかり。
そうこうするうちに、お宿を出発する時間になった。幸い雨はやんでいる。荷物を車に積み込む。外から見上げると、やっぱりすごい。重厚でしかも細工が繊細。
おせわになりました。
お宿の方に見送られながら台温泉を出発。県道へ向かう。
さて・・・と、宮沢賢治童話村に直行でいいのかな?
「高村山荘もいいところだよ」とBELAちゃん。
「高山山荘行きたい」と長男。
「あ、お昼ご飯食べるトコロには12時で予約しているからね。遅れないでよ」
なるほど・・・、今日も花巻をぐるぐる巡ることになるようだ。
まずは県道を南下。
どこまでもどこまでも南下。大沢温泉入り口も素通りしてまたまた南下。森の中を走るから心地よい。雨も大したことなくてよかった。
突然、森の一本橋にさしかかる。「高村橋」と書いてある。いよいよーな雰囲気。
ここで少し読みかじったことを拙くも整理してみる。
高村山荘とは、高村光太郎が住んだからその名がある。
高村光太郎(1883-1956)は彫刻家にして詩人。多くの文化人との交流のあった彼の元を大正15年(昭和元年)に宮沢賢治も訪ねている。しかし多忙であった光太郎は賢治に「明日の午後明るい中に来ていただくやう」お願いし、賢治も「次にまた来る」と応じて別れた。これが一期一会の邂逅となってしまった。
光太郎は賢治の死後、賢治を追悼する稿を寄せている。それらは実に草野心平らの賢治評価運動とも連動し、昭和9年刊行の「宮沢賢治全集」には光太郎も編者として名を寄せ、初版本(文圓堂版)では題字も光太郎が揮毫している。「全集」の編者には賢治の弟・清六もいて、その縁で宮沢家と光太郎は交流があったようだ。
昭和20年に光太郎は東京のアトリエを空襲で焼かれてしまい、花巻の医師・佐藤隆房の勧めで宮沢家を頼ることになる。佐藤隆房医師は、賢治の最期を看取った人。そして初めて賢治の伝記を書き、その後の全集の編纂にも光太郎とともに協力した人。
光太郎は花巻でつかの間の穏やかな生活を送ることになる。しかし、その宮沢家も花巻空襲で焼かれてしまった。賢治の遺稿も柳行李一つ残して他は灰燼となった。
高村光太郎はしばらく佐藤隆房の家に厄介になっていたが、そのうち花巻より西にある太田村山口に粗末な小屋を建てて独居自炊の生活を営んだという。実に光太郎62歳であった。独居自炊の生活は7年に及び。その間、地元の小学校とも交流を重ねたという。
仕事の依頼を受けて一旦東京に戻るが、そのまま花巻に帰ることなく73歳で没した。没する直前まで「宮沢賢治全集」の新しい装丁について練っていたという。
山口にはぽつんと小屋が残り、そこには当時の光太郎の生活と創作の痕跡がそのまま残っている。
大雑把だが、これが現在「高村山荘」と呼ばれる建物である。
その「高村山荘」の案内板をたよりにゆっくり進む。
一本道の奥に駐車場と受付の小屋。その後ろには防風林と小さな農園、そして建物群。
なだらかにくねる広い農地と防風林のような灌木、向こうに蒼く鎮まる森たち。これが青空の下だったなら、それが僕らのイーハトーボ(思い出)になったかもしれない。でもここで雨が降り出してきた。やっぱり雨か。しつこいな雨。
やがて、白樺並木の向こうに、それらしき建物が見えてきた。少し軒の高い、まるでお里の分教場のような建物。近づくと、それが蓑屋と呼ばれる套屋(うわや)であることが判る。
それなりに歳月は経っているだろう。風雪に耐えた柱、屋根、壁・・・。重い板戸をごろごろと開ける。夏なのになぜか雪ぼこりの匂いがする。そこにはもう一つの套屋があった。そう。高村山荘は二重の套屋で包まれている。やや細い材。土漆喰の壁、煤けたガラスの向こうに、まるで映画のセットのような土間と上がり框が見えた。これが高村山荘だ。
すごいね、ここ。
雪ぼこりのような匂いは、木材が朽けてぽろぽろになるときの匂いだと気づいた。
もとは硫黄鉱山のバラック小屋だったという。それを山口のひっそりとしたところを選んで移築したそうだ
ここは、完全に時間が止まっている。少なくとも見るものにそう思わせてしまうくらいに、よく保存されている。決してあたたかそうには見えない。むしろ高齢者が暮らすには過酷すぎる環境ではないだろうか。
疑問が頭をもたげる。
なぜ高村光太郎という芸術家は戦後、花巻のひっそりとした山裾にバラック小屋を建てたのか。
なぜ戦後、東京に帰らなかったのか。
なぜ亡き妻の眠る地に行かなかったのか。
なぜ、苦行とも言える生活を敢えてしたのか。
「智恵子抄」をじっくり読む必要があるようだ。