横浜から北海道の山村に移り住んだ、我が家のつぶやき

北海道追分に移り住み5年。今度は追分から恵庭へ。毎日が新鮮で愉しい事だらけ。そんな生活を気まぐれにおしゃべりしています。

映画「ツォツィ」 

2010年12月05日 08時01分56秒 | 映画

こんな映画を観た。「ツォツィ」・・(ツォツィとはチンピラの意)

             

南アフリカの旧黒人居住区、ソウェト。ここにはプレハブで作った小屋が立ち並び、昼間から暇を持て余した若者たちがたむろしている。ツォツィもその一人。ツォツィは仲間を従え、毎日のように強盗、窃盗を働いていた。ツォツィは仲間にも容赦しない。そっけないし、気にいらなければ殴りつけて、重傷を負わせてしまう。

 スラム街の小さな小屋で、父親は飲んだくれ、母はエイズにかかって瀕死の状態。父は息子を母親に近寄らせず、酔っ払っては暴力を振るう。
幼いツォツィは家を飛び出し、独りで生きてきた。頼れるのは自分しかいない。ツォツィは愛情とか優しさとか、気遣いとかは無縁の世界で生き、また、そうしなければ、生き残れない世界でもあった。

 そんな彼の日常に思いもかけぬ事件が起きた。ある日、ツォツィはいつものように強盗を働こうと高級住宅街へと向かう。ツォツィは運転していた女性を銃撃して車を奪い取り、逃げ出すことに成功する。しかし、なにやら後ろの座席から泣き声がする。奪い取った車の後部座席には赤ちゃんがいたのだ。ツォツィは何を思ったか、赤ちゃんをソウェトの家へと連れ帰るのだった。

小さくて、無力な存在である赤ん坊は本来はツォツィの下の存在なのだが、簡単に殺せる相手なのに、ツォツィは赤ん坊に完全に心を奪われてしまった。
赤ん坊に授乳させようとツォツィは赤ん坊を持つ女性を脅す。彼女は銃を突きつけて脅迫するツォツィの意のままだったが、ツォツィの踏み込めない、ある力を持っていた。彼女が赤ん坊に注ぐ愛情や、彼女が赤ん坊をあやす姿はこれまでツォツィが生きてきた上か下かを力で決める関係を完全に破壊する光景だったのだ。

力だけでは決まらない関係性にツォツィは混乱し、彼は理解できない力を前に立ちすくんでしまう。彼はホームレスの男性をこづきまわし、赤ちゃんを誘拐した家からミルクを奪うべく、強盗に向かった。

赤ちゃんに愛情を抱き、赤ちゃんのために強盗をするツォツィ。ツォツィは赤ん坊を見て不思議な気持ちになった。とにかく生きるために暴力を振るい続けてきたツォツィには、こんなに小さいものが生きていけるということが良く分からず、ツォツィは生きるということの本当の意味、そして愛情というものを理解できていなかった。

車いすで物乞いをするしか生きるすべがないホームレスの男。まるで、自分では歩けず、泣いてミルクをもらうしかない赤ん坊と同じではないか。
ツォツィは犬や赤ん坊と違って、口をきくことのできるホームレスの男性に。「何で、生きてる ? 」と問う。

 ツォツィが幼いころに可愛がっていた犬のことも思い出す。あの犬は父親に背骨を蹴られて、歩けなくなってしまった。それでも、犬ははいずって鳴き声を上げいた。
 ツォツィは赤ん坊やホームレスの男性など、今回の経験を通して出会った人々がいなければ、最後の場面で撃ち殺される方を選んだかもしれない。ツォツィは警察に捕まり、刑務所に入れられるくらいなら、死んだ方がましだと思っていた。しかし、彼は生きる道を選んだのだった。

 生きるということはどういうことか。強いものだけがこの世で生きる価値があるのではない。弱きものも、この世の全ての生ある人がそれぞれに生きる価値を持っている。

最後、ツォツィはその意味を彼なりに理解することができたのだった。

                                    映画レビュー集より

南アフリカはエイズの罹患が世界一と聞く。過酷なアパルトヘイトの時代が終わったとは言え、旧黒人居住区には相変わらず黒人ばかりが住み、今も、極度の貧困にあえぎ、教育、就労、医療等々、様々な深刻な問題を抱えている。

日本でも貧困にあえぐ人々がいる。

自分の置かれている環境に感謝。

どんな生活環境におかれても、そこに「愛」があれが人は生きてゆける。

「愛」のない生活ほど、悲しく、切ないものはない。




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