心のハンドル操作方法 幸せに生きるための教習所

旧精神科医療は思想警察なのか?

有名になるには闘病ビジネスをするしかないのか?)「何でまた」3度目のがん発症に泣いた 職場に遠慮、仕事辞めるしか…治療と両立の鍵は

2018年05月06日 | 医療

<エグザイル軍団代表>

<ガン手術をしてから売れっ子になった宮迫>

<元祖、闘病ビジネス 渡辺謙>

巷では、「闘病ビジネス」というものが流行しています。

このような記事を書くと、「非人道的だ」とマイナス感情を抱かれる方もいるかもしれません。

しかしながら、「ガンの歴史」を見れば見るほど、「ガンという病気は存在しない」と考える方が、辻褄が合うのです。

私達は、検診で「ガンの疑いがあります」と診断されたら、どのように思うでしょうか?

「原因は何だったのか?生活習慣だったのか?」色々調べますが、どれも釈然としません。

テレビをつければ、ガン関連のニュースを見ない日のほうが多いくらいです。メディアはひたすら「ガンの闘病記」「ガンの芸能人」を特集します。そして、ガンと闘病した芸能人は必ず、テレビの仕事が増えます。

これまたおかしな話です。TOKIOの山口達也はアルコール依存症から復帰しても、おそらく仕事はなかなかもらえないでしょう。だったら、「脳のガン、つまり脳腫瘍だった」と適当なことを言って置けばよかったかもしれません。

今回はガンによる洗脳について見て行きたいと思います。

・・・・・・・・・(小林麻央の死は悪魔への生贄である。(悪の巨塔・日野原重明と市川海老蔵の深いつながり)

癌治療の「早期発見・早期治療」などと銘打って、日本で初めて「人間ドッグ」を開設し、「予防治療」なるものを広めた立役者が、実は先日死んだばかりの「日野原重明」です。
 

〈日野原重明〉 

---------------------(以下、こちらから転載)
 
■訃報 日野原重明さん 105歳=医師 
「元気に老いる」体現 命と平和訴え続け
 
100歳を超えて現役の医師として活躍し、「元気に老いる」を体現した聖路加国際病院名誉院長で文化勲章受章者の日野原重明(ひのはら・しげあき)さんが18日、呼吸不全のため死去した。
 
105歳。葬儀は病院葬として29日午後1時、東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所。喪主は長男明夫(あきお)さん。
 
1911年山口県生まれ。
 
京都帝大医学部卒業後、41年に聖路加国際病院に内科医として赴任し、2012年に聖路加看護大(現聖路加国際大)理事長の座を退くまで71年間、一線で働き続けた。
 
同病院名誉院長、同大名誉理事長に就任後も患者と言葉を交わしていた。
 
病院によると、日野原さんと話すことが患者の生きがいや喜びにつながっていたという。
 
早くから予防医学の重要性を説き、民間では初となる人間ドックを同病院に開設。
 
「生活習慣病」という言葉も生み出した。
 
一方で、「75歳以上」の人を「新老人」と名付け、00年には「新老人の会」を設立。老後の新しい生き方を提唱した。
 
東京大空襲でも診察に当たり、薬不足などで救えなかった経験から「命と平和の尊さ」を訴え続けた。
 
95年のオウム真理教による地下鉄サリン事件で病院長として陣頭指揮を執った。
 
---------------------(転載ここまで)
 
もし「人間ドッグ」が存在しなければ、日本人の多くが「癌」と診断されて、ムダに死ぬこともなかったでしょう。
 
ですから、多くの人々を「癌」に見せかけて殺してきた立役者の一人が、実はこの「日野原重明」だったのです。
 
マスコミは彼のことをいかにも人の良さそうな名医として報道していますが、調べれば調べるほど、この「日野原重明」は筋金入りの悪であり、イルミナティの最重要人物であることが明らかになってきました。
 
まず以下の記事を読んでみてください。少し長いですが、非常に重大な記事です。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
■地下鉄サリン事件で日比谷線が最も多くの犠牲者を出したのはなぜか?
 
(1)3月20日に東京メトロ霞ヶ関駅で慰霊式を挙行するのは、「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の真相を隠蔽する為ではないか?
 
今年も3月20日に「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の慰霊式が東京メトロ霞ヶ関駅で挙行された。
 
TBSニュースバードや NHK総合では、「現場となった霞ヶ関駅」と言う言い方をしていた。
 
この言い方は間違いではないだろう。だけど、この言い方をいくつかの放送局がして、何より毎年霞ヶ関駅で慰霊式を挙行する事により、多くの人々は霞ヶ関駅が1番たくさんの被害者を出して1番悲惨な状況だったと誤解するようになっていないだろうか。
 
実は、地下鉄サリン事件で最も多くの被害者を出したのは、東京都中央区にある日比谷線の築地駅です!
 
地下鉄サリン事件
 
築地駅は、後述する聖路加国際病院の最寄り駅です。
 
私には、3月20日に東京メトロ霞ヶ関駅で慰霊式を挙行するのは、「地下鉄サリン事件」と呼ばれる出来事の真相を隠蔽する為のように思えてならない。
 
(2)営団地下鉄<当時>霞ヶ関駅
 
オウムは強制捜査を妨害するために、警察庁のある霞ヶ関に通勤する警察幹部を狙って地下鉄にサリンを撒き、捜査を撹乱し、その間に証拠隠滅を狙っていたと言われている。
 
1995年3月20日は月曜日で、事件は平日朝のラッシュアワーのピーク時に発生した。
 
霞ヶ関の官公庁の公務員は、通常は午前9時30分頃に出勤することが多い<えっ、そんなに遅いの! 羨ましい!>。
 
しかし、月曜日だけは朝早くに朝礼があるところが多く、8時という早い時間を狙ったのはそういう官公庁の 内部を知っている者が犯人の中にいたからではないかと推測されている。
 
霞ヶ関の官公庁の公務員、取り分け、霞ヶ関に通勤する警察幹部を狙ったと言う点に着目すれば、確かに霞ヶ関駅は象徴的な駅には違いない。
 
(3)地下鉄霞ケ関駅から採取した毒物が入っているとされる容器を運び出す警視庁科学捜査研究所の職員が笑顔なのはなぜか?
  
↑画像:地下鉄霞ケ関駅から採取した毒物が入っているとされる容器を運び出す笑顔の警視庁科学捜査研究所の職員 1995年3月20日、東京・千代田区
 
多くの人々が倒れている状況で、多くの人々が倒れている状況の原因となった毒物が入っているとされる容器を運び出す時、笑顔でいられるものだろうか?
 
常識的に考えれば、笑顔は消え失せ緊張感に満ちあふれているのではないかと思われる。
 
それなのに、このリラックス感たっぷりの警視庁科学捜査研究所の職員の笑顔はいったい何を意味するのだろうか?
 
もしかしたら、中には毒物など入っていないのではないだろうか。笑顔の警視庁科学捜査研究所の職員は芝居を演じているのではないだろうか。
 
もっと踏み込んで書けば、自分達の計画が決行されている事に無上の喜びを感じているようにも見える。
 
(4)地下鉄サリン事件で日比谷線が最も多くの犠牲者を出したのはなぜか?
 
地下鉄サリン事件のターゲットにされたのは、丸ノ内線、日比谷線で各2編成、千代田線で1編成、計5編成の地下鉄車内だった。
 

地下鉄サリン事件で13名の方々が逝去された。その中で何と10名が日比谷線利用者であった。
 
地下鉄サリン事件 – Wikipedia
 
その中で北千住7時43分発の日比谷線中目黒方面行きが8名の死者を出している。なぜ、突出して死者数が多いのか?
 
北千住発日比谷線は散布役の林泰男(現在は小池泰男)と送迎役の杉本繁郎が担当したとされている。
 
他の実行犯がサリン2パックを携帯したのに対し、林は3パックを携帯した。
 
また、3パックの内1パックが破損し、二重層のパックの内袋から外袋内にサリンが染み出ていた。
 
彼は北千住7時43分発の電車の3号車に上野駅から乗車した。
 
林は秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けサリンを散布したとされている。
 
以上がWikipediaなどから判る突出して死者数が多い理由である。
 
事件発生後の8時10分、日比谷線は複 数の駅で乗客が倒れ、また運転士から爆発事故との通報を受け、築地駅と神谷町駅に多くの緊急車両が送られた。
 
次第に被害が拡大したため営団は8時35分、 日比谷線の全列車の運転を見合わせ、列車・ホームにいた乗客を避難させた。一方で千代田線・丸ノ内線では不審物・刺激臭の通報のみで、更に被害発生の確認 が遅かったため、運行が継続された。
 
(5)なぜ林泰男だけ3パックを携帯し秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けたのか?
 
それは最初から実に広い収容スペースがある東京築地の聖路加国際病院に多数の犠牲者を収容するつもりだったからではないだろうか。
 
秋葉原駅で実行犯のうち最も多くの穴を開けたというのは絶妙である。こうする事により、悲惨な状況のピークになる頃、電車は聖路加国際病院の最寄り駅・築地駅に到着する。
 
(6)東京二十三区内で戦時中に全く爆撃がなく無被害だったエリア
 
ロックフェラー財団の寄付で建てられた図書館のある東京帝国大学付近。アメリカ聖公会の建てた聖路加国際病院付近。日本正教会のニコライ堂(東京復活大聖堂)と関連施設。
 
丸の内の第一生命館や明治生命館などがある地域などは、戦後統治に米軍が駐屯するために残してました。
 
金持ちが住む白金<しろがね>地区、谷中・根津・千駄木地区など。
 
空襲の標的になったのは主に貧乏な人々が多く住む下町で、ここは人口が密集しているために爆撃の効果が高い上、何より産業・経済の集積地だった。
 
1995年の阪神淡路大震災も、貧乏な人々が多く住むエリアが壊滅的な打撃を受けた。
 
多くの人々が不幸に陥る出来事があった際、金持ちは助かっている例が多い。
 
(7)聖路加国際病院
 
地下鉄サリン事件の時、大半の患者が運ばれた聖路加国際病院は、元米軍極東中央病院です。
 
病院名は、使徒パウロの協力者の一人であり、新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来している。
 
1874年、東京・築地の外国人居留地に、スコットランド一致長老教会の宣教医師ヘンリー・フォールズが健康社築地病院を設立した。その後、築地近辺で転々と場所を移動した。
 
フォールズはこの地でエドワード・モースの弥生町遺跡発掘に協力する中で、土器に残された指紋に興味を持ち、指紋捜査法を発見した。エドワード・モースと申す人は、大森貝塚を発掘した事で有名です。
 
1902年: フォールズが帰国した後荒廃していた築地病院の建物を、米国聖公会の宣教医師ルドルフ・トイスラーが買い取り、聖路加病院とした。ロシア革命が起きた1917年に、聖路加国際病院と改称した。
 
1923年、関東大震災で病院が倒壊、入院患者80名を青山学院の寄宿舎に移送、後に仮設病院を建設して診療を継続した。新病院が完成後は、仮設病院は管理棟や看護専門学校(後の聖路加看護大学)として使用された。
 
1933年、 皇室・米国聖公会・米赤十字などの寄付により新病院再建(現在の旧館)された。
 
1943年、政府に「大東亜中央病院」という名称に改名させられた。特高警察がスパイの嫌疑で日野原重明氏や日野原氏の同僚を取り調べたり、特高警察が患者を装って病院に出入りし、「大東亜中央病院」を監視をしていた。
 
1945年: 当病院があることにより築地・明石町一帯はアメリカ軍機による東京大空襲の爆撃を免れた。
 
日本の敗戦後には旧称に復帰したが、日本を占領下においた連合国軍を構成する一員となったアメリカ軍に病院施設が接収されて米軍極東中央病院として使用されたため、現在の国立がんセンター中央病院がある場所に「聖路加築地分院」を開設して診療を行った。1955年、「本院」がアメリカ軍から返還され、現在 地に戻った。
 
(8)日野原重明 104年間の人生 PART1
 
日野原重明氏は、1911年10月4日、山口県山口市湯田にある母の実家で生まれた。
 
(註・「湯田」という地名は、イエス・キリストを裏切った「イスカリオテのユダ」から来ているのでしょうか。)
 
6日後の10月10日、 清で武昌新軍が蜂起した。世に言う「辛亥革命」が始まったのだ。
 
前年の1910年、メキシコ革命が始まっていた。
 
メキシコ革命は、1877年以来メキシコ大統領の座にあったポルフィリオ・ディアス氏に対する反対運動として始まった。
 
日野原重明氏が生まれた翌月11月、継続中のメキシコ革命で、農民派のサパタ氏が蜂起した。
 
日野原重明氏が生まれた日本は、中国やメキシコとは真逆の動きが進展していた。革命的な動きを弾圧する動きである。
 
1910年に起きた大逆事件の裁判で幸徳秋水氏ら被告全24人に、大審院が死刑判決を下したのは1911年1月18日 であった。
 
さて、7歳で洗礼を受けた日野原重明氏は、731部隊の石井四郎が首席で卒業した京都帝国大学医学部を卒業後、1941年に聖路加国際病院の内科医となった。
 
1951年、聖路加国際病院内科医長に就任した。
 
1957年、石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めた。
 
(9)石橋湛山氏を首相の座から引きずり降ろしたのは誰か?
 
孫崎享(まごさきうける)氏の著書「アメリカに潰された政治家たち」で、アメリカと戦った12人の政治家の一人として評価されているのが、石橋湛山氏である。
 
石橋湛山氏は、首相就任後すぐ、不審な病に倒れ辞職した。
 
その後88歳まで生き、長生きであった。あの時の病はなんだったのか。薬物攻撃を受けたのではないかとも指摘されている。その説が正しいとすれば、誰が薬物攻撃をしたのか?
 
石橋湛山首相が脳梗塞で倒れ入院した際、石橋首相の主治医を務めたのがクリスチャンの日野原重明氏ですので、日野原重明氏の可能性が高い。
 
(10)よど号ハイジャック事件
 
1970年、日野原重明氏は、福岡での内科学会への途上によど号ハイジャック事件に遭い、韓国の金浦国際空港で解放された。
 
日本初のハイジャック事件ということもあり、犯行グループが「この飛行機は我々がハイジャックした」という犯行声明に対し、「ハイジャック」の意味を知らなかった日本人乗客の為に日野原重明氏は自ら手を挙げ、「ハイジャックとは飛行機を乗っ取って乗客を人質にすることです」と機内で説明した。
 
ハイジャック中に犯人グループから人質へ本が提供されたが、応じたのは日野原だけで、『カラマーゾフの兄弟』を借りた。
 
日本初のハイジャック事件で、この驚くべき落ち着き。事前に日本初のハイジャック事件が起きる事を知っていなければ、これだけの落ち着きは示せないのではないだろうか。
 
日野原氏以外は犯人グループから本を借りなかったと言う事実は、その時点において、日野原氏以外の搭乗客は不安におののいていた事を示すと思われる。
 
また、その事実は、日野原氏がよど号をハイジャックしたグループと通じていたのではないかという疑惑を深める。

 
犯人グループは赤軍派を名乗り、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)に亡命する意思を示して同国に向かうよう要求し、よど号は福岡と大韓民国(韓国)の金浦国際空港を経由して朝鮮民主主義人民共和国の美林飛行場に到着した。
 
運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで解放されたものの、身代わりとなった運輸政務次官山村新治郎氏と運航乗務員、犯人グループはハイジャックされた機で北朝鮮に向かい、運輸政務次官山村氏と運航乗務員はその後帰国したものの、犯人グループは亡命した。
 
なお、犯人グループが亡命した北朝鮮が、本日<2016年3月21日>午後3時19~4時5分(日本時間同)の間に、咸鏡南道(ハムギョンナムド)咸興(ハムフン)南方から日本海に向けて短距離の飛翔体(ひしょうたい)を5発発射したと明らかにした。
 
(11)日野原重明氏 104年間の人生 PART2
 
1974年、聖路加国際病院を定年退職。聖路加看護大学学長(第4代)に就任(1998年迄)。
  
1992年に聖路加国際病院院長に就任(1996年迄)。 無給で院長を務めた。
 
1995年3月20日、地下鉄サリン事件が起きた。
 
院長であった日野原氏の判断により、事件後直ちに当日の全ての外来受診を休診にして被害者の受け入れを 無制限に実施し、同病院は被害者治療の拠点となり、朝のラッシュ時に起きたテロ事件でありながら、犠牲者を最少限に抑えることに繋がったと評価されている。
 
この病院の対応は、ペンタゴンをはじめ諸外国からも絶賛された。
 
ペンタゴンの驚嘆 地下鉄サリン事件の聖路加国際病院
 
1996年、財団法人聖路加国際病院理事長に就任、院長を退任し聖路加国際病院名誉院長となった。
 
日野原氏は日本で最初に人間ドックを開設、早くから予防医学の重要性を説き終末期医療の普及にも尽くした。
 
従来は「成人病」と呼ばれていた一群の病気の名称を「生活習慣病」に改めたのも彼である。
 
2001年12月に出版した著書『生きかた上手』は120万部以上を売り上げた。
 
高齢者の希望の星的存在となっている。
 
保守思想を持ち、皇室を崇敬。度々皇室行事に招かれている。
 
新日本国憲法に勤皇奉仕義務を明記するよう求めている。
 
一方で、朝日新聞で執筆中のコラム「95歳の私 あるがまま行く」において、君が代に代わる新国歌の制定も提案した。
 
君が代に代わる新国歌の制定、私は賛成です。それにしても「勤皇奉仕義務」ですか、日野原さんってウルトラ右翼なんですね。「勤皇奉仕義務」、私は反対です。
 
でも、もしかしたら、日野原さんは似非右翼かもしれない。
 
私は高天原山事変の首謀者と指摘されている中曽根康弘氏も似非右翼ではないかと考えている。
 
日野原さんが似非右翼ではないかと考える理由は、よど号ハイジャック事件の犯人グループ<赤軍派>と通じている可能性があるからだ。
 
さて、日野原氏は100歳を超えてなおスケジュールは2、3年先まで一杯という多忙な日々を送っている。
 
乗り物でのわずかな移動時間も原稿執筆に使い、日々の睡眠時間は4時間半、週に1度は徹夜をするという生活だったが、96歳にして徹夜をやめ、睡眠を5時間に増やしたと言う。
 
日野原氏は少なくとも 110歳まで現役を続けることを目標にしていると語っている。
 
日野原重明氏は、日本の医師・医学博士であり、現在、一般財団法人聖路加 国際メディカルセンター理事長、聖路加国際病院名誉院長、上智大学日本グリーフケア研究所名誉所長、公益財団法人笹川記念保健協力財団名誉会長、一般財団 法人ライフ・プランニング・センター理事長、公益財団法人聖ルカ・ライフサイエンス研究所理事長などを務める。
 
(12)よど号ハイジャック事件のその後 【証拠湮滅】山村新治郎氏の娘は操られていたのか?
 
さて、よど号ハイジャック事件で身代わりとなった運輸政務次官<当時>山村新治郎氏は、宮崎勤事件が世間を騒がせていた1989年6月3日成立の宇野内閣(約2ヶ月の短命内閣)で運輸大臣を務めました。(同年8月10日まで=宮崎勤の自宅が捜索された日)
 
地下鉄サリン事件、よど号事件と国立がんセンター、厚生労働省を繋ぐもの
 
1992年、山村新治郎氏は、自民党訪朝団団長として北朝鮮への訪問を翌日に控えた4月12日、自宅にて精神疾患を患った24歳の次女に出刃包丁で刺され殺害された。当時健在であった母の目の前での惨劇であった。
 
北朝鮮に訪問の際には22年ぶりによど号グループ首謀者の田宮高麿<社会主義者なのに貴族のような名前、まあ、本人が名付けたわけではないのですが。>と会う予定であった。
 
日本国憲法下で他殺された現職国会議員としては、浅沼稲次郎氏に続いて二人目(丹羽兵助氏を他殺に含めると三人目)。次女は引きこもりがちであったと言うが、茶道教室に通う等をしていた。
 
また、よど号事件の時、次女は2歳であったが、身代わり人質で有名になった新治郎氏を羽田空港で出迎えた。新治郎氏の選挙をよく手伝っていたことから、後援会関係者からは「次女を後継者に」と言う声も挙がる一方で、次女の精神疾患に気付く者はいなかったという。
 
次女は心神喪失により責任能力なしと判断され不起訴となるが、4年後に自殺している。
 
次女が自殺した前年、つまり、地下鉄サリン事件が起きた1995年の11月30日、田宮高麿が平壌で死亡したとされた。
 
当局は死因を心臓麻痺と発表した。
 
しかし、前日の29日に赤軍派議長だった塩見孝也が田宮に平壌駅で見送られており、死亡日前日まで田宮が元気であったことが確認されていることから、拉致 事件を追っているジャーナリストの多くが田宮の死に疑問を呈している。
 
(13)地下鉄サリン事件が起きる事を予期していたかのような聖路加国際病院の新病棟建設
 
日野原氏は東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から、「過剰投資ではないか」という批判を抑えて、大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟として、広大なロビーや礼拝堂施設を備えた聖路加国際病院の新病棟を1992年に完成させた。
 
この備えは1995年の地下鉄サリン事件の際に遺憾なく発揮され、通常時の機能に対して広大すぎると非難されたロビー・礼拝堂施設は緊急応急処置場として機能した。
 

 
(8)で記した通り、日野原氏は、1941年に聖路加国際病院の内科医となって以来現在に至る迄、聖路加国際病院と関わっている。
 
「東京大空襲の際に満足な医療が出来なかった経験から」と主張なさるのなら、なぜもっと早く大災害や戦争の際など大量被災者発生時にも機能出来る病棟の建設を提案なさらなかった のですか?
 
新病棟は、地下鉄サリン事件の3年前の1992年に完成した。
 
(11)で記した通り、日野原氏は、その1992年に聖路加国際病院院長に就任し、地下鉄サリン事件が起きた翌年の1996年院長を退任した。
 
日野原氏は、地下鉄サリン事件が起きる事が判っていて、地下鉄サリン事件に対応できる新病棟を建設し、1995年3月20日の地下鉄サリン事件に対応した翌年、使命を終えたと思い院長を退任したのではないだろうか。
 
事前に判っていれば、当日に入るかもしれかった手術は、他の日にずらす事も可能だし、当日、出勤する医師や看護師の数も事前にある程度増やしておく事が可能だっただろう。
 
何しろ、日野原氏は、院長なのだから。
 

---------------------(転載ここまで)
 
この記事を見ればお分かりの通り、「日野原重明」が「よど号ハイジャック事件」と「地下鉄サリン事件」に関与している可能性は大です。
 
というか、ここまで来ると、完全な「クロ」と言うしかありません。
 
彼は「よど号ハイジャック事件」と「地下鉄サリン事件」に関わった確信犯の一人なのです。
 
そして、このようなキナ臭い事件を起こして、多くの人々の命を見殺しにできるのであれば、病気にかかってもいない人たちを「人間ドッグ」に呼び寄せて大金をぼったくり、その挙句に「あなたは死の病にかかっています」と嘘の診断を下して、大量の治療費をぼったくることなど朝飯前でしょう。
 
そして、場合によっては「癌」と偽って、本当に人を殺してしまうわけですね。
 
で、実を言うとこの「日野原重明」。「市川海老蔵」とも深い関係があることが分かりました。
 
先ず、「市川海老蔵」は「関東連合」という暴走族のリーダー「石元太一」と昔からの知り合いでした。
 

これは、「市川海老蔵」が行きつけの「バルビゾン27」というビルの中で「石元太一」を殴るという、通称「海老蔵事件」によって明らかになったことです。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
■11代目市川海老蔵暴行事件
 
十一代目市川海老蔵暴行事件(じゅういちだいめ いちかわえびぞう ぼうこうじけん)とは、2010年(平成22年)11月25日に十一代目市川海老蔵が元暴走族の男に暴行された事件。
 
「関東連合」の存在が世間に広く知られるきっかけとなった。
 
■詳細
 
2010年11月24日、海老蔵は午後11時ごろから歌舞伎役者の仲間らと飲食していた。
 
その後日付が変わった25日明け方に知人たちと別れて独りで飲んでいたところ、石元ら数人とトラブルになり、殴られたとみられる。
 
海老蔵は、「飲食店で知り合った仲間と飲んでいて、その後酔いつぶれた人を介抱していたらいきなり殴られた」としているが、その後の報道などで、テキーラを灰皿に注いで飲ませようとしたり、髪を引っ張る、頭を叩くなどの行為に及んだとする証言が浮上していた。
 
また、海老蔵が「俺は人間国宝(または「平成の助六」)だ」などと暴言を吐いていたという報道もあったが、海老蔵本人は否定している。
 
加害者側は海老蔵が石元に対する頭突きに対応した過剰防衛を主張した。
 
裁判所は「被害者の行動が犯行を誘引したことも否定できない」と海老蔵の落ち度を認めたが、「状況から(被害者による)頭突きを認めることは困難」とした上で「仮に頭突きされたためだったとしても、被害者がさらに攻撃を加えようとした事実はない」として過剰防衛を否定した。
 
さらに暴行の程度については、「被害者に相当量の出血があり、意識不明に陥った場合は窒息死する可能性もある、危険な犯行だった」と認定した。
 
---------------------(転載ここまで)
 
ちなみに、対談の中でもお話しています通り、「バルビゾン27」の「バル」とは「バアル」のことで、「27」とは「27クラブ」のことでしょう。
 
バアルをご存じない方は、以下のリンクをご参照下さい。
 
京都の「祇園祭」はもともと牛頭神バアルに幼子を生贄として捧げる悪魔崇拝儀式でした。
 
また、「27クラブ」をご存じない方は、以下のリンクをご参照下さい。
 
27クラブ – Wikipedia
 
そして、「石元太一」はまだ十代だった頃に、以下のような悪質な事件を起こしています。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
■トーヨーボール事件
 
(石元太一が)非行に明け暮れた10代の時期に関与した各種事件のなかでも特に重大なものであった(自叙伝『不良録』)のが、都内大田区池上のボウリング場「トーヨーボール」が現場となった暴走族同士の乱闘事件、いわゆる「トーヨーボール事件」(2000年)で、1名の死者を出すに至ったこの事件の首謀者として逮捕されたこと、あわせて、被害者への「懺悔」の意思をのちの自叙伝『不良録』の内に明かしている。
 
この事件は無関係な少年グループを対立暴走族グループと勘違いして襲撃した末に飲食店勤務の少年(当時18歳)を脳挫傷で死亡させたもので、犯行に用いた車両が女優の三田佳子(次男が関東連合関係者らから小間使いのように扱われていた)の名義であったことなどから、「関東連合」がメディアの注目を惹起するきっかけとなった事件でもあった。
 
自身は傷害致死の判決を受け、特別少年院に送致される結果となった事件であった。
 
---------------------(転載ここまで)
 
太字にした部分を読むと、いきなり女優の「三田佳子」の名前が出てきますね。 
なんと「石元太一」が「三田佳子」の車を借りていたとのこと。彼ら二人が、どれほど近い関係にあったかがよく分かります。 そしてこの「三田佳子」。以前の対談でもお話しましたように、「TSK・CCCターミナルビル」の会員制クラブの常連客でしたね。
 
RAPT×読者対談〈第129弾〉日本は在日ヤクザに牛耳られている。(麻生太郎と朝堂院大覚と嵯峨天皇)
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
SK・CCCターミナルビル(ティーエスケイ・シーシーシーターミナルビル、英称:Toa Sogo Kigyo・Celebrity Choice Club)は、東京都港区六本木に存在した高級会員制クラブやレストラン、オフィスなどの複合ビル。
 
「Celebrity Choice Club」
 
元暴力団関係者が経営しているにもかかわらず、オープニングレセプションは読売新聞社の渡辺恒雄(その後同社会長)が運営委員を務め、司会は後に参議院議員となる女優の山口淑子が務めた。
 
さらにゲストとして町井の後見人の児玉誉士夫と親しい岸信介元首相や園田直衆議院議員などの政界人や、岡田茂三越会長などの財界人、三田佳子などの芸能人から各国の特命全権大使までが駆けつけた。
 
オープン後も、「Celebrity Choice Club(セレブリティーが選択するクラブ)」の名の通り、長嶋茂雄や石原裕次郎、E・H・エリックやデヴィ・スカルノ、アラン・ドロンなどの著名人が毎晩のように訪れるなどの盛況を見せた。
 
---------------------(転載ここまで)
 
この「TSK・CCCターミナルビル」は、暴力団「東声会」の組長「町井久之」が建てたものです。
 
町井久之 – Wikipedia
 
そして、「町井久之」は「山口組」の三代目組長「田岡一雄」の盃を酌み交わし、その舎弟となった人物でしたね。
 
町井久之 – Wikipedia
 
そして、「田岡一雄」といえば「笹川良一」とも飲み友達でしたよね。(詳しくは以下のリンクをご参照下さい。)
 
「麻生太郎」と山口組と統一教会と北朝鮮とイスラム国。全ては裏で一つにつながっている。
 
はい。ここで一気に「海老蔵」と「笹川良一」がつながってしまいました。
 
簡単にまとめると、こういう感じですね。
 
■市川海老蔵 → 石元太一 → 三田佳子 → TSK.CCCターミナルビル → 町井久之 → 田岡一雄 → 笹川良一
 
ということは、「海老蔵」はイルミナティの核心人物である「麻生太郎」ともつながってしまうことになります。 
なぜなら、「麻生太郎」と「笹川良一」は昔からとても深い関係があるからです。詳しくは以下のリンクをご参照ください。
 
「麻生太郎」と山口組と統一教会と北朝鮮とイスラム国。全ては裏で一つにつながっている。
 
そして、実を言うと、「日野原重明」も「笹川良一」とは大の仲良しだったようです。以下の記事が、その証拠です。
 
---------------------(以下、こちらから転載)

 
日野原氏の最大の功績は日本における「予防医療」の普及だろう。 
「病気になってから病院に行くより、病気になる前に行って予防した方が本人のためにも社会のためにも良いはずだ」 
そう考えた日野原氏は1973年に「財団法人ライフ・プランニング・センター」を立ち上げ、予防医療の普及に半生を捧げた。 
最初にやったのは「家庭での血圧測定」だった。 
今でこそ、家庭に血圧計があるのは当たり前だが、当時、血圧測定は「医療行為」とされ、病院で医師や看護師に測ってもらうしかなかった。 
面倒だから誰も普段から血圧は計らない。ある日突然、脳溢血や心臓発作など高血圧に由来する病気で倒れるのだ。 
氏は厚生省(現在の厚生労働省)と掛け合い、家庭での血圧測定を認めさせる。 
一方でライフ・プランニング・センターは全国を巡回し、プロの看護師が主婦たちに血圧計(当時は水銀を使っていた)の使い方を教えた。 
ライフ・プランニング・センターの設立にあたって、資金を提供したのは財団法人日本船舶振興会(現日本財団)の笹川良一会長(1899-1995、当時)だった。 
笹川氏は自らの主治医でもあった日野原氏の思想に共鳴し、センターの活動資金として日本船舶振興会から3億6000万円を拠出、さらに東京・港区にある笹川記念館の11階フロアを権利金・敷金なしの破格の家賃で貸した。 
毀誉褒貶の激しい笹川氏から支援を受けることについて、周囲は反対したが、日野原氏は「世のため人のためにお金を使おうとしている今の笹川氏は立派な人だ」と話し、堂々と金を受け取った。 
理想を実現するためには、現実と向き合う。 
そんなプラグマティズム(実用主義)が氏の真骨頂だった。 
---------------------(転載ここまで)
 
「日野原重明」が「ライフ・プランニング・センター」なる建物を設立する際に、なんと「笹川良一」が3億円ものお金を援助したとのこと。(対談の中で、聖路加病院の設立のために援助したとお話しましたが、正しくはライフ・プランニング・センターでした。訂正してお詫びいたします。)
 
さすが「笹川良一」。毎年、国から助成金として「200億」をもらっているだけのことはあります。(この助成金についての詳細は、以下のリンクをご参照ください。これまた対談の中で、600億と言いましたが、正しくは200億でした。訂正してお詫びいたします。)
 
「麻生太郎」と山口組と統一教会と北朝鮮とイスラム国。全ては裏で一つにつながっている。
 
しかし、彼ら二人がもともと何の縁もなければ、「笹川良一」がいきなり「日野原重明」に3億もの大金をあげるわけがない。彼ら二人は赤の他人どうしではなく、もともと何らかの深い関係があったということです。 
それこそ、どちらもイルミナティ(フリーメーソン)に所属する仲間であり、ホモ仲間だったのではないでしょうか。 
このように、「笹川良一」と「日野原重明」とにつながりがあったということは、当然、「市川海老蔵」と「日野原重明」も一気に一つにつながってしまうことになります。 
簡単に言うと、こういうことになりますね。

 
■市川海老蔵 → 石元太一 → 三田佳子 → TSK.CCCターミナルビル → 町井久之 → 田岡一雄 → 笹川良一 → 日野原重明
 
このように「市川海老蔵」と「日野原重明」がつながっていたということになると、当然、「海老蔵」と「日野原重明」が結託し、「小林真央」を利用した上で「癌利権」がボロ儲けできるように画策した、という疑いは濃厚になります。 
そもそも、今回の対談の中でもお話しています通り、「小林麻央」は乳癌と診断された後、一度もテレビに出なくなりました。 しかし、乳癌になったぐらいでテレビに出られなくなるわけがありません。 
実際、「北斗晶」も乳癌にかかりましたが、彼女はその後もテレビにはバンバン出ていました。 
なので、私は「小林真央」はテレビに出られなくなった時点で、既に死んでいたのではないかと疑わざるを得ません。 
しかも、彼女がどこの病院に入院していたのかも定かではありません。 
もともと「聖路加病院」に入院していて、その後、「慶応病院」に移ったとの噂もあるようですが、これもまた憶測の域を出るものではありません。
 
はっきりと言いますが、男性が付き合う女性と結婚する女性とを区別する、なんてことは普通は考えられません。

<中略>  

また、「日野原重明」が設立した「聖路加病院」にはもともと分院があったのですが、この分院が今の「国立がん研究センター」となっています。 
そして、この「国立がん研究センター」を設立したのが「武見太郎」なる人物です。

そして、この「武見太郎」には自民党議員である「武見敬三」という息子がいます。で、実はこの「武見敬三」。その姉が、「麻生太郎」の弟「麻生泰」と結婚しているのです。つまり「麻生太郎」は、「癌利権」の核心人物と、義理の兄弟関係を結んでいるわけです。 
---------------------(転載ここまで)

 
系図で見ると、このようになりますね。
 

 

こうなってくると、「麻生太郎」が「癌利権」にも深く頭を突っ込んでいることは明白です。
さすがはイルミナティの重鎮です。どんな悪いことにも「麻生太郎」は関わっているというわけです。恐れ入ります。
ちなみに、麻生太郎がどれほどの巨悪であるかについては、以下のリンク記事を一通りご覧いただけば、すぐにご理解いただけることと思います。また、最後に補足として付け加えておくと、「乳癌」にかかる可能性がある人が、「乳癌予防」のために乳房を切除することを日本国内で最初に承認したのも「聖路加病院」とのこと。つまり、「乳癌予防」でボロ儲けできるように、日本で最初に画策したのが「日野原重明」ということですね。

一体、どこまで悪なのでしょうか。

---------------------(以下、こちらから転載)

■国内でも乳房予防切除 聖路加とがん研有明病院が準備

米人気女優アンジェリーナ・ジョリーさん(37)が受けたことで話題になった、乳がんを予防するための乳房の切除・再建手術について、聖路加国際病院(東京都)が病院内の倫理委員会で承認していることが20日までに分かった。
がん研有明病院(同)でも早ければ月内にも倫理委員会に申請する。
将来、乳がんになる確率が高いとはいえ、発症前の健康な体の一部を切除する手術の是非について論議を呼びそうだ。
遺伝性乳がんに関する遺伝子「BRCA1」か「BRCA2」に変異が見つかり陽性だった人が対象。
これまでは検診の強化で対応しているが、選択肢の一つとして予防切除をできる体制を整えることにしたという。現時点で切除の希望者がいるわけではないという。
これらの遺伝子のいずれかに変異があると、50歳までに乳がんを発症する確率が33~50%、70歳までの確率は56~87%になるとの研究結果がある。
国内では約15人に1人が乳がんになり、乳がん全体の5~10%が遺伝性との海外データがある。
約20万~23万円の検査費用と約70万~100万円の切除費用は自己負担。再建手術は術式によってさまざまという。
がん研有明病院では、遺伝子検査はすでに実施しており、陽性だった場合には、早期にがんを見つけ治療するため、医師の診察を3カ月ごと、マンモグラフィーなどの画像検診を半年ごとにするなど、検診を強化している。
厚生労働省医療課によると、国内の公的な医療保険制度は基本的に予防関連の医療を対象としておらず、乳がんの予防切除は保険の適用外。
同課の担当者は「予防を認めるとなると乳がんのみにとどめるわけにはいかず、大きな議論が必要になる」と述べ、適用拡大は難しいとの認識を示した。
現在、この遺伝子検査は国内の80以上の医療施設で受けることが可能で、導入された2008年以降、約1600人が検査を受けた。
---------------------(転載ここまで)

「BRCA1」、「BRCA2」などという遺伝子のせいで、乳癌になるそうです。
またしても、竹中平蔵式ですね(笑)。
素人には分からない難解な言葉を使って、国民を煙に巻いて騙すという戦法です。
「あなたの体内からBRCA1、BRCA2が検出されました」と言われても、素人はそれをそのまま信じ、受け入れるしかありませんから。
そして、素人はそう言われると、不安になってどんな大金を払ってでも癌を切除したくなります。
しかも、この遺伝子を発見された人たちは「人間ドッグ」で検診を受けられるぐらいの金持ちなので、治療費を死ぬまできちんと払ってくれることでしょう。
かくして、「日野原重明」や「麻生太郎」など「癌利権」関係者はボロ儲けにボロ儲けを重ねてきたというわけです。
ということで、今回は主に「癌利権」についてのお話をしましたが、今回の対談は、最後の最後に「台湾」について軽く触れたところで終わりになっています。
そして、もちろんこの対談には続きがあります。
ここ最近、私はブログ以外の活動にかなり忙しく奔走しているため、定期的に記事を更新できるかどうか分かりませんが、できる限り、近いうちに次の記事を更新したいと思っています。
どうぞお楽しみに。

 ・・・・・・・(転載ここまで)


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