条順 tiáo shùn
(体つきがしなやか)
今回も沈宏非『飲食男女』(2004年江蘇文芸出版社)から、『条順』という文章をご紹介します。 「条順」の意味は、この文章を読んでいただくこととして、この文章で取り上げているのは麺料理についてです。その中で取り上げている『随園食単』、これは中国清代の人、袁枚が役人を辞してから南京近郊に随園という邸宅を営み、ここで彼が食した料理についてまとめたものです。浙江省出身の袁枚は、麺料理をどう位置づけているのか。そして沈宏非はどう考えているか。それでは『条順』を読んでいきましょう。
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『随園食単』の中で、袁枚は麺類を「点心」(正餐の前に小腹を満たす軽食)類の中に入れている。これは明らかに麺類が主菜ではないだけでなく主食でもなく、正餐の間の腹の足しで、空腹感を鎮めるために供するという、一種の「且点心(正に気持ちに火をつける)」という着火剤となる美食である。
しかし、「点」(火をつける)の字は別に「面条」(麺類)と「心」(気持ち)の間の関係を表すのに相応しいものではない。麺類の形状を論じるにせよ、麺類の美味しさを語るにせよ、それとわたしの気持ちの間には様々な思いがまとわりつき、あたかも「繞梁三日」(調子が高まり激しく揺れ動く)音楽のようで、たいへん心にまとわりつく。成都人は美女を「粉子」と呼び、美女の尻を追うことを「繞粉子」rào fěn ziと言う。この「繞」の字は、同様にわたしの麺類に対する気持ちを表現するのに相応しい。
手を加えられた日常の食物の中で、見た目のしなやかさと美しさで言えば、麺類が一番である。麺の前身は、ふっくら太った小麦粉の団子であり、切り刻まれることで、小麦から細長い麺になり、驚くべき艶めかしい変身を実現していて、このため麺は小麦粉の最も美しく最も科学的な線状の延伸、展開である。
70年代の北京の隠語で、美女に対する評価は、「盤正条順」という高度に濃縮された四つの文字であった。「盤」とは顔立ち(顔の輪郭)を指し、「条」とは体つきのことである。「盤正条順」は見た感じ、「名正言順」(名分が正当であれば道理も通る。名分も言葉も正当である)を焼き直したものだが、「正」は別に正確の正ではなく、端正の正でもなく、今日言うところの「正点」(定刻、定時)の「正」に近い。「順」に至っては、体つきのしなやかさ、流線型の曲線を指すに他ならない。麺も同様で、食べたいのがこの「順」であるなら、「順」は麺の見た目だけでなく、より重要なのは食感で、正にこの「順」だけが、わたしたちに、麺を食べる時に遠慮なく発することができ、食事の時に本来は発してはいけない、ズズッ、ズズッ と続く心地よい音を表すのであり、或いは魔物のようにしなやかな美女が、「順」であることで人に聞こえる「ズルッ」とすすり込む音なのである。
もちろん、湯麺(タンメン)であるか撈麺(混ぜ蕎麦)であるか、箸を使うかフォークを使って食べるか、こうした要素も「順」に多大な影響をもたらし、場合によっては見た目が全く異なる。例えば、スープの無いスパゲティは元々湯麺 のような「美女が湯船に浸かる」色気が欠けており、更にフォークで巻いて食べても、少しも「順」の快感は感じられず、せいぜい口に頬張っても歯にまとわりつく柔らかい麻花(小麦粉をこねて細かく切り、ねじり合わせて油で揚げた揚げ菓子)のようなものだ。それに比べ、曾てイタリアの貧しい人が手で引っ張って伸ばした麺を高いところに「吊り下げ」口に入れた食べ方は、却ってより「条」の感覚を得ることができた。更に、広東人が作る麺類はたいへん不味い。それはまた広東語ではいつも「麺条」のことを「麺」とだけ言って「条」を付けないのと関係しているかもしれない。
面面観(麺についての様々な考察)
『随園食単』「点心単」に列記された麺類は、全部で「鰻麺」、「温麺」、「鱔麺」、「素麺」、「裙帯麺」の五種であり、墨を惜しむこと金の如しか、麺を惜しむこと墨の如しか知らないが、少なすぎる気がする。
袁枚は82歳まで生き、行ったことがある場所は少ないとは言えず、食べたことのある麺は思うに上記の五つに止まらないにちがいない。ところがこれら五つの麺だけ選んで食単に入れたのは、郷土の習俗や個人の好みの問題以外に、これら選ばれた麺に各々その独特な点があったからに違いない。しかしわたしはそれ以外に、五つの麺にはひとつの共通点があることを発見した。それは、その調理過程で、スープ、餡かけの効果をとても強調していることである。「鰻麺……鶏のスープはこれを澄ませ、鶏のスープ、ハムのスープ、干しキノコのスープを沸騰させる」、「素麺は、前日に干しキノコを水でふくらませ煮出したスープを澄ましておく。翌日そのスープに麺を加えて沸騰させる」。最後まで書いて、自分でも幾分不注意が過ぎると思ったのか、一筆を加えた。「およそ麺を調理するには、必ずスープを多くするのが良い。碗の中に麺が見えなくするのが良いのである。食べ終わっても麺をまた加えると、人をうっとりさせることができる。このやり方は揚州で流行っているが、正に甚だ道理がある。」
もうひとりの清代の美食家、李漁は、袁枚より百年あまり早く生まれている。原籍は浙江省。江蘇に生まれ、これらふたりの終生の「麺類飲食生活区域」はほぼ完全に重複し、人生に対する態度も非常に似通っているが、彼らの麺に対する態度は大きな隔たりがあり、甚だしくは轅(ながえ)を南に向けながら、車を北に走らせるかのように、行動と目的が全く一致していない。李漁は『閑情偶寄』の中でこう批判している。「北人は小麦を食べるのに多くは餅(ビン)にするが、わたしは細長く切り分けて一本一本はっきりさせるのが好きだ。南人のいわゆる「切麺」がこれである。南人が麺を食べるのに、その油塩醤醋などの調味料は、皆麺のスープの中に入れ、スープは味があるが麺は味が無い。これは人の重視するのが麺にあらずスープにあり、未だ曾て麺を食せずというのはこのことである。」
李漁は雄弁であるだけでなく、言だけでなく行動もでき、彼はふたつの上記の理論に基づく麺を打ち立てた。名を「五香」、号を「八珍」と言い、重点は麺を切る前に「醤(味噌)や、酢、山椒の粉、すりゴマ、茹でたタケノコ或いはキノコを煮、エビを煮た汁」、及び「鶏、魚、エビの三つの肉……と生のタケノコ、シイタケ、ゴマ、花椒の四つの物を細かく挽いた粉末を」尽く数えて麺の中に入れる。その目的は「諸物を調和させることで尽く麺に帰し、麺は五味を備え独りスープが澄み、こうしてようやく麺を食べるのはスープを飲むのとは異なることとなる。」
梨花帯雨(梨の花がしっとり雨に濡れる)
湯麺(タンメン)についての忠実な擁護者として、わたしは袁枚は李漁よりずっと優れていると信じざるを得ない。
麺について言えば、麺自身の味も固よりたいへん重要である。しかし、小麦粉自身を除いて、すなわち小麦自身の品種と品質以外に、麺の重要なセールスポイントはすなわち噛み応えであり、上記の要素を除き、噛み応えは小麦粉を捏ね、切り、茹でる技術により決まる。麺の味は、主にスープから汲み取られる。それと同時に、スープにも麺固有の芳香が溶け込む。こうして、スープも麺も、柔らかくもあり強靭でもあり、スープしたたる麺は、梨の花が雨がしっとり雨に濡れるように艶めかしい。
それゆえ、「人の重んじるのは麺に在らずしてスープに在り」というのはもとより片方に偏してしまっており、逆にもし「人の重んじるのはスープに在らずして麺に在り」とし、「麺が五味を具え、スープは独り澄む」ようにするのも、専ら一方の味を好むものとなる。わたしたちが一碗の美味しい麺に対する要求は、一碗一碗どの麺も皆到達すべきだ。麺を食べないといけないし、スープも飲まねばならない。こうしてはじめてスープも麺も共にすばらしくなり、功徳円満となる。科学的にも市場の角度からも、スープと麺が「一体化」する有利な形勢が勝ち取れる。
もちろん、上海冷麺のような干麺、拌麺(混ぜ蕎麦)、或いは新疆の「大盤鶏」の中の「幅広」の麺も美味しい。わたしが嫌いなのは、ただ人為的に各種の外の物を麺の中に混ぜることだ。広東人は 湯麺 であれ 干麺であれ、うまく作れない。ただ李漁の教義を継承し、その伝統を発展させ、技量を皆小麦粉を捏ねる点にかけ、蝦子麺、鮑魚麺といった俗悪な麺や餅(ビン)をでっち上げた。
湯麺(タンメン)に対する態度の上で、李漁はひとつの極端な例で、張愛玲はまた別の極端な例である。すなわち、彼女はただそのスープを好み、麺は食べなかった。「わたしはあいにく湯麺が最も嫌いで、「スープがたっぷりで麺が少ない」、思うに一番いいのはいっそ無いことで、ただ少し麺の味が残り、スープが澄んで濃厚なこと……杭州のガイドは皆を楼外楼に連れて行き、螃蟹麺(上海蟹入りの麺)を食べる手配をしてくれた。当時、この老舗レストランはまだ上海のレストランのように「大衆向け」に、料理の値段を低く抑え、仕事の手を抜き材料をごまかし、品質を低下させてはいなかった。この店の螃蟹麺は確かに美味しかったが、わたしは麺の上にかかった具を食べてしまうと、スープがほぼ無くなったので、箸を置いた。自分でも、今の中国の情勢下でこのように気ままに食べ物を無駄にするのは、いささか罰当たりなことだと思った。」
わたしの自宅に客を招待し、 湯麺を召しあがっていただく時は、必ず特大のどんぶりを用う。どんぶりのサイズはできれば自分の顔より大きいものを使い、人の五官をスープの湯気の熱さで燻せば、ひとしきり、またひとしきりと感動が人々の顔をなでながらやって来る。
南人北相(南方の人が北方の人の容貌を兼備する)
袁枚が記録した麺料理は、皆南派(南方)のもの、いや基本的には江蘇、浙江の二省を出ることさえなかった。麺料理は畢竟北方に由来する食品であり、ちょうど李漁が『閑情偶寄』の中でこう言っている。「南人は米を食し、北人は麺を食すのが常である。」
袁枚は浙江の人だが、もし彼が北方の満州族出身で、関(居庸関)を越え、北京の役人になっていたら、おそらく彼は、麺という北方人の主食を「点心」の中に入れることはあり得ないし、そうする勇気も無かっただろう。北方人の日常の飲食生活の中で、麺は 点心と見做すことができないだけでなく、貧しい人々にとっては、麺は更にある種、精緻な小麦を使った食品と称するに足るものであった。これと同時に、北方の麺は日常の食べ物として普及しているだけでなく、その様式種類もすこぶる多く、山西省一省だけでも、麺の食べ方は百種類以上あり、当地の家庭の主婦は、更に「360日、毎食麺料理にしても、料理が重複しない」という腕前を持っている。もし袁枚が33歳で「官を辞して故郷に帰」っていなければ、『随園食単』の麺類メニューもきっと5種だけに止まることはなかっただろう。
それゆえ、江蘇、浙江一帯で中国で最も美味な麺料理が盛んに作られた所以は、第1、ここは広義の南方であり、江蘇、浙江は曾て戦乱の禍と大運河による漕運の便により、中国北方の精緻な文化の最も深遠且つ最も長期間に亘る影響を受けたため。第2、北方の麺が初めて南に渡ったばかりの時、江南の精緻な飲食もまた初めて「北方の麺」の薫陶を受けたため。それゆえ呉越の麺料理は確かに「南人北相」、南方の人が北方の人の容貌を持つことで、双方の長所を兼備することとなった。
翻って、北方に引き続き残った麺料理、その中でもわりと代表的な北京の炸醤麺(ジャージャンメン)を例にすると、たとえ文人たちが「雪のように白く柔らかくしなやか、平らで整った手延べ麺、四月の柳の葉に似たキュウリの細切り、卵、さいの目に切った豚肉、きくらげ、キノコ、黄ニラを油で揚げて作った味噌」というような言葉の修辞でそれを賛美していたとしても、わたし個人の経験では、北京旧市街、南城に住む「老北京」、昔から北京に住む人のお宅で御馳走になろうと、東城の五つ星ホテルのレストランで食べようと、炸醤麺はどこのものも美味しくない。そして最も不味いのは、他でもなく炸醤、油で炒めて作った肉味噌の塊りである。
ネット上で広く流布した長編読み物、「包子麺条大戦」の一節で、炸醤麺が主人公になっている。ここで再度紹介しよう。なに、北京人に怨まれたって構わない。「さて、小籠包は殴られて後極めて不愉快になり、肉包(肉まん)、豆沙包(餡まん)、近い親戚の餃子、遠い親戚の月餅といっしょになって、かたき討ちをしようとした。ちょうど路上で炸醤麺に出逢ったので、皆は炸醤麺を取り囲むとそれをぺしゃんこにして虫の息にした。帰路の途中、皆は小籠包に言った。「君は本当にそんなに麺を怨んでいるのか。こんなに殴ったら死ななくても障害が残るだろう。」小籠包は言った。「元々、わたしもただ適当に何発か殴ればいいと思っていたのだが、奴がなんと全身に大便を塗りたくっていようとは誰が知ろう。こんなだとわたしは奴を殴る勇気が無くなる。本当によく考えたものだ。こんな意気地なしのチビがわたしの気持ちに火を点けた。殴り出したら節制が効かなくなって……」」
実は炸醤麺が最も不味いわけではない。広東人の麺料理、とりわけあのワンタン麺というものを食べてはじめて、本当にこれは「惨たんたる人生を目の当たりにした」と叫びたくなるのだ。
拉麺(ラーメン)
蘭州ラーメンは既に一碗の麺料理からひとつの神話に変化しており、流行の言い方を真似ると、ラーメンとは蘭州という「都市の名刺」である。
ほとんど蘭州ラーメンと同期に神話になったものに、更に日本のラーメンがある。蘭州と日本は地理の上では遠く離れていて、双方の飲食文化はまた高度に異質であるけれども、これら二種類のラーメンとその土地で形成されたラーメン文化の間には、ある微妙な類似点が存在する。
蘭州ラーメンと日本のラーメンは何れも湯麺(タンメン)で、「重湯」、スープが重要な麺類であり、どちらもスープが勝負のカギを握る。前者は牛や羊の肉をスープの主要な材料とし、後者は醤油、味噌、豚骨とコンソメスープを4つの基本的なスープの基本部分としている。もちろん、牛肉、ネギ、ニンニクの芽、香菜、唐辛子を除いて、蘭州ラーメンの原料の配合と名目は、日本のラーメンの原料やそれらの使用目的が極めて多いことに遠く及ばない。それには次のようなたとえをすることができる。蘭州ラーメンをWindowsとするなら、日本のラーメンはLinuxのようなものだ。後者は基本プログラムが完全に開放されたプラットフォームであり、およそ思いつき得る材料であれば、何でも意気揚々とスープの中に注ぎ込むことができる。こうした意味において、日本のラーメンは実際、集団での創作の成果であるかのようだ。
日本のドラマやソニーを除いて、日本人のものの大部分が聞くところによると中国から伝わったものだそうで、ラーメンも例外ではない。ある人の説では、中国のラーメンは早くも三百年あまり以前に日本に上陸したそうである。当時、一心に「反清復明」を主張していた中国人、朱舜水(字は魯璵、舜水と号す。明の浙江紹興府余姚県の人。南京松江府の儒学生)は七度海を渡り長崎に到り資金を準備したが、やむを得ない事情で実現できず、やむを得ず1659年長崎に落ち着くこととなった。水戸藩第二代藩主で、徳川家康の孫、水戸黄門が儒学をたいへん好んだため、一年の時間を費やして家臣を長崎に派遣し、三顧の礼を尽くし、遂に 朱舜水を招聘して江戸水戸藩邸に居留してもらうこととなった。朱老師は水戸黄門に儒学を講義しただけでなく、彼に中国の麺料理をふるまった。『朱文恭遺事』の記載によれば、朱舜水は自ら厨房に立ち、水戸黄門のために作ったのは、レンコンの粉で作った平麵で、スープは豚肉のハムを煮つめて作った。
もうひとつの説では、現代の日本のラーメンは、日本在留の浙江出身の華僑、潘欽星が大正年間(1920年代初め)に創始したと言われている。
いずれにせよ、わたしは蘭州ラーメン、日本のラーメン、呉越の湯麺(タンメン)、及び李漁、袁枚、朱舜水、潘欽星といった既に亡くなった江蘇、浙江の人々の間には、麺類でつながった関係が、歴史と美味の霞みの中にたたずんでいるように感じる。
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