どうしてこのような記事を書こうかと思ったかというと、「眞子さまと小室圭さんのご結婚延期発表」で、皇室内部が不可解な行動を起こしているためでした。
現在の皇室の系図を参照してください。
今回の眞子さまの婚約報道は自由恋愛が発端だったようです
・・・・・・・・(眞子さまと小室圭さん結婚延期、学習院派閥の影響も?)
月6日、眞子さまと小室圭さんのご結婚延期発表がなされた。本誌女性セブンは、結婚延期が発表される2月6日以前から、「小室家の醜聞を世間に広めようとする勢力」の存在を報じてきた。
1月25日発売号の《真子さまの結婚 抵抗勢力の蠢き》と題した記事や、続く2月1日発売号の《「小室家の闇報道」と「破談を巡る筋書き」》という記事では、誰かが意図的に小室さんに関する情報を集め、メディアに流すことで、眞子さまの結婚に疑問を投げかけるような“キャンペーン”を張っているのではないかと指摘した。
そんな中で、急転直下で決まった結婚の延期。いったい誰が、どんな目的で…? そうした疑問を解く鍵は、「皇室の教育の分かれ道」に隠されていると、ある政治ジャーナリストは指摘する。
「眞子さまと小室さんの恋は、キャンパスライフの中で育まれました。ふたりの婚約内定は、世間では“閉鎖的な日本の皇族には珍しい、自由恋愛の成就だ”と祝福されました。それは、秋篠宮ご夫妻が古くからの皇室の慣習にとらわれずに、お子さまを教育されてきたからだともいえます。具体的にいえば、学習院大学に進学させず、国際基督教大学(ICU)に進ませたことです。実際、真子さまと小室さんは、ICUで出会いました。秋篠宮ご夫妻はまた、悠仁さまも学習院初等科ではなく、お茶の水女子大学附属小で学ばせています。」
しかし、そうした“学習院を否定する教育”を歓迎しない皇室関係者のグループがあることも事実です。今回の小室さんの一連の報道との関係はわかりませんが、皇族の子息子女の教育を熱心に考えてきた学習院関係者やOBの中には、秋篠宮家の教育方針、ひいては“眞子さまの自由恋愛を礼賛する風潮”に違和感を覚える人たちもいました」
そもそも、学習院は皇族・華族のための教育機関として開校された。秋篠宮ご一家のお子さまたちが学習院を離れる一方で、皇太子ご一家の愛子さまは学習院での教育を受け続けられている。大学進学はまだ先の話なのでわからないが、関係者の話では学習院大学に進学される可能性も高いという。
「学習院で学ぶこと」と「ご結婚されること」…それらは一見すると無関係に思えるが、女性皇族にとっては、実は大きな関係がある。
たとえば、陛下の長女である紀宮さま(黒田清子さん)のご結婚相手は、一般家庭に育った黒田慶樹さんだった。その黒田さんは大学まで学習院で学ばれてきた。秋篠宮さまとご結婚された紀子さまも、大学院まで学習院だった。
「一部の学習院関係者やOBの間には、“皇族とご結婚されるならば学習院で学ばれたかたのほうが安心だ”という考え方があります。それは、長年にわたって皇室の教育を担ってきたプライドもあるでしょう。
愛子さまは雅子さまの方針もあり、学習院で学ばれています。しかし一方で、秋篠宮ご一家の眞子さまは学習院を出られ、そこで小室さんと出会われた。一部の関係者からは、“だから眞子さまの結婚には問題がでた”という声も聞こえてきます」(前出・政治ジャーナリスト)
・・・・・・・・(転載ここまで)
眞子さまは学習院でなくICUでしたね。
佳子さまは学習院中退してICUに入学しています。
国際基督教大学についてみていきましょう。
・・・・・・・・(国際基督教大学)
国際基督教大学(こくさいきりすときょうだいがく、英語: International Christian University[注 1])は、東京都三鷹市大沢三丁目10番2号に本部を置く日本の私立大学である。1953年に設置された。大学の略称は「ICU(アイシーユー)」
沿革
キリスト教長老派による創設で、米国型リベラルアーツ・カレッジの形式を踏襲している。1949年、御殿場にあるYMCA東山荘で催された日米のキリスト教指導者による会議において、国際基督教大学の創設が正式に決定された。高松宮宣仁親王が設立準備委員会の名誉総裁に就任し、当時の日本銀行総裁である一万田尚登が設立のための募金運動に奔走した。またGHQ最高司令官を務めたダグラス・マッカーサーも、大学設置に際し財団の名誉理事長として、米国での募金運動に務めた[1]。日本YMCA理事長で、国際基督教大学の評議委員会会長となった山本忠興も設立に尽力した。開学に先立って1952年に語学研修所が開設された後、1953年に初代学長として湯浅八郎を迎え、一期生198人より開学に至った
・・・・・・・・・・・・(高松宮宣仁親王)
高松宮宣仁親王(たかまつのみや のぶひとしんのう、1905年(明治38年)1月3日 - 1987年(昭和62年)2月3日)は、日本の皇族。大正天皇と貞明皇后の第三皇子。今上天皇の叔父にあたる。有栖川宮の祭祀を継承。妃は公爵・徳川慶久の次女・喜久子。御称号は光宮(てるのみや)。身位は親王。お印は若梅(わかうめ)。栄典は大勲位功四級。
海軍軍人として
1932年(昭和7年)11月29日、海軍砲術学校高等科を卒業し、巡洋艦「高雄」、戦艦「扶桑」の分隊長に補される。1933年(昭和8年)年末から約1年間、呉市新宮町で暮らす(邸の名前は俊山荘)。昭和9年(1934年)11月10日、海軍大学校に入学(甲種学生34期)、1935年(昭和10年)11月15日、海軍少佐に進級。1937年(昭和11年)11月26日、海軍大学校卒業、同年12月1日に軍令部出仕兼部員に補され、第二部(軍備)、第三部(情報)、第四部(通信)などを歴任。1940年(昭和15年)4月29日、支那事変[2]従軍記章と功四級金鵄勲章を受けらる、同年7月3日、戦艦「比叡」砲術長、11月15日に海軍中佐進級。「比叡」砲術長時代、部下に海軍将校の心得を訓示した際、「青年士官は現在任務が重要であり、艦の中堅となること現在の最大の任務なり。これをわきまえていれば五・一五事件は起こらぬ筈なり」と述べた
・・・・・・・・・・・・・・・・(名分話 第332回 ハルとグルー(13))
皇弟の高松宮宣仁親王と細川侯爵家の細川護貞の会話です。
兄弟の秩父宮と三笠宮が帝国陸軍で教育を受けたのに対し、高松宮は帝国海軍で教育を受けたことから昭和天皇の兄弟の中では海軍派ということになります。妻は最後の将軍徳川慶喜の孫娘。
細川護貞は、熊本の細川家の父と、島津家と鍋島家の間に生まれた母を持ち、近衛文麿公爵の娘を妻としています。
この二人は幼少期から年齢の離れた親戚のように育ってきました。そんな二人の密談です。
父親である秋篠宮の奥さん川嶋紀子さまの家系図を見てみましょう。
・・・・・・・・・・・・(以下転載)
秋篠宮家に嫁いだ「川嶋紀子様」の親戚にも、ずらりと有名大学の教授などが名を連ねています。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
○秋篠宮紀子妃(川嶋紀子)近現代・系図ワールド~秋篠宮家
で、「紀子様」の場合、先祖もすごい人たちばかりで、例えば以下のような人たちがいます。(出典はこちら)
・高祖父 池上武輔(旧会津藩士)
・高祖父 小菅智淵(旧幕臣、陸地測量部初代部長、池上四郎の岳父)
・曾祖父 川嶋庄一郎(教育者・学習院教授兼初等科長、佐賀師範学校校長、奈良師範学校校長)
・曾祖父 池上四郎(大阪市市長、朝鮮総督府政務総監)
・祖父 孝彦(官僚・内閣統計局長)
・父 辰彦(経済学者、学習院大学経済学部教授)
・叔父 川嶋行彦 (経営学者、東京国際大学商学部教授)
しかし、ここでちょっと気になるのが「池上四郎」という人物で、この人は「朝鮮総督府政務総監」に就任していたらしく、何やら朝鮮とかなり親密なご様子です。
また、皇太子妃として嫁いだ「小和田雅子様」も、その祖父が「日本チッソ株式会社」の社長。
・・・・・・・・・・(転載ここまで)
紀子さまの父親が学習院大学の教授なんですね。
なぜ、娘は学習院に行かないのでしょうか?
親戚には、
小菅智淵という陸軍参謀本部陸地測量部長
三井清三郎という海軍少尉もいます。
小室圭さんの祖母が「大山ねずの命神示教会」とかかわりがあるということで
結婚延期の記事が出ていますが、イマイチ、腑に落ちないと感じ、興味本位で調べています。
解ったことは、江頭2:50は小和田雅子さまと親戚だとか、どーでもいいことばかりでした。
私の中で、現在の皇族が「陸軍派」「海軍派」で分裂しているのが
皇太子、秋篠宮、小室圭さん問題かな?
と思ったのですが、結局うまくまとまりませんでした。
引き続き、調べてみたいと思います。
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