唐突だが、3.11の大震災以後、多くの有名人が亡くなった。
いやいや、特に関連があるわけではない。
けれど、震災で多くの犠牲者が出て、宮城県も福島県も火葬が間に合わず、東京などでも火葬を引き受けていた時期である。火葬場は混んでいたことだろう。
この時期になくなった有名人で、特に忘れられないのが田中好子さん(2011.4.21逝去)。
若すぎる逝去にも驚いたが、その最期のメッセージが被災地への心配りを示すものだったので、僕たちには印象深い出来事でもあった。
最期のメッセージで田中さんは、ガンの痛みに苦しむきれぎれに、震災の犠牲者を悼み、「でもその時(自分が死ぬ時)には、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが、わたしの務めと思っています。」と言ってくれた ― 。
気高くて、やさしい人なんだな、と思った。
BELAちゃんが「黒い雨」を観よう、とDVDを買ってきた。
もちろん、田中好子さんが主演だから。
井伏鱒二の名作「黒い雨」は1989年公開。
原爆の直後に瀬戸内海に降ったといわれる黒い雨(放射能を多量に含んでいたといわれる)にあたり、爆心地から離れていたにもかかわらず被爆し、原爆症を発症してしまう主人公を田中好子さんが演じている。監督は今村昌平氏。
バブルの真っ只中に作られた映画なのに、映像はモノクロで、まるで60年前の映画のようにかすれていた。
モノクロにした狙いはいくつかあったのだろう。なによりも爆心地の凄惨な(焼け焦げた遺体など)をそのままカラーで映像にするにはためらいがあったのではないか。
名作だと思った。けどなんだか、正直、見ていてだんだん気が滅入る映画でもあった。きっと今の状況にリンクしちゃう部分があって、気が滅入っていたのだろう。
「戦災」を「震災」に読み替えると、おどろくほど状況が似ているし、共通するキーワードも少なくない。もちろん被害規模は原爆の方が大きいのだが。
たとえば避難所の風景。
水も食料も足りない、医者も看護婦も不足している、支援団体の奮戦ぶり。知人が来て患者や犠牲者を引き取ってゆくありさま・・・。
「ピカの被災証明」が発行されるという話し(しかも手続きが統一されていないというリアルさ!)
放射能を浴びた人が受ける差別。偏見。
ずーん、と来た。
一緒に田舎に避難してきた人たちが原爆症でつぎつぎと倒れてゆく。
主人公の養父にも軽度の原爆症が出て、養母まで倒れた。
最後に主人公も髪の毛が抜け始め(おフロ場でハダカで髪の毛抜いてた。・・・コワイ)、やがて床に就いたまま立てなくなってゆく。
お話はここまでなんだけど、僕には田中好子さんの実際の闘病生活もこんな感じだったのではないかと想像してしまう。
そこであのご本人の「最期のメッセージ」を思い出した。
「・・・お礼の言葉をいつまでも、いつまでも皆様に伝えたいのですが、・・・息苦しくなってきました。・・・」
ここのところ、涙声でしたね。
死者に教わる「生」。
3.11からは、そんな体験ばっかりです。
仙台でも水道水からセシウムが検出されるようになった。
セシウムの摂取=即・ガンの発症ってのはあまりに短絡的で好きじゃないけど、放射能に負けたくない、とは思っている。
抗酸化物とカリウム、カルシウムの摂取。
まけない、まけないぞ。
放射能にも、差別と偏見と排除思考にも・・・!
田中好子さんのご冥福をお祈り申し上げます。
いやいや、特に関連があるわけではない。
けれど、震災で多くの犠牲者が出て、宮城県も福島県も火葬が間に合わず、東京などでも火葬を引き受けていた時期である。火葬場は混んでいたことだろう。
この時期になくなった有名人で、特に忘れられないのが田中好子さん(2011.4.21逝去)。
若すぎる逝去にも驚いたが、その最期のメッセージが被災地への心配りを示すものだったので、僕たちには印象深い出来事でもあった。
最期のメッセージで田中さんは、ガンの痛みに苦しむきれぎれに、震災の犠牲者を悼み、「でもその時(自分が死ぬ時)には、必ず天国で被災された方のお役に立ちたいと思います。それが、わたしの務めと思っています。」と言ってくれた ― 。
気高くて、やさしい人なんだな、と思った。
BELAちゃんが「黒い雨」を観よう、とDVDを買ってきた。
もちろん、田中好子さんが主演だから。
井伏鱒二の名作「黒い雨」は1989年公開。
原爆の直後に瀬戸内海に降ったといわれる黒い雨(放射能を多量に含んでいたといわれる)にあたり、爆心地から離れていたにもかかわらず被爆し、原爆症を発症してしまう主人公を田中好子さんが演じている。監督は今村昌平氏。
バブルの真っ只中に作られた映画なのに、映像はモノクロで、まるで60年前の映画のようにかすれていた。
モノクロにした狙いはいくつかあったのだろう。なによりも爆心地の凄惨な(焼け焦げた遺体など)をそのままカラーで映像にするにはためらいがあったのではないか。
名作だと思った。けどなんだか、正直、見ていてだんだん気が滅入る映画でもあった。きっと今の状況にリンクしちゃう部分があって、気が滅入っていたのだろう。
「戦災」を「震災」に読み替えると、おどろくほど状況が似ているし、共通するキーワードも少なくない。もちろん被害規模は原爆の方が大きいのだが。
たとえば避難所の風景。
水も食料も足りない、医者も看護婦も不足している、支援団体の奮戦ぶり。知人が来て患者や犠牲者を引き取ってゆくありさま・・・。
「ピカの被災証明」が発行されるという話し(しかも手続きが統一されていないというリアルさ!)
放射能を浴びた人が受ける差別。偏見。
ずーん、と来た。
一緒に田舎に避難してきた人たちが原爆症でつぎつぎと倒れてゆく。
主人公の養父にも軽度の原爆症が出て、養母まで倒れた。
最後に主人公も髪の毛が抜け始め(おフロ場でハダカで髪の毛抜いてた。・・・コワイ)、やがて床に就いたまま立てなくなってゆく。
お話はここまでなんだけど、僕には田中好子さんの実際の闘病生活もこんな感じだったのではないかと想像してしまう。
そこであのご本人の「最期のメッセージ」を思い出した。
「・・・お礼の言葉をいつまでも、いつまでも皆様に伝えたいのですが、・・・息苦しくなってきました。・・・」
ここのところ、涙声でしたね。
死者に教わる「生」。
3.11からは、そんな体験ばっかりです。
仙台でも水道水からセシウムが検出されるようになった。
セシウムの摂取=即・ガンの発症ってのはあまりに短絡的で好きじゃないけど、放射能に負けたくない、とは思っている。
抗酸化物とカリウム、カルシウムの摂取。
まけない、まけないぞ。
放射能にも、差別と偏見と排除思考にも・・・!
田中好子さんのご冥福をお祈り申し上げます。