雍和宮殿扁額
雍和宮正殿の前面の庇の下の扁額は、乾隆皇帝の親筆である。扁額の上の文字は、右から左に満州語、漢語、チベット語、モンゴル語の四種の文字で書かれている。この扁額は乾隆9年(1744年)に作られた。
雍和宮は北京安定門内以東の雍和宮大街に位置し、孔子廟、国子監と街路をはさんで相対していた。土地は6.6万㎡を占め、殿宇は雄壮壮麗で、北京に32ヶ所あるラマ教寺院の中で最も壮大なもので、今日に到るまで既に300年の歴史を有している。
雍和宮は元々清代皇帝康熙帝の第4子胤禛(いんしん)が建てた府邸(屋敷)で、康熙33年(1694年)に建設され、最初は「禛貝勒府」(「貝勒」は清朝の爵位名で、親王・郡王の下に位した)と名付けられた。康熙48年(1709年)胤禛は爵位が上がり和碩雍親王に封じられ、その府邸も「雍親王府」に改称された。清代の規制に基づき、皇帝の即位前の住所や出生地は、何れも「龍潜禁地」で、寺院に改める以外は、その他の用途に用いることができなかった。それで雍正が皇位を継いで後、元の王府の過半は章嘉呼図克図(「呼図克図」はモンゴル語で「聖者」のこと)に賜り、黄教(ラマ教の一派)の上院にし、残りの半分を留めて行宮にした。後に行宮は火災で破壊され、雍正3年(1725年)にはまた上院を行宮に改め、「雍和」の名を賜り、遂に「雍和宮」と称して今日に至った。1735年雍正が死ぬとここに柩が停め置かれ、遂に主要な殿宇の緑色の瑠璃瓦が黄色の瓦に改められた。乾隆9年(1744年)、雍和宮は正式に寺院に改築され、北京最大の藏伝仏教(チベット伝来仏教。ラマ教のこと)皇家寺院となった。
雍和宮殿
康熙33年(1694年)建立。正殿の幅は七間(柱と柱の間が7つ)、前に廊下が出ていて、後ろに建物があり、入母屋造りの屋根、棟木や梁に模様を彫り彩色され、緑の横木、屋根の頂は金色に輝き、荘厳で雄壮である。この建物は元々雍王府銀安殿で、雍正が親王の時に客と会見する場所であった。雍正3年(1725年)雍王府は行宮になり、この建物は雍和宮に改名された。乾隆9年(1744年)寺院に改められ、正殿は引き続き雍和宮として用いられ、内部に銅製で金でメッキされた「三世佛」が供えられた。これはすなわち過去の世界を主宰する燃灯佛、現在の世界を主宰する釈迦牟尼佛、未来の世界を主宰する弥勒佛である。
雍和宮は毎年農暦12月8日に「臘八粥」(旧暦12月を臘月と呼び,その8日を釈迦成道の日(臘八会)とし,これにちなんで作る粥で、「八宝粥」ともいう。米・雑穀・豆類のほかナツメ・栗・ハスの実など各種の果実をまぜ,砂糖で甘味をつけて煮る)を煮るが、これは曾て北京ではたいへん有名だった。臘八節は漢族の民間の伝統的祭日で、中国全土で流行した。「臘」は中国古代の祭礼のひとつで、一般に冬が終わろうとする時に、昔の人々は狩りで得た禽獣で祖先や神様を祭り、それにより災害を避け吉祥を求めようとした。『史記正義』によれば、「12月は臘月である。……禽獣を狩り、以て歳の終わりに先祖を祀った」。南北朝時代、始めは農暦12月8日を「臘八節」とした。寺院は 臘八節を過ごすのに仏教の伝説の話と結びつけ、「臘八粥」を食べる習俗を形成した。伝説によれば、12月8日は仏教の始祖釈迦牟尼が修行し悟りを得た日であった。釈迦牟尼は修行時飢えて地面に倒れ、ひとりの牧童の娘から一碗のもち米を煮て作った粥をもらい、釈迦牟尼はそれを食べ、川の中で沐浴し、静かに菩提樹の下に座って沈思し、12月8日に悟りを得て成仏した。これを記念し、仏教徒は毎年臘八、すなわち12月8日に必ず「臘八粥」を煮て仏に供えた。『夢粱録』によれば、「臘月八日、寺院ではこの日を臘八と言い、大刹などの寺院では、皆五味の粥を設け、これを名付けて臘八粥と言った」。雍和宮の臘八粥が有名である所以は、ひとつには粥を煮る鍋が特別に大きかったからで、『燕京歳時記』によれば、「雍和宮のラマ(ラマ僧)は、8日の夜のうちに、粥を煮て仏に供えた……その粥鍋の大きいことと言ったら、数石(1石は百升)の米が入るほどであった。」ふたつには皇室の恩寵で、清朝廷は特に大臣を派遣して監視し、以て心からの敬意を明らかにした。『光緒順天府志』によれば、「雍和宮が粥を煮るのは、制度として決まっていて、大臣を派遣して監視し、蓋し上膳に供した」。これから分かるのは、満清皇帝までも雍和宮の臘八粥を食べたということで、故にその名が京城(都北京)に轟いたのである。
雍和宮の年に一度の「打鬼」は更に有名で賑やかであった。観衆は雲の如く方々から雲集したので、年に一度の雍和宮廟会が形作られた。
法会の観衆
雍和宮で一年に一度の祈願法会は、多くの人を惹きつけて見に来させ、この日の北京は「どの家も横丁も留守になり」、皆争って見に来る有様であった。写真は、雍和宮の境内で、人々が海の潮のように押し寄せ、人波でごった返す盛況の様子である。
毎年農暦正月の末、北京の大人も子供も雍和宮に集まり、廟内を見物し、ラマが演じる打鬼 (鬼やらい)を我先に見て、子供たちは大串の糖葫芦やお面を買うのが、新年の年越しと同じくらい愉快であった。北京のラマ廟の 打鬼の行事について、『燕京歳時記』によれば、「打鬼(鬼やらい)は元々西域の仏法で、決して怪異なものではなく、昔の九門観儺(都の各城門で追儺の行事を見る)の遺風で、また不吉を排除する所以である。毎年打鬼の時節になると、各ラマ僧は諸天神将に扮し妖怪変化を駆逐した。都人の観衆は甚だ多く、万家空巷(全ての家々が留守になる)の風であった。朝廷は仏法を重んじ、特に散秩大臣(皇宮の警備担当)を一人派遣してこれを見、また聖人(ラマ寺の高僧)は朝服を着て東側の階にいるよう命じられた。打鬼の日時は、黄寺は(1月の)15日、黒寺は23日、雍和宮は30日であった。」
廟会でのお面の屋台
雍和宮廟会で売られたお面は他の廟会とは異なっていた。他の廟会のおもちゃ屋台で売られたお面の大多数が、玄奘三蔵、孫悟空、猪八戒、関羽、張飛など、伝統的な芝居の登場人物の顔のくま取りであったが、雍和宮廟会で売られたお面は、廟の中でラマが鬼やらいの時に被ったお面とよく似ていた。写真では、お面屋台の前にお面を被った子供がいて、屋台の主人は商売を招き寄せ、その傍らには多くのそれを見物する子供たちが映っている。
チベット仏教の寺院の宗教的な鬼やらいの儀式は、中国古代の「追儺」の作用と同じで、ラマ教を信じるモンゴルやチベットの民族が行う鬼を追い払う行事であった。チベット族は「莫朗木多」と言い、意味は「伝召送鬼」(仏法を伝授し、僧たちを召集し、鬼を祭送する)、モンゴル語で「跳布札」tiào bù zhá、意味は「悪魔を追い払い、祟りを散じる」。その儀式の過程で、一般にお面を付けたり化粧をしたラマと扮装した魔物が争い、最終的に魔物を打ち負かし、駆逐、或いは焼き殺す。これを「送祟」と言う。
チベット語の仏教経典によれば、仏教の始祖釈迦牟尼が「邪道」を降伏させ、吐蕃僧の拉隆巴勒多尔吉が悪王の朗達尔瑪を刺殺したことを記念し、チベット、青海、モンゴル等のラマ廟では、毎年「善願日」法会を行い、同時に黒衣で踊りを舞い、お祝いの意を示した。こうしたチベット伝来の黄教の仏事行事は乾隆59年(1794年)北京の黄寺に伝わり、その後、雍和宮やその他のラマ教寺院でも毎年「跳布札」の宗教儀式が行われるようになった。
東配殿内部の景観
写真は雍和宮東路東配殿内部の様子である。ちょうど真ん中に供えられているのがチベット伝来仏教の密教仏像である大威徳金剛像である。チベット仏教では、大威徳金剛は文殊菩薩の化身である。これには悪を屈服させる勢いがあるので、これを大威と言う。また善を護る功労をし、大徳を備える資質を持つことから、大威徳金剛の名を得たのである。金剛は元々仏門の中で鋭利で硬い兵器を指し、ここでは特に修行により不朽の身体を獲得したことを指す。仏像の前のお供えの台には「五供」が供えられた。これは香炉がひとつ、燭台がふたつ、花瓶がふたつで、全て銅製である。お供えの台の前には一基のお供え台が置かれ、海灯が置かれた。両側はラマ僧たちがお経を学ぶための経卓である。
雍和宮は毎年農暦1月30日(小の月の場合は29日)に法輪殿の宗喀巴(ツァンカパ)像の前で、幅広くお供えをし、三面「コ」の字型にテーブルを並べ、灯を数百個燃やし、両側のお供えを置く長椅子には「八令」の小麦粉で作った「満札」が一杯に並べられた。
法輪殿内壇城
写真は法輪殿の内部の様子で、中央にあるのが壇城、両側がお供えのテーブルである。仏教では、壇城とは仏たちが集まって居られるところである。「壇」は梵語で曼荼羅のことである。
午後1時、角笛を鳴らしてラマ達が神殿に上がり、行事を主宰するラマが仏の対面に設けられた「替僧宝座」に上がり、盛大な「善願日」法会を挙行した。お経を唱え奏楽の後、天王殿の前で「跳布札」が開始された。これは全部で13幕に分かれていた。
「跳布札」を観覧するラマたち
鬼やらいの儀式が終わると、翌日の明け方(2月1日)、ラマ僧達の隊列全体が廟を出て、寺院の外壁の周りを一周する。これを「繞寺」と言った。
清代、雍和宮の鬼やらい儀式は皇帝が主宰し、当時は歩兵統領衙門がそれを受けて実施し、「跳布札」用の衣服や飾りまでも宮廷で刺繍をした。鬼やらいの前夜、天王殿の前には観覧台が設置され、時には皇帝自ら臨席して祭礼を見た。王侯や大臣も補服(身分を表す刺繍の付いた上着)を身に着け、胸には朝珠を吊るし、頭には花翎の飾りを付けて駆けつけ、行事を見物し、その有様はたいへん厳かであった。民国初年、鬼やらいの行事は蒙蔵院が受け継いで行ったが、儀式は次第に簡略化されたが、基本は相変わらず清の制度に沿って行われた。雍和宮の年に一度の鬼やらいの行事は、宗教意識が後退するに従い、北京の民間の新春の風俗となり、廟会の行事の内容のひとつになった。
雍和宮の鬼やらいの二日間、排楼院から山門前までが廟会で、地方の特色のある軽食が売られ、おもちゃやお面を売る屋台が出店し、その間に輪投げや射的など、賞品のあるゲームの屋台が入り混じった。
輪投げ
昔の北京の廟会では、たくさんの大衆的な娯楽が楽しめた。輪投げは競技的要素もある、露店の遊びである。店主は地面に区画を区切って、煙草、石鹸、歯磨き粉などの日用品や子供のおもちゃなどを並べ、輪投げを投げる客の足元から、近くから遠くへ、並べる景品の価格を次第に高いものにし、輪投げの難易度も上げていった。廟会見物の人は皆、店主に金を払って籐の輪を買って投げ、地面の上に置かれた景品の上に輪が被されば、景品をただで持って行くことができるが、輪が被らなければ、何ももらうことができない。この遊びは誰でも気安くできるし、競技的な要素も備えていたから、輪投げをやってみる客も、それを周りで見る客もたいへん多かった。写真はひとりの男が手に籐の輪を持ち、足で境界線を踏んでちょうど輪を投げるところで、横で見ている子供の首には、それぞれサンザシの首飾りを掛けている。
1950年代初頭、雍和宮は内部の修繕が行われ、鬼やらいの行事は一旦停止された。1957年に再び行事が復活した際、宗教舞踊芸術の見学会として実施され、参加したのは全て招待された宗教や芸術の研究機関の関係者であった。行事に合わせて、おもちゃを売ったり食事を提供する商店は、一律雍和宮大街と国子監街東口一帯で営業した。1960年代の「文化大革命」、「破四旧」で、宗教は「叩き潰す」ものに属したが、雍和宮は幸い周恩来総理により保護され、破壊を免れた。1981年に雍和宮が宗教の場として対外開放され、近年はまた年に一度の伝統的な鬼やらいの宗教行事も復活したが、廟会は復活していない。
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