看護理論において、患者、対象理解をするツールとして用いられている、「発達段階」。
これがいかにインチキで胡散臭い理論であるかはこのブログでも過去に説明してきました。
「エリクソン 発達課題、アイデンティティの生みの親は「アイデンティティが何か」を説明できていません。」
「マズローの欲求階層を採用している時代遅れの看護学について」
とは言っても、看護学生はこれらの理論家の語っていることを使って、どうにかして対象を説明する必要があるのです。
発達段階を指導していて感じた点をいくつか紹介していきたいと思います。
発達段階の説明として、「人間は年齢とともに、成長発達していく生き物だ」と考えたのが発達段階の大元です。
そもそも、そこが間違いなのですが、年齢とともに発達していくことによるメリットについて説明します。
「人生の目的は”幸せになること”だ」
と、このブログで何度も書いてきたのですが、
患者理解をするために活用されている「発達段階」とは「エリクソンが考えた幸福論」であることが考えられます。
おそらく彼は「人生とは紆余曲折あって、意味があったと思える瞬間が来てくれたらいいなあ」
くらいに考えていたのだと思います。
それは、彼がコネだけで、インチキ臭い心理学を専攻し有名になってしまったからかもしれません。
(詳しくは過去記事「エリクソン 発達課題、アイデンティティの生みの親は「アイデンティティが何か」を説明できていません。」を参照ください)
エリクソン自身が、「アイデンティティの確立ができていない」単なるおじさんだったのです。
ですから、わけのわからない理屈ばかりこねているとしか私は感じられません。
彼の語っている理論を何度読んでもスッキリしない、つまり「明日から私たちはどうやって生きていけばよいのか?」という指針が明確にならないのです。
つまり、夢想家が、理屈をこねているだけなのです。
「論より証拠」という言葉があるのですが、「心理学」を専攻している人間に限って人間性が低い人が少なくないと感じます。
つまり、人間の心とは?人生とはどう生きれば豊かに、幸せに生きられるのか?という根本的な問いに明確な答えがないまま、単に学問として理屈っぽく、科学っぽく、人間の心について論じているだけなのです。
野球もやったことがない人が、「どうやったらイチローのように打てるようになるか?」とあれこれ講釈を垂れているのに過ぎません。
人間はこうやって成長していくだろう、といった単なる思いつきを理論として採用しているのがエリクソンの発達段階だと私は思います。
ですから、私は看護理論において、発達段階、発達課題について指導する際は、
①「人生の目的は”幸せになること”」であり、
②幸せになるためには、体だけでなく、心を成長発達させていかなくてはならない
と説明して
③「その成長発達過程のおおよその目安と内容が書かれているのが発達課題」だ
と導入で話します。
しかし学生は「????」という表情です。
そこで例を出します。
Aさん、Bさんさて、どちらが幸せでしょうか?
A:「明日は実習休みだ!コンビニのチーズケーキをご褒美で食べよう!」
と200円前後のお菓子で満足できる人
B:「明日は実習休みだ!以前テレビで取材されていた、芸能人御用達の表参道の行列ができる有名な500円チーズケーキを食べに行こう!」とわざわざ遠方の有名店で数量限定で売り切れ必至、かつ500円もする高価なお菓子で満足する人
結論から言えば、Aさんです。
Aさんはいつでも、どこでも安く手に入るもので満足できるからです。
逆にBさんは、「表参道」「テレビで取材されていた」「芸能人御用達」「行列ができる」「売り切れ必至」「500円もする」でないと満足できないのです。
もし、Bさんがそのお店にチーズケーキを買いにいった際、売り切れてしまっていたらどうなるでしょうか?
そして、Bさんが仕方なく、コンビニでチーズケーキを買って食べたときに感じる幸福感はAさんとどれくらい違うでしょうか?
このように比較してみると
Aさんのほうが「幸せを感じるコストパフォーマンスが高い!」ということが理解できるでしょうか?
「実は大差がないチーズケーキを食べているのに」Bさんは、「情報」「イメージ」という付加価値を追い求めているだけで、お金も時間も労力を無駄にしていると思えないでしょうか?
人間の心が成長発達していくと、Aさんのように、「ちょっとしたことで感動したり、幸せを感じられるようになる」のです。
精神科医のブログにてエリクソンの老年期の発達課題について書かれていますので引用します。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(中嶋 英雄 精神科医としての心の部屋 エリクソンのライフサイクル⑦ Ⅷ期・老年期(56歳から)-「統合性/絶望」-人は最後に人生への感謝を問われる)
エリクソンの8つのライフサイクルの8番目が老年期である。
老年期は人生の終盤、晩年の時期をいうが、成人期が55歳までであるから56歳からが老年期になる勘定であるが、現代では平均寿命も長くなり、50代は成人期とあまり変わらないので、56差から65歳までを向老期とする考えもあり(神谷美恵子)、一般に受け入れられているようである。
またエリクソンは晩年には、80歳以上を9番目のサイクルとして分けた方が合理的であるとしている。
人は常に老いを自分とは関係のない異質なものとして否認しつつ生きているから、老いを自覚するのは突然、ふっとした出会いによることが多い。成人・壮年期に心身の若さが下降局面に入ったと思った時に老いることの予期不安を覚えるが、向老期には老いることが確信に変わり、老年期には老いが現実のものとなる。
老いを受容するのは難しいが、それでも老いは緩やかに確実にやって来る。
まずは心身機能の低下、老化の兆候が出てくる。それは死の自覚である。
社会的には、定年、退職など青年期から壮年期に努力して築いた自己の生活基盤、自己のあり場所としていた仕事から去ることを意味する。家庭内での立場も変わり、孤独感と無用者意識が発生する。
無用者になることの方が定年退職よりもっと耐え難いことである。それは経済的な問題もさることながら、心理的に社会からスクラップのように投げ出されてしまったと感じるからである。
向老期は、普通は未だ真の無用者ではない筈であるが、少なくとも覚悟はして、この新しい自己像を受け入れることがこの時期の困難な課題であり、第二の思春期と呼ばれる所以であろう、私はこの時期を「思秋期」と呼ぶのが相応しいような気がしている。
思春期が人生の旅立ちにあたって自己像を受け入れていくのに対し、思秋期が旅の終わりに当って新しい自己像を受け入れていくのである。
この受け入れにあたってのエリクソンの心理社会的危機の課題は「統合性(完全性)」で表現される。
エリクソンの「老いつつある人」の中で考えを見ると、
「ものごとや人間の世話をしてきた人、他の人間を生み出したり、ものや考えを作り出し、それに伴う勝利や失望に自らを適応させてきた人―そういう人においてのみ、これまでの七段階の実が次第に熟して行く。この事を言い表すのに統合integrity以上にいい言葉を私は知らない。それは自分の唯一の人生周期ライフサイクルを代替不能なものとして、まさにそうあるべきものであったとして 受け入れることを意味する。なぜならば一人の個人の一生は単なる一つのライフサイクルが歴史の一コマと偶然にぶつかったものに過ぎないことを、こういう人はよく知っているからである。」
このように「老いつつある自分」を全体的に受容出来た人には、「英知」「知恵」という徳または力が現れるとエリクソンは言う。
「英知」とはすなわち死に直面しても人生そのものに対して「執着の無い関心」を持つことである、これの備わった人間は心身の衰えに拘わらず、自己の経験の統合を保ち続け、後から来る世代の欲求に応えてこれを伝えるが、しかも「あらゆる知識の相対性」を意識し続けている。-もし、知的能力と共に責任を持って諦める能力を併せ持つならば、老人達のうちには、人間の諸問題を全体的に眺めることが出来る人がある。これこそがintegrityの意味するところである。「このような自我の統合」に達することが出来なかった老人は、もはや人生のやり直しがきかないという「絶望感」を持ち、人間嫌いになったり、絶えず自己嫌悪に陥ったりすることが臨床的に観察されるとエリクソンは加えている。
これについて、神谷美恵子は次のように解説している。
「成人は自分の生み出したものに対して責任を取り、これを育て、守り、維持し、そしてやがてはこれを超克しなければならない。」つまり、老年になってからは、自分が一生の間に「世話をし」、守り育ててきたものを相対化し、客観化しなければ「人間の諸問題を全体的に眺める」ような「統合」に達することが出来ない、というのがエリクソンの考え方なのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
読んでみて理解できたでしょうか?
私にはさっぱり理解できませんでした。
なぜかというと、「具体的な説明がされていないから」です。
要するに「で、私たちはどうすればそのようになれるの?」「本当にそうなるの?」が欠落しているからです。
私には単なる「屁理屈」にしか聞こえません。
赤い文字にしてマーキングしましたが、「執着をなくす」=英知と説明してありますね。
では具体的にどうすれば「執着がなくなるのか?」「死を受容できるのか?」「老いを受容できるのか?」「誰でもできるのか?」という方法について全く書かれていません。
ですからこれは単なる、この精神科医の戯言なのです。
だから、戯言をベースに考えるから「理解できない」のです。
本題に戻ります。
発達課題を達成してく目的は「幸せになること」でした。
つまり、「人格が統合された方が幸せな人生を生きられますよ」
という話なのです。
ここのポイントが現代人には理解できないのです。
人がお金や権力や社会地位や恋人や車や家を欲しがる、手に入れたがるのはなぜでしょうか?
それは、それらの物や地位を手に入れる事で「周囲がチヤホヤしてくれる」「所有欲を満たすことができる」といった一時的な「快楽」「快感を脳が感じるから」ではなないでしょうか?
人によっては月給10万円でも質素な生活をしながらでも満足して生きることができる人もいながら
月給100万円もらって、高級車をのりまわし、豪邸に住むといった派手な生活をしないと満足できない人もいます。
その差は一体何なのでしょうか?
それは「欲望の差」の表れです。
さらにその「欲望」の中身を分解していくと、「私利私欲が強い」傾向にある人が、「幸せを感じにくい人」になります。
「私利私欲が強い」とは一体何なのでしょうか?
一言でいえば、「プライド」「自尊心がある人」のことです。
そして、プライド、自尊心はどこから生まれてくるか?というと「劣等感」「孤独感」から生じてきます。
確かに権力をもったり富を持てば一時的に人は寄ってきますし、富や権力目当てにあなたを慕ってくるでしょう。
しかし、それは一時的なもので、本心ではありません。
しかし、「劣等感」「孤独感」を植え付けられた人といのは、解決方法を知らないため、一時的な力に頼ろうとしてしまいます。
(劣等感、孤独感の解決方法については「こちら」を参考にしてください)
つまり、人間は普通に生活していると世の中の情報や常識に染まっていき「幸せを感じにくい人になっていってしまう」と私は考えます。
テレビやマスコミは「男は筋肉ムキムキでいつまでも、10歳年下の女性を彼女にするぐらいのバイタリティーがある方がいい」
「女性はスーパーモデルのようにスタイル抜群でいつまでも若々しい外見でなければならない」
と「外見的なことばかり」情報を垂れ流し「外見的に優れている人ばかりを注目し称賛する」報道を日夜繰り返しています。
「ちょい悪親父」「美魔女」など訳の分からない言葉を産出し、「外面ばかりを取り繕うことばかり」を追い求めさせます。
ですから、このような商業的なイメージ戦略の情報にいつもいつも触れていたら、モデルや芸能人と比べて、到底実現できない自分に「劣等感」を覚えて、人望がある経営者や政治家、ファンに囲まれる有名人と比較して「孤独感を感じる」のは当たり前なのです。
テレビやメディアに出る人達は大衆に消費をさせるために「欲望を掻き立てるような演出、キャラづくり」を意図的にします。
そのためには、派手でゴージャスな一面を垂れ流すことにより、「劣等感」「孤独感」を植え付けてくるのです。
社会学的な話はこのあたりにします。
それで、人格を統合していくにはどうすればよいのか?という話になります。
単刀直入に言うと
「性格を直すこと」
です。
チーズケーキの話題に戻りましょう。
AさんとBさんの違いは「性格」です。
Bさんは、見栄っ張りで派手好き「特別な存在になりたい」という願望を持っている一面があると思います。
つまり「承認欲求」「自尊心・プライドが高い」のです。
どこにでも売っている、いつでも買う事ができる、お手軽なコンビニスイーツで満足できない「性格:心」の持ち主なのです。
Aさんのような人を後目に
「Aさんって、コンビニスィーツなんかで満足しているの?どんだけアンテナ低いんだろう。可哀想な人。馬鹿舌なのかな?人生損してるわ」
と見下して、優越感に浸っているのかもしれません。
実際、コンビニスィーツも有名店ケーキ店も大して味は変わりません。
ブラインドでテイスティングしてみると分からないことが多いのです。
芸能人格付けチェックをしている番組がありますが、これは完全にヤラセの可能性があります。
誰かの格付けを上げるために、イメージ戦略のための番組と、「贅沢することが幸せだ」という価値観を植え込むための番組です。
で、実際のところ、差なんてわかりっこありません。
1億円の時計をしているGACKTをどう思われますか?
1000円の時計と1億円の時計に何の違いがあるのでしょうか?
時計の存在意義は「時間を知らせる」ことです。
1億円の時計は「心を読み取ってくれて、適切に音声で時間を知らせてくれる機能でもついてるの?」でしょうか?
違いますよね?こんなもん、単なるハッタリのために着けているだけなのです。
外見や値段で外部を威圧しているだけなのです。
強面なヤクザやチンピラと同じです。
「強面な人が小動物が好き」
「やんちゃそうな子が敬語が使える」
⇒「え?結構いい人じゃん」と錯覚
これを心理学では「ゲインロス効果」プラスギャップ効果と言います。
脱線しましたが、エリクソンの発達課題とはつまり「性格を変えること」でした。
性格を変えると、「幸せを感じやすい人になれる」のです。
しかし、エリクソンやそのほかの解説書にも「性格を変える方法」については全く書かれていません。
さも、「年を重ねれば、人間の心(性格)は成長していく。時として停滞する」としか書いていません。
世の中を見まわして、どれだけ利己的で自己中心的な老人が多いことか。
<マンションで何十匹も犬を飼っているおばあさんが見つかる。隣人大迷惑も、「離れたら生きていけない!」 >
<キレる老人>
このような問題老人は枚挙に暇がありません。
つまり、単に年を取っても人格は作り上げられることはない。むしろ世の中の悪に染まって悪くなっていくだけだということです。
さて、ここで問題なのが、看護師が「発達課題」を知ったところで「一体何なのでしょうか?」ということです。
実は看護師が発達課題を知ったところで「何もできないこと」にお気づきでしょうか?
それはなぜでしょうか?
看護師自身が、「完成された人間になっていないのに、あれこれ、とやかく人の性格について口出しできる立場ではない」からです。
看護教育において、人格教育はありません。
どれだけ性格が悪くても体が丈夫で気が強ければ、臨床は務まります。
「医師に取り入って、ルーチンワークに長け、気にくわない部下や同僚は仕事を教えずにイジメてやめさせればいい」
そんな人達が中枢に存在する、それが看護業界なのです。
多くの看護師は自分の職場での居心地を優先して、自分の居場所づくりばかりしています。
どれだけ自己中心的な集団なのでしょうか?
発達課題や発達心理について何も学んでいない証拠ではないでしょうか?
発達課題を学んだところで、それを解決する方法をしらなければ何も意味がありません。
そして、それを教える事ができるのは心理カウンセラーや心理学者ではありません。
心の成長とは何も、ピアジェの発達心理でいう、子供が社会性を身に着けていくという低レベルなものではないのです。
一人一人が幸せな人生を生きるために、人格を統合していく必要がある。そのために人生はは完成に向けて、性格を変えていく努力を続けていく必要があるという話なのではないかと私は考えます。
(性格を変える方法とは?詳しく知りたい方は「こちら」)
性格を変える手助けをするのが、発達課題を達成する援助であると考えると辻褄があうのです。
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