私たちはこの世に産まれたら、必ず死に向かって歩き始めます。
「死が本当に怖いものなら」私たちはその場から一歩も動くことができませんし、努力することや苦しむことに対しても「何も価値が見いだせない、どうせ死ぬんだから」という思考に陥ってしまうのではないでしょうか?
では、そのような「何もする気も起きない」という虚無感を払拭するなり、一時的にでも忘れさせる原動力とは一体何なのでしょうか?
残念ながら現代社会では、「死を遠ざける価値観を持たせること」で、「現実に向き合わないことが幸せだ」という風潮を作ってきました。
「あの世のことなんて考えてもわからないし、誰も知らない。だからそういう細かい事をいちいち考えるのでなく”今を生きようよ”」という風潮です。
この考えは悪くはないと思います。
悲観的にばかり物事を考えていても人生に喜びや活力がなくなってしまいますからね。
しかし、この考えの残念なことに、「今を生きる」という表現をしていますが、「今を生きる=欲望を満たそうよ」という言葉に言い換えることができるのです。
「とにかく死ぬまでに欲墓を満たし続けようよ!快楽を追い求めようよ!世の中にある楽しい物、気持ちいこと、全部やっていこうよ」
という価値観を究極的には追い求めているような気がします。
本当にそうなのでしょうか?
私たちの人生で平等に与えられている「死」という現実に向き合わず、「快楽享楽を追い求めるために、金や名誉を追い求める生き方」が果たして正しい生き方なのでしょうか?
「明日死んでもいいと毎日思いながら生きていること」が「今を生きる」ことではないでしょうか?
今回のテーマ「終わり良ければ総て良し」の「終わりとは?」について見ていきましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・(『終わりよければ全てよし』(おわりよければすべてよし、All's Well That Ends Well)
ウィリアム・シェイクスピアによる戯曲である。
1603年から1604年ごろに書かれたと推測されている。
当時の演劇作品でしばしば使われた「ベッド・トリック」(男が女のもとへ夜這いをしたところ、ベッドの中にいたのは別の女であったという筋立て)が効果的に用いられていることなどもあり通常は喜劇に分類されるが単なるハッピーエンドには終わらないため、『尺には尺を』『トロイラスとクレシダ』などと並んで「問題劇」と呼ばれる作品のひとつである。
全体としては不自然な点も多く、シェイクスピアの作品でもとりわけ公演回数が少ない作品の一つである。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
シェイクスピアのこの作品は「問題劇」と呼ばれており、「問題劇(もんだいげき、Problem plays)とは、一般にウィリアム・シェイクスピアが1590年代後半から17世紀初頭にかけて執筆した『終わりよければ全てよし』、『尺には尺を』、『トロイラスとクレシダ』の3篇を指す」と言われております。
そして、この問題劇の総評は以下の通りです。
・・・・・・・・・・・・・・・(『終わりよければ全てよし』)
あくまでヘレナ(ロシリオン伯爵夫人に保護され、バートラムに想いを寄せる孤児)が主人公であるため「純情なヒロインが想いを寄せる男性と結ばれる」というハッピーエンドの物語であると見ることもできるが、まったく別の見方もできることがこの作品の解釈を難しくしている。
つまり中世の貴族が貧しい医者の娘との結婚を嫌がるのはむしろ当然であり、『ロミオとジュリエット』のように当人たちが愛し合っていても周りが反対するのならともかく、国王や伯爵夫人、老貴族など分別ある人々がヘレナを支持するほうが不自然だからである。
バートラム(ロシリオン伯爵。身分の低いヘレナとの結婚を嫌がり、執拗な求婚を退ける)の視点に立てばはっきり嫌いだと告げている女につけまわされ、皆の前で恥を掻かされたうえに陰謀によって既成事実を作られて無理やり結婚させられるというバッドエンドになるのである。
それまで描かれてきたバートラムの性格を考えても、その後2人が幸せに暮らしたという保証が作品からは得られない。
批評家のあいだでもバートラムに同情的な者(サミュエル・テイラー・コールリッジなど)と批判的な者(サミュエル・ジョンソンなど)に分かれる。
また荒唐無稽なストーリーと、登場人物たちの現実的で時にシニカルな性格描写の分裂も明らかである。
シェイクスピアの初期の喜劇作品にはありえないこうした矛盾がこの作品には目立つので、単純に喜劇として分類しがたい作品として「問題劇」というカテゴリが案出された。
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
この作品の内容は割愛しますが、「結婚できれば幸せ」という強引なストーリー展開に問題があるようです。
バートラムにとって既成事実を作られ形式的にでも結婚させられたならば、「結婚は人生の墓場」という今の時代とマッチした内容になっているのかもしれませんね。
しかし、本来男女の結婚は幸せなはずです。
「双方のどちらかでも、望まない結婚でも、結婚は結婚。幸せだろ?」
なんだか矛盾に満ちた、狂った内容に思えて仕方ありません。
この「終わり良ければ総て良し」から日本語の「「終わり良ければ総て良し」が来ているのでしょうか?
日本の諺で見ていきましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・(終わり良ければ総て良し おわりよければすべてよし)
物事でいちばんたいせつなことは、最後の締めくくりである。
どんなに最初や途中の経過がよくても、終わりがよくなくては評価されない。結末がよいか悪いかが評価の分岐点である。
All is well that ends well.の訳語で、英国の劇作家シェークスピアに同名の戯曲がある。〔出〕シェークスピア
〔会話例〕
「やっと相手の両親を説得、結婚できました」
「いやあ、それはおめでとう」
「駆け落ち話まで出たのがうそのようです」
「終わり良ければ総(すべ)て良しだ。まあ、一杯やりたまえ」
・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
要するに、「結果が全て」と言い換えることができそうです。
しかしながら、「結果が全て」とは言え、例えば「結婚する」という結果は果たして「人間にとって必ず良い物をもたらす行動」なのでしょうか?
違いますね。
「かつて年間10万件にも満たなかった離婚件数はいまでは25万件ほどにまで増えており、日本はすでに3組に1組が離婚する「離婚大国」になった」と言われるように、2分に1組が離婚している状態だと言われています。
つまり、「結婚」を例に取っても、私たちが考える「望む結果」とは「必ずしも私たちを幸せにしてくれるものではない」ということが言えるのではないでしょうか?
世の中のマスコミや学校、両親、家庭から教えられる「望ましい結果」のどれも「私たちの人生を幸せにしてくれるものではない」と考える事ができます。
「偏差値の高い大学に合格する」
「公務員試験に合格する」
「有名企業に就職する」
「好きな人と結婚する」
「持ち家一戸建てを購入する」
「年に2回海外旅行をする」
「ボーナス月にはブランドバッグや時計、宝石を買う」
「結婚記念日や誕生日には豪勢にお祝いする」
これらが達成されれば「幸せになれる」と現代社会は定義しているように思えてしまいます。
しかしこれらの結果を得たとしても「喜びは一時的なものでしかない」「喜びが長続きしない」と思いませんか?
「偏差値の高い大学に合格する」
⇒必死に勉強して大学に合格したはいいけど、大学生活が楽しくない、周囲と合わない、講義もつまらないからバイトばかりしている
「公務員試験に合格する」
⇒難関な試験をパスして公務員になったが、仕事がつまらない。どうでもよい事ばかり、形式主義にこだわる仕事がしたくない。定年退職まであと30年以上もこんな業界で働くことを考えるとうんざりしてくる。
「有名企業に就職する」
⇒派閥、血族しか美味しい思いをしていない。コネも人脈もない人間が大企業に入社しても、全国転勤させられ、経営者一族のためだけに馬車馬のように働かせられる。
「好きな人と結婚する」
⇒結婚は現実。好きだったの中身でなく表面的な部分ばかりだったと気付く。子供が生まれれば、自分たちの時間や都合が優先できなくなり、義務的に子育てし始める。余計に価値観が合わなくなるため不幸だと感じる時がある。
「持ち家一戸建てを購入する」
⇒35年間借金返済を強いられる。ローン支払い終わったころには建物の価値はほぼゼロ。価値が下がりゆく物への投資だと気付くが既に時遅し。ローンは待ったなし、転職もできない、家は老朽化していく、メンテナンス費用は賃貸のほうが圧倒的に安い。目先の見栄やイメージで購入してしまったと後悔する。
「年に2回海外旅行をする」
⇒だんだん、旅行の行先がなくなってくる。お金もかかりマンネリ化してくるが他に趣味もない。
「ボーナス月にはブランドバッグや時計、宝石を買う」
⇒買っても、半年もたたないうちにに飽きる。もっと欲しくなるため際限がない。
「結婚記念日や誕生日には豪勢にお祝いする」
⇒一時的な喜び。見た目だけ老けて、年齢だけ増えていく。中身は全く変わらない、この1年間何していたのだろうかとふと考える。
このように私たちの人生における「終わり」つまり「結果」とは一時的なものばかりです。
何かを所有したり、地位や名声を得るという結果で考えるのでなく、「幸せな状態とは?」を考えてみましょう。
「世間から見れば、どれだけ不幸そうに見えても、本人の心の中が喜びと感謝と感激で満ち溢れた状態になること」
が「幸せな状態」でありめざすべき「結果」なのではないでしょうか?
つまり、お金を稼いだり、富や名誉を必死に得るために努力することも大切ですが、それらを手にするだけでは、「幸せな状態を維持する力を備えていない」ため、いつまでたっても「幸せになれない」のです。
つまり、どのような状態、状況においても「幸せを感じられる心を作ること」が必要になってきます。
「心を作る」とは「考え方を変える」つまり「価値観を変えること」です。
「高級車を運転していないと恥ずかしい」
という価値観から、「車なんてどれも同じ。でも高級車は乗りやすくていい。車で人の価値は決まらない」
という考え方を持てるようになることです。
こういう人は気の毒な人ですね。
<ハンカチ王子こと斎藤佑樹①>
<ハンカチ王子こと斎藤佑樹②>
<ハンカチ王子こと斎藤佑樹④>
「ポルシェのカイエン乗りたい」
「青山に土地を買う」
「練習を人に隠れてやるなんて時間の無駄」
終わり良ければ総て良しの「終わり」が意味するものが何なのでしょうか?
「終わり」とは「目的」のことを指します。
つまり、「人生の目的」が明確にできていれば「今何をしなくてはならないか?」「半年後はどうなっていたいのか?」という「目標」をもって日々生きる事ができると思います。
目的に近づくために小さな目標をコツコツクリアしていく。
終わり良ければ総て良しとはつまり「人生の目標が決まれば幸せになれる」という意味だと私は思います。
その目的や目標が単に「金持ちになる」「楽して生活する」「沢山の異性と交際する」「高級車を乗り回す」「結婚し家庭を持つ」といった喜びが一時的にしか手に入らない、喜びが持続しないものを手に入れるためにもがき、努力することは間違っていると気付くことです。
これらのものは一時的に喜びで満たしてくれるだけで、維持することが困難です。
私たちの心を潤し続けてくれるものは何でしょう?
人生はその宝物を手に入れるために100年間用意されたものではないでしょうか?
「虚しい気持ち」「寂しい気持ち」「苦しい気持ち」「怒りの気持ち」なく毎日「喜びと感謝と笑顔で生きられる宝物」とは一体何なのでしょうか?
私たちは一生かけても使いきれない富や財産を手に入れても、身内で揉め事が絶えなかったり、心の中に不安心配が消えない状態であったら、それらのお金や財産は何の役に立つのでしょうか?
『終わり良ければ総て良し』の「良い終わり」とは「死ぬときにハッピーならいいじゃん!?」という抽象的なものではなく、『人生の目的を知り、毎日目標を持って生きること』いつ死んでも悔いの残らないように生きている「今」を手に入れることなのです。
(「今」を手に入れる方法を知らない方は「こちら」を読んで学んでください)
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