中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

条順

2024年08月17日 | 中国グルメ(美食)
条順 tiáo shùn
(体つきがしなやか)

 今回も沈宏非『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)から、『条順』という文章をご紹介します。 「条順」の意味は、この文章を読んでいただくこととして、この文章で取り上げているのは麺料理についてです。その中で取り上げている『随園食単』、これは中国清代の人、袁枚が役人を辞してから南京近郊に随園という邸宅を営み、ここで彼が食した料理についてまとめたものです。浙江省出身の袁枚は、麺料理をどう位置づけているのか。そして沈宏非はどう考えているか。それでは『条順』を読んでいきましょう。

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 『随園食単』の中で、袁枚は麺類を「点心」(正餐の前に小腹を満たす軽食)類の中に入れている。これは明らかに麺類が主菜ではないだけでなく主食でもなく、正餐の間の腹の足しで、空腹感を鎮めるために供するという、一種の「且点心(正に気持ちに火をつける)」という着火剤となる美食である。
 
 しかし、「点」(火をつける)の字は別に「面条」(麺類)と「心」(気持ち)の間の関係を表すのに相応しいものではない。麺類の形状を論じるにせよ、麺類の美味しさを語るにせよ、それとわたしの気持ちの間には様々な思いがまとわりつき、あたかも「繞梁三日」(調子が高まり激しく揺れ動く)音楽のようで、たいへん心にまとわりつく。成都人は美女を「粉子」と呼び、美女の尻を追うことを「繞粉子」rào fěn ziと言う。この「繞」の字は、同様にわたしの麺類に対する気持ちを表現するのに相応しい。

 手を加えられた日常の食物の中で、見た目のしなやかさと美しさで言えば、麺類が一番である。麺の前身は、ふっくら太った小麦粉の団子であり、切り刻まれることで、小麦から細長い麺になり、驚くべき艶めかしい変身を実現していて、このため麺は小麦粉の最も美しく最も科学的な線状の延伸、展開である。

 70年代の北京の隠語で、美女に対する評価は、「盤正条順」という高度に濃縮された四つの文字であった。「盤」とは顔立ち(顔の輪郭)を指し、「条」とは体つきのことである。「盤正条順」は見た感じ、「名正言順」(名分が正当であれば道理も通る。名分も言葉も正当である)を焼き直したものだが、「正」は別に正確の正ではなく、端正の正でもなく、今日言うところの「正点」(定刻、定時)の「正」に近い。「順」に至っては、体つきのしなやかさ、流線型の曲線を指すに他ならない。麺も同様で、食べたいのがこの「順」であるなら、「順」は麺の見た目だけでなく、より重要なのは食感で、正にこの「順」だけが、わたしたちに、麺を食べる時に遠慮なく発することができ、食事の時に本来は発してはいけない、ズズッ、ズズッ と続く心地よい音を表すのであり、或いは魔物のようにしなやかな美女が、「順」であることで人に聞こえる「ズルッ」とすすり込む音なのである。

 もちろん、湯麺(タンメン)であるか撈麺(混ぜ蕎麦)であるか、箸を使うかフォークを使って食べるか、こうした要素も「順」に多大な影響をもたらし、場合によっては見た目が全く異なる。例えば、スープの無いスパゲティは元々湯麺 のような「美女が湯船に浸かる」色気が欠けており、更にフォークで巻いて食べても、少しも「順」の快感は感じられず、せいぜい口に頬張っても歯にまとわりつく柔らかい麻花(小麦粉をこねて細かく切り、ねじり合わせて油で揚げた揚げ菓子)のようなものだ。それに比べ、曾てイタリアの貧しい人が手で引っ張って伸ばした麺を高いところに「吊り下げ」口に入れた食べ方は、却ってより「条」の感覚を得ることができた。更に、広東人が作る麺類はたいへん不味い。それはまた広東語ではいつも「麺条」のことを「麺」とだけ言って「条」を付けないのと関係しているかもしれない。

面面観(麺についての様々な考察)

 『随園食単』「点心単」に列記された麺類は、全部で「鰻麺」、「温麺」、「鱔麺」、「素麺」、「裙帯麺」の五種であり、墨を惜しむこと金の如しか、麺を惜しむこと墨の如しか知らないが、少なすぎる気がする。

 袁枚は82歳まで生き、行ったことがある場所は少ないとは言えず、食べたことのある麺は思うに上記の五つに止まらないにちがいない。ところがこれら五つの麺だけ選んで食単に入れたのは、郷土の習俗や個人の好みの問題以外に、これら選ばれた麺に各々その独特な点があったからに違いない。しかしわたしはそれ以外に、五つの麺にはひとつの共通点があることを発見した。それは、その調理過程で、スープ、餡かけの効果をとても強調していることである。「鰻麺……鶏のスープはこれを澄ませ、鶏のスープ、ハムのスープ、干しキノコのスープを沸騰させる」、「素麺は、前日に干しキノコを水でふくらませ煮出したスープを澄ましておく。翌日そのスープに麺を加えて沸騰させる」。最後まで書いて、自分でも幾分不注意が過ぎると思ったのか、一筆を加えた。「およそ麺を調理するには、必ずスープを多くするのが良い。碗の中に麺が見えなくするのが良いのである。食べ終わっても麺をまた加えると、人をうっとりさせることができる。このやり方は揚州で流行っているが、正に甚だ道理がある。」

 もうひとりの清代の美食家、李漁は、袁枚より百年あまり早く生まれている。原籍は浙江省。江蘇に生まれ、これらふたりの終生の「麺類飲食生活区域」はほぼ完全に重複し、人生に対する態度も非常に似通っているが、彼らの麺に対する態度は大きな隔たりがあり、甚だしくは轅(ながえ)を南に向けながら、車を北に走らせるかのように、行動と目的が全く一致していない。李漁は『閑情偶寄』の中でこう批判している。「北人は小麦を食べるのに多くは餅(ビン)にするが、わたしは細長く切り分けて一本一本はっきりさせるのが好きだ。南人のいわゆる「切麺」がこれである。南人が麺を食べるのに、その油塩醤醋などの調味料は、皆麺のスープの中に入れ、スープは味があるが麺は味が無い。これは人の重視するのが麺にあらずスープにあり、未だ曾て麺を食せずというのはこのことである。」

 李漁は雄弁であるだけでなく、言だけでなく行動もでき、彼はふたつの上記の理論に基づく麺を打ち立てた。名を「五香」、号を「八珍」と言い、重点は麺を切る前に「醤(味噌)や、酢、山椒の粉、すりゴマ、茹でたタケノコ或いはキノコを煮、エビを煮た汁」、及び「鶏、魚、エビの三つの肉……と生のタケノコ、シイタケ、ゴマ、花椒の四つの物を細かく挽いた粉末を」尽く数えて麺の中に入れる。その目的は「諸物を調和させることで尽く麺に帰し、麺は五味を備え独りスープが澄み、こうしてようやく麺を食べるのはスープを飲むのとは異なることとなる。」

梨花帯雨(梨の花がしっとり雨に濡れる)

 湯麺(タンメン)についての忠実な擁護者として、わたしは袁枚は李漁よりずっと優れていると信じざるを得ない。

 麺について言えば、麺自身の味も固よりたいへん重要である。しかし、小麦粉自身を除いて、すなわち小麦自身の品種と品質以外に、麺の重要なセールスポイントはすなわち噛み応えであり、上記の要素を除き、噛み応えは小麦粉を捏ね、切り、茹でる技術により決まる。麺の味は、主にスープから汲み取られる。それと同時に、スープにも麺固有の芳香が溶け込む。こうして、スープも麺も、柔らかくもあり強靭でもあり、スープしたたる麺は、梨の花が雨がしっとり雨に濡れるように艶めかしい。

 それゆえ、「人の重んじるのは麺に在らずしてスープに在り」というのはもとより片方に偏してしまっており、逆にもし「人の重んじるのはスープに在らずして麺に在り」とし、「麺が五味を具え、スープは独り澄む」ようにするのも、専ら一方の味を好むものとなる。わたしたちが一碗の美味しい麺に対する要求は、一碗一碗どの麺も皆到達すべきだ。麺を食べないといけないし、スープも飲まねばならない。こうしてはじめてスープも麺も共にすばらしくなり、功徳円満となる。科学的にも市場の角度からも、スープと麺が「一体化」する有利な形勢が勝ち取れる。

 もちろん、上海冷麺のような干麺、拌麺(混ぜ蕎麦)、或いは新疆の「大盤鶏」の中の「幅広」の麺も美味しい。わたしが嫌いなのは、ただ人為的に各種の外の物を麺の中に混ぜることだ。広東人は 湯麺 であれ 干麺であれ、うまく作れない。ただ李漁の教義を継承し、その伝統を発展させ、技量を皆小麦粉を捏ねる点にかけ、蝦子麺、鮑魚麺といった俗悪な麺や餅(ビン)をでっち上げた。

 湯麺(タンメン)に対する態度の上で、李漁はひとつの極端な例で、張愛玲はまた別の極端な例である。すなわち、彼女はただそのスープを好み、麺は食べなかった。「わたしはあいにく湯麺が最も嫌いで、「スープがたっぷりで麺が少ない」、思うに一番いいのはいっそ無いことで、ただ少し麺の味が残り、スープが澄んで濃厚なこと……杭州のガイドは皆を楼外楼に連れて行き、螃蟹麺(上海蟹入りの麺)を食べる手配をしてくれた。当時、この老舗レストランはまだ上海のレストランのように「大衆向け」に、料理の値段を低く抑え、仕事の手を抜き材料をごまかし、品質を低下させてはいなかった。この店の螃蟹麺は確かに美味しかったが、わたしは麺の上にかかった具を食べてしまうと、スープがほぼ無くなったので、箸を置いた。自分でも、今の中国の情勢下でこのように気ままに食べ物を無駄にするのは、いささか罰当たりなことだと思った。」

 わたしの自宅に客を招待し、 湯麺を召しあがっていただく時は、必ず特大のどんぶりを用う。どんぶりのサイズはできれば自分の顔より大きいものを使い、人の五官をスープの湯気の熱さで燻せば、ひとしきり、またひとしきりと感動が人々の顔をなでながらやって来る。

南人北相(南方の人が北方の人の容貌を兼備する)

 袁枚が記録した麺料理は、皆南派(南方)のもの、いや基本的には江蘇、浙江の二省を出ることさえなかった。麺料理は畢竟北方に由来する食品であり、ちょうど李漁が『閑情偶寄』の中でこう言っている。「南人は米を食し、北人は麺を食すのが常である。」

 袁枚は浙江の人だが、もし彼が北方の満州族出身で、関(居庸関)を越え、北京の役人になっていたら、おそらく彼は、麺という北方人の主食を「点心」の中に入れることはあり得ないし、そうする勇気も無かっただろう。北方人の日常の飲食生活の中で、麺は 点心と見做すことができないだけでなく、貧しい人々にとっては、麺は更にある種、精緻な小麦を使った食品と称するに足るものであった。これと同時に、北方の麺は日常の食べ物として普及しているだけでなく、その様式種類もすこぶる多く、山西省一省だけでも、麺の食べ方は百種類以上あり、当地の家庭の主婦は、更に「360日、毎食麺料理にしても、料理が重複しない」という腕前を持っている。もし袁枚が33歳で「官を辞して故郷に帰」っていなければ、『随園食単』の麺類メニューもきっと5種だけに止まることはなかっただろう。

 それゆえ、江蘇、浙江一帯で中国で最も美味な麺料理が盛んに作られた所以は、第1、ここは広義の南方であり、江蘇、浙江は曾て戦乱の禍と大運河による漕運の便により、中国北方の精緻な文化の最も深遠且つ最も長期間に亘る影響を受けたため。第2、北方の麺が初めて南に渡ったばかりの時、江南の精緻な飲食もまた初めて「北方の麺」の薫陶を受けたため。それゆえ呉越の麺料理は確かに「南人北相」、南方の人が北方の人の容貌を持つことで、双方の長所を兼備することとなった。

 翻って、北方に引き続き残った麺料理、その中でもわりと代表的な北京の炸醤麺(ジャージャンメン)を例にすると、たとえ文人たちが「雪のように白く柔らかくしなやか、平らで整った手延べ麺、四月の柳の葉に似たキュウリの細切り、卵、さいの目に切った豚肉、きくらげ、キノコ、黄ニラを油で揚げて作った味噌」というような言葉の修辞でそれを賛美していたとしても、わたし個人の経験では、北京旧市街、南城に住む「老北京」、昔から北京に住む人のお宅で御馳走になろうと、東城の五つ星ホテルのレストランで食べようと、炸醤麺はどこのものも美味しくない。そして最も不味いのは、他でもなく炸醤、油で炒めて作った肉味噌の塊りである。

 ネット上で広く流布した長編読み物、「包子麺条大戦」の一節で、炸醤麺が主人公になっている。ここで再度紹介しよう。なに、北京人に怨まれたって構わない。「さて、小籠包は殴られて後極めて不愉快になり、肉包(肉まん)、豆沙包(餡まん)、近い親戚の餃子、遠い親戚の月餅といっしょになって、かたき討ちをしようとした。ちょうど路上で炸醤麺に出逢ったので、皆は炸醤麺を取り囲むとそれをぺしゃんこにして虫の息にした。帰路の途中、皆は小籠包に言った。「君は本当にそんなに麺を怨んでいるのか。こんなに殴ったら死ななくても障害が残るだろう。」小籠包は言った。「元々、わたしもただ適当に何発か殴ればいいと思っていたのだが、奴がなんと全身に大便を塗りたくっていようとは誰が知ろう。こんなだとわたしは奴を殴る勇気が無くなる。本当によく考えたものだ。こんな意気地なしのチビがわたしの気持ちに火を点けた。殴り出したら節制が効かなくなって……」」

 実は炸醤麺が最も不味いわけではない。広東人の麺料理、とりわけあのワンタン麺というものを食べてはじめて、本当にこれは「惨たんたる人生を目の当たりにした」と叫びたくなるのだ。

拉麺(ラーメン)


 蘭州ラーメンは既に一碗の麺料理からひとつの神話に変化しており、流行の言い方を真似ると、ラーメンとは蘭州という「都市の名刺」である。

 ほとんど蘭州ラーメンと同期に神話になったものに、更に日本のラーメンがある。蘭州と日本は地理の上では遠く離れていて、双方の飲食文化はまた高度に異質であるけれども、これら二種類のラーメンとその土地で形成されたラーメン文化の間には、ある微妙な類似点が存在する。

 蘭州ラーメンと日本のラーメンは何れも湯麺(タンメン)で、「重湯」、スープが重要な麺類であり、どちらもスープが勝負のカギを握る。前者は牛や羊の肉をスープの主要な材料とし、後者は醤油、味噌、豚骨とコンソメスープを4つの基本的なスープの基本部分としている。もちろん、牛肉、ネギ、ニンニクの芽、香菜、唐辛子を除いて、蘭州ラーメンの原料の配合と名目は、日本のラーメンの原料やそれらの使用目的が極めて多いことに遠く及ばない。それには次のようなたとえをすることができる。蘭州ラーメンをWindowsとするなら、日本のラーメンはLinuxのようなものだ。後者は基本プログラムが完全に開放されたプラットフォームであり、およそ思いつき得る材料であれば、何でも意気揚々とスープの中に注ぎ込むことができる。こうした意味において、日本のラーメンは実際、集団での創作の成果であるかのようだ。

 日本のドラマやソニーを除いて、日本人のものの大部分が聞くところによると中国から伝わったものだそうで、ラーメンも例外ではない。ある人の説では、中国のラーメンは早くも三百年あまり以前に日本に上陸したそうである。当時、一心に「反清復明」を主張していた中国人、朱舜水(字は魯璵、舜水と号す。明の浙江紹興府余姚県の人。南京松江府の儒学生)は七度海を渡り長崎に到り資金を準備したが、やむを得ない事情で実現できず、やむを得ず1659年長崎に落ち着くこととなった。水戸藩第二代藩主で、徳川家康の孫、水戸黄門が儒学をたいへん好んだため、一年の時間を費やして家臣を長崎に派遣し、三顧の礼を尽くし、遂に 朱舜水を招聘して江戸水戸藩邸に居留してもらうこととなった。朱老師は水戸黄門に儒学を講義しただけでなく、彼に中国の麺料理をふるまった。『朱文恭遺事』の記載によれば、朱舜水は自ら厨房に立ち、水戸黄門のために作ったのは、レンコンの粉で作った平麵で、スープは豚肉のハムを煮つめて作った。

 もうひとつの説では、現代の日本のラーメンは、日本在留の浙江出身の華僑、潘欽星が大正年間(1920年代初め)に創始したと言われている。

 いずれにせよ、わたしは蘭州ラーメン、日本のラーメン、呉越の湯麺(タンメン)、及び李漁、袁枚、朱舜水、潘欽星といった既に亡くなった江蘇、浙江の人々の間には、麺類でつながった関係が、歴史と美味の霞みの中にたたずんでいるように感じる。


瓜子( クアズ )の音を聞く

2024年08月01日 | 中国グルメ(美食)
 瓜子( クアズ )はヒマワリやスイカやかぼちゃの種をを殻ごと煎って、塩や調味料で味をつけ、お茶請けのスナックとして食べるもの。「殻ごと」というのがポイントで、その食べ方は、殻を手で剥いたりせず、殻を前歯で噛んで割って、舌の先で器用に中身だけ口の中に入れ、殻はぷっとはき出すというもの。ここで、 「殻を前歯で噛んで割る」という動作のことを「嗑」といい、この時の音がこの話のテーマです。作家、テレビプロデューサーの 沈宏非著、『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)収録の作品です。


聴瓜子


 様々なものを食べる音の中で、水を飲む音の他、最も好ましい音は、クアズ(瓜子。ひまわりやスイカ、かぼちゃの種を炒ったもの)を前歯で噛み割る(嗑)音である。

 瓜子 ( クアズ )を噛み割る音は、主に以下の三つの動作が途切れず行われることでできている。 瓜子の殻は歯先でパキパキと破裂し、吐き出される時に唇と舌の間でパラパラと音を発して下に落ちる時に聞こえるのは空洞のこだまである。66年前、豊子愷先生は女性が瓜子 を噛み割る音を、澄んで耳に心地よい「チッ、チッ」という音で表したが、ひょっとすると66年前は 瓜子がとりわけ歯触り好く炒られていたのかもしれず、或いは66年前の女性の歯はとりわけ鋭かったのかもしれず、「チッ、チッ 」という音は今日ではもはや人に瓜子 を噛み割る音とは連想させられず、むしろ多少留守番電話機の信号の音に似ている。

 でも実は、瓜子 を噛み割るリズムが、その音よりもっと人々をうっとりさせるのだ。自分や他人が瓜子 を噛み割るのを連続して2分以上聞かされると、その絶えることなく続くリズムは、まるで楽器の旋律と肉声の歌声が同時に発せられた中国式のジャズのメロディのようである。

 もちろん、こうした音やリズムの多くは静かな部屋でひとり瓜子 を噛み割った時にはじめて気にかけられるもので、一般的な情況では、しばしばがやがやとした無駄話やあれこれと話す声の中に埋没してしまう。雨が芭蕉の葉を打ち、腹を空かした馬が鈴を揺する音が聞こえるのは、その前提として雨があまりじゃじゃぶりではなく、芭蕉の葉も馬もあまり多くないことで、もし暴雨が芭蕉の林に降り注ぎ、馬も空腹の余り発狂しそうになっていると、その有様は、大厨房の中で肉や野菜を炒めているのと変わらない。

 瓜子 を噛み割るのは中国人の生活に根付いた風習であり、瓜子 を噛み割る音も、如何にも中国的な音である。春節は一年の中で「中国の音」が最も強い月で、同時に瓜子 の販売の最盛期である。商品分類上、 瓜子は通常「炒貨」chǎo huò(スイカの種、落花生、ソラマメなど炒ったものの総称)に分類されるが、音の面では、 瓜子、マージャン、花火、爆竹は年越しの賑やかな雰囲気を作り出すために存在する正月用品で、何れも「吵貨」chǎo huò(騒々しい商品。発音は「炒貨」と同じ)と読まれるべきものである。

 瓜子 は別段美味しいものではなく、その主な属性はそれが唇や歯と一緒に動いた時に発する音声効果の上にあり、こうした音声は美学上の意義はもとより取るに足らないものではあるが、実際の効果から言うと、少なくともレイヴ・パーティー(ダンス音楽を一晩中流す大規模なパーティー)での薬物使用の乱用の問題の解決に建設的な意見を提供する可能性がある。レイヴ・パーティーの会場には瓜子 の自動販売機が設置され、瓜子 を噛み割ることで薬(やく)を噛むのに取って代えるよう提唱され、また地面を 瓜子の殻だらけにして、これ以上すごいDJも演奏できないような人々を魅了する音楽を提供することができるのである。


瓜子臉(うりざね顔)

 スーパー・ボールの勝者が、なすべきことは何でも行い、誰にも譲らない「世界チャンピオン」とするなら、世界で一切の瓜子 に関係した歴史は、全て漢字で書かれたものである。

 馬王堆漢墓の女性の遺体の腹の中から消化されていない 瓜子が発見されたことがあるけれども、瓜子を食べる歴史は最大宋(960-1279年)から遼代(916-1125年)までしか遡ることができない。なぜならひまわりやスイカから作る瓜子の「親元」は、何れも五代の時期(五代十国時代。907年 -960年)になってようやく中国にもたらされたからである。それはともかく、わたしは世界で最初に 瓜子の殻を剥いて口に入れたのは、きっと女性に違いないと考えている。女性であるからこそこのように自然と注意深く繊細な観察力と我慢強さを備えていたのであり、もちろん小さく敏捷な口と指も、欠くことのできない道具である。

 たとえ今後考古学上の資料で 瓜子は男性が発明したものであると証明されたとしても、瓜子が女性の食べ物であるという広く一般に認められた事柄、つまり女性だけが瓜子 をこんなり優雅に、美しく噛み割ることができるという現実を改めることはできない。もちろん、女性が瓜子 を噛み割るのは彼女たち自身のためであり、男性の気を引くのとは無関係であるが、一粒の取るに足らない瓜子にとって、このように優雅に食べられれば、たとえ種が瓜になる輪廻に失敗したとしても、死んでも心残りの無い幸福と見做すことができる。どんなに粗野な女性でも、ひとたび瓜子を手に取れば、動作も自然と美しくなる。20年余り前、わたしは広州の東郊で学校に通ったが、市内に向かうバスの中は、毎日化学工場と製鉄工場の女工で一杯で、座っている者も立っている者も、女工たちは皆手にひと掴みの紅瓜子(赤く着色された瓜子)を持ち、ちょうど『カルメン』で煙草工場の女工が皆巻煙草をくわえているのと同じである。わたしはいつも彼女たちが瓜子 を噛み割る美しい姿に見惚れて、同時にまた「広州カルメン」で紅瓜子の殻と一緒に彼女たちの口から飛び出す人を驚かす汚い話の中から、徐々に早期の性教育を終えたのである。

 成都の茶館は茶館の中での瓜子の消費量が中国でトップである。他所と異なるのは、成都の茶館は男性が茶を淹れるのを好むだけでなく、女性も茶を淹れるのを好む。わたしは成都の女性の「うりざね顔」の比率が高いことを発見したが、それはひょっとすると中国第一かもしれない。広東人はこれが「形でもって形を補う」理論のひとつの確証であるとおそらく信じているだろう。実際のところ、生まれつきどのような顔の形をしていても、口を尖らせて瓜子 を噛み割った瞬間、誰しも皆 うりざね顔になるのである。

 中国の女性は何種類か代表的な「中国語で言う顔型」があり、瓜以外にも、ガチョウの卵、シャオピン(焼餅。小麦粉を薄く延ばして焼いたもの)、苦瓜などがあり、皆食べ物である。言うまでもなく、うりざね顔は公認の美女の顔型であり、鄭秀文(サミー・チェン)の人気が出たのも、聞くところによると、心を鬼にして自分の シャオピン顔をうりざね顔に整形した所以(ゆえん)であるそうだ。「瓜子」がひまわりの種であろうと、やや丸く太ったかぼちゃの種であろうと、「美白」の意義を参考にすれば、やはり後者が基本となる。

 中国至上主義者として、瓜子を欧米に輸出するには、今のところ難易度がたいへん高い。最も可能性があるのは、わたしはやはり日本だろうと思う。これは決してわたしたちが皆米を主食にし、同文同「種」であるからではなく、日本の漫画の中の男女の主人公が、うりざね顔なのが多数を占めるからである。

「嗑」(前歯で噛み割る)の芸術

 わたしが瓜子は専ら女性の食べ物に属すると信じる所以は、女性の「嗑姿」(瓜子を前歯で噛み割る姿)に対する偏愛と言うよりはむしろ、男性の瓜子を噛み割ることへの嫌悪のためである。

 男性が瓜子を噛み割る、とりわけ一群の男が瓜子を噛み割っているのを見るのは見苦しく、オスが第二の性を超越した存在として、「瓜子を噛み割る姿」は下品で見るに堪えず、一粒の女子の指先につままれたダイヤのような瓜子も、太い腕に大きな口の男の手にかかると、まるで蚤をつまんでいるようだ。同じように直接口に触れるものとして、葉巻は尚男女で寸法の違いがあるが、残念なことに瓜子はもともとLady sizeしか無く、寸法上の美的感覚の問題は別として、男性が瓜子を噛み割る音は、濁っていて聞き苦しい。だから、わたしは次のふたつの場合を除いて、男性は瓜子でこれ以上関わり合いを持つべきではない。

 第一:瓜子を売ることで商売に成功し、それによって更に個人の身分や地位が向上する。
 第二:腹痛や頻尿を患い、場合によっては排尿が困難な男性は、薬を飲む以外に、適度に瓜子を食べると良い。聞くところによるとかぼちゃの種は脂肪酸を豊富に含み、前立腺でホルモンを分泌するのを助ける働きがある。毎日だいたい50グラムずつ、生でもよく炒ったものでも良い。3ヶ月以上食べ続けないといけない。

 馮鞏(フォン・ゴン)と牛群(ふたりは何れも、中国漫才、「相声」の芸人)はこれまでずっとわたしが好きな芸人であったが、新聞によれば、春節晩会(大晦日夜のテレビのバラエティ番組)の準備で、ふたりは毎回70斤(35キロ)にもなる瓜子をひたすら食べ、わたしは本当に笑うことができなかった。ふたりのりっぱな師匠が瓜子なんかを口に入れるくらいなら、煙草を吸った方がましだ。

 しかし言ってみればわたし自身も信じられないのだが、男が十人いれば、九人まで瓜子を噛み割る様子は見苦しい。けれども、瓜子を噛み割るスピードとテクニックについて言えば、わたしが見聞きしたところでは、女九人寄ってもひとりの男性にかなわない。SNSで「小三」というペンネームのすばらしい「嗑文」が見られる。「手に虱くらいの大きさのスイカの種を持ち、機関銃のように右の口もとから続けざまに投入すると、前歯が一本しか見えないのに、左の口もとから直ちに殻が噴出され、噴水のようだ。しかも殻は真っ二つに割られ、全部揃っていて、よだれが少しも付いていない。それでも尚、口の中で噛み砕くのが滞るようなことはない。そうこうするうち山盛りの瓜子がみるみる小さくなり、殻の山が瞬く間に大きくなり、しばらくすると瓜子の大きな袋が空っぽになってしまった。」

 悪くない。文中の「嗑主」は間違いなく男性だ。男でなければ、こんなに高い効率はあり得ない。

葵花宝典(ヒマワリ宝典)


黒瓜子

 黒瓜子はスイカの種、紅瓜子は蘭州白ウリの種、白瓜子はかぼちゃの種。これらの白、黒、赤が一色で来るのに比べ、ただヒマワリだけは黒、白半々である。なぜならヒマワリの種は「花」から生まれたもので、「瓜子」でなく「花子」である。

  瓜子の値段はウリの価格に従って高くなり、大いにオヤジ、英雄、好漢の意味がある。しかしかぼちゃの種やスイカの種はヒマワリの種ほど美味しくない。ヒマワリの種はよくヒマワリの種子だと誤解されるが、実際には、これは一粒の種子であるだけでなく、一個のれっきとした果実である。ヒマワリの果実は典型的な痩果(そうか)で、形が小さく、皮が薄く、やや紙質を呈し、内に一粒の種子を含んでいる。このため瓜子と比べ、ヒマワリの種はもともと果肉に近い成熟した深みのある味わいを備えている。スイカの種をもう少し炒ると、見た感じ少し黒っぽくなり、ヒマワリはもう少し乾すと、食べると口の中がぽかぽか暖かくなる。実際、ヒマワリの種はまだ炒る必要があるのだろうか。ヒマワリの種は、ヒマワリが太陽の方向を向いている間に、日光に晒され、十分に乾される。

 スイカの種や紅瓜子の振り払っても取れない渋みを取り去るため、炒る時にしばしば大量の調味料を投入する。スパイスには、ウイキョウ、花椒、桂皮、八角などが含まれ、発がん作用のあるサフロールが含まれている。食塩、香料、サッカリンなどの調味料は、あまり多く摂取し過ぎると、健康に良くない。最近また研究報告がなされた。瓜子に含まれる油分は、大部分が不飽和脂肪酸で、過剰に摂取すると、大量のコリンを消耗し、体内のリン脂質の合成と脂肪の摂取や燃焼に障害を引き起こす。大量の脂肪が肝臓に堆積すると、肝細胞の機能に重大な影響を及ぼし、肝細胞の破壊をもたらし、酷い場合には肝硬変を引き起こす。

 実際のところ、食べられるものには皆害になるところがあり、瓜子もまたその例に漏れず、適量が望ましい。ただ瓜子の問題はどこにあるかと言うと、食べないでいるならいいが、ひとたび口に入れると、しばしばコントロールが効かなくなってしまうことだ。ヒマワリの種は、比較的噛み割り易く、しかも味があっさりしているので、口に入れると狂ったように手が止まらなくなり、しばしば知らず知らずのうちに、家族や仲間と談笑し、興が乗ってくるうち、目の前の瓜子の殻は山のように堆積し、恐ろしい造山運動が展開される。

 ゴッホ以後、ヒマワリの種の母体のヒマワリは、西洋の精神病研究の上でずっと精神錯乱のしるしと見做されてきた。中国では、ヒマワリは文革当時、「忠誠」のしるしであった。ヒマワリは永遠に太陽の方向を向き、たいへん直観的で、中国式の認識論に符合した。しかし今考えてみると、このしるしは狂気じみているだけでなく愚かである。瓜子であれ花子であれ、これが太陽の方を向いていようといまいと、最後には食べられてしまう。これが中国式の実践論である。

長個屎尖頭(大便の先端が伸びる)

 中国を除き、世界各地の人々は瓜子を食べない。面倒を厭い、美味しくないものを嫌うと言うより、彼らは終生一粒の瓜子に含まれる広くて深い学識に触れることもないと言うべきである。

 瓜子が奇異であるのは、それが形態として食べ物と認められるかどうか、また食べてから満腹と感じられるかどうかによる。

 瓜子も口腔、食道、胃腸といった伝統的な路線に沿って進むものではあるが、瓜子を食べる快感は、その大半が「嗑」(前歯で噛み割る)にあり、ことばを換えて言うと、「殻無しの瓜子」はきっと市場が無くて売れないだろう。次いで、くるみやピーナツ、ピスタチオなどを食べる時も「殻をはずす」という工程があるが、こういったものはたくさん食べると満腹で腹が張る感覚が生じるのを免れない。瓜子はそれとは異なり、正に豊子愷先生が言うように「俗語では瓜子は食べても腹が膨れない(不飽)と形容され、「三日三晩食べると、大便の先端が伸びる」(吃三日三夜,‌長個屎尖頭)と言う。」

[注] 豊子愷(ほう しがい)1898-1975年。中国の画家、随筆家、翻訳家、教育家。「漫画」と呼ばれる題つきの絵で知られる。また、『源氏物語』を最初に中国語に完訳した人物。浙江省崇徳県石門鎮(現在の嘉興市桐郷の石門鎮)で生まれた。1914年に杭州にある浙江省第一師範学校に入学し、中国における西洋絵画・西洋音楽の草分けであった李叔同に音楽と絵画を、夏丏尊に国文を学んだ。1921年に日本に私費留学して西洋美術や音楽を学んだが、資金不足のためわずか10か月で帰国した。しかしこの留学は竹久夢二を知るなど豊子愷に重要な影響をもたらした。

 豊子愷先生がこのように瓜子文化に関心を持つのは、当時進歩的な知識分子の考え方では、瓜子を噛み割ることは中国の貧困、衰弱、野蛮の原因を形作るもので、アヘンを吸ったり痰を吐くのと同罪であった。魯迅はこうした食べ物を嫌っただけでなく、一切の形式のおやつにも反対した。もちろん、西洋や日本の近代医学の影響を受けた魯迅や豊子愷たちは、瓜子が「食べても腹が膨れない(不飽)」から健康に無益だと信じ、否定的な態度を取ったのではなく、心を痛めたのは、瓜子を噛み割ることでの時間の浪費であった。豊子愷先生は1934年4月20日にこう書いている。「時間の浪費を利するのは、……世間の一切の食べ物の中で、いろいろ考えてみると、瓜子だけである。だからわたしは、瓜子を食べることを発明した人は、すごい天才だと思う。そしてできるだけ瓜子を楽しむことができる中国人は、暇つぶしのやり方の上で、本当にすごい、積極的な実行家である。中国人は、「ゲップ、ペッ」、「チッ、チッ」という音の中で無駄に使われた時間は、毎年統計を取ってみると、きっと驚くべき数字になるだろう。将来このままの状態が続くと、ひょっとすると中国全土が「ゲップ、ペッ」、「チッ、チッ」という音の中で消滅してしまうかもしれない。わたしは元々瓜子を見る度に恐ろしく感じていた。ここまで書いて、わたしは今まで以上に恐ろしくなった。」

 確かに、「嗑」と「不飽」は何れも途中経過で、時間の消耗こそが最終である。時間の経過により、中国が最終的に瓜子のために滅ぼされたのではないと証明されて初めて、わたしたちはこれまで以上に、瓜子のため滅ぼされたのは、「チッ、チッ」として過ぎ去った時間だけであり、効率や金銭に置き換えられ、瓜子 を噛み割る音の中で消耗されたのは、時間により特定された品質である、と知るのである。

今年も並べられていました:国慶節祝賀国宴、人民大会堂の巨大な雪桃

2012年10月04日 | 中国グルメ(美食)
 
国慶節祝賀国宴を彩る巨大な桃、麗江“雪桃”
 ※ 今年の国慶節祝宴。政府首脳の前に並べられた“雪桃” 重そうに実った雪桃。 9月30日夜、中華人民共和国建国62周年を祝う国宴が人民大会...
 

  今年も、国慶節前夜、今年は中秋節と国慶節が連続していましたので、9月30日の国慶節前夜の祝賀国宴は、また中秋節の祝宴でもありましたが、人民大会堂に、中国政府主催で、各界の代表や、在北京の外交関係者などが招かれ、祝賀宴会が開催されました。

中央電視台のニュースを見ていますと、今年も、政府首脳の座席の前には、巨大な桃が1つずつ並べられていました。ご覧になった方も多いでしょう。

 昨年の同じ時期に、ブログで書きましたが、これは雲南・世界遺産の麗江郊外の山地で栽培される、雪桃という特別な桃です。通常の桃は、7、8月に熟すもので、この季節にはありませんが、この桃は、大きく育てるため、通常の桃より1カ月以上遅れ、今の季節に出荷されます。作るのに手間がかかるので、たいへん高価なものだそうです。

 さまざまなニュースで、中国の様々な事情が日本でもよく知られるようになりましたが、この国慶節国宴の桃の話は、あまり知られていませんね。またこのようなあまり知られていないことがありましたら、レポートします。


 


沈宏非《食相報告》を読む: 我們愛這条刺(私たちはこの刺を愛す)

2012年01月25日 | 中国グルメ(美食)

 (写真は、鰣魚(ジギョ))

  今回のテーマは魚の刺(とげ)です。“刺”(刺す)というと、「刺客」が連想されます。司馬遷の史記の《刺客列伝》で、燕の領土の地図の巻物の中に匕首を潜ませ、秦の始皇帝の暗殺を謀ったのは、荊軻ですが、“刺”にはむしろ、魚の腹の中に匕首を潜ませ、みごと呉王・僚を殺した専諸の方が合っているような気がします。
  さて、刺についていうと、中国人は刺が多く、食べにくい魚を好みます。特に、江南で取れる鰣魚(ジギョ)や刀魚(エツ)がそうです。そして、こうした魚の味わいに、刺が大きく影響しているようなのです。それゆえ、我們愛這条“刺”。

■[1]
 ( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます)


・援引 yuan2yin3 引用する
・蜂准 feng1zhun3 鼻が高い。“蜂”は“隆”、“准”は“鼻”のこと。
・摯鳥鷹 zhi4niao3ying1 鳩胸。胸郭が彎曲して、前へ張り出していること。
・豺声 chai2sheng1 ヤマイヌのように恐ろしい声。
・聞風喪胆 wen2feng1 sang4dan3 [成語]うわさを聞いただけで、肝をつぶす。
・心惊肉跳 xin1jing1 rou4tiao4 [成語]大きな災難が降りかかりはせぬかと、戦々恐々、びくびくすること。
・下意識 xia4yi4shi2 無意識に
・魚茸 yu2rong2 魚から皮や骨を取り去り、魚肉を叩いてつぶしたもの。これを丸めて、魚のすり身団子を作る。
・剔除 ti1chu2 悪いものを、取り除く。
・豹胎 bao4tai1 ヒョウ、或いは山猫の子。“龍肝豹胎”という成語があり、これは「得難いたいへん貴重な食品」の喩えだが、始皇帝の時代、本当にヒョウを食べたのだろうか?

・擠 ji3 絞り出す。押し出す。
・如假包換 ru2jia3 bao1huan4 「もし偽物だったら、交換します」という商人たちの客を呼び込む時の決まり文句。
・老粗 lao3cu1 無学で無骨な人間。礼儀作法をわきまえていない人間。
・雅人 ya3ren2 風流を旨とする文人。
・鯁 geng3 魚の骨が喉に刺さること。
・火冒三丈 huo3mao4 san1zhang4 烈火の如く怒るさま。

  ここに、「秦の始皇帝暗殺」の別バージョンがある:

  秦の始皇帝は魚を食べるのが好きだったが、またしばしば魚の刺(とげ)に悩まされていた。凡そ魚を食べて「刺」に当たると、必ずその魚を調理した人は殺された。(司馬遷は尉繚がこう言ったのを引用している:「秦王は人となり、鼻が高く、眼は切れ長で、鳩胸で、ヤマイヌのような恐ろしい声で、思いやりが少なく、残忍であった。」ここで言う「豺声」というのは、現代医学の推測によれば、おそらく気管支炎の一種の呼吸系統の疾患を患ったことによるもので、ひょっとすると、魚の刺が刺さったことによるのかもしれない。)だから、宮中のコックはこれにより皆、うわさを聞いただけで肝をつぶした。ある日、任という名のコックが魚の調理の当番になり、戦々恐々として、無意識の内に包丁の背でまな板の上の魚を叩いていた。食事の開始を告げる声の中、知らず知らずのうちに、魚の筒切りは叩いてすり身になっていて、魚の刺は奇跡的に取り除かれていた。任師傅はそこで、魚のすり身を一つ一つ丸め、ヒョウの子のスープに落とし入れ、スープが煮立つと、魚の団子は出来上がった。始皇帝は食べてたいへん喜び、その場で「皇室風天の果て鳳の珠の浮いたスープ」と命名した。

  嬴政(始皇帝の本名)は「暴君」であっただけでなく、また「偽物だったら交換する」と言うような礼儀を知らぬ男で、もちろん魚の刺の奥深くて微妙なところは分かりようがなかった。実際のところ、私は、彼は更に魚の刺を彼の政治的な反対勢力の一つと見做していた可能性があると推察している。それでは、知識分子は魚の刺をどのように扱っていたのだろうか。

  知識分子、つまり雅人(みやびびと)だが、雅人も人間である。喉に一度魚の刺が刺さると、雅人の苦しみもしばしば一般の粗野な人間以上であった。違いはその表現方法だけである。粗野な人に刺が刺さると、必ず烈火の如く怒り、怒りが収まらない。粗野で且つ権力のある者は、嬴政のように最も暴力的なやり方で、怒りをコックにぶつけるだろう。雅人に刺が刺さると、怒ることは怒るが、この怒りは穏やかな怒りで、しかもはっきり燃え上がりはしない。このような火は、金聖嘆の言葉で言うと、「恨」と呼ばれる。金聖嘆がまとめた「人生三恨」は、「一に鰣魚に刺が多いのを恨み、二に海棠に香りが無いのを恨み、三に紅楼夢が完結しないのを恨む」である。

■[2]
 

・縝密 zhen3mi4 周密である。考えが細かい。
・多慮 duo1lv3 よけいな心配をする。
・匪夷所思 fei3yi2 suo3si1 [成語]言行が常軌を逸していて、一般の人には思いもよらない。
・労什子 lao2shi2zi くだらないもの。いやなもの。

   「恨」というのは一種複雑な感情で、少なくとも「怒」よりはずっと複雑である。そして、少し女性的な色彩がある。もし「怒」の反対が「喜」であるなら、「恨」に対するのは「愛」である。「喜」と「愛」の違いは、少なくとも「魚の刺」と「フカヒレ」の違い以下ではない。こう言うと、魚の刺への「恨」は完全に魚肉への愛に基づいていて、愛は深く、恨みは痛切である。事実、世の中の凡そ美味しいものは――正確に言うと、凡そ中国人が美味しいと思っている魚は、ほとんど皆、刺が多い。道理はたいへん簡単で、刺の多い魚は、肉質が必ず特別にきめ細かく柔らかで、ちょうど心配性の人の考えることが、しばしば常軌を逸して異常に細かいのと同じである。

  「魚の刺」の問題について、外国人の考え方はちょうど正反対で、彼らは始皇帝よりもっと魚の刺を嫌う(「嫌う」というより、「怖がる」と言った方がよい)。彼らは皆、こう信じている:刺の少ない、或いは刺の無い魚こそが、本当に美味しく、下品な趣味を離れ、人民に有益な魚である、と。

  こうした観念は、万事に実際の効果を重んじるアメリカ人あたりには、とことんまで発揚されている。「魚に刺はあるかい?」十歳以下のアメリカ人の子供に聞いてみるとよい。返って来る回答は必ず「No」である。なぜかというと、マクドナルドで食べられるフィッシュ・バーガーは100%刺無しであるだけでなく、魚の刺というくだらないものは、とっくに、マクドナルドに材料を卸す上流産業、すなわちスーパーマーケットの冷凍庫の前で、きれいさっぱり処理されているのである。

  イギリス国内の全てのFish and Chipsの店では、魚の刺が一本でも見つかったら、軽くて料金は全額無料、悪くすると、店主は裁判所に訴えられる。

■[3]


・面拖 mian4tuo1 小麦粉をまぶしつけて、フライの下地にすること。“面拖黄魚”で黄魚のフライのこと。
・鰣魚 shi2yu2 ジギョ。ヒラコノシロ。太平洋に分布し、毎年、端午節の前後に、長江、珠江、銭塘江で産卵する。背部は青黒く、腹部は白い。成魚の体長は50センチ。うろこが大きく、脂肪に富む。古来より珍重され、河豚、鰣魚、刀魚を“長江三鮮”と呼ぶ。

・刀魚 dao1yu2 エツ(斉魚)。カタクチイワシ科の海産の硬骨魚。主に長江下流の鎮江、靖江、江陰、張家港で多く水揚げされる。春先の脂が載ったものが好まれ、清明節を過ぎると、味が落ちると言われる。日本でも、有明海やその周辺の河川に生息。

・生相 sheng1xiang4 “長相”zhang3xiang4のこと。容貌、器量のこと。
・粗 cu1guang3 粗野である。
・箬鰨魚 ruo4ta33yu2 “舌鰨魚”のことで、舌平目。
・靠攏 kao4long3 近寄る。
・幽恬 you1tian2“幽”奥深く上品。“恬”安らか。

  ドイツ西部の小都市、ランゲンフェルドで魚を食べた体験は、上海の美食家、洪丕謨先生に深い印象を残した。

  私たちは明るいガラスのショーケースの氷の器の中に、多くの種類の異なる魚が並べられているのを見た。おそらく名前も知らないが、多少はっきりしているのは、ドイツ人が食べる魚は刺のあるものがたいへん少ないということだ。刺が多いと、彼らはうんざりするか、根本的に食べない。刺が喉に引っかかるのを恐れて……考え方が、中国の一般大衆と正反対である。中国人の物の見方では、美味しい魚はほとんど大多数が骨が多く、刺が多いものである。例えば、鰣魚(ジギョ)、刀魚(エツ)、また例えば、スズキ、フナがそうである。たとえ黄魚に小麦粉を付けてフライにしても、基本的には骨ははずさず、食べる時に自分で吐き出してもらう。

  「もし刀魚(エツ)やフナをテーブルに並べ、外国人に食べてもらおうとしたら、彼らにはどうしようもない(食べられない)。中国と西洋の飲食文化の違いは、人の器量や性格にも影響し、すなわち、西洋人は粗野で、東洋人はきめが細かい。西洋人は率直で、東洋人は回りくどい。」

  私は外国人の魚類の加工工場ではどのように魚の刺を取り除くのか見たことがないが、話を元に戻すと、アメリカ人や欧州人が通常食べる魚は、それ自身に刺が無い――もちろん「魚の骨」はある。あるだけでなく、たいへん大げさにされている。このような刺の少ない、或いは刺の無い魚には、主にタラ、マグロ、カジキ、舌平目、サケなどが含まれ、体の内部構造は実は哺乳動物に近く、それらが「切り身」にされて後、その形も食感も全面的にビーフステーキやポークチョップに似通ってくる。「ひと口噛めば、肉厚の身は白きこと雪の如し、たちまち口中に清々しい香りが広がり、きめ細かく滑らかで、気持が安らぎ、美味しく気持ちがよい。」

■[4]


・従容 cong2rong2 ゆっくりと。落ち着いて。
・炉火純青 lu2huo3 chun2qing1 [成語]学問や技術が最高の域に達する喩え。事をさばくのに、非常に熟練していること。(道教の僧が、仙薬を練る時、炉の中の火が純青色を呈すと、成功と見做したことから)
・没有金剛鑚,不攬磁器活 mei2you3 jin1gang1zuan4 bu4lan3 ci2qi4huo2 俗語。“金剛鑚”と呼ばれる小さな鑚を持っていなければ、割れた陶磁器をかすがいで継ぐ(鋸碗的ju1wan3de)仕事はできないことから、ちゃんとした技能がないと、仕事ができないこと。

・源遠流長 yuan2yuan3 liu2chang2 [成語]源が遠ければ、流れも長くなる。歴史や伝統が長い喩え。
・深得吾心 shen1de2 wu2xin1 ある意見に大賛成すること。
・惆悵 chou2chang4 がっかりして、ふさぎこむさま。
・相提并論 xiang1ti2 bing4lun4 [成語]同列に論じる。同一視する。

  喉に一旦刺が刺さると、その後の結果は大小様々だが、大多数の中国人は魚の刺を落ち着いて口の中に入れることができ、且つ未だ嘗て目の中には入れたことがない。

  一方では、これは固より私たちの刺の多い魚への偏愛より出たものであり、もう一方では、先祖代々何千何百年に亘って蓄積されてきた刺を捜す技が、既に「遺伝子化」されて私たちの先天的な技能となっているのだろう。一人一人が長年休まず訓練をしてきた結果、思いがけず最高の腕前となったのだろう。たいへんなことだ。ちゃんとした技能がないと、仕事ができない。正に、「技能が高いと、大胆になる」である。

  中国人の魚を食べてきた歴史はたいへん古く、後漢時代に誕生した《説文解字》の中で取り上げられている魚は、既に70種類に及ぶ。中国人がなぜナイフ、フォークでなく、箸を使って食事をしたかについては、歴史学者は各種各様の推測をしている。その中で、私が大いに支持しているのは、「魚を食べるのに、刺を捜すため」説で、すなわち箸の出現は魚を食べることと大いに関係があり、なぜなら箸はナイフ、フォークと比べてきめ細かな魚肉を食べるのが容易で、同時にきめ細かな魚肉の中からもっと細かな魚の刺を選び出すのに都合が良いからである。

  私たち中国人、とりわけ南方の中国人から見ると、外国人が好むタラ、マグロ、カジキ、及び舌平目、或いはサケの類は皆「粗野な魚」に属する。刺が無い、或いは刺が少ないことが、「粗野」の大きな原因である。ちょうど、私たちがよく言う「粗野な人(武骨者)」というのは、頭の中にしばしば他の人より筋が一本少ないのと同じである。魚に刺が無い、けれども口に入れた時のあの期待外れの気持ち、泣きたいような気持ちは、考えてみると、年中香りが漂う海棠、及び《紅楼夢》の(80回本の続編である)後40回本だけが同列に論じることができるものである。

  もちろん、アメリカ人の、魚の刺の問題での「恨みが起こりっこない」やり方は、実は自ずと様々な明らかなメリットが存在する。他のことは言わぬが、魚の刺の上での不幸な事件、及び納税者がこのために支払う医療費は、大幅に減少する。けれども、これはまたちょうどアメリカに行って、チャイナタウンで飯を食おうと計画している中国人が注意しないといけない重要事項の一つである:彼の国の咽喉科の医師は通常、「魚の刺の傷」を処理する基本能力を備えていない、ということを。

■[5]


・榜首 bang3shou3 掲示板に公示された、リストの最上位のこと。
・吮 shun3 吸う。吸い取る。
・蘊藉 yun4jie4 言葉や文字、表情に、含みがある。含蓄がある。
・歴歴 li4li4 ありありと。一つ一つはっきりと。
・青衫 qing1shan1 書生
・貽 yi2 物を贈る。
・無福消受 wu2fu2 xiao1shou4 享受するだけの冥加もない。もったいない。
・招惹 zhao1re 相手にする。関わり合う。
・自縛之繭 zi4fu4 zhi1 jian3 =作繭自縛:カイコがまゆを作って、自分をその中に閉じ込める。自縄自縛。

   刺が多くて美味しい魚、例えば江南の鰣魚、エツ、フナ、また例えば珠江デルタのヒラウオなどがそうである。けれども、その中で刺が最も多くて、最も味が良いのは、鰣魚とエツを並んで第一とする。

  鰣魚の美味しさは鱗にあるだけでなく、ずっと骨の中に到るまで美味しい。つまり、鰣魚の刺一本一本に到るまで、注意して吸い取る値打ちがある。この意味の上で、鰣魚ファン達の心理は、その刺が多いのを恨むというより、むしろ、その刺が少ないことを恨む、とした方がよい。金聖嘆が「鰣魚に刺が多い」ことを「人生の三つの恨み」の第一に挙げたことは、この「恨」の一文字の下に含まれる情感がどれほど錯綜して複雑かということである。

  野史の記載によれば、民国初期の北京・前門の八大胡同の名妓、謝蝶仙は、《茶花女遺事》によって、久しくそれを著した林紓(林琴南)を慕っていたが、彼とのつてが無いのに苦しみ、「食べ物」を贈るという簡便な方法を採ることにした。先ず、人に託して4つの特大の干し柿を贈り、干し柿一個一個を「自ら」ひと口ずつ齧り、いわゆる「噛み後がはっきりと残り、猶口紅の香りを帯びる」ようにした。ところが思いがけず、彼の林先生は気持ちを理解してくれず、「芸者はもとより色恋事が多いだろうが、私は如何せん書生の分際で、はかない運命だ。折角の美人からの贈り物ではあるが、それを受けるだけの収入も無い」との返事、4つの干し柿も、そのまま送り返された。八大胡同の側でも、それだけではへこたれず、紅葉が赤く色づき、菊の黄色い花の咲く時分、恋い焦がれた蝶仙は再び、特に人に託して林紓に鰣魚を贈った。今度は、林先生も真面目に対応せざるを得なかった。彼は家中の酒を並べて飲みながら丸々一晩、あれこれ思い悩み、明け方の鶏が時を告げ時分に、遂に結論を出した:「鰣魚は刺が多く、関わり合い難い。一筋の男女の情の糸も自縄自縛になるかもしれない。花柳界の中ではきっぷの良い女も多いのだろうが、良婦になるのは容易いことではない。」そして詩を一首書いて、謝蝶仙に贈った:「平素の罪悪を子孫に留めないため、あなたとの情愛の根を育もうとは思わない。甘言は早々に除くのが名士の習いである。寧ろ美人の恩に背こうと思う。」

■[6]


・酒醸 jiu3niang2 甘酒。粥に麹を加えて発酵させたもので、江南地方で調味料に用いる。
・清醤 qing1jiang4 醤油。たまりでなく、上澄みの部分。
・快刀 kuai4dao1 鋭利でよく切れる包丁
・駝背 tuo2bei4 せむし。猫背。
・鈣 gai4 カルシウム

  鰣魚に比べると、刀魚(エツ)の身の上の刺は、細かく密集している。これらの刺がどこから来るのかは、本当に理解できない。もし諸葛孔明が(赤壁の戦いで)曹操から借りたのが弓矢ではなく魚の刺であったら、エツはすなわち草船である。だから袁枚も《随園食単》の中で、仕方なく、特別に「エツの刺除く方法」を説明している。エツは蜂蜜、甘酒、醤油を加えて鉢の中に入れ、鰣魚と同じやり方で蒸すのが最も良い。水を加える必要はない。刺が多いのが厭なら、よく切れる包丁で身をこそげ取り、鉗子で刺を引き抜く。中華ハムのスープ、チキンスープ、竹の子のスープでこれをとろ火で煮込むと、その旨さは類を見ない。金陵(南京)の人は、その刺の多いのを恐れて、これを油でからからになるまで揚げ、それから少量の油で炒める。ことわざに、「猫背の人の背中を無理にはさみつけて伸ばすと、その人は死んでしまう」と言うが、正にこのことである。或いは、よく切れる包丁で魚の背を斜めに切り、骨を砕き、それから鍋に入れてキツネ色になるまで炒め、調味料を加える。食べる時には骨があると気が付かない。「蕪湖の陶大人の家のやり方である。」実は、エツの刺は、清明節前にはまだ硬くなく、或いは骨が脆い(カルシウム不足のせいかどうか知らないが)ので、蒸した後、「熱くなった刺」は綿のように柔らかくなり、遂には魚肉と一体になり、噛み砕いても気にならない。


 (刀魚 エツ)

■[7]


・令人発指 ling4ren2 fa4zhi3 激怒させる。
・取締 qudi4 命令で禁止する。
・宗 zong1 [量詞]ひとまとまりの事物を数える。
・案情 an4qing2 事件のいきさつ。
・声嘶 sheng1si1 声のかすれ。
・霧化吸入 wu4hua4 xi1ru4 高速の酸素気流を利用し、薬液を煙霧化し、呼吸器官から吸入する治療法。
・搶救 qiang1jiu4 応急手当をする。
・九牛二虎之力 jiu3niu2 er4hu3 zhi1 li4 [成語]たいへんな努力の喩え。力の限りを尽くす。
・蠢 chun2 うごめく。・僥倖 jiao3xing4 思いがけず、幸いに。
・混淆 hun4xiao2 混同する。

  広東語と上海語の発音で、「魚刺」(yu2ci4 魚の刺)と「魚翅」(yu2chi4 フカヒレ)は大変よく似ている。おそらくこの二つのものの間の違いが、実に人を激怒させるほど大きいので、きっぱりと「魚刺」という言葉を使うのを禁じ、広東語では「魚骨」でこれに代え、上海人はただ「魚骨頭」という習慣的な言い方があるだけだ。

  「魚刺」と「魚骨」は、何れも魚の体にできるものであるが、「魚刺」と「魚骨頭」では、少なくとも生物学と飲食の上で、若干違いがある。「魚刺」、魚の刺は特に魚肉の中の繊維、そして鋭利な短い刺を指し、またその色が半透明、或いは煮えた魚肉の色に似ており、しばしば魚を食べる者が気付かないので、一旦「刺に遭遇すると」、後の結果は大きな問題になる場合も、そうでない場合もある。

  2001年、南京市秦淮区の裁判所で「魚の刺賠償事件」の審理が行われた。事件のいきさつは、こういうものだ:南京の某新聞の張という名の記者が、魚の刺が喉に引っかかり、南京市第一医院で診療を受け、二日後に同じ病院でもう一度診療が行われた。けれども、その後、張の病状は良くならないばかりか、却って益々重くなった。原告が再度同じ病院で診療を受けた際、医師の診断は、「食道損傷、食道炎。食道の内視鏡手術後、胸骨部の痛み10日、喉の痛み、声のかすれ2日。」というものだった。翌日、張は当該病院に入院、治療した。二日後、張が煙霧吸入治療を受けていると、突然鮮血を吐いて倒れ、応急手当をするも効果無く、2000年11月26日に死亡した。張の家族は先ず医療事故鑑定委員会に事故鑑定の申請をし、次いで第一医院を法廷に告訴し、病院に54万元余りの損害賠償を求めた。

  広東語と上海語のいわゆる「魚骨」は、実は魚の全身を貫く背骨のことを指す。大げさに言うと、《老人と海》で老漁師、サンチャゴが力の限りを尽くして、メキシコ湾流から岸辺に引き上げた、あの長さ18インチに達する魚の骨は、広東人に「魚の骨の形のアンテナ」と呼ばれているものの原型である。もし、このようなとてつもなく大きい「刺客」によって喉を刺された人がいて、もしたいへん好運にも生きて助け出されたとしても、彼はおそらく、この凶悪で危険な世界で、かりそめに生きていく、どんな体面も持たないだろう。

  つまり、「魚刺」と「魚翅」と同様、「魚骨」と「魚刺」の間の違いも、混同することは許されない。魚が人間と同じように刺を生やすことができるかどうかは、別の問題である。


【出典】沈宏非《食相報告》四川人民出版社2003年4月

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沈宏非《食相報告》を読む: 粥飯和(粥と飯のハーモニー)

2012年01月20日 | 中国グルメ(美食)

  (写真は、燕窩氷糖粥)

  今回は、粥と飯の話です。冒頭、毛沢東の言う、農村での粥と飯の区分は、ある意味合理的で、生活の智慧と言えるでしょう。けれども、沈宏非の話はそこから飛躍し、粥は貧しさの象徴か?いや、金持ちが健康のために食う贅沢粥もあるぞ、というような話になっていきます。それにしても、粥と飯と言いながら、その実、粥に対する思い入れが強いことが分かります。そして、最後は残った飯を利用した湯漬け、あるいは茶漬け。いささか冗長な感がありますが、最後までお付き合いいただければ幸いです。

■[1]
 ( ↓ クリックしていただくと、中国語原文が表示されます)


・干飯 gan1fan4 粥に対する言葉で、ご飯。
・実成 shi2cheng2 熟成する。完全な程度に達する。練れている。
・出入 chu1ru4 不一致。食い違い。
・煩囂 fan2xiao1 騒がしい。うるさい。
・偏偏 pian1pian1 折悪しく

  トップ指示―― 偉大な指導者、毛主席は私たちを教え導き、こう言われた:「閑な時は粥を食え、忙しい時は飯を食え。閑か忙しいかで、粥か飯か決めなさい。」

  毛主席のこの話は、古い中国の民間の智慧である。“吃稀”とは、お粥を食べることを指し、“吃干”とは、炊いたご飯を食べることである。「閑な時」、「忙しい時」については、ちょっと説明が必要だ。「閑な時は粥を食い、忙しい時は飯を食う」というのは、もともと中国の農村で出た言葉(農家にはまた、もうひとつ似た言い方があり、「忙しい時は飯を食い、閑な時は粥を食い、畑に行く時は飯を食い、家に居る時は粥を食う」と言う)で、伝統的な農業生産で言うと、「閑な時」とは農閑期で、「忙しい時」とは農繁期である。農繁期には、よく「熟成した」飯で、消耗した体力を補ってやらねばならず、農閑期には、粥を食べる機会を増やして、食糧を節約するのである。

  毛主席の言う「忙、閑」は、経済が困難であった時期の、農村の食生活への指導であり、総じて言うと、都会の人の「朝9時から夕5時まで」式の「忙と閑」との間には、大きな違いがある。

  都会の「忙と閑」は、時には農村と逆のことがある。例えば、天高く馬肥える秋、あなたの夏の販売ノルマがちょうど達成でき、また社長もちょうど不在で、奥さんと都会の喧騒から離れようと、秋の旅行に行くことにし、家の留守番は、家政婦にさせようと思った。ところが、思いがけず、あなたの家の家政婦も折悪しくこの時に休暇を願い出た――あなたも家政婦も目的地は農村で、田畑で熟れている麦の穂が共同の目標である。違いは:あなたは休養のためで、家政婦は(実家の)農業の収穫のためである。

■[2]


・流質 liu2zhi4 流動食。流動性の(食べ物)
・越俎代庖 yue4zu3 dai4pao2 [成語]料理人を差し置いて、他の人が料理を作る。出しゃばること。越権行為の喩え。
・工整 gong1zheng3 きちんと整っている。
・舂 chun1 石臼などで、つく。つき砕く。
・揄 yu2 引っ張る。引き上げる。
・簸 bo3 箕で穀物をふるう。ふるってごみなどを取り除く。
・釈 shi4 水に漬けること。
・叟叟 sou1sou1 米など、穀物を水で研ぐ音。
・浮浮 fu2fu2 ぐつぐつと煮える音。

  実は、都会の人はよく「忙しい時は粥を食う」と言う。朝早く、遅れないよう出勤する人にとって、半ば流動食のようになっている中国式のお粥や洋式のコーンフレークは、作る手間が省けるだけでなく、吸収の良さが優れている。

  本当に李漁が言っているように、「飯と粥の二物は、日常生活に必要なもので、その外観は知らぬ者はいないのに、どうして料理人でもない者がでしゃばって勝手なことを言うのか。」けれども、一旦、私たちが閑か忙しいかで飯にするか粥にするか決めたら、生活と米の飯の二つの異なる状態の中に、一つの新たなモデルを構築するので、それによってこのモデルの中で、米の飯に対し、別の種類の体験をもたらすかもしれない。例えば、「閑か忙しいかで、粥か飯か決める」というのは、ロジックや文の構造としてはきちんと整っているが、都会の人には理解しづらい。言い換えると、何に対し「粥か飯か」どちらを食べるか判断するには、ある程度、何時から何時までであれば、その日が「閑か、忙しいか」と見做すことができるかを決めてやる必要がある。

  “稀”であれ、“干”であれ、粥も飯も穀物の二種の異なる調理方式である。

  公輸般(魯般)が石臼を発明する以前、中国人は完全に粒食の民族であった。たとえ麦でも、それを煮炊きして、麦飯や麦粥にして食べざるを得なかった。その様子は、ちょうど《詩経・生民》で言っているように、「これを臼で撞いて引き上げ、これを箕でふるって手で揉み、これを水に漬けて研ぎ、これをぐつぐつと蒸す」という風であった。

■[3]


・糾葛 jiu1ge2 もつれ。ごたごた。いざこざ。
・口腹之欲 kou3fu4 zhi1 yu4 飲み食いに対する欲。
・分而治之 fen1 er2 zhi4zhi1 分割して支配する。分割統治する。
・灌水文章 guan4shui3 wen2zhang1 読む値打ちの無い文章。
・泡澡 pao4zao4 風呂に入る。

  粉食は大いに中国の主食の形態、料理と口当たりを豊かにしただけでなく、ある程度、南方人と北方人の違いの一つの判断基準になったようである。林語堂先生はこう言ったことがある:「ご覧なさい、歴代、都を建てた帝王は皆長江以北出身で、南方出身は一人もいない。だから、中国にはこういう言葉がある:小麦を食べる者は皇帝になることができ、米を食べる者は皇帝になれないと。曾国藩は不幸にも長江以南に生まれ、また湖南は米を産する地域で、米を食べ過ぎた。そうでなければ、彼はとっくに皇帝になっていただろう。」

   帝政が廃されて以来、南人と北人の粒食と粉食の上の違いは次第に縮小し、不明確になってきた。けれども、粒食陣営の内部では、このような差異は引き続いて存在している。ただ、皇帝になれるかどうかが、貧乏人と金持ちの間のいざこざに変わっただけである。

  炊いた飯、或いは調理した飯は、その始まりから富貴の象徴であった。“周八珍”の序列の一位と二位が、それぞれ“珍淳熬”、“珍淳毋”。すなわち米の飯と黍飯であった。それと同時に、粥が貧乏人の主食と見做された、道理は明らかに次のことにある:一斤(500グラム)の米を炊くと、二、三人の腹を満足させ、体力を回復することができる。もし同じ分量の米で粥を作ると、しばしば四五人を満足させることができるか、たとえ気持ちの上では不満が残っても、なんとか空腹感は満たすことができる。

  もちろん、貧しい人も炊いた飯を食べる時がある。もし、「閑」が貧乏人の絶対的に貧しい状態とするなら、「忙」は貧乏人が絶対的に貧しい情況の下の、相対的に豊かな時期である。

  貧しい人について言えば、粥の役割は、飲み食いに対する欲求を分割統治することにあり、電子掲示板の中の読むに値しない文章に相当する。完全に湯や水の干渉を排除し、ドライ・スチームの形で出現した飯とは異なる。だから私は、人民は決してサウナが必要ないのではなく、ただバスタブの中にしばし屈んでいるに過ぎないと信じている。

■[4]


・成敗 cheng2bai4 成功と失敗。
・淋漓尽致 lin2li2 jin4zhi4 [成語]文章や話が、詳しく徹底しているさま。余すところがない。

  一人の広州人として、ある種の現実主義的な姿勢を示さないといけない。或いはこう言うかもしれない:「粥があれば粥を食うし、飯があれば飯を食う。」しかし、この人物が断固とした行動に出る前に、或いは、こう言って自分を励ますだろう:「粥を食べるか、飯を食べるか、事の成敗はこの一挙にあり」と。

  明らかに、粥は貧しい人の主食であるだけでなく、失敗の象徴である。もっと言うなら、長い間粥を食べ続けるのは、国家の弱体化と民族の不幸の原因の一つになるかもしれない。この意味では、王蒙が小説《硬い粥》の中で登場する家族の子供の口を借りて、余すところなく、そのことを語っている。

■[5]


・戕 qiang1 傷つける。損なう。
・式微 shi4wei1 国家や名門の家柄が衰えること。
・兆征 zhao4zheng1 兆し。兆候。
・休克 xiu1ke4 ショックを起こす。
・白脱 bai2tuo1 バター
・団 tuan2 連隊
・師 shi1 師団
・及早 ji2zao3 早めに。

  「朝、マントウと粥と漬けものを食う……ああ神よ!これがどうして1980年代の中華の大都市の「中の上」の収入を得ている現代人の楽しみであろうか。ああ恐ろしい!なんて愚かなんだ!お粥と漬けもの自体、アジアの病人の象徴じゃあないか!慢性的なサディストじゃあないか!無知!炎帝、黄帝の子孫の恥さらし!中華文明の没落の根源!黄河文明の衰退の兆候!もし私たちがこれまでお粥や漬けものを食べるのでなく、バターとパンを食べていたら、1840年のアヘン戦争で、イギリスは勝利できただろうか。1900年の八カ国連合軍で、西太后は承徳にまで逃げていただろうか。1931年に日本の関東軍は918事変(柳条湖事変)を発動する勇気があっただろうか。1937年に日本軍どもは芦溝橋事変を発動する勇気があっただろうか。日本軍が攻めて来ても、ひと目、中国人が皆バターを食べているのを見たら、やつらは、連隊全部でなくても、師団単位でショックを受けたのではないか。もし1949年以降、私たちの指導者は早めにお粥と漬けものを消滅させることを決意し、全国が皆、バターとパンを食べる他に、ハム、ソーセージ、卵、ヨーグルト、チーズを加え、ジャム、蜂蜜、チョコレートを加えていたら、我が国の国力、科学技術、芸術、体育、住宅、教育、自家用車の平均保有台数は、とっくに世界のトップクラスに到達していたのではないか。つまるところ、粥と漬けものは私たち民族の不幸の根源であり、私たちの社会が安定性を欠く発展をし、進歩がない根源ではないか。徹底的に粥と漬けものを消滅させろ!粥と漬けものが消滅しないと、中国には希望がない!」

■[6]


・多此一挙 duo1ci3 yi1ju3 [成語]余計な世話をする。いらぬことをする。
・与否 yu3fou3 ……かどうか。
・吊詭 diao4gui3 パラドックス。矛盾。
・渾身 hun2shen1 全身。体中。
・充沛 chong1pei4 満ち溢れている。みなぎっている。

  初めて《硬い粥》を読んだのは、十年前のことである。ここで、私はこれにどうでもよい脚注を一つ加えたいと思う:粥は古くは糜と称し、たいへん薄いものだけが粥と呼ばれた。だから“稀粥”(つまり薄いお粥)の二文字は純粋に(一文字が)余計だが、硬いかどうかは、別に議論すべきである。

  貧しい人が粥を食べるのは、生きるためであり、金持ちが粥を食べるのは、健康のためである。このことは正に粥のパラドックスである。

  漢方医は、こう信じている:粥を食べることは養生になる。したがって、四季折々の気候の変化に合わせて作った「富貴粥」の数々は、専ら養生の用途に供せられる。寒い冬の朝にサツマイモ粥、ナツメ粥、犬肉粥、鶏肉粥を食べると、食べた後、体中が暖かくなり、精力が満ち溢れる。盛夏の夕方、緑豆粥、蓮の身粥、山楂子粥、レンコン粥を食べると、さわやかで気持ちが良く、養分を補充する功能がある。この他、年老いて体が弱った者が食べるものとして、蜂蜜粥、百合粥、枸杞粥、などがある。

■[7]


・腴 yu2 太っている。肥えている。
・困居 kun4ju1 制約などがあり、仕方なくその場に留まる。
・撰写 zhuan4xie3 文章を書く。著作する。
・挙家 ju3jia1 一家を挙げて。家全体で。
・賖 she1 掛けで売り買いをする。

  粥は清の宮廷の料理のメニューにも現れ、それはトウモロコシ粥と氷砂糖粥に分類され、前者は乾隆帝が胃の具合を整えるのに使った「雑穀」であり、後者は西太后が美容に使ったものである。

  「富貴粥」の中の最高のものは、間違いなく、ツバメの巣粥に他ならない。《養生随筆》にこう書かれている:「上品の燕窩粥は、粥を煮るに淡く食せ、肺を養い、痰をとかし、咳を止め、滋養を補い、体に滞らず。」《紅楼夢》を開くと、そのホルモン作用の他、空気中にもツバメの巣粥の味わいがあるかのようである。宝釵、宝玉、黛玉、そして秦可卿など、皆ツバメの巣粥の達人である。第45回に、宝玉と黛玉の間でのツバメの巣粥についての対話があり、それを聞いてみると、ちょうど今日の男女のカップルが化粧品の効果について話し合っているかのようである。「穀物を食べると長生きできる。あなたが普段食べているものは、精神や気や血を補い養うことができないから、良くない……。昨日、私はあなたの持っている薬の処方を見ましたが、人参や肉桂が多過ぎるように思います。気を益し精神を補うと言っても、あまり激しすぎるものはよくありません。私に言わしてもらえば、先ず肝臓を平らげ、胃を健やかにするのが肝要で、(陰陽五行でいう)肝の火が平らげられると、土に克つことができないので、胃の気から病がなくなり、飲食をちゃんとすれば、体を養生することができる。毎日、朝起きたら上等のツバメの巣が一両と氷砂糖を五銭取って、銀の薬缶でじっくり煮出して粥を作りなさい。食べ慣れると、薬よりも効き目があり、最も陰を増し、気を補います。」

  若い人たちに比べると、賈のご隠居様はより粥がお好きだったようだが、決してあのばあさんの「少しばかりお粥があるだけよ」という言葉に騙されてはいけない。次のことを知っておかないといけない:賈のご隠居が第62回の中で、「茶碗に半分食べただけ」というお粥は、実は手を抜いたものではなく、その粥は、「御田の胭脂米」を煮て作ったもので、清代の劉廷璣の《石頭記》によれば、胭脂米とは、康煕帝が豊澤園の宮廷の御田に播いた稲の中の優良品種で、内膳、すなわち皇族方の食事に用いられたものである。米の色はかすかに赤みがかり、粒は長く、良い香りがし、味は豊かであった。曹家が当時金持ちであったとしても、曹雪芹がやむを得ず黄叶村で暮らし、《石頭記》を著作している時には、生活は「一家を挙げてお粥を食い、酒はいつも付け買い」という清貧の毎日であった。

■[8]


・泡飯 pao4fan4 ご飯に湯や汁をかけたもの。茶漬け。
・屋檐 wu1yan2 家の軒。
・話柄 hua4bing3 話の種。語り草。
・擺弄 bai3nengbai3nong4 もてあそぶ。翻弄(ほんろう)する。
・情調 qing2diao4 ムード
・別致bie2zhi4 奇抜な。ユニークな。
・顕擺 xian3bai みせびらかす。ひけらかす。
・反差 fan3cha1 コントラスト。
・通連 tong1lian2 続いている。
・捎帯 shao1dai4 ついでに。
・平心而論 ping2xin1 er2lun4 [成語]公平に言うならば。
・寒酸 han2suan1 貧乏くさい。
・黏糊 nian2hu ねばねばする。
・纏綿 chan2mian2 まとわりつく
・堪称 kan1cheng1 ……ということができる。
・大夢初醒 da4meng4 chu1xing3 深い眠りから目覚めたように。間違ったことに長い間ごまかされていたのが、間違いに気付き始めることの喩え。
・柴魚粉 chai2yu2fen3 干した小魚などを粉にした、ふりかけ。
・煦 xu4 暖かい。
・縹緲 piao1miao3 かすかで、はっきりしない様。
・隠約 yin3yue1 かすかなさま。はっきりしないさま。

  随園先生はこう書いている:「水が見えて米が見えぬのは、粥に非ず。米が見えて水が見えぬのも粥に非ず。必ず水と米が融合し、柔らかさと粘りが一体になり、然る後に粥と謂う。」この基準に従うと、水と米が各々我が道を行く茶漬け(湯漬け)は、粥と米飯の間に介在する第三勢力であるかのようである。

  湯漬けは嘗ては上海の軒下での標準的な朝食であった。同時に、上海人のことを外地で人々が話す時の語り草の一つであった。私は嘗て、新聞で女流作家、蒋麗萍の、上海女を嘲笑する文章を読んだことがある:「上海女について言えば、必ず「ムード」に翻弄される。(注:以下のキーワードには、こんな言葉が含まれる:バー、コーヒー、灯(ともしび)の揺らめく酒のグラス、アンティーク家具、パーティー)。けれども、私が見るところ……たとえあなたが奇抜な衣装を選んだところで、それはあなたが今日食べた湯漬けと胡瓜の漬物と同様、ありふれたものだ……さもなければ、いささか流行遅れのもの?何か自慢できるところがあるの?」

  言っているのは、けれども、上海人は朝湯漬けを食べるということで、衡山路のバーとは確かに相当大きなギャップがある。いわゆる上海の湯漬けというのは、朝起きたら、昨晩の食べ残し(或いはわざと余らせた)の米飯をお湯で洗い、飯であって飯のようでなく、粥であって粥でないようなものにしたものだ。時間が無い時は、通常、加熱の手間を省き、お湯の温度を利用し、漬物と油条を付けて、ズルズルとかき込むのである。

  公平に言うと、「昨晩の飯」及び「お湯を注ぐ」ことでもたらされる貧乏くさい感覚が免れ難いことの他は、湯漬けは実は別に不味いものではなく、一晩経った冷飯を一たび、朝一番の薬缶で沸かした湯を掛けて目覚めさせると、お粥のようにねばねばまとわりつくようなことは全くないだけでなく、却って条理がはっきりしていて、深い眠りから目覚めたような感じがする。この他、湯漬けは環境に優しいとも言える。もちろん、このような愉快な体験をしようと思ったら、心の中で飯のことを考えてはだめで、また粥のことを思ってもだめだ、これは粥でなければ、飯でもない。これは湯漬けだ、湯をかけた飯である。

  台湾人も湯漬けを食べるが、彼らが食べるのは、ほとんどが日本式の茶漬けである。基本的な作り方は:白米の飯を一碗、各人が好みで小魚のふりかけ、白ゴマ、海苔の細切り、塩、抹茶、ゴマ、刺身、菊の花などをふりかけたり、梅干しを一粒載せ、卵の黄身、最後に適量の煎茶をかける……この味わい、暖かさ、暖かい中に少しかすかな甘みがあり、またかすかな苦み渋みがあり、できたものは、小津安二郎の映画である。


 (小津安二郎 《お茶漬けの味》)

【出典】沈宏非《食相報告》四川人民出版社2003年4月

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