河童アオミドロの断捨離世界図鑑

ザスドラス博士の弟子の河童アオミドロの格安貧困魂救済ブログ。

コンピュータとの出会い

2007年05月08日 | blog
初めてコンピュータらしきものを見たのは実習の時だった。ビジネスホテルにあるミニ冷蔵庫ほどの大きさで当時はミニコンと呼ばれていた。スイッチが8個あって、いやな予感がしたが、案の定、8ビットの数値を毎回セットしていくという、失神しそうな仕組みだった。その時代でもすでにアニメのロボットは人工知能で自分で動いていたので(初代ガンダムより少し?前の時代)生まれるのが早すぎたと人工冬眠を考えたものだ。
しかし、プリンターで絵を描くテクニックや紙に線を引くプロッターは有ったのでDTP直前の時代ではあった。が、しかし当時の現実の印刷会社は100年遅れていることを後に知ることになる・・・

職業へのめざめ:最終回

2007年05月08日 | blog
いかん・・・回顧録のようになってきたので終わり
何が言いたかったのかというと、ワシはコンピュータをやりたいわけでなくコンピュータで絵が描きたかっただけやと。しかし、その当時の最先端のコンピュータテクノロジーの現場に居たことも確かなので、余分なコンピュータ知識を蓄積しているから、それで仕事になる部分も大きいし、ほとんどのトラブルは直せるでー。が、はっきり言っておくが、ワードやエクセルはほぼ使わないしキライやし、WindowsもキライやVISTAなんか一生買わんぞ。
MacにソフトがそろってればMacでもLinuxでもDSでもええんやでー
「お絵かき装置」と「通信装置」この2種類があったらそれでええんや
なので、みなさん、ワシにパソコンの質問はしてこないように・・・
言うたったぞー、カミングアウトやー、これでまた仕事が減るぞー
パソコン知識を除いたら、ただのひきこもり中高年やー
(ここで缶ビール=発泡酒を開けて飲む)

職業へのめざめ:第⑳回

2007年05月07日 | blog
高校は電気科を選んだ、コンピュータを早くに導入した高校だったらしい(いつの時代や)しかし、実習と製図の課題を全く提出しないという驚異的な手段で3年間を過ごし、電気関連の取得資格無し、電気の計算は全くできない、卒業研究は「光硬化樹脂による年賀状の印刷」というめちゃくちゃな事をしていた。
しかしクラスにはタコにワカメを乗せたような顔やサラサラヘアーの猿みたいな顔や個性的な顔が多くイラストの勉強になった。もちろん授業中は寝ているかマンガの制作と回覧をしていたので授業内容は全く覚えていないし、結構学校が荒れていた時代なので、授業時間中は体育館の天井裏で過ごすというリラックス?した日々だったように思う。
授業のかわりに瞑想をさせるS先生という変な先生がいて、たぶんその先生が居たおかげで助かったのかもしれない。S先生ありがとう・・・
しかし、やっと中学校の昭和初期のような生活から本来のテクノロジーの世界に戻ったようで正直ホッとした。中学生の頃は自分自身では「今はサイケデリックとテクノロジーの世界だ(古)」と思っていたのに、クラスの1~2人を除いては、先生も含めて昭和初期のような人ばっかりだったのだ。

この頃から漠然と「電気的に映像や画像が作りたい」と思っていた
今でいうところの「コンピュータグラフィックス」である。

職業へのめざめ:第7回

2007年05月07日 | blog
中学生時代、その頃は登校拒否とかひきこもりはまだ一般化していなかったので、なんとか死んだような状態で3年間を過ごしたが、その間、家でも学校でも教科書を読んだり勉強をしたことは全く無いといった状態だった。
そのかわり、教科書、ノート、試験の答案用紙に似顔絵、マンガを描くことと電子回路の作成で「魂の救い」を発見していたように思う。その成果か、似顔絵イラストの受注と電子回路作成の受注はクラス内で順調に伸びていた。
中でもすでにデジタル電子回路作成をしていたのは校内でも私とササオの二人くらいしかいなかったのではないだろうか。
しかしビル・ゲイツになれるほどの才能は全く無かった・・・
(ササオは現在でも、某電子機器メーカーで開発をしてるらしい)

職業へのめざめ:第5回

2007年05月07日 | blog
小中学生の時は、近所にモノリスおじさんというちょっと変な人が居て、その人が新し物好きだったようなので、自分が興味を持つ前に色々めずらしい物を見ることができたのでちょっと得をしたような気分だった。
この頃に理科系のものとデザイン系のものへの興味が深まったが、学校の理科の教科書はもらった日に全部読んでしまっていたのでほとんど興味が無く、前述のモノリスおじさんには内緒であるが、おじさんの家の本棚の本を順番に読んでいたので「COM」とか「白土三平」とか「高校物理辞典」とか小学生が買えないような本をタダで読めたのがすごかった。
特に中学生時代は毎日「こんな古臭い学校と勉強に3年も通うのか・・・」と毎日苦痛であった、たぶんその頃が心身症の始まりではなかったろうか・・・

職業へのめざめ

2007年05月06日 | blog
たいていの場合、まず自分の好きな事、得意な事を職業にしたいと思うのが始まりかと思う。最古の記憶をたどると、幼稚園時代のお絵かきの時間、太陽を描くのに、丸を描いてまわりにチョンチョンと線を付けるという表現が多かったので「いくら幼稚園児といえどもそれじゃ幼稚だろう」とその当時の幼稚園児の頭で考えたのを覚えている。その結果どうしたかというと「実際に太陽を見ると、どう見えるかを描いてみよう」と太陽を見た記憶がある。まぶしくて何も見えなかったが・・・

旅行中によくある質問

2007年05月06日 | blog
旅行中にミャンマー人ガイドさん(日本語OK)から「あなたの仕事は何?」と聞かれた。
ビザには「エンジニア」と書いてあるので「インターネットのエンジニア」と答えると「そんな職業無いでしょ。コンピュータのエンジニアとか建築のエンジニアとかは居るけど」と言われた。うーん有る意味するどい指摘だった・・・。そこで「いっいや、WEBデザイナー、いやイラストレーターかも」とあせりながら答えていて、たしかに自分の職業は何なのかという自問自答になってしまった。

「パソコンにちょっとくわしいおっさん」というのが職業になるのかという素朴な疑問にぶつかるわけであるが、はたして自分の職業は何なのだろうか・・・

最近の質問

2007年05月05日 | blog
旅行についてよく下記の質問を受ける
1.車に酔う体質の人間がなぜ飛行機は平気なのか
2.海外に行くという事は英語が得意なのか

これは、どちらも最初の頃の職業が影響してると思われる。コンピュータ関連のメンテナンスをしていたので、毎週1~2回、日帰りか一泊で飛行機で北海道から九州まで行っていた。なので数百回は飛行機に乗っていたことになる。悪天候の時以外はほとんど揺れないので「飛行機は酔わない」という迷信というか思い込みが形成されたように思う。
(注:車も自分で運転する時は酔わないが)
それと「飛行機に乗ってる間は仕事をしないで良い」という休憩タイムだったのでシートに座っている時が一番幸福であった。
今思うと会社に行くというより毎週国内旅行に行っていたような気がする。

そのメンテナンスの会社が半分、外資が入っていて、役員も半分米国人、マニュアルはすべて英語、英語の会議と試験と米国研修があった。もちろん私は不良社員だったので試験は合格せず、研修も行けず、英語もあやしい理解であったが、「英語って適当で通じるじゃん」という変な慣れができてしまった。

ちなみに、今まで行った外国で英語が通じなかったのは、イギリスとアメリカだけである(泣笑)インドなどは家に上がりこんで世間話までできてしまう
(ほどインド人の英語許容量?は大きい)

神戸空港

2007年05月05日 | blog
最終便着後の神戸空港

メイドさんの撮影に熱中するあまり、電車に乗り遅れる。
羽田に出発10分前に着くが、飛行機自体が安全点検で遅れていて間に合った。
しかし、神戸というのは、新幹線のぞみも止まるし、空港も港も有るし、山と海が間近で人口のわりにぜいたくな街やなあと感心する
(神戸空港がんばってね)
環境的にはモナコなどと近い地理条件なのに、なんか違うのはなぜだろう。外国からわざわざ観光に来るような街ではないわなあ。