Dr. WAKASAGI at HEI-RIVER(閉伊川ワカサギ博士)

森川海をつなぐ学び合いの活動を紹介します

季刊エコツーリズムで記事が紹介されています

2010-05-07 | 水圏環境リテラシープログラム
「探究学習法を活かした水族館とエコツアー」と題し,モンテレー湾水族館とシーカヤック体験乗船が紹介されています。

「このエリアにはね,2種類の人手が生息していてね,それぞれとても興味深い生態的な特徴を備えているんだ.」と目を輝かせ若いエコツアーガイドのスコットは語った。

 シーカヤックで砂浜からエントリーし,モンテレー港にはいる。アザラシのいる桟橋を横切り,防波堤前で一度停止する.スコットは防波堤に付着した2種類のヒトデを指差し,「こんなすてきな生き物はいないよ.」と観察を促した.

そして,私たちが向かったのは防波堤の先に見えるモンテレー湾水族館前のジャイアントケルプ群である.気候といい風景といい風光明媚な三陸海岸の初夏を彷彿とさせた。潮風と海藻の匂いがたまらない.モンテレー湾水族館は,私が訪れた海外の社会教育施設の中でとびきり印象深い施設である。

 しかし,日本の水族館と似ているようで似ていない。それは何だろうか?実は,そこにはある種の仕掛けのようなものがある。まず一つは,モンテレー湾という美しい景観の中に,水族館が溶け込んでいることである。水族館の荘厳な白亜の建物を海上から眺めつつ海上の散歩ができるのは何ともいえず心地よい。時にはラッコがジャイアントケルプに巻き付いてぐるぐると滑稽に回ったり,貝を拾って食事をしている様子も観察できたりする。モンテレー湾を一望できる水族館野外観察デッキから子どもたちの歓声が聞こえる。洋上を散歩している私たちは観察の対象である。彼らの瞳には,人と自然が一体となっている様子が映し出されているのだろう。

 実は,モンテレー湾シーカヤックは自然体験を満喫できると同時に,達成感のようなものもある。私もエコツアーを体験する前に,水族館を訪問し観察デッキの観察者であった。「あ~,いいな~。私もあのように大自然の中でラッコとたわむれ,ジャイアントケルプに触れてみたい。」と願っていたのであった。3度目の水族館訪問でようやく願いが叶った。

 もう一つの仕掛けがある。自然の中にいると錯覚を起こすようなジャイアントケルプの水槽がある。いつも私は,この水槽に釘付けになる。ジャイアントケルプが人工波でゆったりと揺れ,まるで本物のジャイアントケルプの群落に入りこんだような気分になる。水槽をくいるように見つめる私のそばで,ボランティアスタッフが私の様子をじっーと伺っている。余計な説明や質問はしない。私が質問をするのを待っているのである。そういえば,スコットのガイドもそうであった。彼らは,こちら側が質問をすることを促しているのである。

 質問をもとに学習を構成する方法をInquiry based learningという。日本語では,探究(求)学習と訳されている。この探究学習はアメリカ合衆国が本場である。ヨーロッパ,アメリカで野外体験活動を重視しているが,この探究学習がライフスキル(学力の向上や人間形成等,生きる力)を高める上で重要であるという認識があるのだ。

 このエリアの特徴は,水族館とエコツアーが景観の中で溶け込むだけでなく,自然をよく観察し,質問をすることによって,大いなる自然への興味をわかせ,学習の意欲を次なるステップへと導いていく。水族館での学びが,スパイラル的にエコツアーの充実感につながっていくのである。

 シーカヤックによるエコツアー体験のあと,私はもう一度水族館に足を運んだ。ジャイアントケルプ水槽前に立った。日本でもこのようなコラボレーションができないか期待を持ちながら。


◎4プラスαその3=裏付けとなる法律はあるのか?

2010-04-01 | 水圏環境リテラシープログラム
それでは,裏付けとなる法律はあるのだろうか?
どのような事業であっても,その事業を裏付ける法律が必要である。
実際に,アメリカのシーグラントカレッジ法のように職業としての人材の配置という観点においては,まだ存在していない。
しかし,国民の海洋に関する理解をすすめるための努力が必要であるといった,リテラシー教育の必要性を謳った法律はすでに発効されている。

まず水産基本法である。
(消費者の役割)第八条  消費者は、水産に関する理解を深め、水産物に関する消費生活の向上に積極的な役割を果たすものとする。
(人材の育成及び確保)第23条 3 国は、国民が漁業に対する理解と関心を深めるよう、漁業に関する教育の振興その他必要な施策を講ずるものとする
(都市と漁村の交流等)第31条 国は、国民の水産業及び漁村に対する理解と関心を深め・・・(中略)必要な施策を講ずるものとする。
(多面的機能に関する施策の充実)第32条 国は、水産業及び漁村が国民生活及び国民経済の安定に果たす役割に関する国民の理解と関心を深め・・・(中略)必要な施策を講ずるものとする。

次に,海洋基本法である。
(海洋に関する国民の理解の増進等)第二十八条 国は、国民が海洋についての理解と関心を深めることができるよう、学校教育及び社会教育における海洋に関する教育の推進、海洋法に関する国際連合条約その他の国際約束並びに海洋の持続可能な開発及び利用を実現するための国際的な取組に関する普及啓発、海洋に関するレクリエーションの普及等のために必要な措置を講ずるものとする。
 2 国は、海洋に関する政策課題に的確に対応するために必要な知識及び能力を有する人材の育成を図るため、大学等において学際的な教育及び研究が推進されるよう必要 な措置を講ずるよう努めるものとする。

具体的にどのようにこれらの法律を具現化していくのか?これから取り組むべき重要な課題である。

◎4プラスαとは何か?その2 教養としての水産を

2010-03-28 | 水圏環境リテラシープログラム
「ヒトはパンのみにて生きるにあらず」と言われる。

 これは、40日間断食していたイエスキリストに対し、誘惑者が神の子であればこの石をパンにして食べなさいと言ったことに対する御言葉であると伝えられている。「ヒトはパンのみにて生きるにあらず」の意味は、私はパンだけで生きるのではなく、神の言葉に従い生きているということである。

 人間は生きるためには食べ物は必要であるが、それだけではなく、生きる意味を理解することが必要であるということであろう。

 これを、我々日本人に当てはめるとどうなるであろうか?「日本人は生きるためにただ単に魚を食べるのではなく、日本人として魚を食べている意味を理解することが必要である 」ということではないか?

「技術者養成教育のみならず国民の理解普及を」

 これまで、水産教育(大学の水産学教育)は技術者(研究者)養成に大きな目標が定められていた。

 しかし、これからは国民の水産理解普及のための水産教育が必要だ。職業人育成教育にこだわるだけでなく,広く市民を対象とした教育を水産教育の一つとして実施していく体制を整えていくことが求められている。

 100年前,官立水産講習所(現東京海洋大学海洋科学部)が東京に設置された当時,200万人が漁民であった。人口5千万人のうちの200万人である。5%弱が水産人であった。水産振興の教育研究が必要であり、職業教育により、伝統技術や、革新的な技術を教えることがそのままリテラシー教育にもつながった。

 ところが、現在の漁業者人口は20万人を割ろうとしている。0.2%以下である。従来通りの,技術者養成だけでは、十分に水産教育が機能しなくなった。9500人中、専門の水産業に従事するのは、わずか10%程度である。

 これからは,水産教育が培ってきたノウハウを地域社会に還元する社会貢献をもう一つの柱とすることも必要になってくるであろう。

 社会貢献をもう一つの柱とすることは,学校現場においては確かに重荷である。なぜならば,学校現場において社会貢献活動はあくまでも「主」ではなく「従」なのである。特に野外での実習が多い水産教育などの学校現場においては,学校業務と並行して実施することは,大変な労力が必要なのである。しかし,ここで言う「もう一つの大きな柱とする」という意味は,プロフェッション(職業)として成立させるということだ。つまり,水産教育における社会貢献活動をサポートする人材の配置をすすめていくのである。

 このような,体制を整えることで,国民教養としての水産、すなわち水産のリテラシーの普及が実現していくのである。

◎4プラスαとは何か?

2010-03-17 | 水圏環境リテラシープログラム
4プラスαとは何か?
 原点に立ち返った水産のとらえ方すなわち,技術革新とプラスαが必要であるということを見てきた。
 それでは,そのプラスαとは一体具体的にどのようなものであろうか?

 それは,生産者と消費者が一体となった新しい取り組みだ。
 
 これまで見てきた様に,経済活動に大戦後市場原理主義が導入され,機械化が進み効率的な生産が可能となり,水産業は躍進した。その結果、最大の漁獲量を上げる様になった。

 しかしながら,そのような漁獲量の増大は恒常的に望めるものではない。今日に至って、水産資源の減少,漁価の低迷,水産物消費の低迷、漁業後継者の不足など多くの問題が山積するようになった。もはやこのような問題は従来のやり方では解決できない。もちろんこれはすべての市場原理主義に基づいた経済活動全てに当てはまる。
 
 このような局面に立ち向かうためには、生産者と消費者が一体となった新しい取り組みを実施することが必要である。このことで,今日の混迷の時代を乗り越え新しい持続可能な社会が実現されると確信する。

 新しい取組とはどのようなものか?
 
 これまでの市場原理主義では個人の利益を追求した。その結果,生産者は生産者自身の利益を追求し,消費者も個人の生活にとってより良いものを追求し、結果的に経済活動が活発化し、所得も増大した。

 このような関係では,「人間は自然の一部であり,全ての物質が循環する。自然と共生することでそこから食料としての恵みをいただく」という「水産」本来の思想が抜け落ちている。
 
 一方,「生産者と消費者が一体となった新しい取り組み」とは,本来の日本の風土にあった自然との共存としての「水産」を消費者や生産者という垣根を越えて認識し合うことである。ここには,生産者と消費者という対立軸はない。生産者と消費者は共存するのである。脱生産者,脱消費者である。もちろん、これは新しい取り組みというより日本の伝統文化に根ざした考え方ではあるが。
 
 3500種類もの魚介類を食し,豊かな自然環境に恵まれた国に生きる国民として,そして太平洋に浮かぶ島国として,日本の果たす役割を考えたとき,このような水産の見直しは,新しい時代を切り開く試金石となると確信する。

水産(SUISAN)を思想史から眺める

2010-03-07 | 水圏環境リテラシープログラム
 次に,思想史から,水産を見ていくことにする。
 
 西洋思想は,キリスト教の影響を強く受けている。キリスト教では自然は人間のために神が作り与えたものであると説いた。

 中世においては,ギリシア思想が入り,アリストテレスの哲学が採用され,人間中心的な自然観が形成されていった。リベラルアーツという言葉がある。これは,文法・修辞・論理学(弁証法)の3科および算術・幾何学・天文学・音楽の4科の7学科を指す。前者は,聖書を学び,普及・啓発するための学問であり,後者の4科は自然を対象とした学問である。後者4科は,自然に隠された神の秘密を解き明かすための学問であり,自然科学へと発展していく。

 近代になると,真理の追究のための観念的な学問である「科学」が,自然の支配と利用を目的とした実用的なものになっていく。 デカルトは,神が絶対な存在であった当時,自然を生命のない大仕掛けの機会と考えた。そして,自然界に対して徹底的に疑問を持つことによって,自分の存在を認識することができると説いた。「我思う,故に我あり」簡単に言えば,人間からみると自然は対照となる存在であり,徹底的に疑う事が大切なのだ。いわゆる「デカルトの二元論」である。こうした考えが,新しい発見や発明を生み出し科学技術の発展に大きく寄与した。

 このような歴史をみると,上述した水産業の発展の歴史,すなわち「沿岸から沖合へ,沖合から遠洋へ」という発展は,日本伝統の水産(SUISAN)をベースにしながらも,西洋のデカルト的な思想が元になって発展したものといえる。

 それでは,本来の水産とはどのような思想なのであろうか?東京湾を例にとって考察する事にする。江戸時代,江戸前(現在の品川から深川付近)では海苔の養殖が盛んであった。「海苔の味は,庶民の生活排水の味」といわれ,人間の生活と漁業の対象となる生物が密接に関わっていた。海苔を食べることで栄養塩を還流させていた。人間が生態系の一部となり生態系の循環サイクルを上手く利用したのである。

 このような人間と意味との関わりは,簡単にできあがったものでないであろう。おそらく,日本古来の自然観をもとに培われたものであろう。その自然感とはすなわち,自然は人間が支配するものではなく、むしろ人間が自然によって陶冶されていく。「神(かん)ながら」という言葉があるように,自然に身を任せること。そのことで,自然を敬いながら,自然と共存し生きていく知恵である。水産とは,自然の摂理に身を委ね,人間の命の糧としての食料、命を頂くこと。江戸前の海苔は「水産」の典型的な例といっていいだろう。 

 もちろん,このような考え方は,日本ばかりではない。太平洋の島嶼国でも確認出来る。例えば,ハワイ人たちのMOKUの思想がある。 MOKUの思想では, 一河川流域沿いで生活する人々を一つのコミュニティとする。資本主義経済とは異なり私有財産はない。土地は誰のものではない。必要な量だけ必要な魚を漁獲し,平等に分け与える。海川山と人々の暮らしが一体となった生活スタイルである。
 
 このような自然を中心とした考え方が太平洋島国の思想-日本では水産,ハワイではMOKU-の特徴であり,西洋思想とは大きく異にするところである。漁師が森に木を植える活動は,今や全国的な広がりとなった。このような活動は世界的にも珍しく,注目されている(海洋教育国際検討会 台湾 2009年)。山に木を植えて水産物を豊かにしようとする活動の起源は,日本古来の自然観「水産(SUISAN)」から発せられたものである。

3専門性の深化
 1で見たように,戦後,科学技術の革新は,漁業にも大きな恩恵をもたらし,漁業生産量を拡大させた。昭和37年の科学技術白書によれば,漁船能力の増強,漁業技術の進歩,漁業用資材機器の改善,新漁場の開発等に関する科学技術の進展発展により,毎年,30万トン前後の漁獲量の増加をつづけているとしている。

 このような輝かしい漁業生産量の拡大の時代に比較して,近年の漁業生産は,500万トン台で頭打ちである。果たして,水産業が隆盛を極めていた当時の人々は,どれだけ現在の実態を予測していたであろうか?

 確かに,その当時は社会全体が経済発展をナショナルゴールとしおり,経済の発展による国民生活の向上を誰もが期待していた。水産業の発展も当然期待されていたであろう。

 しかし,現実的には,その経済成長一辺倒の政策は行き詰まりを生んだ。
 もちろん,高度な技術の発展により私たちは世界中の水産物を日本に居ながらにして頂くことができる。これは,漁業技術,養殖技術の進歩発展,流通の革新の発展のおかげであろう。

 だが,経済発展を重視するあまり,本来の水産(SUISAN)を忘れてしまってはいないか?水産とは自然とともに生きる思想から生まれた共生思想である。水産文化とでもいおうか?

 このような人間と自然の関わりをもう一度見直し、文化からみた新しい水産の捉え方を見直し,このような技術革新のみならず,本来の姿に立ち返った水産を問い直すときすなわち「技術革新+α」を考えるときが来たのではなかろうか?

教育の視点からの提案 その1 水産の定義を明確化

2010-03-04 | 水圏環境リテラシープログラム
教育の視点からの提案

1 水産の定義を明確化
2 思想の歴史から水産を見る
3 専門性の深化
4 プラスα 国民に対する教養としての水産の普及啓発

◎1水産の定義(水産ハンドブック)
 水産ハンドブックで水産の定義を見てみたいと思う。
 水産ハンドブックは水産学徒にとってはバイブルのような書物である。水産ハンドブックによると,水産とは何か?という明確な定義が記載されていない。

 あえて言えば,第1章の書き出しにある漁業の定義とその変遷の部分が当てはまるのであろうか?漁業とは,「水産動植物を採捕し,またこれを養殖する事業である。」と定義される。また,漁業の発展を歴史的に見ると,以下の通り第1期ー第4期に分けることができるという。
  第1期(1868年-1897年ごろ)江戸時代とかわらない,伝統的漁業
  第2期(1897年ごろ-1912年ごろ)沿岸漁業から沖合漁業への発展
  第3期(1912年ごろ-1945年ごろ) 遠洋漁業,母船式工船漁業
  第4期(1945年ー)1955年有史以来最大の漁獲量,漁業科学技術(魚群探知機,集魚灯,通信機器,衛星航法機器)の発展。

 確かに,これらの内容は,漁業の定義と発展の歴史が述べられている。しかしながら,「漁業」の定義であって「水産」の定義ではない。水産と漁業は同義であることになるが果たしてそれでいいのだろうか? 「漁業とは,水産動植物を採捕し,またこれを養殖する事業である。」は,英語のFisheryとほぼ同じ意味合いである。とすれば,Fishery=漁業ということである。すなわち,我々が水産高校をFisheries High Schoolと呼んでいるが,これは英語に訳すと漁業高校ということになる。

 水産は,「水産動植物を採捕し,またこれを養殖する事業である」以外にも,加工,販売,流通,教育など様々な分野を含んでいる。水産ハンドブックには,水産の定義が明確に記述されていない。明確な水産の定義づけが必要である。前にも触れたが,水産には,日本人が永い年月をかけて培ってきた生業としての意味合いも含んでいる。これからの時代に向けて,水産の定義を明確にすることが第一に必要になってくるだろう。

 さらに言えば,水産という英語訳をFishery とするのではなく,水産の意味を含めた用語,すなわちSUISAN という英語表記でいいのではないだろうか?と私は思う。

3 水産教育は水産業とどうかかわるのか?

2010-02-27 | 水圏環境リテラシープログラム
3 水産教育は水産業とどうかかわるのか?

 水産教育は高等学校における職業教育であるということを理解した。すなわち水産教育は水産業に人材を輩出するための専門的機関である。しかしながら,年々水産高校の卒業生は減っている。その理由は,水産業界が受け皿になり得ない状況が生じてきたためである。

 確かに,全ての生徒が水産業界に就職できないというわけではなく,水産高校卒業の約1割程が専門的な職業に従事していることは事実である。

 しかしながら,就職したくても就職できない,あるいは就職は別の業界へといった例が残りの9割を占めることになる。

 水産高校は職業教育が目的であるはずであるにもかかわらず,そのほとんどが水産業界に就職しておらず,別の業界へ就職するという状況が生じている,受け皿になり得ていないという事実は,水産業と水産教育との関わりを考えていく上で大切なポイントである。

 水産業界が水産教育の完全な受け皿になり得ないという事実の中で,水産教育から水産業へフィードバックできるものはあるのだろうか?

 水産教育から水産業へのフィードバックは可能であると私は確信している。すなわち,水産教育によって新しい分野を開拓できる可能性がある,ということである。確かに,水産業界は水産教育の受け皿であるという観点からすると,先は見えない。しかし,水産教育に新しい分野の創出をゆだねるという観点からみると,そこには新しい可能性が秘めている。

 つまり,水産業界は水産教育の受け皿であるという考えではなく,水産教育によって新しい産業分野を生み出していくという観点から水産教育を見ていく必要があろう。したがって,水産教育からのフィードバックを考えたときに,水産教育というそのものの定義,そして水産業界を受け皿にするという固執した考えを払拭し,もう一度最初からやり直すことが必要だ。それは,あたかも100年以上の歴史のある水産教育が原点において行ってきたことと同様のことをやればいいのである。

 以上見てきたが,水産教育は新しい産業分野を作っていくものであるというスタート地点に立ち返り,議論を進めていく必要があろう。

2 水産教育の対象とは?

2010-02-25 | 水圏環境リテラシープログラム
2 水産教育の対象とは?

 私たちは,水産教育という言葉を何気なく使っている。水産教育とはどのようなものであろうか?水産の教育を施すということであれば,全ての海での教育活動は水産教育という気がする。

 しかし,水産教育というのは正式に言うと,高等学校における水産に関する職業教育を指す。水産教育は,高等学校の生徒が対象なのである。

 もちろん,水産教育という名称からすれば,大学の水産学部における教育も含まれるというする著作もあるが,大学には水産教育という科目は存在しない。あえて言えば,水産学教育といったところであろうか?また,漁家の小学生を対象とした水産に関する教育は,水産教室という。水産教育ではないのだ。

 水産教育は高等学校における職業教育なのである。水産教育は,小中学生や大学生あるいは,一般市民を対象とした水産に関す教育は水産教育ではない。水産海洋系高校における職業教育が水産教育なのだ。

 したがって,水産教育といった場合は,水産業界に就職するための職業教育という認識から考えをスタートしなくてはいけない。

水産教育に関わる3つの疑問

2010-02-25 | 水圏環境リテラシープログラム
1 水産の明確な定義は何か?
2 水産教育は誰を対象としているのか?
3 水産教育は水産業とどうか変わるのか?

1 水産の定義とは,どのようなものであろうか?
 水産とは,海洋・河川・湖沼など水中に産すること,またその魚介,海藻等(広辞苑)とされている。水産業となると,幅が広くなり,水産動植物の漁獲,採取,養殖,加工に関する産業となる。

 私は,この水産の意味に疑問を感じている。果たして,水産というのは水中に産することだけでとどめていいものであろうか?また,水産業も加工で止めていいのだろうか?この水産の意味からは,日本人が永い年月をかけて培ってきた生業としての水産が見えてこない。本来の水産は,それぞれの地域社会の中で営まれてきたものである。確かに,水産は「水中に産するもの」であるが,水中に産するものを人間が利用することによって初めて魚介,海藻という認識が生じる。

  一方,一般的に水産の訳語とされるfishery(リーダーズ英和辞典)は,オックスフォード英英辞典ではthe occupation or industry of catching or rearing fish(Oxford dictionary of english)とされている。

 この訳語から考えると,水産はFisheryと同義語として訳していいのか?という疑問が生じる。水産は単なる仕事や産業という意味合いのものではない,西洋的な発想では理解できない別の意味も含んでいる。

 また,近年,水産・海洋という言葉が使われるようになった。水産・海洋とはどのような意味なのであろうか?水産と海洋の意味合いの違いは何であろうか?水産の定義付けの議論なしに新しい語句を並べても混乱を生じるだけである。

 ここでしっかりとした水産の定義付けを行う必要がある。

水産の未来を教育の立場から考える

2010-02-23 | 水圏環境リテラシープログラム
 港区虎ノ門にある山会堂ビル8階 「大日本水産会」会議室において水産ジャーナリストの会主催の講演会に講師として招かれました。

要旨
 現在,水産業界では,水産物価格,水産物消費の低迷,水産資源の枯渇,若年労働力の不足,文化の摩擦など様々な問題を抱えているといわれている。また,地球温暖化による海水温上昇,海流の変化,海面上昇,海の酸性化等,海洋環境にも問題が生じている。水産には,今後どのような未来が待ち受けているのであろうか?

 このような,不安定な時代にこそ,一般市民,消費者を対象とした”水産のリテラシー教育”が重要であり,リテラシー教育によって未来の水産は確実に変わる,と私は考えている。

 これまでの水産に関する教育は,水産教育が大きな柱であった。水産教育とは,担い手育成,職業人育成のための教育である。その結果,有能な職業人が輩出され,右肩上がりの日本の水産業を支えた。漁獲技術の革新,水産資源開発,冷凍技術の開発,流通の革命等,現在も様々な技術革新も進んでいる。

 しかし,水産教育は,水産技術の専門性の深化に力を入れてきたが,消費者に対する教育すなわち”水産のリテラシー教育”は,大きな柱ではなかった。水産のリテラシー教育は,一般市民や消費者を対象とした教育を指す。東京海洋大学では,平成19年から水圏環境リテラシー教育推進プログラムをスタートさせた。このプログラムは,水圏環境リテラシー普及活動を行うリーダーを養成するプログラムである。将来は,全国各地において,水圏環境リテラシー推進リーダーとして,水産を含む水圏環境のリテラシーを普及啓発することになる。

 水産技術者養成や担い手育成が中心の教育はこれまで通り重要であるが,それとともに一般市民の水産の理解向上を目的とした水産のリテラシー教育をいかに推進するかがこれからの課題である。

 水産のリテラシーが向上することによって,どのような成果が期待されるのだろうか?これまで低迷していた水産物消費が進み,さらに水産物の価格が上昇する,水産業の理解がすすむことで労働力の確保にもつながる,水圏環境に配慮した生活を行うことで水産資源の回復も期待できる,さらに,リテラシー教育を海外に発信することで,食文化の国際摩擦問題にも解決の糸口を見いだすことができる,等である。

 「教育は国家百年の計」といわれている。高校水産教育が1895年に始まって114年が経過した。これからは,従来の職業人育成のための専門教育とともに,一般市民消費者の水産のリテラシー向上を計るための水圏環境リテラシー教育が必要である。そのための”仕組みづくり”を水産業界のみなさんといっしょに考えていきたい。