<大塚家具お家騒動>
私たちは「知・情・意」という3要素で構成されています。
私たちが成長していくには、この3つをバランスよく伸ばしていくことだと過去の学者、哲学者たちは述べています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・(知情意 哲学者カントの主張)
人間は、知性だけの動物ではありません。
昔は、知性を働かせれば、神をも知る事が出来ると思っていました。
しかしカントは、人の心や、世界そのものや、神は、知によって理解されるものではないと言います。
人間は理性を持っていますが、この理性は、知の理性だけでなく、
感情の理性、意志の理性があると言います。
意志の理性とは、道徳的に振る舞おうとする実践理性です。
道徳的に振る舞う知的な理由はなく、それは知の問題では無いというのです。
この世界は目的があって生じたと考えがちですが、それも知の問題ではなく、情の問題だという事です。
しかし人間とは、単に、「知」「情」「意」の総和ではありません。
人間は、部分の集合ではなく、知・情・意を備えた、全体的な存在なのです。
ここまで、はっきりとはカントは述べていませんが、現在の解釈は、その様な解釈です。
カントの「純粋理性批判」「実践理性批判」「判断力批判」の著書が
3批判書として呼ばれる理由は、それぞれの理性の限界を示しているからです。
そしてカントの結論は、3批判書をとおして、人間学を提唱する事にありました。
カントは、哲学は3つの問いを問題にすると言います。
「私は何を知りうるか」「私は何をなすべきか」「私は何を望んでよいか」
それぞれ、知・意・情に対応する問いです。
3批判書によって、自己の知・情・意のありようを吟味検討していきますが、
これらの問いは、究極的に、「人間とは何か」という問いに換言されると言います。
科学万能主義や、啓蒙思想といった、知性中心主義は、
ニーチェが批判する様な、彼岸を求める態度でしかなく、
つまり人間は、知(純粋理性)だけで終わってはいけないという事です。
人間には、道徳的に生きようとする、実践理性と、
世界は目的があって生じる(合目的性)と感じる、判断力(?)とがあり、
それらを含めた全体が、人間という存在なのです。
具体的内容
知…知性全般
情…感情全般
意…意志全般
その他…信仰など
これらの総和を超えた全体が、人間です。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
私たち人間は「知・情・意」の3つがバランスよ循環することで豊かな人生をおくることができます。
多くの人は、「知=仕事の知識や生活の知恵」と「情=楽しいことをしたい、辛い仕事に耐え抜くこと」は鍛錬します。
しかし、「意=道徳・行動の規範」については、子供のころから何も教えられず、そのまま「道徳や倫理規範がないまま」大人に成長してしまっています。
確かに、学校の授業で「道徳」という授業がありますが、実はこの道徳教育は「人間としてのあるべき姿」の一部しか反映されていません。
実際、日本では「道徳教育」を主要5科目教科よりも下に見ていて、大学入試でも道徳はなく、「哲学倫理」という小難しい暗記科目となり、しかも入試科目として選択できないことがあります。
つまり、日本の教育は、「良い成績をとって、有名大学に入学して、大企業や公務員になる」という
「良い成績をとる=知の鍛錬」と「有名大学に入学し、大企業や公務員になる=情の扇動」しか教えていません。
つまり
「一生懸命勉強して、良い成績を残しさえすれば、あなたの人生は安泰です。
勉強していない、学歴や資格のな人と比べて豊かな人生をおくることができるよ」
と社会全体のシステムができあがっているのです。
しかし、実際のところ勉強ができても、美味しい思いができるのはごくわずかな限られた人ばかりです。
庶民は、その美味しい思いをしている人たちをまねて、その人たちに取り入って、おこぼれを頂戴するしかないのです。
日本の教育では「意=道徳、倫理規範」が欠如しているため、仮に「素晴らしい知性や文化・芸術などの才能」を持ち合わせた人物があっても、「正義」を知らないため、「情=得したい、有名になりたい、偉くなりたい、楽して稼ぎたい」という快楽・誘惑にころりと負けて、悪人たちに取り込まれてしまいます。
「意=私はどうあるべきか?」についての基準がありません。
しかも、教えることができる人がいないのです。
教員養成課程では、「知」「情」「意」のうち、「知」「情」を育てることしかしません。
これは、どういうことか?というと、「知」と「情」だけの人は、「ロボット」と同じだということです。
「ロボット」とは前もって組まれたアルゴリズムという「チャート表の条件」によって行動を変えていくことしかできません。
つまり「例外に弱い」のが特徴です。
ですからある意味において、「学校教育を受けていない人のほうが、例外に対して強い」のです。
私たちは「常識こそが、社会規範・道徳・倫理観だ」と曲解しています。
常識とは一体何でしょうか?
常識とは「多数決で決定される事柄」のことです。
では多数決はどのように決められるのでしょうか?多数決は正しいのでしょうか?
多数決は「利害の一致」によって決められます。つまり「根回し」です。
「win-win」と言えば聞こえが良いですが、その中には少なからず不本意である人もいますし、意見が通らない人も出てきます。
つまり、多数決とは「利権の山分け」という構造をはらんでいます。
これは「皆が得すれば、何をしてもいい」という考えです。
善悪の判断基準という後ろ盾がないため、「合理性=利権の山分け」となるのです。
「利権の山分け」とは一体何かというと、強制的に、元手ゼロ円で集めたものを山分けするというやり方、つまり税金の山分けです。
大企業であれば、税金という形でなく「労働力の提供によって得た対価」をどう再配分するかということです。
何もしていない血族・役員が年収1億円以上手にするのは、労働力による対価を適切に再配分していなからできる技なのです。
ここまで長々と説明してきましたが、「知情意」の「意」を教育していない、基準がない、重視しない現在の日本では、「悪や腐敗が蔓延ること」は避けられません。
ではなぜ、「意=道徳・倫理規範」がないのか?というと、「現世利益主義」「唯物論」「無神論」を助長してきたからです。
簡単に言うと、「人間の心の在り方や清潔さよりも、欲望を多くかなえた人、有名になったひと、大金を手にした人がちやほやされる、羨望のまなざしを受けるようにメディアが仕向けていった」のです。
人間が欲望ばかり追い求めていったらどうなるでしょうか?
知識がある分、下手な動物よりもたちが悪いですね。
「知識や情」を悪用して、より多くの欲望をかなえようと躍起になります。
そして欲望の虜になり、獣以下、動物以下の存在になってしまうのが目に見えています。
欲望とは快楽を追求することですから、異性、酒やタバコ、最後は麻薬や覚せい剤のようなものに手を染めてしまい、脳機能が壊れて廃人になってしまいます。(人間が廃人になって一体だれが喜ぶというのでしょうか?人間の堕落を喜ぶのだ一体誰でしょうか?)
そして、社会全体が「欲望を満たすにはどうすればいいか?」というテクニックばかりを求めるようになってしまったのです。
この世の中に存在する仕事の中で一番時給が高い仕事をご存知でしょうか?
時給1億円相当ある仕事です。
銀行強盗です。
現在なら、ネットで侵入して、口座の数字を改ざんする「クラッカー」という仕事でしょうか。
本来ならば、お客さんが「これは価値がある」といってお金をだしてくれることで富が集まります。
つまり、「価値の提供」の連続がまっとうな考え方です。
しかし、「楽してぼろもうけする」にはどうすればいいのでしょうか?
「価値のあるものを、奪えばいい」
「法律を使って乗っ取ればいい」
という考え方になってきます。
ビルゲイツやホリエモンなどはその最たる例です。
人が作ったものを、大切に育ててきたものを、奪い取ることに長けているのです。
政治経済を支配して、法律を変えてしまい、「奪い取りやすく」すればいいと心得ているのです。
そして、それらを美談として世の中に拡散していっているだけです。
「大塚家具の経営がなぜ傾くのか?」
について、様々な憶測がとびかっていますが、多くのジャーナリズムでは答えが導き出せません。
・・・・・・・・・・・(大関暁夫 2018年08月09日 11:49大塚家具を正念場に導いた久美子社長の"典型的失敗"二代目社長ぶり 1/2
”よくある二代目、三代目の失敗”を感じる経営
業績不振が続く大塚家具の自主再建に黄色信号が灯り、本格的に身売りの検討に入ったとの報道がありました。6月以降、各方面に支援を打診する中で、既に昨年12月に約6%の出資をしているイベントホール等貸しスペース業のTKPや、ヨドバシカメラをはじめ複数の流通大手の名前なども上がっている模様です。
大塚家具は2015年に、創業者で当時会長だった大塚勝久氏と長女の久美子社長との間で経営権を巡る争いが勃発して、「親子喧嘩」が世間を賑わせました。勝久会長は、会社を長年にわたって成長させてきた高級家具路線を主張。一方の久美子社長は、ニトリやイケアなどの新興勢力への対抗策として大衆化路線を提言します。
双方一歩も引かないまま、争いは経営権を賭けた株主総会での議決権争戦に発展。結果、久美子社長が勝利し退任に追い込まれた勝久会長は、取り巻きの幹部社員を引き連れて高級家具路線を踏襲した匠大塚を立ち上げ、久美子社長率いる大塚家具とは別路線を歩むことになったのです。
この折、囃子たてるメディアの影響もあってか大口株主はこぞって久美子社長を支持する動きを見せ、時代遅れの経営者である勝久会長の退任は至極当然的な言われ方をしていた、という印象が強く残っています。
しかし私個人としてはあの当時から、勝久会長路線が全面的に正しいとは言えないまでも、久美子社長のやり方には世によくある二代目、三代目の失敗に通じるものを感じ、先行きに対する不安を指摘させていただいておりました。
創業者の「成功体験」軽視の落とし穴
久美子社長は一橋大学を卒業後メガバンクに就職、一度大塚家具に入り組織管理体制を構築の後、自ら会社を立ち上げコンサルティング業界に軸足を移します。そして数年の経験を経て、再び同社に社長として戻ります。
銀行業界およびコンサルティング業界を知る立場から申し上げれば、両業界はうっかりすると机上論先行で物事を判断しがちであり、理論と現実との間でギャップを生むことも間々あります。私は当時の「親子喧嘩」での強硬な姿勢を見るつけ、久美子社長にもそんな懸念がありそうだと思ったのです。
懸念を生んだ最たる理由は、創業者である父勝久氏の絶対的な排除を前提とした闘争姿勢にありました。もちろん、先代が実の父親であるからこれを尊ぶ姿勢を忘れてはならない、などと長老的な説教がましい物言いをする気は毛頭ございません。
企業経営において、先人が実の父親であろうとなかろうとそれ自体はまったく問題とすべきものではなく、むしろ血縁的なしがらみを一切排除して会長に正面から持論で戦いを挑んだ久美子社長の姿勢には賞賛すら感じるところでありました。
彼女の問題点は、成功体験を持っている創業者である勝久氏をないがしろにした点にこそあります。創業経営者は生きる社史です。社史というと、緊急性を要さずかつ直接利益を生まないがゆえに、一般的にその編纂業務に携わる者を窓際族扱いする風潮から企業では軽視されがちです。しかし企業経営にとっては、「たかが社史、されど社史」なのです。
少なくともある程度の成功を収めた企業にとって、創業者がいかなる思いから自社の事業を立ち上げたのか、あるいはいかなる幸運や苦難を経て今に至ったのか等々は、何かを新たなことを始める際等の分岐点においては鑑みる必要のある重要な経営資源なのです。一介の社員であるならともかく、先人から経営を引き続く立場の者が社史を軽視するというのは愚かな判断であると言わざるを得ないでしょう。
先に久美子社長のやり方を「よくある二代目、三代目の失敗」と申し上げたのは、まさしくこの社史の軽視にあります。創業者の残した功績が大きければ大きいほど、そのあとを継ぐ者は先代を超えるために、全く違うやり方で新たな方向感を出さねければと思いがちであり、「親子喧嘩」で優勢に立っていたかに見えた久美子社長でしたが、私にはまんまとその落とし穴にはまってしまったように見えました。
その後の久美子社長路線は、絵に描いたような下降線を辿ります。業界で最大級の成功体験を持つ「生きる社史」を追い出して自己のやり方を貫き通したことに、躓きの第一歩があったと言っていいでしょう。
久美子社長にはさらにもう一つ、「よくある二代目、三代目の失敗」があります。高学歴な跡取りが銀行やコンサルティングファームで修行して、自社に移る。そして現場で泥にまみれる経験に乏しいまま、頭でっかちな机上論に走って戦略と称する絵に描いた餅を作り上げてしまうことです。
特にこのパターンに陥りやすいのが、創業者が低学歴の叩き上げであるケースです。高学歴な後継者は、実績では先代に勝てない弱みを学歴で埋め合わせようとするあまり、会社の歴史や現場とはかけ離れた机上論を振りかざしてしまう。創業の勝久氏が定時制高校出身で典型的な叩き上げの創業者という点が、高学歴な久美子社長にとってはさらなる不幸だったのかもしれません。
・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
「企業経営において、先人が実の父親であろうとなかろうとそれ自体はまったく問題とすべきものではなく、むしろ血縁的なしがらみを一切排除して会長に正面から持論で戦いを挑んだ久美子社長の姿勢には賞賛すら感じるところでありました。
彼女の問題点は、成功体験を持っている創業者である勝久氏をないがしろにした点にこそあります。創業経営者は生きる社史です。社史というと、緊急性を要さずかつ直接利益を生まないがゆえに、一般的にその編纂業務に携わる者を窓際族扱いする風潮から企業では軽視されがちです。しかし企業経営にとっては、「たかが社史、されど社史」なのです。」
とあるように、要するに「コネ」ででかくなっただけの企業ということ知らなかったからです。
単なる家具屋が全国規模で成長できることが問題なのです。
極端な話、全国展開しているということは、地元の家具屋を叩き潰して出店しているのですから。
ですから、「日本における実力」「成功」とは「人脈である」という前提であることを3代目の社長は知らないのです。
つまり、東京医科大学の不正入試事件でもあったように、金持ちのご子息、権力者(天皇家、政治家、官僚)は平然と裏口入学=不正競争をして、高い地位につき、その地位によって政治経済を支配してきただけだからです。
「コネ=人脈」だけで繁栄してきたため、実際に価値あるものが産み出せません。
「意=道徳」がない人たちの集団は「コネ=人脈」によって栄るのですが、最後はあっけなく内部告発や人間からの裏切りなどの「コネ=不正」によって滅びていくのです。
大塚家具の問題は、「金持ちの親子が仲違いして争っている悲しいもの」にしか映りません。
親は子を助けるのですが、見捨てています。
実際の大企業のトップがこの有様なのです。
「金持ち=必ずしも人格者ではない」ということがお判りでしょうか?
「金持ち=欲望を叶えるために平気でウソをつき、平気で不正を行うことができる、悪魔に魂を売った人」なのです。
さらに悪質なのは、「利益優先の企業が人の道を説く」ことをしているのです。
<稲盛和夫 盛和塾>
外見は大人ですが、中身がすっかすかで空っぽですから、「金持ちが徳を説いたら言うことを聞く」とでも思っているのでしょう。
企業洗脳、社畜にするために、「私たちはどうあるべきか?=意」を教えてこない日本の教育は、産官学が連携した
「社畜生産のベルトコンベヤー」
のようです。
ですから、私たち現代人に必要なのは「知情意」のなかでも「意」かもしれません。
(「意」を学びたい人は「こちら」からどうぞ。)
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