<ゆとり教育の結果、学級崩壊した中国の教室>
人間は、生まれてきて「しつけ」を受けないと「社会性」を身に着けることができません。
社会性とは何か?というと「本能のままで生きてはダメだよ」という「心のブレーキ」のようなものです。
ある意味、「しつけ」とは「相手の気持ちを予測する高度な思考」を身に着けさせることでもあります。
しかし、そのレベルまで行くには「基本的なしつけ」ができていないと、「相手の気持ちを予測する高度な思考」は身に着けることはできません。
私は、今看護学校の教員をしていますが、とても荒れた学年を受け持っています。
これがとても勉強になるのです。
子供たち、学生たちは1対1だと素直な子ばかりですが、集団になると途端に豹変し、自分勝手、まるで「猿の学園」のように他の先生が話しているのに、後ろを向いたり、ガムをかんだり、寝ていたりします。
どちらが本性なのか?というと集団でいる時なのです。
つまり、「流される人たち」なのです。
こういった、18歳以上の専門学校でも、「しつけ」がされておらず、進級してきてしまうと、小学校のような「学級崩壊」が始まるのです。
「学級崩壊」というテーマで調べてみると、様々なキーワードが出てきますが、やはり「ルールを守らない」ところから始まります。
「ルールとは何か?」と考えると、「一貫性」であり、目的を持った集団が円滑に行動できるようになるための「決まり事」だと言えます。
そこに、「例外」や「えこひいき」が入ってくると、「一貫性が崩れる」のです。
本当に運が良かったと感じるのは、「学級崩壊に至った学年を担当できた」ことで、様々な問題が起きる事を見る事ができたことです。
それは、
「優秀な子、素直で優しい子を辞めさせてしまう」という悪貨が良貨を駆逐する現象
や「実習先で大人しい指導者、経験の浅い指導者に当たると舐めた態度を取る(対等だと錯覚した言動をする)」ということです。
そういった「不遜な態度」を取り続ける学生には特徴があります。
「楽して国家資格が取りたい」
という発想があるのです。
楽して看護師になっても、就職先では組織に入っていくため、潰されてしまいます。
「仕事さえしっかりしてればいいんでしょ?文句ないんでしょ?」
というスタンスです。
しかし、そういう考えを持った人たちが「本当に良い仕事ができるか?」というとそうでもない。
やることが「自己中心的」であり、決して周囲を認めることがありません。
集団をまとめるには、「組織」にする必要があり、組織にはルールが必要です。
そして、そのルールを破る例外を作らない事。
そして、「教員は生徒と友達ではない」という事が大切になってくると感じました。
想像してください。
20歳過ぎた大人です。
提出物期限を守らない、
言葉遣い、敬語が使えない、
指導されると言い訳、露骨に嫌な表情をする、
思い通りにならないと怒る、泣く
学級崩壊した学年を受け持つことで「見た目は大人でも、人間はいくつになっても、変わらないんだな」という悲しい気持ちになりました。
大人、教員から「愛を受けていない」「しつけをされていない」人たちの末路なのです。
国家試験さえ合格すれば、看護師のライセンスは取得できます。
しかし、一番大切なルールを守ることなどの「しつけを受けていない人たち」がこれから定年退職までの40年間、ルールで雁字搦めの「組織」に入っていくのです。
「ルールを守ること」で自主性・積極性がなくなることはなく、
「ルールを守らない事」で自主性・積極性が「自分勝手、わがまま」に変わってしまうのです。
自分勝手でわがまま、相手に対して礼儀もない人間が目の前にきて、気持ちいいと感じるでしょうか?
学則で「ヘアブリーチ禁止」となっているのに、ヤンキーのように髪の毛を染めてくる学生がいます。
本来、1回目注意、2回目、個別に呼び出して面談、3回目、親呼び出しです。
「これぐらいいいだろう」ここから「例外が生まれる」のです。
今は「トイレを我慢させてはいけない時代」です。
しかし、働くようになって「トイレ行きたいから」とその場を離れてよい仕事といけない仕事があります。
だとしたら、授業中にトイレに行かなくてよいように、
・休憩時間にカフェインを取らない
・飲料を減らす
など対策は立てることはできます。
しかし、大人がそういった事ができないのです。
野良犬は何を怖がるでしょうか?
自分よりも怖い他の動物、飢えなどを怖がります。
しつけをされていない人は、野良犬と同じで「恐怖や損することを怖がる」傾向があります。
しつけされている犬は何を怖がるでしょうか?
「飼い主から関心が受けられなくなること」に恐怖するようになります。
野良犬のまま教育するのはとても骨が折れます。
ですから、まず「しつけ」をする必要があります。
しつけとは集団を組織にすることです。
「あの先生は優しいから好き」=「あの先生は自信なくて、バカだから、生徒のいう事は何でも聞いてくれる、楽勝楽勝」
と見下しているのです。
欲望のままに生きる人たちを相手にすると、教育者は傷つきます。
家庭教育で「しつけ」を受けてこなかった子たちが大人になっていく。
それはある意味において、「愛を知らない大人たちに、欲望のままに育てられてしまった子供たち」の成れの果てなのかもしれません。
人生において、基準を持たず生きることがどれほど危険なのか?
実は大人が知りません。
「会社に出勤して金さえ稼いでこれば社会人だ、これが幸せだ」と低次元の基準で生きているのです。
それが子供たちの「好き勝手に生きることが幸せなんだ」
「我慢せず自由に生きることが幸せなんだ」という無秩序な世界、弱肉強食の世界を自由と錯覚しているのです。
RAPT有料記事346(2019年1月26日)御言葉の基準に達した人は祝福、御言葉の基準に達していない人は裁きだ。主の世界にそれ以外の基準は一つも存在しない。
人生に基準のない人にとって、行き着く先は「地獄でしかない」と思います。
単にルールを守らせるだけではない、「人生の基準も教える時代」に入っていると思います。
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