私は大学で看護師免許を取得したため、「終末期看護=ターミナル期」の看護実習を経験したことがありません。
しかし、現在はターミナル実習のある学校で勤務していますので、話を聞きながら、いつも「??」と違和感を感じています。
私は終末期、ターミナルは「医療の敗北」だと考えています。
「死」と戦うのが「医療の責務」だとすれば、終末期は医療が手も足も出せない領域になります。
いわゆる「お手上げ状態」=ターミナルなのです。
希望も何もなく、ただ死を待つそれが終末期医療、終末期看護だとしたら、「看護」は一体何ができるのでしょうか?
過去の記事で「死生観について」書いておりますのでそちらを参考にしていただければ幸いですが、日本人は「無宗教」と言われていますが本当にそうなのでしょうか?
いえいえ、日本人は立派な「拝金主義」という宗教に所属しています。
拝金主義とは「お金がなんでも解決してくれる」「お金が自分を幸せにしてくれる」という考え方です。
ここで聖書の一説を引用いたします。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(「命は財産から出るのではない」 ルカによる福音書12-13~21)
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。
そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』
そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。
そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』
しかし神は彼に言われた。
『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』
自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(転載ここまで)
これぞまさに拝金主義のワンフレーズですね。
お金を貯めた、あとは働かず悠々自適に生活しようと考えた人が、突然死するというお話です。
ターミナル期にある患者はまさにこの「ルカによる福音書12-13~21」のような患者ばかりです。
人生の目的もわからず、ただ「生活するためにお金が必要だから、物質的に豊かになれば幸せになれる」と考えて、蔵にお金をためてきた人たちばかりです。
しかし、余命1年と宣告されて、抗がん剤治療という名の毒を体に注入されて、心身ともに疲弊し、何もやる気がおきない人たちにとって「希望」とは一体何でしょうか?
「がん」という嘘の病名に騙されて、流されるがまま、マスタードガス治療を受ける人たち。
この人たちは確かに、抗がん剤という猛毒によって、体のあちこちに痛みが走り、苦痛を抱えています。
そして、医者という現代科学が作り上げた「神」から「お前はもう手遅れだ。あと1年で死ぬ」と死亡宣告を受ける。
そんなターミナル期、終末期に看護は一体何ができるのでしょうか?
人間が他の動物と何が違うのでしょうか?
それは「発達した脳を持つこと」です。
私たちの脳が発達しているのは、人間以外の他の動物と違って、
「インスピレーション」、つまり直感や霊感を受け、「新しい発想や考えにより創造していく力が与えられているから」ではないでしょうか?
だとすれば、ターミナル期の患者は「死を座して待つ存在」であり、その中に「人生の悟り」が少なからずあるはずです。
実際はどうかというと、それらがない。
一見達観して、「受容」しているようですが、心の中は「絶望」しかないのがターミナル期です。
「自分の人生に意味は見いだせなかった」「一体何のために苦しみに耐えてきたのだろう?それならもっと自分がしたかったこと、自分の夢を追究してこればよかった」
これがターミナル期の患者の本音ではないでしょうか?
これから「肉体を失う人」に、肉体的安楽が一体何の足しになるのでしょうか?
ターミナル期の患者は「脳が苦しんでいる」つまり「心が苦しんでいる」のです。
私たちの肉体を支配しているのが「脳」だとすれば、その「脳」を支配しているのは一体何なのか?
それは「霊」「魂」という存在です。
私たちの発想や考え方は「霊」から生み出されて、脳に伝達されて、体が実践しています。
詳しくはこちらの記事を↓
RAPT有料記事163(2017年4月15日)人間は神様の御言葉によってプログラムされ、聖霊という電磁波によって動く超精密なコンピューターだ。
私たちは「希望」なしには生きられません。
希望とは一体何でしょうか?
「美味しい物をおなか一杯食べたい」
「美男美女と一夜を過ごしたい」
「海外旅行に行って、美しい景色を堪能したい」
「世間から一目をかれ、認められ、チヤホヤされたい」
といった「欲望を叶えること」でしょうか?
それなら、「フードを与え、トイレを綺麗にしてやれば喜んでいる犬や猫と同じ」ではないでしょうか?
私たちの「幸せ」とはこういう事ではないでしょうか?
RAPT有料記事284(2018年6月11日)我々人間がこの世に生まれてきた目的は、霊魂の救いと成長のためだ。
いくら金持ちになって、高級車を乗り回し、豪邸に住んで、毎日ミシュランガイドのお店で外食三昧、放蕩三昧の生活をしていても「愛されていなければ」虚しいだけの人生ではないでしょうか?
お金や友達や恋人や豪邸なんてなくても「いつも心が満たされていれば」幸せではないでしょうか?
自分の存在意義をはっきりと覚知し、ちょっとしたことで感謝できて、それこそ生きている事に感謝できて、感動して涙する毎日が送れれば「これほど幸せなことはない」と思いませんか?
90代の高齢者に対して、リハビリの理学療法士が「あのさ、退院したら何かやりたいことないの?温泉とか好き?」「お孫さんに会いたいとかは?」
などと低次元な声かけをして、無気力で絶望している高齢者のリハビリのモチベーションを上げようとしている光景に遭遇します。
「温泉」や「孫」や「家族」が人生の悩みを解決してくるのでしょうか?
これらのものは「一時的な気休め」にしかならないと、入院患者は知っているのです。
ただ、答えのある場所を知らず、ただただ年を重ねてきてしまったことに半ば絶望しているのです。
高齢者たちは「穏やかに生きること」=「老後は働かず年金暮らしで悠々自適に生活すること」と政府に騙されてきてしまったと気付いているのかもしれません。
死にたくても死ねないシステムの医療、そして「死とは何か?」「どう生きれば幸せになるのか?」という真理から目を背け、ただひたすら「欲望を満たすこと」だけに終始してきた終末期の患者に対して、私たち看護師は一体何ができるのでしょうか?
孫やペットが一体何をしてくれるのでしょうか?
車いすで桜を見に行って、何が解決するのでしょうか?
私たちは死ぬ間際に、綺麗な景色を見るために生まれてきたのでしょうか?
ターミナル期の患者への看護は「心の救い」「霊の救い」の他ないのです。
肉体がなくなった次の世界について何の知識もない人が一体、ターミナル期の患者に何をすることができるのでしょうか?
看護師は医療偏重することなく、もっと霊的な事を学ぶべきなのです。
その答えは「聖書」にしかなく、「聖書」を理解せずして「死について語ることはおこがましい」
さらに、人間の本質には辿り着くことはできません。
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