これは毎日新聞の連載コラムの転載です。
今回は稲盛和夫が原発推進と深く関わり、経営の神様と偽りの肩書きを名乗っている理由などが判明しました。
成和塾HPより
・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下転載)
稲盛の生涯を描いた伝記、「思い邪(よこしま)なし」(北 康利氏執筆)の新聞連載が始まった。10月3日から来年2018年3月までの半年間、毎週火曜から土曜、毎日新聞(朝刊)の経済面にて、120回にわたり掲載される。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
「思い邪なし」と検索すると、「島津家」が関連ワードで出てきます。
島津斉彬がこの句を語ったそうです。
鹿児島、薩摩藩の島津家の言葉を鹿児島出身の稲森和夫が使う。
なんともまぁご縁があるのですね。
毎日新聞プレミアムのサイトで無料購読をしていると稲盛家が島津家の家臣であると書いてあります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下転載)
思い邪なし30 郷中教育(四)
2017年11月15日 北康利 / 作家
第一章 勝ちに見放されたガキ大将
郷中教育(四)
稲盛家が「島津屋敷」という、もともと薩摩藩の下級武士の武家屋敷が並んでいた一角にあることについては先述した。印刷屋で成功し、元武家屋敷を買っていた畩市(けさいち)は、言わば成り上がりといってもいい存在だったのだ。
「大きな声で外で話さないように。そして身分相応なことをしなさい」
長女の綾子は、畩市からよくそんなことを言われていたという。
実際、近所の奥さんが外でおしゃべりしているような光景はこの地域では一切見られず、子どもたちが外で騒いでいると厳しく叱られた。
子どもになるとさらに露骨に差別してくる。
<中には私を「足軽の子」とばかにする子もいて、その悔しさといったらなかった。私の負けん気は、この頃の経験から来ているのかもしれない>(『ごてやん』)
だが一方で、稲盛家は自分の先祖に誇りを持ち、墓参りも頻繁にしていた。以前、お墓は小山田にあったが、当時は家の近くの新照院に移されていた(現在は草牟田墓地にある)。
子どもたちが独立していったあとも、畩市とキミは仲良く一緒に新照院に墓参りをし、その後、西本願寺別院にお参りするというのがお決まりのコースだった。
そもそも稲盛家に限らず、鹿児島の家庭では墓参りは日課のようなもので、縁談があったときなど、
「その家の家風を知りたかったら墓を見ればわかる」
などと言われるほどだ。
お盆になると先祖の墓に提灯(ちょうちん)を下げる習慣があり、墓地全体が提灯の灯(あか)りで明るくなる。
「松脂(まつやに)をたっぷり含んだ松の根っこの部分を割って束にしたものを町で売っておりまして、それを買ってきて門の前で迎え火を焚(た)くのは、例年私たち子どもの仕事でした。お墓にお供えする花が多いこともあって、生花の消費量は鹿児島がダントツで日本一なんです。ダントツなんです」
稲盛は彼の好きな“ダントツ”という言葉を繰り返しながら、鹿児島がいかに先祖を大切にするかを語った。
実際調べてみると、都道府県別人口十万人あたりの「生花店」の登録件数(平成十八~二十三年)で鹿児島が一貫して一位。平成二十三年の都道府県庁所在地および政令指定都市一世帯(二人以上世帯)の「切り花」年間購入金額も全国一と、実際彼の言うとおり“ダントツ”に多かった(総務省統計局「家計調査」)。
武人の石像
武人の石像
そもそも稲盛家は信仰心の篤(あつ)い家系である。
小山田の稲盛家の本家を訪問した際、神様の祠(ほこら)が三つあった。何の神様か今になっては分からないが、そのうちの一つは隼人(はやと)塚のそれに似た武人の石像であった。
以前は近くの山の上に祭られていて荒れ放題だったのを、おそらく稲盛和夫の曽祖父の代に、見かねて家の近くに勧請したものだろうと聞いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
ようは、稲盛和夫は島津家の家臣か、近い血筋なんですね。
そして、京セラフィロソフィーを読んだことがあるかた、会社で取り入れている方はご存知だと思いますが
西郷隆盛の敬天愛人が使われています。
毎日新聞プレミアム無料購読より抜粋
・・・・・・・・・・・・・(以下転載)
思い邪なし27 郷中教育(一)
2017年11月10日 北康利 / 作家
第一章 勝ちに見放されたガキ大将
郷中教育(一)
弱虫で泣き虫であった稲盛が後年、質実剛健の気風を身につけていったのには、この地独特の「郷中(ごじゅう)教育」で鍛えられた面がある。
鹿児島に生まれ育ったものなら、多かれ少なかれその影響は受けている郷中教育とは、薩摩藩の城下において藩校とは別に、四、五町四方の「方限(ほうぎり)」ごとに集まって学問や武術の鍛錬をする藩士の子弟教育を指す。
六歳以上の男子が対象で、元服の前後で「稚児」と「二才(にせ)」に分かれ、二才が稚児を指導する。二才は二十五歳くらいになると結婚し、「長老(おせんし)」として郷中を卒業していくのである。
郷中教育では基本教材と言っていいものがいくつかあり、そのうちの一つが島津家中興の祖である日新公(島津忠良)の作った「いろは歌」であった。
いにしえの道を聞きても唱えても
わが行いにせずば甲斐(かい)なし
これが最初の“い”の歌であり、「理(理屈)を言わず実行あるのみ」という薩摩の藩風を端的に示している。
それらを諳(そら)んじながら、信義を重んじ、礼節正しく、仁心(じんしん)を旨とする武士道の基本を叩(たた)きこまれた。
そして「いろは歌」と並んで大切にされたのが「三つの戒め」である。“負けるな”“嘘(うそ)をつくな”“弱い者いじめをするな”という「三つの戒め」は、彼らの中では絶対だった。
西郷が江戸城受け渡しの際、佩刀(はいとう)せずに城内に入り、庄内藩の城受け渡しでは逆に彼らに佩刀を許して、敗者に対し礼を失することなく、彼らに武士の面目を保たせた。
こうした西郷の行動は、まさに郷中教育の“弱い者いじめをするな”からきている。
雪化粧した西郷隆盛銅像=2016年稲盛の受けた郷中教育は江戸時代ほど徹底されたものではなかったが、それでも終戦まで、学校教育のほかにそれぞれの町内単位に設けられた「学舎」と呼ばれる施設で教育を受けた。
そこで初歩的な日本の歴史や中国の古典、そして薩摩が生んだ偉人たちについて学んだのだ。
その最大の人物が西郷隆盛だったことは言うまでもない。
稲盛和夫の人生に、この西郷隆盛というわが国を代表する偉人の存在が色濃く投影されるのは、言わば必然であった。
西郷の無私の精神は鹿児島だけのものではなく普遍性を持っている。
稲盛もその確信のもと、京セラの社是を「敬天愛人」と定めた。
稲盛が経営の意思決定をする際に、自らに問いかけた、
--動機善なりや、私心なかりしか
という言葉もまた、西郷の無私の精神に照らして自らの行動に恥ずべきところはないかという問いかけでもあったのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
現在NHKで放送されている西郷どんは島津家のお話です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下転載)
鈴木亮平主演、瑛太らの共演で送る2018年のNHK大河ドラマ「西郷どん」が1月7日から放送開始。第1話では幼少期の西郷が島津斉彬と出会う物語が描かれたが、斉彬を演じた渡辺謙に対しネット上では「かっこよすぎ」の声が続出する騒ぎとなっている。
林真理子の原作を「ドクターX」「花子とアン」などを手がける中園ミホの脚本でドラマ化する本作は、男にも女にも「日本史上最もモテた男」という異名を持つ西郷隆盛の人生を描く物語。
鈴木さんが西郷を演じ、西郷の生涯の盟友でありライバルの大久保利通役に瑛太さん、幼い頃から西郷どんにひそかに思いを寄せ、紆余曲折の末西郷3人目の妻となる岩山糸役に黒木華、そのほか北川景子、桜庭ななみ、松坂慶子、渡部豪太、沢村一樹、風間杜夫らも出演。また「ピース」又吉直樹が江戸幕府13代将軍・徳川家定役で大河初出演を果たすのも注目だ。
7日に放送された第1話「薩摩のやっせんぼ」は、少年時代の西郷小吉が主人公。小吉は大久保正助ら町内の仲間たちと学問や剣術を学ぶ日々を過ごしていたが、あるとき、極秘に大砲の実験をする渡辺謙演じる島津斉彬と出会い、大きな影響を受ける。その後「妙円寺詣り」という藩最大の行事で小吉たちは一番乗りで寺に到着、褒美の餅をもらうが、そのことで上級武士の少年らの恨みをかい仕返しされ刀で肩口を切られてしまい、二度と剣がふれなくなってしまう。絶望のなか斉彬と再会した小吉は斉彬から叱咤激励を受ける…というストーリー。
今回の1話だがSNS上では渡辺さん演じる斉彬に大きな注目が集まっている。
斉彬は島津家第28代当主で、非常に聡明で卓越した知識を持ち時代を牽引したカリスマ的な存在。貧しい下級武士の西郷の才能を見いだし大抜擢した西郷生涯の師ともいうべき人物だ。
放送中から「渡辺謙の覇王感すげえ」「かっこよすぎてちびる……ケンワタナベ」などの声が続々SNSに投稿されはじめ、「渡辺謙の存在感」「斉彬様、色々格好良過ぎ。ありゃあ、小吉君が惚れちまうぜ」などその迫力と共に強さがにじみ出るような演技に惹かれる視聴者が続出。「ケンワタナベがカッコいいイメージしか残ってない」など強いインパクトを残したようだ。
大人になり成長した鈴木さん演じる西郷と渡辺さん演じる斉彬が共演する第2話「立派なお侍」は1月14日(日)20時からNHK総合で放送。BSプレミアムで毎週日曜18時から、再放送はNHK総合で土曜13時5分から放送。
・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
稲盛和夫は出身地鹿児島を愛しているんですね。
そして、その島津家ですが、斉彬と久光について以下のとおり大河ドラマ篤姫を通して人間関係が語られています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下転載)
「思無邪」 島津斉彬と久光 - ゆーくんはどこ? - Yahoo!ブログ
「思無邪」島津斉彬筆
斉彬の座右の銘として有名な言葉である。
「思無邪」とは「思いよこしまなし」と読み、
心情をありのままに表し、偽り飾ることがない、という意味である。
論語や詩経に見られる言葉だそうだ。
2001年韓国を訪問した小泉純一郎首相(当時)が、国立墓地と、西大門独立公園の歴史展示館を訪問。
記帳の際、「思無邪」と書いたことで、一躍有名になった言葉でもある。
外圧に揺れる国難に真正面から向き合おうとした斉彬公の心境を表している。
今年4月に大阪歴史博物館で開催された「天璋院篤姫展」で、直筆の書を拝見できたのは感激であった。
実物はかなり大きな書で、斉彬公の強い決意を感じさせ、観るものを圧倒する。
また書体も伸びやかで力強く、また構図もすばらしい名書ではないか!
私は、博物館などで、歴史上の有名無名な人物の書や絵画を見るのが、この上なく好きである。
時に絵や直筆の手紙や文字が、その人のすべてを物語るときがあるからだ
この「天璋院篤姫展」では、数多の島津斉彬公直筆の手紙を拝見することができた。
斉彬公はかなりの筆まめであったようだ。
そしてその内容も、まさに「「思無邪」そのもの。
邪推も邪念も無く、陰謀や隠し事もなく、真っ正直でストレートに考えを書いていた。
そしてその内容の殆どが、外圧や国難を憂い、そのために薩摩はどうすべきかを
明確に書き示している。
数多い斉彬公の書状のなかで特に感激したのが、
「島津久光宛 島津斉彬書状」 嘉永4年(1851) 5月29日付
江戸の斉彬公から国許の島津忠教(のちの久光)への書状である。
上京した篤姫が、江戸薩摩藩邸にて篤姫の将軍家の輿入れの沙汰が下るのを待っていた間に
にしたためられた手紙である。
内容を抜粋してみよう。
異船之様子函館下田共・・・最早交易も開ケ候哉聞得申候、先両三年戦争之掛念は有間敷
異人益我侭之振舞可有之掛念計候、琉球も是迄日本服従内々候得共、此節之場合 夫相済間敷との事・・
ペリー再来に揺れる日本は戦争を避けるために開国は必至との見解を述べている
嘉永4年当時、そこまで踏み込んでの発言は大胆でかつ的確である。
さすが、斉彬公。先見の明がある。
また、このような重大な内容を書状で書き送る久光への信頼の厚さをも物語っていて興味深い。
また篤姫の将軍家との婚姻について幕府からの正式な沙汰がないのは、
ペリーからの外圧や、京都御所炎上の問題で幕府ががたがたしているためだと説明している。
三次郎母子案しん可申と存候間、内密御伝可給候、何分善悪相知兼申候
同年2月に当主忠剛(篤姫の実父)を亡くしたばかりの今和泉家の母子に、
内密にこの件を知らせて安心させてほしいと依頼している。
篤姫やその家族への気遣いがあふれる書面であり、またこの兄弟が何でも相談できる間柄であったことが分かる書状でもある。
一人下田之様子七里方勝手歩行いたし、品物も自由取替も有之よし、
此間、内々人遣候処、誰金銀と取替出来候見届ケ罷帰申候、其通故、琉地は猶更之事と存申候、
武備何分御手薄之様子御座候、委細は後日可申入候、恐々諌言
と、下田へ自ら赴き視察した内容を日記風に気軽にしたため、
久光へ琉球への武備の目配りをさりげなく依頼しているのも面白い。
久光への親しみと信頼あふれる書状は、この兄弟の関係が良好であったことを示す証拠であろう。
遠く江戸にて篤姫輿入れ等の幕府工作に忙殺される斉彬公にとって
薩摩藩、特に島津家の諸事の手助けとなる参謀的な役割を久光が負っていたとも想像できる。
つまり島津藩を2分し血で染めた「お由羅騒動」が、その後の二人の関係には殆ど影響がなく
弟の罪を問うどころか、むしろ重用していたところに、斉彬公の大きな器ぶりが分かる。
安政5年7月、島津斉彬は志半ばに病で倒れ(毒殺の疑いもある)
急死する間際に自分の後継者として、島津久光の嫡子、茂久を指名した。
「お由羅騒動」の影響がまだ残っている藩内で久光を後継者に指名するのは憚りがあったのであろう。
そして幼い茂久には後見が必要であり、自分の意思や志を一番理解してくれる身内として
久光に薩摩藩の舵取りを託したのである。
翌年(安政6年)実父島津斉興が亡くなった後、「国父」として藩の実権を掌握した久光は、
兄斉彬公の意思を継ぎ、文久2年(1862年)、公武合体運動推進のため兵を率いて上京する。
朝廷・幕府・雄藩を連合させ、外様であっても幕政の主導権を握ることこそが、
斉彬公の悲願であったからだ。
そして薩摩藩内においても斉彬公同様、下級武士をどんどん登用した。
その筆頭が大久保一蔵(のちの利通)。
彼ら中下級藩士から成る有志グループ「精忠組」は若手藩士の中心となった。
そしてそのまとめ役が、後に家老となる小松帯刀である。
しかし、「精忠組」のリーダーであった西郷吉之助(隆盛)と久光は、そりが合わず、
最期まで犬猿の仲であったのが、明治維新になっても尾を引く結果となる。
島津久光は斉彬の後継者として、見事に斉彬の意思を継いだ。
それは間違いない。
しかし、西郷との個人的な人間関係のトラブルが、久光の印象を暗くしているような気がする。
西郷隆盛=ヒーロー、久光=ヒール とでもいおうか・・・
事実西郷は藩命で2度も島流しとなる。
一度目は安政の大獄で京都を追われた月照との心中事件の後、
幕府からの詮索を逃れるための隠れ蓑的処置であったが、
(そのため西郷は亡くなったことになっており、菊池源吾という偽名で奄美大島へ流された)
2度目の沖永良部島遠島は完璧な罪人扱いであった。
当時の藩士にとって最も過酷な左遷であり、事実西郷は過酷な環境にあって死に掛けたのである。
明治維新最大の英傑を島流しに処し、抹殺しようとしたわけだ。
久光の評価が斉彬公のそれに遠く及ばない、暗く邪悪な印象を与えるのは、致し方あるまい。
それは久光の西郷への憎しみという「思有邪」が、政治に影響したからである。
その一方、斉彬公は、政治や人材登用をできるだけ公正に行い、
また一時敵対した異母弟とはいえ、罪を問わず弟への信頼をも揺るがすことも微塵もなかった。
まさに「思無邪」。
「三百諸侯並ぶものなし」と称えられ、あの西郷隆盛が死ぬまで尊敬し続けた
海のように大きな器をもった殿様であったのだ。
大河ドラマ「篤姫」で高橋秀英樹さん演じる斉彬は、心広く、慈悲深く、また
日本の国難を憂い、幕政に参加してこの難局を乗り切りたいという、まっすぐな野望を持っていた。
とても実像に近いのではないか?
斉彬公筆の「思無邪」をみての実感である。
一方、久光に関しては今年の大河ドラマ「篤姫」でも、斉彬公との関係も良好に演出されており
なかなかいい感じである。性格もいい。
これから、西郷との複雑な人間関係をどう描くのか、それも注目してみたいところである。
・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
島津斉彬の息子、島津久光は西郷隆盛とは険悪だったと描かれていますね。
ここで大河ドラマになった「篤姫」について調べてみました。
出てくるわ出てくるわ、、、です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下転載)
天璋院(てんしょういん) / 篤姫(あつひめ、天保6年12月19日(1836年2月5日) - 明治16年(1883年)11月20日)は、江戸時代後期から明治の女性で、薩摩藩島津家の一門に生まれ、島津本家の養女となり、五摂家筆頭近衛家の娘として徳川家に嫁ぎ、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所となった人物。
実父は薩摩藩主島津家の一門・今和泉(いまいずみ)領主・島津忠剛。母は島津久丙の娘・お幸。薩摩藩9代藩主・島津斉宣の孫である。
幼名は一(かつ、もしくは、いち)。本家当主で従兄・島津斉彬の養女になり本姓と諱は源 篤子(みなもと の あつこ)に、近衛忠煕の養女となった際には藤原 敬子(ふじわら の すみこ)と名を改めた(この際に篤の名は君号となり、篤君(あつぎみ)となった)。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
天璋院(てんしょういん)というキーワードを検索すると、徳川美術館にたどり着きました。
とっても面白い文章がありましたので以下転載いたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下転載)
秋季特別展
天璋院篤姫と皇女和宮
9.16 (土) ~ 11.5 (日)
激動の幕末、江戸幕府の権威が失墜していくなか、天璋院と和宮はそれぞれ政治的な使命を帯び、徳川将軍家に御台所として嫁ぎました。島津分家に生まれ近衛家養女として13代将軍家定に嫁いだ篤姫、公武一和をはかるため天皇家から14代将軍家茂に降嫁した和宮、同じ将軍御台所といえども、その生まれや育ちは対照的です。二人は当初こそ対立しましたが、やがて訪れる幕府崩壊の危機に面して徳川家の家名存続に尽力し、江戸無血開城を成し遂げ、その難局を乗り越えました。
二人が生活の場とした幕末の江戸城大奥は、将軍と御台所を取り巻く側室や女中など多くの女性たちの住まう場でもあり、細かなしきたりのもと、日々の日課や年中行事が行われ、爛熟を極めました。武家と公家という二人の出自の違いを反映しつつも、いずれも勝るとも劣らない華麗さを誇った大奥での暮らしぶりを再現し、徳川の世の終焉を見届けた二人の波乱の生涯を振り返ります。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
「島津分家に生まれ近衛家養女として13代将軍家定に嫁いだ篤姫」
「公武一和をはかるため天皇家から14代将軍家茂に降嫁した和宮」
の2大正室が当時の権力にはあったということが解ります。
となると、島津家は、天皇家と姻族になりますよね?
であるならば、島津家の家臣の稲盛家も天皇家と何らかの関わりがあるということになりますよね。
彼らは、自分達の権力を誇示するために、NHK大河ドラマなどを使って、アピールしますが、結果的にそれが原因で
このような関係性がばれてしまいます。
しかも、小説家は、いわゆる天皇家に由来のある人物をネタに脚本やら作品を書くと大ヒットしてしまいます。
本当に嫌になりますね。皇族礼賛を昔からやってきたわけです。
日本で売れたければ、皇族礼賛しろと。文学は毒されてますね。
正力松太郎と稲盛和夫が、セラミックの仕事を受注する切っ掛けとなり、繋がっていると「思い邪なし」に明確に書かれています。
つまり、CIAのフィクサーの正力松太郎と、稲盛はグルだったわけですね。
さらに、正力松太郎は「日本原発の父」とも呼ばれ、中曽根とグルになって、世論誘導をしかけ、日本に原発利権を持ち込んだ中心人物です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(新聞赤旗より)
2億3500万円。日本で初めて計上された原子炉築造予算の金額です。
■ウラン235
1954年3月3日、中曽根康弘衆院議員(後の首相)らが中心となり、当時の保守3党(自由党、改進党、日本自由党)が突如、54年度政府予算案の修正案を衆院予算委員会に上程。翌4日には衆院通過を強行しました。
ビキニ水爆実験で第五福竜丸が「死の灰」を浴びた直後で、被ばくの事実が暴露される約2週間前でした。
2億3500万円という数字にどういう根拠があったのか。中曽根氏は、著書で「(核燃料となる)ウラン235の二三五ですよ(笑い)」(『天地有情 五十年の戦後政治を語る』1996年)と述べています。
当時、日本では原子力の研究体制さえなかった時代。日本初の原子力予算が何の根拠もなかったことを示しています。
こうした暴挙に、マスメディアや学界からは「札束で学者の頬をひっぱたくものだ」という批判が噴出しました。
なぜ中曽根氏が推進の先頭に立ったのか。そのカギは、前年に開かれたハーバード大学の「夏季国際問題セミナー」にありました。
中曽根氏(当時、改進党)は、「マッカーサー司令部のCIC(対敵国諜報部隊)に所属して、国会や各党に出入りして情報活動をしていた」(前出の著書)人物からもちかけられて、このセミナーに参加します。
セミナーを統括していたのは後の大統領補佐官・キッシンジャー氏。中曽根氏はセミナー後、米国の原子力施設を見学するなどし、原子力研究に慎重な日本の学界の状況を「政治の力で打破する」(同)と決意したといいます。
■世論誘導図る
米原子力戦略に従い、日本への原発導入に積極的に動いたのは、中曽根氏だけではありません。その一人が、当時、読売新聞社主で日本テレビ社長だった正力松太郎氏(後に政府の原子力委員会初代委員長)です。
第五福竜丸事件を契機に原水爆禁止の世論と運動が全国に燃え広がる中、“総理大臣への野望”を抱いていた正力氏は、政治的求心力を得るため原子力に着目。新聞とテレビをフルに使って「原子力の平和利用」キャンペーンに打って出ます。
正力氏は55年5月、米国から、世界初の原子力潜水艦ノーチラス号を製造したジェネラル・ダイナミックス社のホプキンス会長らを「原子力平和利用使節団」として招聘。
同年11月から「引き続き巨費を投じて米国務省と協同で原子力平和利用大博覧会を全国で開催」し、「それを読売新聞と日本テレビの全機能をあげて報道し、世論の一変を期した」のです。(正力氏の証言、『原子力開発十年史』65年)
正力氏の腹心、柴田秀利氏(後の日本テレビ専務)は、米政府の情報員とたびたび接触。
その中で柴田氏は「日本には昔から、“毒は毒をもって制する”という諺がある。…原爆反対を潰すには、原子力の平和利用を大々的に謳い上げ」ることが必要だと提案したことを明らかにしています。(『戦後マスコミ回遊記』85年)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
政府の原子力委員会初代委員長の正力松太郎と繋がりがある稲盛和夫との出会いが松風工業時代にある
⇒辞職して独立、京セラ創業に繋がる
完全な勝ち戦にしか見えません。
これだけの出来レースを見て、「経営の神様」とはいかに???ですね。
そして、原発利権と京セラで検索すると出てくるわ出てくるわ、、、、・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(以下J-CASTより転載)
稲盛氏がエネルギー問題で持論 「原発は必要悪」「太陽光はメジャーになり得ない」日本航空(JAL)の稲盛和夫名誉会長が2012年10月23日、東京・有楽町の日本外国特派員協会で講演し、業績回復の背景について語った。稲盛氏は、社員の意識改革の重要性を繰り返して強調した。その上で、日本の多くの経営者について、企業戦略を社員に説明する努力が足らない点を「心からの協力を得るのは難しい」などと批判した。
また、日本のエネルギー政策については、政府が打ち出している「原発ゼロ」については否定的な見解を示し、自らが推進している太陽光発電についても「メジャーなエネルギーにはなり得ない」と述べた。
「日本の経営者の多くは、目に見える財務指標や事業戦略に気を取られている」
稲盛氏はエネルギー問題について「原発は必要悪」などと述べた
稲盛氏はエネルギー問題について「原発は必要悪」などと述べた
JALは2010年1月に経営破たんしたが、12年9月には異例のスピードで再上場を果たした。官民ファンドの企業再生支援機構から受けていた3500億円の出資については、
「約3000億円をプラスして返すことができた。国家財政が厳しいなか、少しは国にお役に立てたのではないか」
などと述べ、公的支援で法人税が減免されるなどして業績が回復したことに対する批判には、
「これは先進国で一般的な制度で、特別JALが優遇された訳ではない」
と従来の反論を繰り返した。
業績回復の要因については、
「一義的には、金融機関や株主の犠牲があったから」
としながらも、
「社員の意識やJALの社風が大きく変わり、結果として全社員が、それぞれの現場で『自分の会社を少しでも良くしよう』と必死に努力を重ねてくれたことがV字回復の最大の要因だと思っている」
と、経営理念を定めた上で、社員の意識を変えることの重要性を繰り返した。その一方で、
「近年では、日本の経営者の多くは、目に見える財務指標や事業戦略に気を取られているのではないか。例えば、記者を集め、本社の事業スタッフがつくった事業戦略を、まるですぐにでも実現できるかのようなプレゼンテーションを行っている人もいる」
と、「理念なき経営」を批判。
「それを実行する社員は、その詳しい内容を知らないケースもあるのではないか。それでは、社員の心からの協力を得るのは難しいはず。もし、その事業戦略を必ず実現しようとするならば、その意義や目的、達成までの方法などを、経営トップが現場に出向き、現場の社員が心の底から『それをやり遂げたい、必ずできる』と思うようになるまで話し込まなければならないのではないか」
などと、経営戦略の意義を社員に説いてまわることの重要性を繰り返した。太陽光発電については、私は最も日本で先駆けてやってきた技術屋」
エネルギー問題については、
「何とか原発なしで高度な文明社会を維持していくことでできればいいが、現在の科学技術では、私はそれは不可能だと思っている」
と、政府が掲げた「原発ゼロ」には否定的な見解を示した。
稲盛氏は京セラの創業者としても知られ、同社グループは、12年8月に稼働を始めた「ソフトバンク京都ソーラーパーク」などの太陽光発電所の建設に携わっている。
だが、当の稲盛氏は、
「太陽光発電については、私は最も日本で先駆けてやってきた技術屋。現在日本で一番生産量も多いし、設置をしているのが京セラの太陽光発電」
と自負を見せながらも、
「メジャーなエネルギーにはなり得ないと思っている」
と、太陽光発電は補完的な役割にとどまるとの認識を示した。その上で
「原発は、必要悪として、どうしてこれをコントロールして使っていくかに力を入れなければならないのでないかと思っている」
原発のリスクや廃棄物の処理を含めた情報開示の徹底を求めた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
「理論的にコントロール不可能なものをどうやってやるのか?」と思いますね。
「ソフトバンク京都ソーラーパーク」などの太陽光発電所の建設に携わっている。」
とありますから、孫正義と稲盛和夫がつながっているんですね。
彼らがやっていることは、天皇家とゆかりのある企業トップ同士がお友達になり、国民を騙して、インフラ事業を中心として詐欺行為を行い暴利を山分けしているだけにしか見えないのは私だけでしょうか?
仮に天皇家とゆかりのない経営者も、企業成長していくために、はたまた名誉のために、そういった天皇系の企業に吸収されていくのでしょうね。
京セラは「原発を問題視しながら、安全なエネルギーとして太陽光発電事業でぼろもうけした」のでしょう。
表が ソーラー、裏が原発
原発をおとりにして、ソーラー事業でぼろ儲け。
エネルギー事業は笑いが止まりませんね。
まさに、北朝鮮を中心として、不安を煽り、国民の税金を使って
武器兵器を法外な値段で購入する口実作りをしている、わが国の政策=不安ビジネスと構造が同じではありませんか?
原発=北朝鮮
太陽光発電=武器兵器による防衛
彼らは、不安で国民を騙して、税金をぼったくる仕組みを上手く利用しています。
誰かが知恵を与え、それを指南しているのでしょうね。
稲盛和夫に、京セラ、KDDI、JAL再建という実績を積ませ
「経営の神様」と呼ばせる。
そして全国の経営者を集め、美麗字句で洗脳し
犯罪加担させていく。
経営者を洗脳すれば、その会社の社員も必然的に経営方針に従わざるを得ないですから
効率よい洗脳工作ですね。
しかし、ペテン師はいずればれます。
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