ゲバラ日記角川文庫
最近公開されていた映画「モーターサイクルダイヤリーズ」で、また脚光を浴びているチェ。また、チェがプリントされているTシャツを着ている若い人(苦笑)も結構いますね。私自身は約20年前、昔のジョン・レノンのインタビューに「今世界で最もかっこいいやつ」とあって、チェの日記を読んで以来のアイドルです。彼の世界のどこかに不正があれば駆けつける精神は、今こそ必要なのでしょう!かれなら今どこで戦っているでしょうか? 残念ながら今の時代は彼の戦っていた時代より悲惨な状況です。自分の無力さをあらためて痛感します。
以下彼の略歴です。樋口さんのページより引用です。
1928年6月14日、アルゼンチン第二の都市、ロサリオに生まれ。 持病の喘息のためコルドバに転地したが、発作はしばしば彼を苦しめ、それは終生続くことになる。
高校入学(13歳)の頃より、アルゼンチン国内の放浪を開始し、ブエノスアイレス大学の医学生だった1951年には、年長の友人グラナドスと約1年にわたるラテンアメリカ放浪に出発している。このとき、ラテンアメリカにおける現実をつぶさに見聞したことが、エルネストの人格を革命的に形成していったことは疑いない。 (「モーターサイクルダイヤリーズ」はこのころが題材)
フアン・ペロンの支配するアルゼンチンで軍医として徴用されるのを嫌ったエルネストは、ボリビアへ脱出。第2のラテンアメリカ放浪の旅を経て、アルベンス社会主義政権が誕生したグァテマラに到達する。そこではペルー人の社会主義者、イルダ・ガデアと出会い、大いに影響を受けた。アルベンス政権がCIAの支援を受けたアルマス反革命軍に打倒されると、ふたりはメキシコに亡命し、結婚した。死ぬまで続く、アメリカ帝国主義との闘いの端緒でもあった。エルネストは街頭写真屋を商いながら細々と生計を立てたが、彼の生活は、アルゼンチンを出てからずっと、極貧だった。
1955年夏、“亡命者の天国”といわれるほどラテンアメリカじゅうの亡命者がひしめいていたメキシコで、エルネストはフィデル・カストロと出会う。フィデルはモンカダ兵営襲撃のあと収監されていたピノス島の監獄から、弟のラウルらとともに赦免により出獄し、倦土重来を期すべくメキシコに亡命していたのだった。ラウルに紹介されてフィデルと出会った直後、エルネストは、フィデルの組織する叛乱軍の一員となっていた。冒険に対するロマンティックな共感と、ラテンアメリカ最悪の独裁者を倒すという純粋な理想のためならば異国で死しても惜しくないというのが、参加の理由だった。エルネストは“チェ”ゲバラになったのである。チェとは、アルゼンチン人が「ねぇ君」と呼びかけるの慣用句であり、彼も多用していたせいで、逆にあだ名に転じたものだ。
1956年、フィデルの率いる叛乱軍は、グランマ号という名のヨットでキューバに向けて出発。定員を大幅にオーバーする人員を乗せたため、また叛乱をキューバ全土に宣言しての出発だったため、キューバ東部のコロラダス海岸に漂着すると同時にバチスタ軍の強襲を受け、叛乱軍は12名になってしまうが、フィデルとチェ、そしてラウルやカミーロ・シエンフエゴスらは生き残る。シェラ・マエストラに立て篭っての2年以上にわたる革命戦争を経て、バチスタはドミニカに逃亡。1959年元旦、革命政権が樹立される。
革命政権の要職を歴任したチェは、ラテンアメリカ解放のゲリラ闘争を継続するために出国。「第二、第三のベトナムを」というチェの言葉は、解放を目指す闘いの合言葉となった。
アフリカ・コンゴをはじめ、第三世界をめぐったのち、ラテンアメリカ解放の革命根拠地建設を目指してボリビアでゲリラ活動を開始するが、圧政者の凶弾によって目的を達することなく仆れる。享年39歳であった。
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