白塔寺白塔
白塔寺、すなわち妙応寺は、北京阜成門内大街路北に位置し、寺の中に有名な全体が真っ白の巨大なチベット式仏塔があることで有名で、それゆえ俗に白塔寺と呼ばれる。
遼の道宗寿昌2年(1096年)ここに仏舎利塔が建てられた。塔内には、お釈迦様の仏舎利と戒珠(かいしゅ。戒を保つことによって、その身が清らかに飾られることから、戒を珠玉(真珠)にたとえた)が20粒、香泥小塔(素焼きの小塔)2千個、離垢、浄光など陀羅尼(だらに)経5部が納められた。後に、塔は火災で焼失した。元代になり、この一帯の地区は新たに作られた元大都の内城になった。元の世祖フビライは文武両道の頗る政治的な頭脳を持った封建君主で、彼は「儒を以て国を治め、佛を以て心を治める」という国策を採用し、各民族の求心力を強化し、その統治を確固たるものにした。彼はラマ教を国教に定め、且つ都城内に大型のチベット式仏塔を造営し「以て都邑を鎮め」、「王城を壮観に」することを発願した。このため、彼は更に自ら塔の場所を定め、且つチベットで貢金塔を建設したネパールの著名な建築家、アニカ(阿尼哥)に委託し大塔の設計と建設を行った。至元8年(1271年)から着工し、至元16年(1279年)竣工。工期は8年であった。白塔が完成すると、お釈迦様の仏舎利を塔の中に収めた。同年、フビライがまた塔を中心に、四方へ向けて弓矢を射て届いた地点までを寺域に区画するよう命じ、塔を中心に寺を建立した。建築規模は広大、華麗で、「まるで内廷(宮廷内で皇帝が私生活を営む所)のような作り」の寺院であり、占有地は約16万平米、「大聖寿万安寺」の名を賜った。寺は至元25年(1288年)に完成し、その後ここは元代の皇室の仏事活動の中心となり、朝廷の百官が儀礼を演習する場所であり、中国で最初にモンゴル語の仏典を翻訳、印刷した場所であった。万安寺は元の大都の宗教、政治、文化史上、均しく重要な地位にあった。
寺内の白塔全体の高さは50.9メートル、塔の台座、塔身、相輪、華蓋、塔刹(とうさつ。塔の一番てっぺんの刹頂)から成る。レンガを積み上げ、中に空洞が無い構造で、外部は白く塗られ、端っこは方形、円形、円錐体など、いくつもの幾何学形状で構成されている。塔の形状は優美で調和がとれ、造形は穏やかだが雄壮で、統一された中で変化に富み、中国で現存する中で年代が最も古く、規模が最大のチベット式のラマ教の鉢を伏せた形状の仏塔である。
白塔の構造
塔の台座の高さは9メートル、面積は810平方メートルで、三層に分かれている。下層は方形の保護壁で、中層は折れ曲がった須弥座である。平面は「亜」字の形で、四隅は次第に収束してふたつに折れ、上層には鉄の灯籠が置かれている。その上は装飾性に富む過渡的な構造となっていて、一周が華麗なレリーフの覆蓮座、塔身を支える五本の輪っかである金剛圏があり、塔の下の方形で折れ曲がった基壇を、穏やかで自然に円形の塔身につなげている。
塔身は直径18.4メートルの巨大な伏せ鉢で、上方には七本の鉄のたがが嵌っていて、塔身を十分に堅固にしている。塔身の上には折れ曲がった須弥座が加えられ、これにより塔身と上層の13層の相輪(十三天とも言った)を接続し、相輪の外形は円錐形を呈し、下から上へ各層が収斂してゆき、急峻な形をしていた。頂端で直径9.9メートル、上を40枚の放射状に銅板の瓦で覆った円形の華蓋を支え、周辺には高さ1.8メートル、梵語の文字を浮き彫りにした瓔珞(ようらく。玉の首飾り)と流蘇(りゅうそ。房状の装飾)36片と銅製の風鐸(ふうたく)36個が吊り下げられた。華蓋の上は高さ5メートル、重さ4トンの銅製金メッキの覆鉢型の小塔の形をした 塔刹であった。小塔の頂上にはまた精美な相輪が鋳込まれていて、まるで大きな真珠が青空の中で金色の光を発しているかのようであった。
元末の至正28年(1368年)、寺内の堂宇は全て特大の雷火で焼失し、ただ白塔だけが幸い難を免れた。この後寺院は90年近く荒れ果てていたが、明代の天順元年(1457年)になり、宛平県民の郭福清が皇帝の勅命を奉じて修復、寺の名を「妙応寺」に改め今日に至る。寺院は北側に坐し南に面し、四重の堂宇と塔院で構成されていた。土地の占有面積は1.3万平方メートルあったが、それでもなお元の万安寺の10分の1にも及ばなかった。主要な建物は山門、天王殿、意珠心境殿、七佛宝殿、具六神通殿、白塔で、東西両側に配殿(正殿の両脇の殿宇)があり、山門と天王殿の間に対称に鼓楼と鐘楼が建てられていた。
白塔寺伽藍図
明代の成化元年(1465年)に塔の台座の周囲に鉄製の灯籠108基が追加で建設され、以後明清両時代に何度も補修され、その伽藍は基本的に今日まで保たれている。1978年夏、北京市の文物部門が白塔に対し修理をしていた期間に、塔の頂上で清の乾隆18年(1753年)に塔の修復が完了後に供えられたいくつかの「塔を鎮める」仏教文物(文化財)が発見された。その中で、724帙(ちつ)の龍蔵新版『大蔵経』、乾隆手書きの『般若心経』、チベット文の『尊勝咒』、銅製の三世仏像、十粒の舎利子が最も貴重なものであった。
清の中期以後、妙応寺は北京のチベット仏教寺院の中でもはや重要な地位から外れ、昔の赫々(かくかく)とした隆盛はもはや再現されることがなかった。寺内の僧たちは生計を維持するため、大部分の寺の資産を貸出し、妙応寺は次第に北京城内の定期廟会(定期的に開かれる寺社の縁日)の会場のひとつになり、北京で名の知られた白塔寺廟会になった。毎年祝日になると、寺内の両側は商品を満載した店舗や屋台で溢れ、寺の敷地内に芝居のテントが掛けられ、各種の民間の衣類や道具、季節の食べ物、北京の特色ある軽食、娯楽や技芸など、何でも揃い、多くの人々が集まり、その賑やかさは並外れていた。
廟会で日用雑貨を売る屋台のテント
写真は日用雑貨の屋台の一角で、腰かけ、拔火罐儿bá huǒ guànr(こんろに火を起こす時に使う先が細くなった短い煙突)、やかんなどが積み重ねて置かれている。向こうに多くの参拝の女性や子供がいる。大木の下の屋台には布やアンペラ(葦で編んだ蓆(むしろ))のテントが吊るされ、日差しや雨を遮っている。こうした廟会の光景は、昔は至る所で見られた。
昔の北京の廟会は、会期から区分すると、毎年決まった時期に開かれる廟会と毎月定期的に開かれる廟会の二種類があった。白塔寺廟会は毎月定期的に開かれる廟会であった。最初、廟会の時期は陰暦の毎月5と6の付く日に開かれていたが、1922年にこれが陽歴の毎月5と6の付く日に開かれるよう改められた。1949年以後、市民や廟会の屋台の主人の必要から、白塔寺の廟会はもう二日増やされ、陽歴で毎月3、4、5、6の付く日に連続して開かれ、毎月全部で12日廟会が開かれるようになった。
白塔寺山門と開光法会
写真は1938年5月13日から15日までの白塔寺開光法会(開眼供養)の期間、山門の前に建てられた牌楼である。当日、開光法会に参加しに来る各界の信徒や観光客はたいへん多く、門前には自動車が走っているだけでなく、自転車、リヤカー、人力車が通り、更に水売りの車が1輌、牌楼の前に停まっている。
白塔寺は廟会の時期になると、東は馬市橋から、西は宮門口西岔(「岔」は分岐のこと)まで、道路の両側は地方風味の軽食、食品雑貨、おもちゃなどの屋台や天秤棒を担いだ行商人たちで、宮門口から西向きの道の北側には十数軒の古着屋があり、その店先にも屋台を設けて商品を売った。寺の後門の元宝胡同は鳥市で、ハト、鶉(うずら)、鷹(たか)、鳥、ウサギ、犬などの禽獣を売っている他、鳥籠、ハト笛、鳥の餌入れ、コオロギを飼う小壺、鳥の餌、魚釣りの道具なども売っていた。秋になると、鳥市ではこの他、「油葫芦」(コオロギ)、キリギリスなどの秋の虫を売り、春の鳥市では金魚を売った。寺の前門には糖葫芦(サンザシ飴)売り、衛青(青ダイコン)、心里美ダイコン(水ダイコン)売り、大串の山里紅(サンザシ)売りや花籠売りがいた。
鳥の餌を売る屋台
廟会の期間、白塔寺の後門の元宝胡同では、ハト、鷹、小鳥が売られた他、更に鳥籠、鳥の餌、コオロギを飼う小壺、魚釣りの道具などが売られた。写真は地面の上に雑穀の鳥の餌が広げられ、ひとりの男の子がこれを買おうとしている。盛んな人の流れにより、廟会のにぎやかな雰囲気を増している。
寺内の前院(意珠心境殿院)東側には日用雑貨を売る屋台があり、西側には年糕(もち米のしん粉を蒸したもちやもち菓子)、切糕(もち米やアワ粉を蒸して作ったもちを切って売った)、豆面糕(豆粉を蒸して作ったもち)など食べ物の屋台やテントがあり、テントの下には簡単なテーブルや腰かけが置かれ、食事する者に供用した。寺内の後院(七佛宝殿院)はずっと民間の芝居の上演場所で、その前後には相声(漫才)、評書(講談)、大鼓書(カスタネットを叩きながら語り物を歌う)、変戯法(手品)のテントがあった。
塔院内のテント
白塔寺廟会では、塔院内で主に講談や芝居の一節が歌われ、のぞきめがね、映画の小篇が演じられた。この当時の有名芸人には、「小蜜蜂」、「大妖怪」、楊樹林、常蔭泉などがいた。
1930年代、大殿の門前の石造りの台の上では、付士亭の楽亭大鼓、侯五徳の梨花大鼓が演じられ、台の下には豆汁(緑豆で春雨を作った残り汁で作った飲み物)、豆腐脳(豆乳を煮たて、にがりを入れ半ば固めたもの)、炸丸子(肉団子を油で揚げたもの)、炸豆腐(揚げ豆腐)を売る屋台があった。院内の東側の屋台やテントはひとつに繋がっていて、衣服や靴、帽子を売る者、靴下や髪をすくすき櫛を売る者、更に化粧品、かつら、刺繍の見本を並べた店、絹で作った造花などを売る者などがいて、こうした屋台がずらりと並んでいた。おもちゃを売る屋台には、関羽、張飛、猪八戒、孫悟空など芝居のくま取りのお面が一杯に並べられ、更に大頭和尚、起き上がりこぼし、木刀、張り子の虎、竹とんぼ、木のコマ、でんでん太鼓などが売られていた。白塔寺二門の西の塀に囲まれた道では、四季折々の生花が売られていた。二門の階(きざはし)の上では、銅の磨き粉、焊磁薬、胡塩などを売る屋台が出ていた。北京の主要な廟会の中で、白塔寺の草花や木碗がもっとも有名で、寺に来た者はそれらを喜んで買って帰った。
廟会の屋台の一瞥
写真は後院で古本や靴下、手袋などの日用雑貨を売る屋台である。屋台の間には狭い通路があった。
寺内の西の回廊の北側には茶館がふたつあり、廟会の間、参拝者にお湯を出して茶を飲んで休憩してもらい、併せて出店者に飲み水を出したり物品を保管してあげたりした。廟会をしていない時も通常通り営業し、普段の主な客は不動産の仲介業者であった。
塔院の西側の空き地では、1930年代から1950年代まで、相前後して多くの民間の芸人が講談を語ったり芝居の一節を歌ったりした。昔、「小蜜蜂」(ミツバチ。張秀峰のこと)はここで西路平戯(西路評劇。華北や東北地方で行われた地方劇で、最初華北西部で盛んであった)を歌い、後に滑稽大鼓を歌うようになり、『劉公案』の演目が特に名高かった。ここではまた阿闊群の評書『小五義』、楊樹林の楽亭大鼓『楊家将』、『呼家将』。「全家福」一家の演じる文明戯、「大妖怪」夫婦の滑稽二簧(「二簧」は京劇で歌う節の一種で、ゆっくりとしたテンポで、叙情的な内容や悲しい心情を表現するもの)、馬宝貴の相撲などが行われた。1949年以降は、常蔭泉が評書『三侠剣』をやり、藍剣舒が芸をしながら薬を売り整骨をした。何広珍は人体の各種の寄生虫を展示するやり方で、虫下しの薬を売った。また何人かの名も知らぬ芸人がここでのぞきめがねや日光を利用し演じ手が機械を揺り動かして映画の小片を上映し、子供たちが争って鑑賞した。塔院の北側の空き地は、ほとんど皆、星座や人相見の占い師で、字を見たり、人相を見たり、圓光(壁に貼った白い紙にできた影の形で、吉凶禍福を占う)を行う占いの屋台であった。
拉洋片(のぞきめがね)
北京の主な廟会や天橋地区には「拉洋片」(のぞきめがね。「拉大画」とも言う)の芸人がいて、彼らはひとりで銅鑼を鳴らしてきれいに描かれたスライドをゆっくりと動かし、同時に画面に基づき内容を語ったり歌ったりした。観客は木箱ののぞき穴から拡大鏡を通じて画面を見た。写真は廟会に訪れた客がのぞきめがねを見る情景である。
白塔寺廟会は北京のその他の廟会と同様、1950年代中期以降、次第に衰退した。1960年代前後には、白塔寺廟会は既にもう存在しなかった。昔日の北京廟会の盛況は、既に昔の北京の歴史上の事柄となった。
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