放菴日記抄(ブログ)

これまでの放菴特集・日記抄から「日記」を独立。
流動的な日常のあれこれを書き綴ります。

東日本大震災~The Life Eater25~

2011年05月29日 02時05分18秒 | 東日本大震災
 雨はいよいよ本降りになってきた。
 ガタガタ言っている高速で、雨はキツい。

 いよいよ浦和インターが見えてきた。そのさきには迷宮のような首都高がトグロを巻いている。
 道路は極端に広くなって、その向こうに料金所がまるで港の水門のように口を広げて待ち構えている。
 このとき、僕の頭の中では、「パイレーツofカリビアン」のテーマ音楽が流れていた。
 (どんだけオオゲサなんだい?)
 
 このさきをどのように走ったものか、よくおぼえていない。
 あれよあれと環八に出て、武蔵新田の式場に着いたのは午前11時。
 しばらく待合室で待たされる。

 このとき、テレビを点けていて、こっち(東京)でも「公共広告機構」のCMが流れていることを知る。
 しかし、この出演者たちも、ここまでヘヴィローテーションで流れるとは思っていなかっただろう。
 たまたま撮っていたCMなんだろうけど、企業のCMが一斉自粛しちゃったもんだから、震災関連の番組の間をこの「公共広告機構」のCM群が占めた。いずれ首都圏は元通りに企業CMがテレビを賑やかにするだろう。東北は、もうちょっとかかるかもしれない。

 告別式が済んで、そのまま斎場(火葬場)へ向かう。
 静かな住宅地の奥に斎場があるのにはちょっとびっくり。
 霊柩車を誘導する係員がおっかなさそうだったのにもびっくり。
 そして、広い駐車場に霊柩車とマイクロバスが何台も並んでいるのにはもっとびっくりした。

 降りてみれば、なんと火葬の焼き窯がずらりと並んでいる。10ではきかないくらい。
 そこへつぎつぎと柩が据えられて、順番に窯に押し込まれてゆく。

 なんだかなぁ・・・。

 いかにも東京らしいというか・・・。
 地方都市の10倍以上の人口を抱えるからか、それとも関東人特有のせっかちさゆえなのか・・・。
 柩の前で別れを惜しむ時間はくれたものの、あとはつぎつぎと窯に入ってゆく。遺族はそのまま二階の待合室へ。待合室ったって、これまた豪華なカラオケルームみたいなのがずらりと並んでいる。戸口には「○○様」と書かれている(迷子になる心配だけは無用のようだ・・・)。
 
 雨の降るなか、二階の窓から桜が見えた。 
 満開の頃をややすぎたのだろうか、この雨で散りはじめるかもしれない。
 ―涙雨に散り桜、か-
 
 「○○様のご遺族の皆様、ご集骨の準備が整いました。」とか放送が入ったのでまたみんなゾロゾロと窯の前へ集合する。
 横をみれば、他所様でも「ご集骨」のようで、みんなハンカチとかを口に当てながらむき出しの白骨を眺めている。

 なんだかなぁ・・・。
 
 まぁしかし、これだけ大量に火葬することができるのであれば、被災地とかで犠牲者の火葬が追いつかず土葬にする、なんて悲劇もおこらないだろう。事実、犠牲者の火葬を東京に依頼した自治体もあったのである。

 「ご集骨」して骨壺におさまった叔父さんを式場に移してまた法要を営む。
 僕たちは直会の早い段階で退席することにした。また東北まで帰らなければならないから。

 帰り、第二京浜目黒口から高速に乗る。ほんと迷宮ですな。
 雨はあらかたおさまっていた。
 行きもそうだが帰りもロクに休息を摂らずに疾走する。

 一気に浦和を突破(笑)
 そのまま宇都宮付近まで道路状況ムシで突っ走った。

 ところが・・・。

 加須SA手前でお義父さんが具合が悪いと訴えた。
 SAで停めると、吐いてしまった。

 強行軍だったか・・・。それとも震災のストレスが祟ったか。
 これはゆっくり休み休み帰るのがいいのかな・・・。長旅だけど。

 ところがお義兄さんはそうは考えない。
 それからは前にもましてガンガン高速を攻めた。
 とにかく走る、抜かす、怒る(?)
 前方にトラックが入ると激しく罵倒する。
 カーブも下り坂も、とにかくアクセルしか踏まない。

 そうして、予定時間より40分も早く角田に着いてしまった。
 すごい・・・。
 
 お義兄さん曰く、
 「だって、のろのろ走っていたってしょうがねぇだろ。早くウチに着いたほうが休めるし。」

 このヒトも英雄・・・かな?


 どうも宮城県にいるだけだと、外の様子がさっぱりわからない。
 首都圏に出て、他所から見た被災地というものをかすかに体験できたような気がする。
 ガソリンも仙台とくらべて10円/ℓ安かったし・・・。
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東日本大震災~The Life Eater24

2011年05月27日 01時12分08秒 | 東日本大震災
 「川崎の叔父さんが亡くなった。今度の土曜日に葬式だと。」
 ようやく4月にはいったばかりという頃、その電話は突然かかってきた。BELAちゃんの実家からだ。
 これはBELAちゃんにとっても大きな驚きだった。
 「最近、叔母さんの方がすっかり弱ってきてるって聞いてたのに、叔父さんが先に逝っちゃったんだ・・・。」
 BELAちゃんも川崎へは何度も遊びに行っており、ずいぶん可愛がってもらったとのこと。
 
 こんどはお義兄さんから電話があった。
 「今度の土曜日に葬式だってな。オヤジとオフクロが行くっていうんだから仕方が無い。オレは一緒にいくけどそっち(放菴)ではどうする?」
 「はい? え? ちょっ・・・。」
 聞き間違いじゃあなかろうか。
 だれが行くって? お義父さん? マジで? ずいぶん脚弱ってきているのに。それにまだ新幹線走ってないんだよ。
 
 そう、4月の上旬はまだ震災の影響で新幹線は那須塩原ー東京間しか走っていない。 
 「だからクルマだろ? どうすっかな、那須塩原まで高速でいって、そこからJRか?」
 このころ東北道はやっと災害復興を目的としない一般車両も通ることができるようになっていた。
 そうか・・・、クルマとなればBELAちゃんよりも自分が(BELAちゃんの名代として)行くことになるのか。でも那須塩原から新幹線が妥当かしら。
 「あ、だめか。東京駅の構内あるくだけで年寄りは疲れちゃうからな。乗り換えどころじゃない。そうなると、やっぱり首都高乗って式場まで行くしかないのか。」
 ・・・ですね。
 「オレ首都高走ったコトないんだよな。COZYはどうや?」
 ・・・浦和から先は未知の世界です・・・。
 ため息が出る。こりゃ大変だ。

 でもやっぱり行くしかない。義父が一旦「行く」と決めたら、誰にも留めることはできない。
 ぼくらはさしずめ貴重品を輸送(護送)する運転手のようなものだ。一人では任が重いので二人で行くというリクツ。

 さっそく道を調べる。いろんなサイトを見比べて、横浜の友人にもルート教授を請い、なんとか第二京浜に出ろ、と教えてもらった。

 出発は4月9日(土曜日)。角田から朝早く出発するので、前日に僕たちは角田の家に集まることになった。
 
 ところが、だ。
 4月7日(木曜日)に大きな余震があった。角田市は再び断水地獄へと陥ってしまった。
 翌日はありったけの水をボトルに詰めて角田へ行った。義兄も80㍑くらいタンクに詰めて持ってきた。
 
 角田はそのころ、まだ下水も排出規制が続いていた。つまり、固形排泄物は流さず新聞に包んで埋めるか焼くかして処理していたのだ。
 そこへきてまた断水だ。住んでいる人たちは、いいかげん身体がおかしくなりはしないか。


 翌日は午前4時に起床。朝ごはんも食べずにクルマを出発した。首都高行きは、義兄のクルマになった。

 白石インターから東北道へあがる。
 想像はしていたが、やはり路面は凸凹がひどい。
 道路の陥没、路肩の亀裂、傾く標識。

 国見SA付近からはますますひどくなった。
 不規則な段差がとにかく多い。ふいに突き上げてくる衝撃で息が詰まりそうになる。
 (なるほど、一時期は特殊車両しか通れなかった理由がよくわかる。)

 郡山付近では磐越東線の案内で「常磐道、いわきー富岡 地震災害のため通行止」とあった。
 書きかた間違ってないか?「地震災害」じゃねーだろ。原発災害じゃないか。

 いずれ書くけど、仙台からつくばへ帰省する時には、たいてい角田-相馬-南相馬ーと来てから富岡、いわき、常磐道というルートだった。そのいつものルートが放射能に汚染されて、通ることさえ許されない。
 住人ではなくとも、知っている地域がこのような悲劇に見舞われていると、涙が出てくる。いいところなんだよっ、ホント。

 東北道を南下するにつ入れて、なんだか景色に不思議な変化を感じた。
 なんとなくだけど、東北地方と関東地方では空気感がちがう。
 でも今日の変化はそんなことじゃない。

  ふと視界の境を何かが横切った。
 あれ、今の・・・。
 サクラ?

 「サクラじゃねぇか今の?」
 お義兄さんが言った。
 「あれ?」
 また何かが視界のスミをよぎった。

 「ああ、確かに。サクラですね。」
 場所はだいたい塩原SA付近。高速道路わきの植樹にまじって、うす紅いろの花が顔をのぞかせている。
 そうか、北関東までサクラの開花が進んできたんだ。
 宮城はまだまだ肌寒く、梅が咲いている。というより春の彩りをたのしむ気分じゃない。サクラがいつ咲くかなんて考えてもいなかった。 
 ・・・そうか、もうサクラ咲く頃なんだ。
 4月9日、那須塩原付近にて。いま僕らはまさに「サクラ前線」と遭遇しているのだ。
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東日本大震災~The Life Eater23

2011年05月20日 12時45分14秒 | 東日本大震災
 震災直後、街を行く人の服装は、そりゃージミだった。

 まず、ヒール履いているひとがいない!
 確実にいない!

 いたかもしれないが、あんまり出会う確率が低くて、結果見かけていない。

 それからジャージ姿が圧倒的に多い。
 メガネさんも多い。
 背中になんか背負っている人はかなり多い。

 それもこれも状況を考えれば当然のことだった。

 停電・断水でお風呂に入れた人はほとんどいないのだ。お化粧なんて出来るわけがない。コンタクト装用者だって消毒のし様がない。
 これがメガネさんの多い理由だろう。
 洗濯もままならない。手間のかかる服はあっても着れないのだ。
 そして、毎日どこかのお店で並ばなければならない。
 ヒールなんて疲れて疲れて履いていらんないだろう。背中に何かを背負っている理由もお店に並ぶことと関係がある。
 
 みんな一様に大きなバッグを持ったり背負ったりしている。
 ときどきネギやゴボウ、大根がはみ出していたりする。
 こういうところでも「ああ、恐慌なのかな」と思ってしまう。

 僕も大きなトートバッグを抱えてずいぶん歩いたし、ずいぶん並んだ。
 駅前の鶏肉屋さんでは、身を切るようなビル風のなか並んで、お肉を1Kgゲットした。
 ふくらんだトートバッグを抱えて帰るとき、だれかに狙われないかと疑心暗鬼になったが、幸い仙台では略奪の話は一切なかった。
 「みんなで助け合おう」、というと大げさだが、それなりに「困っている人」を出来る範囲で手助けしよう、また必要以上に「困った話」を作らないようにしよう、という意識は、確実にあったと思う。

 だれもが心の中では想像以上に傷ついていたのだろう。直接的な被害に遭わなくても、だ。
 自分もずいぶん涙っぽくなった。犠牲者の話をきくと目が赤くなってしまう。
 
 次男Mは、いまや家に一人で居られなくなってしまった。余震が怖いのだという。
 一人で留守番しなければならない状況だと、さっさと自転車に乗って遊びに行ってしまう。集中力もない。
 「PTSD」というと大げさかもしれないが、今ケアしてあげないと、心の傷が残るような気がする。

 僕の職場は小規模作業所だが、ここでも「PTSD]と思われる利用者が急に増えた。
 作業に集中していない、不可解な行動を繰り返す、自傷、多傷、妄想。
 いま、ここは修羅場である。

 「り災しょうめいしょ」と書きなぐった紙を突き出されたときには、どう対応してよいかわからなかった。


 いま「恐慌」がほぼ収束し、以前のような「他者を困らせない」思考は表立って出てこなくなった。
 みんなキレイな格好をして、ヒールの高いクツを履いている。もう、ジャージ姿で大きなバッグを背負っている人も見かけない。
 世間が一定の落ち着きをとりもどしてしまうと、今度は心の傷も隠されたままになってしまう。ウチの子もそうだが、いまこそ注意深く接しなければならない。
 僕自身も、ダメージは決して「ない」と断言しないことにしている。
 泣けるところでは、泣いたっていいと思う。疲れたら、疲れた、と言おうと思う。
 同じ理解を他者にも示していきたい。
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東日本大震災~The Life Eater22

2011年05月16日 01時14分20秒 | 東日本大震災
 「上着と冷蔵庫あるんだけど、ほしい人いないかな?」
 横浜からのメールが届いた。

 上着は避難所でもらってくれる人がいるかもしれない。
 岩沼に支援物資を受け付けているところがあるから行ってみるよ。冷蔵庫は・・・、知り合いに聞いてみようか。

 被災はしたけれどワリと早くアパートを借りることができた人たちが電化製品を必要としている、という話は聞いていた。だから、冷蔵庫はきっと役に立つはず。
 
 ここでまたまたBELAちゃんネットワーク起動。いい人見つかるといいんだけど。

 まるでジグソーパズルのピース穴を見つけるようなことを僕たちはしている。
 これは別に震災だからという話ではない。
 誰かにとって必要なものが、いま提供されている。これを繋げてゆかないのは勿体無い話ではないか。

 メールの返事は意外に早かった。
 さきの「慰問」でも賛同してくれた友人Aさんが「石巻で被災した友人に冷蔵庫を贈りたい」と言ってくれた。

 石巻・・・。
 もともと、北上川の河口付近に発達した都市で、漁港としても有名なところであった。
 笹かまぼこなど水産加工産業も発達している。
 お隣の牡鹿半島は、その昔、捕鯨基地があった。いずれも海とは切れない深い関係があったのだ。
 石巻は北上川の川開きというお祭りがあって、花火大会が有名であった。

 そこも津波でやられた。

 ここの悲劇は、被害の格差が大きいということだという。
 津波をかぶった家がある、かぶらなかった家がある。
 火災が舐めつくした通りがある一方で、ススひとつついていない通りがある。
 多くの犠牲者を出してしまった地域、ほとんど犠牲者を出さなかった地域。港に近い地域では、地殻変動による地盤沈下で土地が水没しているところもある。(とくに4月ごろからは大潮の時期を迎え、海水が床上まで上がってきているという。)
 
 この格差が、住んでいる人を苦しめる。
 被害の少なかった人は、却ってそのことで気に病み、家から一歩も出れなくなったという。
 市内の斎場は損壊してしまい、犠牲者の火葬が間に合わない。やむなく1000人ほどの犠牲者を土葬にしたという。  

 想像を絶する状況だ。
 そんな中で「石巻で被災した友人」はなんとか自立生活の決意を固め、生活用品をいろいろ取り揃えているという。
 よし・・・。ピース穴は見つかった。あとはどうやってそこへピースを持ってゆくか・・・だ。

 ここで問題なのは、やはり「流通」ということになる。
 海沿いに延びる三陸自動車道はなんとか再開したものの、つねに支援車両の往来で渋滞まで発生している。
 さらに宅急便は、津波の被害があった地域への荷物は受け付けてくれない。しかもブツは冷蔵庫だ。
 デカいし、横倒しNG。一般貨物ではなくて、引越し荷物になるとか・・・。
 (「それでもリサイクル処分しちゃうよりは安いかも」、と横浜のMクン)

 しばらく、悩む日々が続いた。

 そのあいだ、「レンタカーで石巻まで直行するか」案、「やっぱり横浜で処分するか」案などが浮上。
 レンタカーというのは、冷蔵庫を運べるほど背の高い車両を横浜から借りちゃおうという案。(でも結局、レンタカーで被災地に乗り入れるのは出来なかったらしい・・・。)
 「処分」ってのはそのまんまリサイクル処分しちゃうということ。もちろん石巻行きはナシになる。
 なんとか横浜の方には待っててもらい、その間にこちらでクルマの準備が出来ないか、考えることにした。

 僕らとしては、なんとか届けたい・・・。でも友人Aさんにも、その先の石巻の友人さんにもそれなりに遠慮があって、横浜のMクンにそうそう負担をかけたくないという思惑もあった。
 Mクンには悪いが、遠慮している場合ではないのに・・・と思った。
  
 なんとか大きいクルマの準備ができたのが、4月の17日。
 よし・・・、というんで横浜に連絡。宅急便で仙台まで送ってもらうことにした。
 横浜に電話してみると、
 「明日(日曜日)にはムリ。早くて翌週の木曜日だってさ。」
 ちなみにブツは、産業道路近くの営業所留めにしてもらった。
 毎度毎度、ホントに申し訳ない。 
  
 友人Aさんに伝えると、「じゃあつぎの土曜日か日曜日に荷物受け取って石巻まで行きます。」とのこと。
 
 僕も運ぶのを手伝うと申し出たが、Aさんご夫婦で運ぶからいい、といわれてしまった。
 (なんかオレ、取り次いだだけでちっとも働いていない・・・。)

 翌週、友人Aさんから無事に冷蔵庫を石巻まで届けることができた旨連絡あり。よかったよかった。 
  
 あたりまえだけど、「支援」、って難しい・・・。
 (ここで「偽善」については何の意味もなさないので論じない。要は実効性のある支援であればそれでいいのだから。)

 理想はもちろん「個々の事情にあった応援」というヤツなんだけど、これはまるでジグソーパズルのピースを見つける的な難しさがある。と、思う。ピースが見つかり、カチッとはまること。それを「支援のマッチング」とかいうらしい。
 しかしパズルのピースを見つけたら見つけたで、その瞬間、今度はピースの見つからなかった人との間に不公平が生じてしまう。
 かと言って、平均的な充足率(バランス)だけを見て「(たとえば)食料は足りている」とか認識を示したとすると、これはこれで未だに食料難に苦しむ人への支援が絶たれる危険がある(行政がいまこのような状態にいるのではないか、と危惧しております)。
 この危険を生んでいる原因のひとつに「個人情報保護」という考えがある。
 支援したいと思っている人がいても、この「個人情報保護」が障壁となってなかなか情報が得られない、という話はときどき聞かれる。
 (障がい者支援団体などもこの問題で苦慮しております)
 個人情報は保護しつつ、支援の要望だけはなんとか表に汲みだせる仕組みはないものか。

 で、この冷蔵庫の場合は、けっきょく個々のマッチングを優先した事例といえる。

 
 後日、横浜からMクンが遊びに来てくれて、友人Aさんとお引き会わせすることが出来た。
 ほんとうにほんとうにありがとう。
 あ、自分メールばっかりでなんにも働いてないなぁ・・・。

 石巻では、今年も「川開き」祭を行うという。「被災地なんだから自粛しろや!」などといろいろ言われたことだろう。
 でも僕はお祭りを行うことには賛成する。「川開き」は、もともと海難者を供養するお祭りなのだから。
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東日本大震災~TheLife Eater21

2011年05月13日 12時22分21秒 | 東日本大震災
 「恐慌」のさなか、乳製品の競争倍率は高かった。
 行列に並んで買わなければならなかった頃は言わずもがな、物資が流通するようになってもまだまだ乳製品は貴重品だった。
 来る日も来る日も牛乳コーナーとかヨーグルトのコーナーはからっぽ。そこにまるでからかうように「お一人さま限定1個」と書かれている。
 買占めを制限したのに早々に売り切れる。そのくらいみんなカルシウム源の乳製品を求めていたのだ。
 (それでも、どこのお店も便乗値上げをしていないのはエライなぁと思いました)
 
 乳製品が品薄になった理由は、パッケージ業者の回復が遅れたためだと言われている。
 (ほかにも原発のこととか、いろいろあると思うけど・・・。)

 そんななか、職場の人が牧場の人に直接頼み込んで、生乳を分けてもらえた。

 夕方近く、牧場の人がトラックで来て、なにやら重そうなものを降ろしている。
 
 それは、牧場で搾乳した生乳を出荷するときに使う大きなタンクだった。

 ・・・でかっ。

 「ホントにナマだかんね。すぐに加熱殺菌しないと飲めないよ。」
 へえええ。

 「わざわざありがとう。」
 職場の人は生乳をもらうと(お金はらったのかどうかは不明)、すぐに電気ポットに詰めはじめた。
 なるほどね。電気ポットで加熱するのか。
 「これね、難しいんだよ。沸騰させるわけにいかないからね。」
 あ、そっか!

 しばらくして、加熱したての牛乳を飲ませてもらえた。
  - あまぁーい・・・。 ―
 とろぉりとしている。生乳100%だからだ。
 どこか不思議な香りがする。
 ・・・なんというか、ナッツを焦がしたような、 
  ・・・または、お日様にあてたシーツのような
   ・・・真夏にかじる夏野菜のような。
 うーん、なんだろう?

 「みんなでペットボトルに詰めてお持ち帰りにしよう。」
 賛成!
 
 ちょうどその日は、BELAちゃんが「慰問」の打ち合わせをウチでする日だ。(「The Life Eater17」を参照)
 こんなおいしい牛乳をコーヒーに入れたらサイコーだよ!

 さっそく放菴へ持って帰った。

 ビーカーに入れて暖める。
 これを、みんなが集まっているテーブルの真ん中にそのまんまドンと置いた。
 
 この「恐慌」のさなか、牛乳でっせ!しかも生乳100%でっせ!
 ビーカーは子供たちを中心に早くに空っぽになった。

 
 あとで聞いた話だけど、牧場ではこの牛乳は捨てていたという。
 業者が取りに来てくれないからだ。生産者が健全でも、流通とパッケージングにダメージがあると、こういう勿体ない話になってしまう。

 あれ、おいしかったな。
 また飲みたいな。

 あ、そうだ! あの香り。
 あれは、「干し草」の香りだ!
  牛さんが食べていたものがそのまま香りになっていたんだ。
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東日本大震災 ~The Life Eater20

2011年05月11日 12時40分09秒 | 東日本大震災
 息子が通っている小学校校舎の損壊はひどかった。

 外から見ると、校舎のところどころ亀裂が入り、部分的に鉄筋が覗き、さらに階段の踊り場とかまで見えていたりする。

 聞いた話では、漏電の恐れがあって建物に入電できない状態だという。
 だからパソコンも使えず、通信簿の作成もできなかったとのこと。
 (息子が通信簿を持ってきたのは、年度が改まった4月28日でした)
 
 給食設備も損壊。自主給食ができない状態。

そういえば、震災当日、息子は上履きのままランドセルも持たずに帰ってきた。
 体育館にいったん避難したものの、揺れが一向に収まらないので、児童は教室へはもどれなかったのだ。
 お友達の中には、避難行動の途中で片っ方のクツがぬげて、そのまま帰ってきた子もいたという。
 上着だけは、教師が校舎から抱えて持ってきて、学級ごとに分けたという。


 「思わぬ展開」で始まった春休み。
 大人も、通勤できない状態になり、「思わぬ休暇」となった。
 そのことが、子供たちにとっては「思わぬ救い」であったようだ。
 
 震災からの一週間は、ほとんど職場へは行けなかった。(水も電気も止まっていて業務が出来なかった)
 だから僕たちはずうっと子供たちのそばにいた。
 
 子供たちとはいっぱいいっぱい話ができた。
  震災のこと、津波のこと、いのちのこと、 
   死ぬということ、食べるということ、うんちをすること
    じいちゃんばあちゃんのこと、近所との扶けあいのこと、
     
 子供たちはお手伝いもいっぱいしてくれた。そしてよく笑っていた。
 (「飢餓感」と「恐慌」の所為だろうか、お米の消費が激しかった。)

 いつもよりもじっくり子供に向き合えたかもしれない。
 子供たちも「いつものお休みよりも楽しかった」という。
 普通の「楽しい」とは、多分、意味がちがうんだろう。べつに遊びまくったわけでもない。ただ、行列に並んだり、物資を運んだりして一緒に行動していただけ。
 それでも「楽しかった」という。

 ― 家族が無事で、ホント、よかった・・・。 ―
 (子供たちよりも、「一緒にいられる幸せ」は、僕のほうが実感できたかもしれない。)

 新学期は4月11日。
 仙台市はムリムリ再開したような観がある。
 それでも給食が出せず、毎日ウチでお昼を食べる日々。
 翌々週からはお弁当を持参。
 5月の連休明けには、主食だけ出るのでオカズを持参するようになった。
 (これはこれで、結構シンドイ・・・。)

 仙台市内では校舎の破損により、児童が別々の学校に通わなければならないところもあるという。それに比べたら、ウチはまだマシなのだろう。
 でも、あの校舎、どーすんですかね?
 
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東日本大震災 ~The Life Eater19

2011年05月11日 10時59分13秒 | 東日本大震災
 震災からちょうど一ヵ月後の4月11日、我が家もやっとガスが復旧した。
 
 すこし「ほっ」とした。
 やはり三つ口のガスコンロがいちばん調理効率がいいからね。
 震災直後にはカセットコンロ一つだった。
 (このときは物資がなかったから不安の極みでしたねー)
 横浜からの支援物資「IHヒーター」の登場でずいぶん楽にはなった。
 「沸かす」「煮る」「焼く」が出来るようになったからね。
 それでもいっぺんに出来るわけではない。 
 
 いまさらながら、やり慣れた方法で調理できる日を懐かしく思ってしまう。
 こんなことグチると、「家があるだけマシだろが!」と怒られてしまうかしら・・・。


 宮城県におけるガス設備の破壊状況はホント深刻で、実はガス精製設備の復旧なんて目途すら立っていない。

 窮余の策として、新潟から天然ガスを分けてもらい、それをライフラインに直結することになったようだ。
 しかしガスを開線するったって、各家庭を訪問してガス管に問題がないか確認しながら行うしかない。また、地域のガス管が破損していないか、すべての管を点検してまわる必要がある。しかも全県で・・・。
 すんげー気の遠くなる作業・・・。

 そこで、全国のガス局が立ち上がった。

 ガタガタの高速道路を走って続々と終結する災害復旧車輌。
 庁舎前で団結式を行って、早速それぞれの持ち場に分かれていった。

 それからというもの、道路ではあちこちでイロイロな自治体の車輌を見かけるようになった。
 「大阪ガス」「東邦ガス」etcetc。

 余談だが、水道設備が復旧していない地域にもイロイロな自治体の給水車が走り回っていた。

 いやぁ、自衛隊も警察も大活躍だけど、ライフライン復旧に駆けつけてくれた全国の皆さんもスゴイ! みんなみんな英雄です。

 実は4月7日の大きな余震でもまたガス管の損壊があった。
 一瞬、ガス開線作業は一からやり直しかよっ、という空気になったが、なんとかリカバリーできたみたい。

 そんなこんなで4月11日・・・。

 まだまだ復旧できていない地域には申し訳ないが、ウチにやっとガスの炎が戻ってきた。

 放菴にガス局さんが訪問したとき、思わずBELAちゃんはウチにあったお菓子をいっぱいあげたという。
 僕でもそうしたかもしれない。
 やっぱりありがたいもんね。
 これで毎日お風呂に入れるようになった家庭も多いんじゃないかな。

 被災地に入って活動してくれているみなさん、ありがとう。
 支援してくださっているみなさん、ありがとう。

 僕たちも力をためて、少しずつ出来るところからお手伝いをしていきます。
 
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東日本大震災~The Life Eater18~

2011年05月06日 00時51分15秒 | 東日本大震災
 月があらたまって4月7日(木曜日)、ものすごい余震がきた。

 はっきり言って油断していた。
 まもなく震災から一ヶ月だっつーのに、こんなエゲツナイほど揺らすなっ、と言いたくなる。

 このころ、まだまだ余震の回数は多くて、震度3~4ぐらいの地震が日に数回は起きていた。
 いずれも震源は宮城県沖とか南三陸沖とか言っている。
 もうしょっちゅう地震が起きるもんだから、いつも揺れている気がしてならない。

 よく頬づえをついてぼうっとしているときに、ひじを伝わって揺れが来る。
 あ、揺れているな、と思う。ところがこの揺れは大きくも小さくもならず、比較的正確なリズムで揺れている。
 なあんだ、自分の脈動かと気がつく。 コンナノばっかし。

 かと思えば、寝ていて揺れに襲われると、びっくりして動悸が激しくなる。
 これがまた三半規管を揺らし続けるもんだから、いつまでも揺れている気がしてならない。
 要するに「地震酔い」の状態なのだ。
 このような症状の方、けっこう全国的にいらっしゃるのではないか。

 4月7日(木曜日)。
 そのとき、僕らはその日の家事をひととおり終えて寝ようと思っていたところだった。
 
 突然グラグラっと震れだした。地鳴りもP波もなし。
 震れはそのまま一気に加速し、家の中のものが一斉に騒ぎだした。
 
 グワラグワラ!カチャガチャ!ガシャンガシャン!

 グラスのぶつかる音が恐ろしい。
 電子レンジやお盆までもが棚の上で踊りだした。
 あわてて僕は食器棚と棚をそれぞれ両手で押さえる。すると今度は背後でゴンゴンと冷蔵庫が壁にぶつかっている。
 両手がふさがっているので、後ろ向きのまま片足を冷蔵庫にペタっとくっつけた。何かへんてこな姿勢。
 要するに「一粒で300m」の某老舗菓子メーカー「ビ○コ」に描かれている人のような格好で家具にへばりついていた。
 何かが倒れる音がした。BELAちゃんは這うようにして子供部屋へと駆けつける。

 長いなー。久々に長くない?
 このまま震災のときと同じくらいまで震れるのはヤだな。   
 
 食器棚の中でワイングラスが一個ひっくりかえった。
 ―わ、割れるなよっ。ペアグラスなんだから!―

 あたりはガチャガチャと騒音の大洪水。そのまま数分続いただろうか。
 やがて真夜中の地震は、ゼンマイの切れたチョロQのように力をなくしていった。
 
 「ガチャガチャ」は「カチャカチャ」程度になり、さらに「カチカチ」になってゆく。
 
 最後に、夜の静けさが戻ってきた。 
 ふうう。
 静寂とともに、自分の動悸がめちゃくちゃ早いことに気がつく。
 まるで耳元で鳴っているみたいにバクバクいっている。

 やっとの思いでBELAちゃんのところへ行き「ひ、久々に来たねぇー!」と笑ってみせたが、多分、自分が思っているように笑えてはいなかっただろう。
 

 あくる日、出勤の途中、あちこちで信号が止まっているのには驚いた。
 えー、また停電しちゃったの? 昨日の地震で?

 またまた悪夢の再来か。
 ガソリンスタンド、コンビニなど、みんな行列を作っている。
 
 幸い、停電はその日のお昼ころまでにはあらかた復旧した。
 ところが、である。

 ガス管に若干の被害があったようで、それまで復旧の進んでいたガス開栓作業がすっかり停止してしまった。
 ガスの復旧作業には、全国のガス会社から多くの技師さんたちが応援に駆けつけていた。
 街を行けば、大阪ガス、東邦ガスなどの車両をよく見かける。
 助けてもらって、せっかくここまで開栓作業が進んでいたのに・・・。

 さらにさらに、県南部ではまたもや断水となった。
 お馴染みの柴田町、大河原町、角田市などが軒並み水が出なくなった。

 このことを聞いたBELAちゃんはせっせと水をタンクに詰め始めた。
 このタンクをクルマに積んで僕は夕方、角田へ向かった。
 (角田のお義父お義母さんは土曜日に東京まで葬式に行かなければならなかったのです。この話はまた今度・・・。)

 
 余震がまだまだ続く。なんとなく空気が張り詰めていて、そのことでますます気持ちが疲れてゆくのがわかる。

 震災から一ヶ月という4月11日にも、突然だれかのケータイから警告音が鳴った。地震速報だ。
 「な、なになに、またかよ。」
 僕らはそのとき、家族全員でクルマに乗っていた。
 場所は仙台一高前から荒町方面へ向かうところ。ちょうどJRの高架橋の下だった。しかも前方は赤信号渋滞。
 ― よりによってここですかっっ ―

 JRは仙台駅の損壊のため運行を取りやめているので、さいわい列車が頭の上を通過する状況ではない。
 けれど震動のせいでレンガの一つでも落ちてくるんじゃないかと気が気でない。どこの構築物も連日の余震つづきで痛めつけられている。建物が従来の強度を保てている保障はどこにもないのだ。

 しばらくして揺れがきた。
 
 少しでも高架橋の下から出ようとクルマを前へ詰める。すると状況を察したのか、前のクルマも前へ詰めてくれた。
 ありがとー。みんなこのごろヤサシイな。

 たわんだ電線がユッサユッサと揺れている。あれが切れたら地獄だな。

 ラジオを点ける。
 しばらくして震源地が福島県と茨城県の境であることを告げていた。震度も5強。宮城県沖だけでなく常磐エリアでも活発になったようだ。原発事故が悪化しなければいいんだけど・・・。
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東日本大震災~The Life Eater17~

2011年05月01日 02時53分41秒 | 東日本大震災
 「ねえ、何かしたいんだけど。」
 はい? なにかとは?
 「だから、避難所へ行ってなにかしたいんだけど。」
 それは、つまり「慰問」ってこと?

 BELAちゃんの突然の思いつきにとまどいながらも、(この人もスイッチはいるとスゴイんです!)彼女の次の言葉を待った。

 「以前、子供会で『走れメロス』やったでしょ。あれならママさんたちとまた上演できると思うの。」
 
 以前、子供会の企画で演劇ワークショップを行った。在仙のプロに台本&演出をお願いし、舞台経験のある役者さんたちにも手伝ってもらいワイワイと作った。子供会でもこんな企画ができるの!?というくらい楽しそうな体験だった。放菴からは子供二人とBELAちゃんが参加した。

 「とりあえず、有志をあつめて話し合いしてもいい?」
 どうぞどうぞ。平日なんでなかなか関われないけど。

 3月28日(月曜日)、BELAちゃんのメール攻勢は、たちまち5~6人の賛同者を確保。翌日(火曜日)にはみんな放菴に集まることになっていた。BELAちゃん、完全にスイッチ入ってマス。

 その火曜日、僕が職場から戻ると、玄関に大量のクツが置いてあった。
 ひぃふぅみぃよぉ・・・。
 「台本と演出でSさんにも来てもらうことになってるの。」 
 放菴はコーヒーのいい匂いでいっぱいだった。このコーヒーも横浜からの支援物資。
 ひさびさにいい香り。
 お話はどんどん盛り上がった。決行日も3月30日(水曜日)と決まった。僕もせっせとコーヒーを沸かした。

 ところがその後ちょいと風向きが変わってきた。

 台本と演出でお世話になったSさん、「走れメロス」が今ふさわしい題材かどうかは疑問だという。
 「いや、気になったことなんですが、王が残虐であることと、それから、途中にメロスが濁流を渡るでしょう? ちょっと「慰問」にしては激しいかな。とくにモロ津波を見てきた人にとって「濁流」は恐いのを思い出しちゃってキツイでしょ。」

 ああ、なるほど・・・。

 「それに、いまからセリフ入れる(暗記する)のは大変だから、きっと朗読劇になるんでしょ? 朗読劇でメロスの動きを出すのは難しいかなぁ。」

 ふりだしにもどっちゃった。
 これでなんとなく「走れメロス」は立ち消え。Sさんも「お役に立てなくて・・・。」と恐縮して帰っていった。
 
 「でもなんかやれるんじゃないかな。それぞれがリーディング劇とか朗読とか落語をやればいいんじゃない?」
 BELAちゃん、へこたれません。

 次の日(水曜日)、僕が職場から戻ると、玄関のクツの数はもっと増えていた。
 なんとそれぞれ劇と朗読と落語がほぼ決まり、稽古に入っていた。
 トップバッターは在仙の劇団員3人によるリーディング劇、そして朗読が三つ、トリは落語。
 それぞれの所要時間を確認し、演出について各自から注釈が付いていた。
 たった一日でここまで詰めているなんて・・・スゴイ!

 僕はまたせっせとコーヒーを沸かした。

 慰問する避難所は近くの中学校。
 震災直後、ここはマンション被災者であふれた。
 マンション被災者は、主にライフラインの切断により家に入れなかった人、または入れたけれど暮らせない状況の人。
 みんな水と電気が復旧したあとも、貯水槽の故障やらマンション躯体や設備の問題でいつまでも帰れなかった。
 受け入れた中学校でも教頭先生以下職員が輪番で宿直していた。
 BELAちゃんたちが慰問したときには、みんなマンションへ帰れていて、ほとんど高齢者だけが残っているような状況だった。

 3月30日(木曜日)、僕が職場から帰ると、中学校の方から10人くらい集団で歩いてくる人を見た。
 子供がふたり駆け寄ってきた。あ、うちの子だ。
 
 みんなで慰問を終えて放菴へ戻ってくるところだったのだ。
 中には、以前ブログで書いた「鬼神楽(おにかぐら)」に出演していたお顔もちらり。
 すごい人たちと慰問してきたんだね。

 僕はまたせっせとコーヒーを沸かした。
 みんな楽しかったようで。よかったよかった。
 
 みんな何かできることをさがしていたんだね。
 そんでもって「何かを演(や)れる」という喜びもさがしていたんだね。
 
 「またやりたい。」
 みんなそう言っていた。
 うん、やれるといいですね。
 ちなみに、演出のSさん、現在あちこちで「セロ弾きのゴーシュ」を熱演中です。

 あ、そんな話をしていたら、コーヒー切れた。
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