水と私たちは切っても切れない関係にある。水は私たちになくてはならないものであり,私たちは水に対して必然的に影響を与えてきた。水の重要性は未だに変化はないが,逆に私たちの水への影響は度が過ぎる程耐えかね無い状態だ。私たちは,まさに湯水のごとく水を使い,使ったあと更に水への負荷を与えている。水を使う限り,水への負荷は当然といえば当然である。
しかし,そのマイナスの事実にあまり目を向けてこなかったのが,これまでの資本主義社会のシステムであった。水へのマイナスの影響を考えることは経済発展にマイナスの影響を与えることになる。
ところが,最近になって,水環境の悪化は著しい。今までは,無視できるレベルであったが,今はそうはいっていられない状況だ。経済発展と共に,私たちは明らかに水の環境に目を背けてきたのである(もちろん科学技術によって環境への負荷はある程度減少したが)。自然へ目をそむけることは,自然から見放されることになる。ようやくそのことに気がついてきた。
本日,待ちに待った「近代日本の地域づくり(農文協)」が届いた。その中に,琵琶湖畔の人々の生活が掲載されている。
「川の水を汚さないための工夫がさまざまにこらされていました。集落を流れる水路はわざと蛇行させて窪地をつくり,汚物を沈殿させて定期的にくみ上げて肥料にしました。水路で下着やオムツなどを洗うことは強くいましめられ,オムツ洗いはタライで行ない,洗い水は便所に入れるという習慣がありました。(中略)食器などを洗う川の洗い場では鯉を飼ってご飯粒などを餌に食べさせるなど,家庭生活から出る排水・廃棄物はほとんどすべてが生産にまわされ,そのような暮らしの中で,結果として水域の汚染(富栄養化)が防がれていました。」
このように,古くから川を汚さないように注意を払い生活を営むことで,湖の環境を守り日常生活に支障をきたすことのないように自然環境を保全し,水の環境と人間とが共生をはかっていたのである。このような知識のことを「伝統的なエコ知識」と呼ぶことにする。
おそらく,このような伝統的なエコ知識は日本各地で古くから存在しているものと推察される。閉伊川上流で生まれ育った私の祖父は,食事後はご飯茶碗にお茶を注ぎ,汚れを取り除いてから食器を洗っていた。今はそのようなことをする人は少なくなったが,まさに伝統的なエコ知識だ。
もちろん,現代社会においては科学的な知識や認識は必要であるが,こうした伝統的なエコ知識を全国の各地域で見い出し,伝承し,子供たちの未来へとバトンタッチしたいものである。