(以下転載フリーですが、引用されるときはコメント欄に一言いただけると幸いです)
死生観とは一体何を指すのであろうか?
言葉の定義は大辞林によれば
「死あるいは生死に対する考え方。また、それに基づいた人生観」
である。
しかしこれでは現実社会と関係性を持たない抽象的な概念である。
本稿では、さらに現実社会にまで落とし込んで話を進めていきたいと思う。
『死生観を持つ』とは
①肉体が死んだあとの世界をどのように考えているか?(死後はあるのかないのか?)
②肉体がなくなってからの人生をどのように生きるか?
という問題に向き合うことではないだろうか。
前提条件として「死後の世界が存在しない、考えたこともない」という人が日本には多い。
宗教情報センター『2014/08/15「死後の世界」(3) 現代日本人の「死後の世界」観』(http://www.circam.jp/reports/02/detail/id=5097)では
「統計数理研究所が5年ごとに実施している「日本人の国民性調査」では、2008年の「あの世」を「信じる」は38%で、「信じない」(33%)を上回る結果となっている」
とある。
この調査から日本では「あの世を信じる人」の割合が4割弱であるとすると、実に6割の日本人が肉体がなくなった後は『何もない』『死後の世界が存在しない』と考えていることが分かる。
上記調査結果から、「①肉体が死んだ後の世界をどのように考えているか?」において、「肉体が死んだ後の世界は存在しない」とするならば、「②死後の世界の人生について何も考えていないとい」うことになる。
つまり日本人の6割以上は、「死後の世界について何も考えていない=この世でいかに幸せに生きるか?」だけに人生の目的を置いて生活しているかということがわかる。
「死後の世界の事を考えていない」ということは、肉体が滅びたらおしまい、人生は死んだら終わりというような「死生観を持っている」ということである。
次に、日本人の価値観について踏み込んだ調査があったため紹介する。
アイビームコンサルティング社の消費者の価値観に対するマーケティング調査(https://japan.zdnet.com/article/35052262/)によると
「各クラスタの割合は、他者追随派が26%、安定志向派が17%、合理主義派16%、おっとり派16%、懐疑志向派12%、イノベーション志向派10%、内向き志向派3%となり、他者追随派が最も多い割合を占めた。」
とあり、「日本人は他人の目が気になり、周囲にあわせる「他者追随派」が最多」であるとマーケティング戦略の世界でも認識されている。
つまり上記、マーケティングの結果から、他社追随派である日本人は、マスコミからの情報、他人の目を親や学校や友達、恋人が言っている価値観、世の中の常識、多数決に従って生きることが「正しい生き方、幸せな生き方」だという価値観を持っているということがわかる。
そのような他社追随派な生き方、多数決による生き方による、「実際の日本人の幸福度」についても見ていきたいと思う。
東北大学の研究グループの発表した国民の幸福度に関するアンケート(基本集計結果)2017-04(URL http://hdl.handle.net/10097/00121012)の中で
「Q1はじめにお伺います。現在、あなたはどの程度幸せですか?」
という回答では以下のような結果になっている。
とても満足している 3.6%
ある程度満足している 40.4%
あまり満足していない 39.2%
まったく満足していない 16.8%
目の前の生活、現実にだけ追われ、
「とても満足している」という回答をした3.6%以外の人を除けば、それ以外は「何かしら人生に不満を持って生きている」人が96.6%もこの日本には存在するということになる。
上記マーケティング調査、幸福度調査から、
「日本人は個人個人が主体的に生きる意味や、どのように生きることが人間にとって幸せなのだろうか?と追究することなく、常識や他人の目、多数決によって決められた価値観に従って漫然と生活している」
という人生観を持つ国民性であると考えられる。
さらに、そういった流行や人によってコロコロと移り変わる価値観に右往左往させられる価値観を元に人生を歩むことを例えると以下のようになる。
「原因不明の吐き気がして病院にかかり半年通院治療したが吐き気は収まらない。その後、他の病院を転々とした結果、医者によって病名やら原因、治療方針が違い、しまいには「あなたの好きなように治療を選択してください」と言われる療養生活をしているのと、日本人の一生は同じである。」
現実的に吐き気の治療は病院でされ、吐き気は収まるがわかりやすく例えとして挙げてみた。
吐き気とは「人生における不安や悩み」のこと。
吐き気の原因治療をしてくれる病院・医師は、悩みや不安を取り除いてくれる「正しい人生の目的や価値観のこと」と換言できる。
日本人の一生とは
「人生に何の道しるべもなく、口コミや他人からの情報、成功談や噂だけの情報を鵜呑みにし、うまくいくかもしれないと考え、試していくだけ」
になっているのではないだろうか。
「死」について日本人はどのように考えているのだろう。
2344人に対してインターネット回答(複数回答可)で行われた、現代人の「悩みの種」に関するアンケート調査が2011年11月26日の朝日新聞に掲載され、紹介されたランキングトップ10を集約すると、
1位:「健康」(1029票)
2位:「仕事・職場」(791票)
3位:「資産」(768票)
4位:「自分の性格、生き方」(533票)
にカテゴリー訳されている。
「自分の性格、生き方」(533票)という結果から、日本人において生き方である「死生観=人生観」を悩み向き合っている人は全体の30%以下にとどまることが分かる。
さらに1位が「健康問題」として挙がっているが、これは「老化や怪我・病気またはその治療による痛みや身体の機能障害による不便さ」を表していると考えると、回答者の約半数が「快・不快」と呼ばれる肉体的苦痛が人生の悩みの種となっていることがわかる。
「痛くなければいい、お金があって裕福な生活できればいい」という人生を日本人は日々送っているのではないであろうか。
死ぬ間際に「人生は気持ち良いこと、楽しいこと沢山したから悔いがない」と死んでいくのだろうか?
快楽・享楽を追及し、金や権力を手に入れ、人よりも多く欲望を多く満たした人が、果たして幸せな人生を送ったと言えるのだろうか?
終末期医療に携わったオーストラリア人看護師のブロニー・ウェア「死ぬ瞬間の5つの後悔」(英題『The Top Five Regrets of Dying』)には死ぬ間際の人達の後悔がつづられている。その内容は以下の通り。
後悔その1:自分に正直な人生を生きればよかった
後悔その2:働きすぎなければよかった
後悔その3:思い切って自分の気持ちを伝えればよかった
後悔その4:友人と連絡を取り続ければよかった
後悔その5:幸せをあきらめなければよかった
(後悔しない生き方とは?自分に素直になること、なぜ後悔するかというと、自分に嘘をついて自分を騙すからだ)
これはオーストラリアにおける死ぬ間際の実際であるため文化の違う日本にそのまま適用できるかどうかは不明である。また終末期にあった患者が、貧困か富裕層であるかも不明である。
しかし、どこにも「もっと贅沢すればよかった」や「快楽享楽を追及すればよかった」「もっと威張りたかった称賛されたかった」などとは書かれていない。
死ぬ間際の5つの後悔が示す内容をもう少し踏み込んで見ていくことにする。
「死生観・人生観」を持たない人の人生を旅に例えると
「お金だけもって、地図を持たず自由気ままな旅行をしている」という一見、気楽さや自由さを与えられているように思える。
しかし裏を返せば「目的地も地図もなく、野垂れ時ぬまで、だらだらと旅をさせられているだけの人生」だとも考えられる。
「これが流行している」「こういう生き方が流行っている」「男とは、女とはこうあるべきだ」「あれが美味しい、これが美味しい」などという日々移ろい易い流行り廃りの価値観だけを追い求め生きてきた人が、突然病気や高齢により気力、体力が奪われて、それらの価値観を追い求めることができなくなってしまったら一体どうなるのだろうか?
それこそ、「欲を満たすことができない、流行を追うことができない自分の人生は無価値だ」という考えになるかもしれない。
日本人は他人の目を気にし、流行に置いてけぼりを食わないように右往左往することが「価値ある人生」であり、「孤独死は寂しいから、家族や孫に囲まれて、盛大なお葬式をしてもらうこと」が価値ある最期、死生観であると考えているのかもしれない。
つまり、「自分にしか送ることができない、たった一度の人生を悔いなく生きたい」ということは考えず、「最後の最後まで他人の目を気にして、流行についていくことができたか?」という外面、外見だけを重視した見栄を張り続けることが価値ある生き方だと考えているのではないだろうか。
世の中の常識や価値観を作り出しているのは、マスコミや政府、大企業などこれら「お上」と呼ばれる階層の人達であり、権力階層の人達が作りだした価値観=常識に従って生きることを幸せな生き方だと考えているためか、日本人は一見、自己犠牲が強く、献身的に見える。
しかし昨今の政治批判などのニュースを見ると、実は主体性がなく、他人まかせの人生観を持ち、結果が上手くいかなければ他人のせいにする生き方をしているのではないだろうか。
とするならば、日本人の死生観とは「多数決で認められるような社会的地位が高い、権威ある他人に決めてもらうもの」であるため、「死生観など持ちえない文化」であると結論づけることができるのである。