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ソフト・マシーンの創設メンバー マイク・ラトリッジ死去
カンタベリー・ミュージックの礎を築いたグループのひとつ、ソフト・マシーン(Soft Machine)の創設メンバーであるマイク・ラトリッジ(Mike Ratledge)が死去。著名な音楽ライター、シド・スミスは、ソフト・マシーンのジョン・エサリッジを通じてラトリッジが亡くなったことを知ったことをSNSで報告しています。ラトリッジは81歳でした。
以下、シド・スミス(キング・クリムゾンの伝記『In The Court Of King Crimson』の著者)の投稿より。
「ジョン・エサリッジは、ソフト・マシーンの共同創設者であるマイク・ラトリッジが本日亡くなったことを公表した。彼はソロ奏者として非常に独特で独創的な声を持っていた。私は彼を何度か観ることができて幸運だったと思っている。素晴らしい作曲家であり、最高にクールな人物でもあった」
マイク・ラトリッジことマイケル・ロナルド・ラトレッジは1943年、英ケント州メードストンで生まれる。幼少期には両親の影響でクラシック音楽を学んだ。ピアノを習い、カンタベリーのサイモン・ラングトン・グラマースクール・フォー・ボーイズで出会った友人ブライアン・ホッパーと共にクラシック・ピアノやクラリネットの曲を演奏していた。ラトレッジはブライアンの弟ヒュー・ホッパーやロバート・ワイアットとも知り合った。
1961年、デヴィッド・アレンと出会い、ジャズに興味を持つようになる。セシル・テイラーのピアノ曲を通じて、ラトリッジはセロニアス・モンク、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンの親しむようになっていった。1963年、彼はデヴィッド・アレン・トリオで演奏した。他の友人たちとは異なり、ラトリッジはさらに教育を受けたいと考え、オックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジで学び、心理学と哲学の学位を取得した。同時にラトリッジは音楽のレッスンにも通い、前衛音楽家のマル・ディーンとラブ・スポールから教育を受けた。卒業後、ラトリッジは米国の大学に進学するつもりだったが、奨学金の申請が遅すぎたため行くことができなかったという。
1966年、友人たちが新しいバンド、ソフト・マシーンを結成し、ラトリッジに参加を要請した。バンドにはロバート・ワイアット、デヴィッド・アレン、ケヴィン・エアーズが在籍していた。その後、メンバーの入れ替わりが続き、1973年にはラトリッジはオリジナル・ラインナップで唯一の在籍メンバーとなった。
1976年、ラトリッジはソロ活動に専念するためにソフト・マシーンを離れ、バンドはカール・ジェンキンスのリーダーシップの下で活動を続けた。ラトリッジは自身のスタジオを建設し、映画のスコアを作曲した。1980年代には、ラトリッジはコマーシャルおよび劇場のための音楽の作曲家/音楽プロデューサーとして活躍した。
amms_________________________________________________________
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マイク・ラトリッジのあの変な音のキーボードが好きでした。
インテリな変な眼鏡とともに、ね。
ソフトマシーン4のTheeth に日がな一日、繰り返し繰り返し針を落とす日もあった。
モラトリアム青春の一頁。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/6e/fc2a7c3b35f794785f059d9d3054cf63.jpg)
追悼に選ぶのは、もちろん「ソフトマシーン4」それとケヴィンエアースの「Sweet Deceiver」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/9c/da023de5adeef45e37c91b0ab99e598e.jpg)
R.I.P.
カンタベリー・ミュージックの礎を築いたグループのひとつ、ソフト・マシーン(Soft Machine)の創設メンバーであるマイク・ラトリッジ(Mike Ratledge)が死去。著名な音楽ライター、シド・スミスは、ソフト・マシーンのジョン・エサリッジを通じてラトリッジが亡くなったことを知ったことをSNSで報告しています。ラトリッジは81歳でした。
以下、シド・スミス(キング・クリムゾンの伝記『In The Court Of King Crimson』の著者)の投稿より。
「ジョン・エサリッジは、ソフト・マシーンの共同創設者であるマイク・ラトリッジが本日亡くなったことを公表した。彼はソロ奏者として非常に独特で独創的な声を持っていた。私は彼を何度か観ることができて幸運だったと思っている。素晴らしい作曲家であり、最高にクールな人物でもあった」
マイク・ラトリッジことマイケル・ロナルド・ラトレッジは1943年、英ケント州メードストンで生まれる。幼少期には両親の影響でクラシック音楽を学んだ。ピアノを習い、カンタベリーのサイモン・ラングトン・グラマースクール・フォー・ボーイズで出会った友人ブライアン・ホッパーと共にクラシック・ピアノやクラリネットの曲を演奏していた。ラトレッジはブライアンの弟ヒュー・ホッパーやロバート・ワイアットとも知り合った。
1961年、デヴィッド・アレンと出会い、ジャズに興味を持つようになる。セシル・テイラーのピアノ曲を通じて、ラトリッジはセロニアス・モンク、マイルス・デイヴィス、ジョン・コルトレーンの親しむようになっていった。1963年、彼はデヴィッド・アレン・トリオで演奏した。他の友人たちとは異なり、ラトリッジはさらに教育を受けたいと考え、オックスフォード大学ユニバーシティ・カレッジで学び、心理学と哲学の学位を取得した。同時にラトリッジは音楽のレッスンにも通い、前衛音楽家のマル・ディーンとラブ・スポールから教育を受けた。卒業後、ラトリッジは米国の大学に進学するつもりだったが、奨学金の申請が遅すぎたため行くことができなかったという。
1966年、友人たちが新しいバンド、ソフト・マシーンを結成し、ラトリッジに参加を要請した。バンドにはロバート・ワイアット、デヴィッド・アレン、ケヴィン・エアーズが在籍していた。その後、メンバーの入れ替わりが続き、1973年にはラトリッジはオリジナル・ラインナップで唯一の在籍メンバーとなった。
1976年、ラトリッジはソロ活動に専念するためにソフト・マシーンを離れ、バンドはカール・ジェンキンスのリーダーシップの下で活動を続けた。ラトリッジは自身のスタジオを建設し、映画のスコアを作曲した。1980年代には、ラトリッジはコマーシャルおよび劇場のための音楽の作曲家/音楽プロデューサーとして活躍した。
amms_________________________________________________________
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マイク・ラトリッジのあの変な音のキーボードが好きでした。
インテリな変な眼鏡とともに、ね。
ソフトマシーン4のTheeth に日がな一日、繰り返し繰り返し針を落とす日もあった。
モラトリアム青春の一頁。
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追悼に選ぶのは、もちろん「ソフトマシーン4」それとケヴィンエアースの「Sweet Deceiver」
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R.I.P.
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