“京滬高鉄” jin1hu4 gao1tie3、北京~上海間新幹線の本格運行開始に伴い、7月1日に中国の鉄道が大々的なダイヤ改正を行うことが発表されました。今日はその話題をお伝えします。
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(クリックしてください。中国語原文が見られます。)
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“列車運行図”lie4che1 yun4xing2tu3は、「列車ダイヤ」。“調図”tiao2 tu3は「ダイヤ調整(改正)」、“現図”は「現行ダイヤ」となります。
“対”dui4は二つで一組になったものを数える量詞。普通は、“一対夫婦”(一組の夫婦)などという言い方をしますが、ここでは、上り下りの「往復」の意味です。したがって、“2128.5対”という“0.5”という端数が出てしまっています。
“票価浮動”piao4jia4 fu2dong4とは、「乗車料金を変動させる」、300キロの営業運転の高速列車は、より高い料金設定をするということです。
□ 7月1日より、全国の鉄道で新しい列車ダイヤの運行が実施される。今回のダイヤ改正後、全国の鉄道路線で運行される旅客列車は2128.5往復で、現行ダイヤより195往復増加し、輸送座席数は401.3万に達し、現行ダイヤより35.1万増加、旅客輸送能力は9.6%増加、貨物輸送能力は6%増加する。
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“三種混合運行”というのは、運行速度帯の異なる三種類の列車を同時に走らせる、ということですが、上の文章を読むと、運行速度帯の異なる線路が三種類存在することが分かります。当然、何れも1435㎜の標準軌の線路ですから、列車は異なる規格の線路を互いに乗り入れられる訳です。
“動車”dong4che1は、分散動力型の新幹線電車の登場により生まれた言葉で、「電動車」、或いは「電車」と訳すべきでしょう。ちなみに、中国では、日本で言う近郊電車のことを、“軽軌”qing1gui3と言います。
□ 新たな運行ダイヤでは、「三種混合運行」の列車運行の新モデルが全面的に実施される。すなわち、時速300キロの高速路線では、時速300キロと時速200-250キロの2種類の電車列車が同時に運転され、時速200-250キロの路線では、時速200-250キロの電車列車と時速120-160キロの普通客車が同時に運行され、時速200キロ以下の路線では、普通客車と貨物列車が運行される。
紹介によれば、「三種混合運行」の列車運行の新モデルの実施は、乗客がそれぞれ異なる速度等級と、異なる乗車運賃の選択を満足させる手助けとなる。
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北京~上海新幹線は、当初は時速300キロ、将来は時速350キロという高規格の営業運転の実現にこだわっています。それは、「速達」という付加価値により、高い料金設定を実現するためです。今回の新ダイヤでは、時速300キロの列車と時速250キロの二種類の速度の列車を運行し、運賃を区分するとしています。
“京滬一站直達”とは、「北京・上海直通ノンストップ」。“省城之間直達”は「途中の都市間直通列車」。“沿線車站交錯停車”は、「途中駅交互停車」です。
北京・上海以外でも、多くの都市の間で高速鉄道の整備が進められています。この記事で紹介されているのは、“武広高鉄”は「武漢・広州高速鉄道」、“鄭西高鉄”は「鄭州・西安高速鉄道」、“滬寧城際高鉄”は「上海・南京都市間高速鉄道」。“城際”の“際”は「相互の間」の意味ですから、“城際”で「都市間」となります。
□ 高速鉄道の運行を最適化することが、今回の運行ダイヤ調整の主要な眼目である。すなわち営業運転を開始する北京・上海高速鉄道の運行ダイヤは既に作成が完了した。北京・上海高速鉄道の初期の営業運転の最高速度は300キロに確定し、時速300キロと250キロの二つの速度等級の列車が同時に運行され、二種類の乗車料金が設定される。当初は毎日電車列車が約90往復運行され、それには北京・上海直通ノンストップ、途中の都市間直通、途中駅交互停車の三種類の列車が含まれる。
同時に、武漢・広州高速鉄道、鄭州・西安高速鉄道、上海・南京高速鉄道でも時速300キロと時速250キロに二つの速度等級の同時運行モデルが採用され、二種類の料金が設定される。武漢・広州、鄭州・西安、上海・南京都市間高速鉄道の1日平均の電車列車はそれぞれ80往復、22往復、110往復設定される。
北京・天津都市間鉄道、上海・杭州高速鉄道は、時速350キロの営業運転を維持する。北京・上海高速鉄道が他の路線を跨いで電車列車を運行するのに合わせ、鉄道部門は北京・天津、青島・済南、上海・南京、上海・杭州等の高速鉄道の運行ダイヤを同時に調整し、併せて南昌・九江、合肥・南京、合肥・武漢の電車列車の運行プランについて、最適化の調整を実施している。
この他、6月1日より、不正乗車防止の為、航空券のように乗車券に乗客の実名の登録、記載が始まり、また北京・上海高速鉄道の乗車券はインターネットでの購入が可能になるそうです。
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新聞で、この2つの言葉を見つけ、おそらく政府のアドバイザー的な役割の人のことだろうと想像はできたのですが、改めて調べてみました。
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“国務院参事”制度は、中国人民が法律に基づき、国家事務を管理する一つのルート、形式である。彼らは、客観、公正に社会情勢や民意を反映させ、国務院に対して直接意見や建議を提出する。 “国務院参事”は、著明な学者、幅広い管理経験を持つ指導者、幹部の中から任命され、多くが中国の各民主党派、或いは無党派の人々であり、“国務院参事室”のメンバーとして、国務院総理が任命する。現在、41名が“国務院参事”に任命されている。
“中央文史研究館”は、中国共産党と中国政府が、年配の知識層の見識や研究成果を取り込み、一致団結を図るために設立され、統一戦線的、栄誉的な文学、歴史の研究機構であり、“敬老崇文”を旨とする。館長、副館長、館員は、国務院総理が任命する。任命されるのは、年配の碩学、名声のある人物、専門の学者である。
“中央文史研究館”は、毛沢東が自ら提唱し、設立した。中華人民共和国成立の直前、毛沢東は自らの師である符定一に対し、共産党は、徳望が高いが、生活に困っている老学者に対処し、彼らが働ける場を作りたいと語った。1949年12月、毛沢東が柳亜子に宛てた書簡の中で、“文史機関”のことは、周恩来総理に対応させるので、そちらに聞いてほしい、と書いている。その後、毛沢東、周恩来は、符定一、柳亜子、章士にその準備に参加するよう要請し、林伯渠、斉燕銘を事務責任者に任命した。1951年7月、政務院副総理・董必武は“政務院文史研究館成立”を宣言し、符定一が初代館長、叶恭綽、柳亜子、章士が副館長になった。
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これは、共産党員に限らず、社会の有識者を一種の顧問職に任命し、政府に対するアドバイザーとなってもらうという制度ですが、任命権は国務院総理にあります。
4月14日、温家宝首相は、新たに任命した国務院参事、中央文史研究館館員への任命書交付を行いました。
温家宝与新聘任国務院参事、中央文史研究館館員座談
2011年04月14日 来源:新華社
■ 中共中央政治局常委、国務院総理温家宝14日上午在中南海向新聘任的8位国務院参事和5位中央文史研究館館員頒発聘書,并同参事、館員座談。
□ 中国共産党中央政治局常務委員、国務院総理 温家宝は14日午前、中南海で新たに任命した8名の国務院参事と5名の中央文史研究館館員への任命書交付を行い、併せて参事、館員との座談会を行った。
■ 在聴取発言后,温家宝指出,大家的意見非常中肯,国務院及有関部門要認真研究。知者尽言,国家之利。政府的決策要符合実際,符合人民的意願,就必須傾聴来自人民的意見,集思広益。“賢路当広而不当狭,言路当開而不当塞。”我們鼓励講真話,講真話就要有聴真話的条件。要創造条件譲人民講真話,譲参事、館員講真話,在国家科学民主決策中発揮重要作用。
・中肯 zhong4ken3 話が急所を突いている。的を得ている。
・集思広益 ji2si1 guang3yi4 [成語]衆知を集めて、有益な意見を広く吸収する。
・賢路当広而不当狭,言路当開而不当塞: 《宋史•喬行簡伝》にある言葉とのことで、温家宝が好んで引用している語だそうである。“広開言路”guang3kai1 yan2lu4という成語と同様の意味で、“集思広益”とも同義語。
□ 発言を聞いた後、温家宝は次のように指摘した。皆さんの意見はたいへん的を得ている。国務院、及び関連部門は真剣に検討しなければならない。知っている者が説明を尽くすことが、国家の利益になる。政府の政策決定は、現実に符号し、人民の意志に符号していなければならず、そのためには人民の意見を傾聴し、衆知を集めなければならない。「社会から広く賢者を募るには、道を広く開け、狭めてはならず、良い意見を得るには、言論が自由に行き来するようにし、それを塞いではならない。」私たちは真実を話すことを奨励する。真実を話すことこそ、真実を聞く条件である。人々が真実を話す条件を創造し、参事、館員が真実を話すことが、国家の科学的民主的政策決定において、重要な役割を発揮する。
■ 温家宝対参事室、文史館工作提出四点要求:
□ 温家宝は、参事室、文史館の活動に対し、四つの要求を提出した。
■ 第一,加強対経済社会発展中重大問題的政策研究。重点是:堅持科学発展和轉変経済発展方式,真正改変発展中存在的不穏定、不協調、不平衡和不可持続的問題;推進社会公平正義,認真解决地区、城郷発展不平衡和收入分配不公的問題;実現経済社会協調発展,重視科技、教育、文化、衛生、体育等社会事業;堅持依法治国,建設社会主義法治国家,特別要保証司法独立和公正;深化経済体制改革和政治体制改革,従制度和体制上解決影響経済社会発展的深層次問題。参事和館員們要経常到地方和基層走一走、看一看,了解基層的情况,傾聴人民的呼声,対現実生活中涌現出来的有生命力的新生事物、新鮮経験及時加以挖掘和提煉,対存在的問題、矛盾和困難要毫不掩飾地如実反映,為国家解决重大問題提出真正有価値的対策和建議。
□ 第一に、経済・社会発展の中の重大な問題に対する政策研究を強化すること。その重点は:科学的発展と経済発展方式の転換を堅持し、発展の中に存在する不安定で、協調せず、バランスがとれておらず、持続できない問題を真に解決すること。社会の公平、正義を推進し、地域間、都市と農村の発展の不均衡と収入分配が公平でない問題を真剣に解決すること。経済・社会のバランスのとれた発展を実現し、科学技術、教育、文化、衛生、スポーツ等の社会事業を重視する。法律に基づき国を治め、社会主義法治国家を建設することを堅持する。とりわけ司法の独立と公正を保証する。経済体制の改革と政治体制の改革を深化させ、制度と体制から、経済・社会の発展に影響する深層の問題を解決する。参事と館員の皆さんは、常に地方と社会の底辺を訪問し、自分の眼で見て、底辺の情況を理解し、人民の声に耳を傾け、現実の生活の中から湧き出てくる、生命力のある新たに生まれた事物、新鮮な経験をタイムリーに掘り出し抽出し、存在する問題、矛盾、困難を少しも飾ることなく如実に反映し、国家が重大な問題を解決するため本当に価値のある対策と建議を提出してほしい。
■ 第二,重視対歴史和国際経験的比較研究。歴史是一面鏡子,国際経験也是一面鏡子。我們在現代化進程中要始終注意照照這両面鏡子,鑑古知今,博採衆長,這様我們前進的歩伐会更加扎実、更加有力。只有開放兼容国家才能富強,只有与古為新社会才能進歩。参事、館員們有豊富的知識和経験,希望大家開闊視野,通過縦向和横向的比較研究,為解决我国現代化進程中的難題献計献策。
・鑑古知今 jian4gu3 zhi1jin1 過去の歴史を見ることを通じて、現在の情勢を理解すること。同様の言葉に、“知今通古”、“知往鑑今”、“鑑往知来”、“以古為鑑”などがある。
・博採衆長 bo2cai3 zhong4chang2 “博”は“広汎”、幅広く。“長”は“長処”、長所。幅広く世の人々の優れた所を採り入れること。出典は《魏書・劉芳伝》。
・献計 xian4ji4 献策する。提案する。ここでは、“献計”、“献策”と、意味が同じ、何れも“献”ではじまり、しかも平仄も同じ“詞語”を二つ重ねることで、話に躍動感を持たせている。
□ 第二に、歴史と国際的な経験に対する比較研究を重視すること。歴史は一つの鏡であり、国際的な経験も一つの鏡である。私たちは現代化の進展の中で常にこの二つの鏡に照らしてみて、過去の歴史を見ることを通じて現在の情勢を理解し、幅広く世の中の優れたものを採り入れること、このようにすれば、私たちの前に進む歩みはより着実なものになり、もっと強力になる。開放的で包容的な国家であってはじめて富み栄えることができ、古きものを新しくしてこそ、社会は進歩する。参事、館員の皆さんは豊富な知識と経験を持っておられるのだから、皆さんは視野を広くし、縦向きや横向きの比較研究を通じ、我が国の現代化プロセス中の難題を解決するための献策を出してほしい。
■ 第三,注重対社会轉型期道文化建設的研究。一個国家没有国民素質的提高和道的力量,絶不可能成為正強大的国家、受人尊敬的国家。要把道文化建設擺到更加突出、更加重要的位置上来,在全社会形成講誠信、講責任、講良心的強大輿論氛圍。要把依法治国和道建設緊密結合起来,従優秀伝統文化中汲取営養,従世界優秀文明成果中取長補短,努力培育具有時代精神、深入人心、自尊自信的社会主義道風尚。
・風尚 feng1shang4 気風
□ 第三に、社会の転換期に於ける道徳文化建設の研究に力を入れてほしい。一つの国家に国民の素質の向上と道徳の力が無かったら、本当に強い国家、人に尊敬される国家になることはできない。道徳文化の建設をもっと突出し、もっと重要な位置づけに置き、社会全体で、誠実で信頼できることを重視し、責任を重視し、良心を重視する強い輿論の雰囲気を形作らなければならない。法律に基づく国家統治と道徳建設を緊密に結びつけ、優秀な伝統文化の中から養分を吸収し、世界の優秀な文明の成果の中から優れた点を取り入れて欠点を補い、この時代の精神を備え、人心に深く浸透し、自ら誇りに思うことのできる社会主義道徳の気風を培うことに努めなければならない。
■ 第四,発揚崇尚理性、追求真理的科学精神。崇尚理性就是尊重自然規律、科学規律、経済規律和人類発展進歩的規律,這是研究学問、従事実際工作的基本要求。要做到這一点,必須有愛国家、愛人民并為之服務和献身的精神,必須有尊重客観実際和規律、追求真理并為之不懈探索和犠牲的精神。参事、館員従事調査研究,要樹立不畏艱辛、不怕犠牲、求実存真的精神,深入実際而不浮躁,独立思考而不跟風,敢説真話而不人云亦云,這是参事、館員人格魅力之所在,也是提高咨詢国是水平的関鍵。
・崇尚 chong2shang4 あがめ尊ぶ。
・浮躁 fu2zao4 そわそわして落ち着かない。
・人云亦云 ren2yun2 yi4yun2 [成語]他人の言ったことを受け売りする。定見がないたとえ。
□ 第四に、理性、真理追究の科学的精神を尊ばねばならない。理性を尊ぶことは、自然の規律、科学の規律、経済の規律、人類の発展進歩の規律を尊ぶことであり、これは学問研究、実際の事業活動に従事する上での基本的な要求である。このようにしようと思ったら、国家を愛し、人民を愛し、そのために服務し、献身する精神がなければならず、客観的な現実と規律を尊重し、真理を追究し、そのために倦まず弛まず探究し、犠牲となる精神がなければならない。参事、館員の皆さんは調査、研究に従事し、艱難を恐れず、犠牲を恐れず、現実を追い求め真理を追究する精神を打ち立て、現実に深く入り込み、浮つかず、自ら考え、風潮に流されず、勇気を持って本当の事を言い、他人の受け売りをしないようにしなければならない。そこに参事、館員の人格の魅力が存在するのであり、またそれが国是を諮問するレベルを向上させる鍵である。
■ 温家宝最后説,一個国家一個民族総要有一批心憂天下、勇于担当的人,総要有一批従容淡定、冷静思考的人,総要有一批剛直不阿、敢于直言的人。這是千百年来中国仁人志士崇高的精神追求,参事、館員也要有這様的境界和追求。希望通過不懈努力,把参事室建成高水平的政府咨詢机構,為推進中国特色社会主義偉大事業做出更大貢献。
・批 pi1 [量詞]同じ意見や趣旨に基づき、同時にまとまって行動する多くの人をひとまとめとして数える。
・阿 e1 おもねる。へつらう。(発音に注意)“阿諛”e1yu2 の意味。
・仁人志士 ren2ren2 zhi4shi4 仁愛のある正義の人。衆人のために自己を犠牲にする人。
・境界 jing4jie4 境地
□ 温家宝は最後に次のように言った: 一つの国家、一つの民族は常に一群の天下を憂い、それに立ち向かう勇気を持った人を抱えていなければならず、常に一群の落ち着いて冷静に判断し、冷静にものを考えられる人を抱えていなければならず、常に一群の剛直でへつらわず、直言する勇気を持った人を抱えていなければならない。これは何千年何百年の間の、中国の仁愛のある正義の人士の崇高な精神の追求であり、参事、館員の皆さんもそのような境地、追求を持たなければならない。弛まぬ努力を通じ、参事室を高レベルの政府の諮問機関にし、中国の特色ある社会主義の偉大な事業を推進するために更に大きな貢献をされることを希望する。
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中国は共産党の一党独裁であるため、社会の末端の声が上に上がりにくく、不正の温床になりやすい、という国の構造的な課題があります。今年の全人代の政府活動方針でも、人々の生活の改善、様々な不正の撲滅が最重点方針でした。温家宝さんとしては、国務院参事、文史研究館という、政府のチェック機構に、こうした課題を解決する機能の発揮を求めていると言えるでしょう。
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温総理賛“日本文化是豆漿,中国文化是塩鹵”説
― 温家宝総理与中日文化界人士座談側記
2010年06月01日 来源:人民網・《人民日報》
温総理は「日本文化は豆乳、中国文化はにがりである」との説を賞賛した
― 温家宝総理と中日文化界の人士の座談会傍聴記
■ “我記得日本漢学家内藤湖南先生曾説過:‘日本文化是豆漿,中国文化就是使它凝結成豆腐的塩鹵。’在中国隋唐時期,日本曾経20多次派出遣隋使和遣唐使学習中国政治文化。明治維新之后,中国的仁人志士到日本求学。這都説明,中日文化交流源遠流長。”
・塩鹵 yan2lu3 にがり
・仁人志士 ren2ren2zhi4shi4 仁愛のある正義の人。衆人のために自己を犠牲にする人
「日本の漢学者、内藤湖南先生が、嘗て、“日本文化を豆乳とするなら、中国文化はそれを固めて豆腐にするにがりである。”と言ったと記憶しています。隋、唐の時代、日本は20数回、遣隋使と遣唐使を派遣し、中国の政治、文化を学びました。明治維新後、中国の仁愛のある正義漢が日本に学びに行きました。これらのことは、中日文化の交流の歴史の長さを物語っています。」
■ 5月31日下午2時45分,在毗隣日本皇宮的新大谷飯店芙蓉庁里,温家宝総理一段充満感情的開場白拉開了中日文化界知名人士座談会的序幕。
・毗隣 pi2lin2 隣接している
・開場白 kai1chang3bai2 前口上
5月31日午後2時45分、皇居に隣接したホテル・ニューオータニの芙蓉の間で、温家宝総理の感情のこもった前口上で、中日文化界の著名人の座談会は幕を開けた。
■ 芙蓉庁里,緑羅綻翠,百合飄香。明黄的屏風在灯光的照射下放散出絲絲温馨,墻壁上鑲嵌着日本人民喜愛的折扇則透着古朴与典雅。温家宝総理在繁忙的外事活動中,特意抽出時間与中日文化界人士共叙昔日友情,暢談文化交流前景。
芙蓉の間では、観葉植物が青々とし、ユリの香りが漂っていた。金色の屏風は明かりで照らされ、ほのかに温かさを醸し出し、壁には日本人の好きな扇子が嵌め込まれ、古風で典雅な雰囲気を形作っていた。温家宝総理は多忙な外交活動の中で、特に時間を作り、中日文化界の人士と昔日の友情を温め、文化交流の前途について語り合った。
中国の総理が主催する、中日文化界の著名人の座談会は、今回が初めてである。このことは、中国の指導者、政府の中日文化交流の強化を益々重視していることを反映している。
座談会に参加したのは、日中文化交流協会会長・辻井喬、茶道の裏千家大宗匠・千玄室、アニメ作家・辻信太郎、書家・柳田泰山、女優・中野良子、作家・浅田次郎、劇団四季芸術監督・浅利慶太、歌手・アグネスチャン、服飾デザイナー・コシノジュンコ、内山書店社長・内山蘺(まがき)。何れも日本文化界の著名人で、中日文化交流に突出した貢献をし、中国人民にも人気が高い。中国作家協会主席・鉄凝、中国書法家協会主席・張海、俳優・濮存、北京電影学院動画学院院長・孫立軍も、このために来日し、日本文化界の友人と交流、研鑽を行った。
「本日、座談会に参加されているのは皆、中日文化界の名高い方々であるので、私は皆さん方に学ばなければなりません。」温家宝総理は謙虚で真摯な語り口で、一同、一層の親しみを感じた。
■ 沈穏的辻井喬先生第一个発言。他還清楚地記得三年前以俳句“和対”温家宝総理漢俳的往事。那是一段令人難忘且激励人心的佳話,“和対”之后,中日青年進行了漢俳聯句的大接力。
物静かな辻井喬氏が最初に発言した。彼は三年前、温家宝総理の漢俳に、日本の俳句で「和した」(“和対”)ことを、はっきりと憶えていた。それは忘れ難く、人の心を鼓舞する佳話であり、“和対”の後、中日の青年は漢俳の連句のリレーを行った。
「三年前、温総理は漢俳を一首作られました。昨晩、日中友好七団体と華僑四団体合同で開催された歓迎宴会で、また即興で漢俳を一首作られましたが、このことは、あなた自身が中日文化交流の最前線におられることを物語っています。」辻井喬の発言は簡潔で、感情に満ちていた。
温家宝総理はそう聞くと微笑んで言った。「今日の昼に出席した日本経団連の昼食会で、私はまた一首漢俳を作りました。先生は新しい“和対”をまだ作られていませんか。」
「総理の漢俳は日中関係への願いが表現され、たいへんすばらしいので、すぐにそれに対するのは困難です。」辻井喬は謙虚にそう答えた。
「私のは自己流で、あなたこそ本当の専門家です。」温家宝は笑って言った。
「それでは真面目に考え、“和対”する漢俳を一首作ります。」辻井喬は喜び勇んでそう応じた。
温総理と辻井喬のやりとりは、ひとしきり歓声と笑い声を引き起こし、ホールの中は人を酔わせる友情で満たされた。
■ 満頭銀髪的千玄室先生身着一襲灰色和服,神情飄逸。他曾先后訪華100余次,開創了日本茶道界与中国友好交流的先河。他談到了曾経与小平先生的会面。当他献茶之時,小平対他説,茶是中国的根,茶道在日本又非常盛行。茶道最重要的是和平之心。中日両国文化有很多相通的地方,希望両国珍惜這種共通的文化。
・襲 xi2 [量詞]衣服を数える。そろい
・飄逸 piao1yi4 飄逸(ひょういつ)である。洒脱である
・先河 xian1he2 先に提唱された事物。(昔の帝王は、川を海の本源と看做し、先ず黄河を祭り、次いで海を祭った。)
総銀髪の千玄室氏は灰色の和服を纏い、表情は飄々としている。彼は中国を前後100回以上訪問し、日本茶道界と中国の友好交流の先駆けを拓いた。彼は嘗て小平氏と会見した時のことを語った。彼が茶を差し上げると、小平は彼に言った。茶は中国がルーツで、茶道は日本で盛んになった。茶道で最も重要なのは平和の心である。中日両国の文化は多くの共通点があり、両国はこうした共通の文化を大切にしてほしいと。
■ 温家宝聴后点頭説道:茶是中国的根,也是和平的象征,蚕絲也是如此。当年,徐福、鄭和両位中国航海家帯出去的是茶和蚕絲,伝逓的是和平和友誼。
温家宝はそれを聞くと、頷いて言った。茶は中国がルーツで、また平和の象徴でもある。シルクもまた同様である。嘗て、徐福、鄭和の二名の中国の航海家が持って行ったのは茶とシルクで、伝えたのは平和と友好である。
千玄室氏はそれを聞くとうれしそうに、また残念そうに言った。残念ながら今日は総理に茶を差し上げる機会がありません。
■ “三年前,我有机会在京都喝了一次茶道制出的茶,覚得非常好,我記不住茶社的名字,但我端碗的姿勢,品茶的様子,当時的茶師認為還合格。” 温家宝総理対千玄室先生説。
「三年前、私は京都で、茶道で点てたお茶をいただく機会があり、たいへんよかったことを憶えています。その時の茶室の名前は憶えていませんが、私の茶碗を持つ姿勢、茶を賞味する様子を、その時のお茶の先生は、合格ですと言ってくださいました。」温家宝総理は、千玄室氏にそう言った。
その時のお茶の先生が千玄室の子の千宗室と知ると、温家宝総理はたいへん驚き喜び、この一族の茶道文化の伝承と中国文化の交流の継続をうれしく思った。彼は千玄室氏に言った。「ご家族の皆さんによろしくお伝えください。」
深い思い出は更に平和、調和への思いをかき立てた。この時、会場の人々は中日友好交流の美しい情感に浸っていた。
この時、辻信太郎氏がキティーのおもちゃを取り出し、温家宝総理に贈ろうとした。温家宝は歩み出ると、受け取って手の中でつまびらかに見た。彼はおどけて言った。「このプレゼントは、私の孫が見たらもっと喜ぶでしょう。」これを見て会場全体から笑い声が起こった。
■ 辻信太郎先生是日本動漫界領軍人物之一,被称為卡通人物凱蒂猫之父。他説,這個凱蒂猫在日本設計,在中国制造,中国和日本密不可分。凱蒂猫有三個特点:一是可愛;二是系着蝴蝶結,象征着心連心;三是没有嘴,提醒人們不是用語言,而是用行動来幇助別人。他説,就像凱蒂猫的寓意一様,願日中両国人民世代友好。
・寓意 yu4yi4 寓意。他の事物に託してほのめかす
辻信太郎氏は日本のアニメ界の指導的人物のひとりで、アニメキャラクター・キティーの生みの親と呼ばれている。彼が言うには、このキティーのおもちゃは日本でデザインし、中国で製造され、中国と日本は切っても切れない関係にある。キティーには三つの特徴がある。ひとつは可愛いこと。二番目はちょう結びをしていることで、それは心と心をつなぐ象徴である。三番目は口が無いことで、人々にことばでなく、行動で他人を助けるよう諭している。彼は、キティーの寓する意味と同様、日中両国の人々が世代を超え仲良くすることを望みますと語った。
孫立軍院長はある日本の漫画家に師事した。恩師の死後、孫立軍は恩師の名を冠した奨学金を設立し、アニメ専攻の優秀な学生を奨励している。孫立軍も自分からの贈り物を取り出し、温総理に手渡した。それは北京電影学院動画学院の学生が作った二枚の漫画であった。一枚は温家宝総理の漫画で、手に斉天大聖・孫悟空を載せている。もう一枚は鳩山首相の漫画で、胸に鉄腕アトムのバッジを付けている。学生たちは自分たちの作品で友好を伝えている。
会場の人々はこの二枚の実によく似た(“惟妙惟肖”wei2miao4wei2xiao4)漫画を見て、口々に賞賛のことばを発した。
温家宝総理は手に取ると、皆に言った。「今晩私は鳩山首相主催の歓迎宴会に出席しますので、必ず私から直接手渡します。」会場は笑い声で包まれた。
温家宝総理は続けて言った。「もうひとつよいニュースがあります。午前中私は鳩山首相と協議し、来年の適当な時期に「アニメ・ウィーク」を開催することになりました。」満場から拍手が起こった。
■ 心与心的交流,浸潤着友愛的力量,譲人們忘却了時間正在静静地流淌。
“語言是有霊魂的,毎個漢字都有各自的霊魂,書法把霊魂表現出来。”温文爾雅的柳田泰山先生精于書法,対書法有着独到的理解。他是家族書法的第四代伝人,這個書法家族和中国的交流,迄今已有80多年的歴史。
・流淌 liu2tang4 (液体が)流れる
・温文爾雅 wen1wen2er3ya3 態度が穏やかで立ち居振る舞いが上品である
・独到 du2dao4 他に比べるものがないほど優れている
心と心の交流は、有愛の力を浸み込ませ、人々に時が刻々と流れていることを忘れさせた。
「ことばには霊魂があり、漢字ひとつひとつに皆霊魂があり、書道は霊魂を表現することができます。」温和で上品な柳田泰山氏は書道に通じており、書道に比類のない理解を持っている。彼は書家の一族の四代目で、この書家一族と中国の交流は、今日まで80数年の長きにわたる。
■ 他的語調沈重而又深情:“我的父親説過:中国是父輩之国,要対我孝順就要向中国学習。父親臨終時遺言:譲我学習中国的書法,為日中文化交流作貢献。我永遠不会忘記。”
彼の口ぶりは厳かで深い情がある。「私の父親がこう言ったことがあります。中国は大先輩の国であり、親孝行したいなら中国に学びなさいと。父親は臨終の時、こう遺言しました。中国の処方を学び、日中文化交流に貢献しなさいと。私は永遠に忘れることはありません。」
温家宝はそれに対して言った。文化は霊魂の交流であり、文字は伝統文化の重要な道具である。文字の交流、書道の交流は、思想の交流でもある。それは平和の理念を伝達し、共に中日友好の交流を促進している。
■ “先生是不是主攻柳体?”
“是的。”
“我上小学和中学時,学大字也是臨摹柳体。我父親写顔体,我也跟着学顔体。所以后来我写的字既不像柳体也不像顔体。”
温家宝総理幽默的談吐譲柳田泰山先生倍感親切和温暖。
・攻 gong1 研究する。学ぶ
・臨摹 lin2mo2 臨模(りんも)する。書画を模写する
・柳体 liu3ti3 唐代の書家・柳公権の書体
・顔体 yan2ti3 唐代の書家・顔真卿の書体
※顔真卿、柳公権に、唐の欧陽洵、元の趙孟頫を加えて“楷書四大家”と呼ぶ。柳公権は、顔真卿、欧陽洵の書体を学び、それに改良を加え、新たな書体を生みだした。俗に“顔筋柳骨”と言い、顔体は力強く肉づきが良く、柳体は肉を削ぎ落し、骨格がしっかりしていると言われる。
・倍感 bei4gan3 ますます~と感じる
「先生は、主に柳体を研究されているのではないですか。」
「そうです。」
「私は小学校と中学校の時、毛筆を学ぶ時は、柳体を臨模しました。私の父親は顔体を書いていたので、私もいっしょに顔体を学びました。だから、その後私の書いたものは、柳体のようでもなく顔体のようでもありません。」
温家宝総理のユーモアのある言葉づかいは、柳田泰山氏にますます親しみと温かさを感じさせた。
在席した張海は、中国の有名な書道家である。彼は温総理と柳田泰山氏の対話を聞いた後、次のように発言した。中日間の書道の交流はもっと強化しなければならない。私は二つの提案がある。一つは条件を作って青少年の書道競技を開催すること、二番目はトップクラスの書道の試合を行うことである。この提案は、すぐに柳田泰山氏の賛意を得た。
この時、予定の会見終了時間になったが、出席者の思いはまだ尽きることがなかった。
■ 看到身穿和服、梳起高高髪髻的日本演員中野良子一直端坐着傾聴,温家宝総理笑着対她説:“你也発個言吧。我最早是従《追捕》中認識你的。”
・髪髻 fa4ji4 髷(まげ)
・端坐 duan1zuo4 きちんと座る
和服を身に纏い、高く髷を結んだ日本の俳優、中野良子はずっときちんと座って話を傾聴していたが、温家宝総理は微笑んで彼女に向って言った。「あなたも発言しなさい。私は最初、《君よ憤怒の河を渡れ》の中であなたを知りました。」
■ 提起中野良子,中国人民都非常熟悉。她在電影《追捕》中塑造的真由美形象,令人難忘。中野良子在当紅之時,毅然淡出演藝圈,投身于中日文化交流事業。
中野良子といえば、中国人は皆たいへんよく知っている。彼女は映画《君よ憤怒の河を渡れ》の中で“真由美”を演じ、強い印象を残した。中野良子は人気があった時、ためらうことなく芸能界を去り、中日文化交流事業に身を投じた。
■ 早就想発言的中野良子,聴到温総理点自己的名字,忙用漢語説道:“謝謝!謝謝!”回憶起自己訪問中国時,她念念不忘中国人民的友好。她還声情并茂地唱起了歌曲《大海啊,故郷》。“小時候,媽媽対我講,大海就是我故郷……”婉転動聴的歌声打動了在座的毎一個人。她説,日本和中国朋友都很喜歓這首歌曲,這説明両国人民都喜歓和平安定的感覚。
・念念不忘 nian4nian4bu4wang4 いつも忘れない。
・声情并茂 sheng1qing2bing4mao4 (歌声が)声もよく情緒もたっぷり
・婉転 wan3zhuan3 滑らかで抑揚がある
発言しようと準備していた中野良子は、温総理が自分の名前を指名したのを聞くと、急いで中国語で言った。「謝謝!謝謝!」自分が中国を訪れた時のことを思い出すと、彼女は中国人の友好が忘れられない。彼女は大きな声で情緒たっぷりに《大海啊,故郷》を歌った。「小さい時、母さんは私に言った、大海は私の故郷であると。」抑揚の利いた美しい歌声は出席した全ての人々を感動させた。彼女は、日本と中国の友人は皆この歌が好きです、このことは両国の人々が平和、安定を望んでいるという気持ちを説明しています、と語った。
「中国からも今日一名俳優が来ています。彼は濮存といいます。これから彼に発言させます。」温家宝が言った。
濮存は嘗て日本の俳優といっしょに映画に出演し、また共同で音楽を製作した。彼は政府がもっと大きな投資を行い、中日文化交流を促進するよう提案した。中野良子はそれを聞いて、頷き賞賛した。日中両国間では30年にわたり映画の交流が続いており、それが継続できるよう希望する。
二人の俳優の話を聞いて、温家宝は言った。「2007年に日本を訪問する前、私は阿倍首相が推薦した《三丁目の夕陽》を見て、第二次大戦後の日本人の生活を理解しました。皆さん方が今日の成果を上げることができたのは、確かにたいへんなことだと思います。今回の訪問前、鳩山首相が推薦したアカデミー最優秀外国語映画賞を獲得した日本映画《おくりびと》を、私は最初から最後まで見ました。この映画は生と死の別れの物語で、表現されているのは倫理道徳で、私たち東方文化の仔細(“底蘊”di3yun4)が描かれていて、私はたいへん好きです。」温総理はまた皆に良いニュースを伝えた。今日午前鳩山首相と会談した際、私は来年中日で「映画テレビ・ウィーク」を開催することを提案し、彼の賛同を得たと。
温家宝総理の視線は歌手のアグネス・チャン(陳美齢)に向けられた。陳美齢女士、発言してください。でも話をするのはダメです。歌わないといけませんよ。皆の楽しそうな笑い声の中で、アグネスチャンは立ち上がり、中日両国の人々が皆よく知っている《原野牧歌》を歌い出した。歌い終わると、彼女は皆に深々とお辞儀すると、心からの祝福を送った。「中日の間がこれからも永久に友好が続きますように。」在席の人々は感動の面持ちになった。
鉄凝は最後の発言の機会をつかんだ。彼女は2006年秋に日本の東北大学を訪問した時の情景を回想した。この大学の前身は仙台医学院で、魯迅が嘗てここで学んだ。この時、数名の経済学部の教授が《魯迅在仙台》という名の現代劇(話劇)を作っていた。この劇の出演者は仙台市民で、上演費用は市民の寄付で賄われ、魯迅を一人の普通のパソコンのオペレーターとして描いていた。これらのことを話し出すと、彼女の眼に熱いものがこみ上げ、心から日本の人々の友好と文化交流の魅力に感動した。
彼女は、こう言った。中日の世代を超えた友好は、若い人々の力に依らねばならない。私は「新世紀、新視線」(“新世紀、新眼光”)をテーマに、青年作家間の文学交流を展開することを提案したい。文学という手段で、今日の中国の人々と日本の人々の情感の奥を相互に凝視し、相互に観察し、相互に感じたい。
温家宝はそれを聞くと、“新世紀、新眼光”はたいへん良い。それにもう一つ、“新未来”を加えなさい、と言った。
座談会はもう一時間以上になり、当初予定した時間を大きく超えていた。
温家宝総理は出席者全員に言った。今日皆さん方のお話に、私は感動し、また深く教えられました。皆さんが出した提案は非常に良いので、私は関係部門に検討させ、実現させます。
■ 温総理対中日文化交流的激励和支持,譲在座的両国文化界人士十分激動。掌声在大庁里回蕩。
・回蕩 hui2dang4 (音声が)こだまする
温総理の中日文化交流への激励と支持は、在席の両国文化界人士をたいへん感動させた。拍手が会場の中をこだました。
■ 活動結束時,書法家張海和柳田泰山揮毫溌墨,分別書写了温家宝総理此次訪問時所作的漢俳和辻井喬先生三年前“和対”温家宝総理的漢俳。両幅作品異曲同工,交相輝映,伝逓着東方文化的神韵和中日両国人民之間的友誼。
・揮毫溌墨 hui1hao2po1mo4墨痕鮮やかに筆を振るう
・異曲同工 yi4qu3tong2gong1 曲調は異なっても巧みさは同じ。やり方は異なっても効果は同じ。同工異曲
・交相輝映 jiao1xiang1hui1ying4 いろいろな光や色彩が入り乱れて輝く
・神韵 shen2yun4 風格と趣。神韻
活動の最後に、書道家の張海と柳田泰山が墨痕鮮やかに筆を振るい、それぞれ温家宝総理が今回の訪問で作った漢俳と、辻井喬氏が三年前に温家宝総理に“和対”した漢俳を書写した。二つの作品はどちらも素晴らしく、様々な色彩が入り混じり、東方文化の趣と中日両国の人々の友好を伝えた。
(人民網東京5月31日電 新華社記者 趙承、李忠発,人民網記者 杜尚澤)
中国名人為什麼願意迎娶日本女人?
2010年04月01日 来源:新華網
中国の著名人はなぜ日本の女性を妻にしたがるのか
■ 許多中国名人都娶了日本愛人,老一輩不説,如当過体育部長的乒乓(ping1pang1)球世界冠軍庄則棟、著名小提琴家盛中国等,這是為什麼呢?中国名人為何娶日本愛人?我看還是源于那句話:世界上啥(she2)最好?哪里是天堂?“天堂就是-美国的薪,中国的菜,英国的房,日本的妻。”
多くの中国の著名人が日本人妻をめとっている。昔の人はさておき、例えば体育部長を務めた卓球の世界チャンピオン、庄則棟、有名なバイオリニスト、盛中国等、これはどうしてだろうか。中国の著名人はどうして日本人妻をめとるのか。私はやはりあの一言に遡ると思う。「世界で何が最も良いか。どこが天国か。“天国とは、アメリカの給料、中国料理、イギリスの家、日本人の妻である。”」
■ 確実,日本女子的魅力,挙世聞名。她們櫻花般的艶麗、温順、嫵媚、典雅,蝴蝶夫人式的情意纏綿、生死相従,已経有許多藝術作品描絵過。20世紀以来,中国的許多文化名人,不僅曾在文字上表達対于日本女子的観感,而且在実際生活里,擁有日本愛人。
・挙世聞名 ju3shi4wen2ming2 世の中で誰でも知っている。[類似語]聞名于世 遐迩聞名[反義語]默默无聞
・嫵媚 wu3mei4 (女性、花などが)なまめかしい。あでやかである。
・情意纏綿 qing2yi4chan2mian2 情がこまやかである
・観感 guan1gan3 観察した後の印象と感想
確かに、日本女性の魅力は、たいへんよく知られている。彼女たちは、桜の花のように鮮やかで、従順で、あでやかで、マダム・バタフライのように情がこまやかで、生死を共にしてくれ、多くの芸術作品の中に描かれている。20世紀以来、中国の多くの文化人は、文字の上で日本女性の印象を表現しただけでなく、実際の生活でも、日本人妻を持った。
■ 徐志摩以《沙揚娜拉》一詩,将日本女子歌成極品:最是那一低頭的温柔,像一朶水蓮花不勝涼風的嬌羞,道一声珍重,道一声珍重,那一声珍重里有蜜甜的憂愁-沙揚娜拉!
徐志摩は《さよなら》の詩の中で、日本女性を最高のものとして歌いあげている。「あの低く頭を下げたしとやかさといったら、スイレンの花が涼風に持ちこたえられないようにはにかんでいる。一声、「お大事に」と言う。一声、「お大事に」と言う。あの「お大事に」ということばの中に甘い憂いがある。-さよなら!」
■ 另一位風流人物郁達夫的見識就豊富多了,他在《雪夜》里写道:“日本的女子,一例地是柔和可愛的;她們歴代所受的,自開国到如今,都是順従男子的教育。并且因為向来人口不繁,衣飾起居簡陋的結果,一般女子対于守身的観念,也没有像我們中国那麼固執。又加以纏足深居等習慣毫無,操労工作,出入巷里,行動和男子無差;所以身体大抵総長得肥碩完美,決没有臨風柳弱,瘦似黄花等的病貌。更兼島上火山礦泉独多,水分富含異質,因而関東西靠山一帯的女人,皮色滑膩通明,細白得像磁体,至如東北内地雪国里的嬌娘,就是日本也有雪美人的名称,她們的肥白柔美,更可以不必説了。所以諳熟了日本的言語風習,謀得了自己独立的経済来源,揖別了血族相連的親戚弟兄,独自一人在東京定住以后,于旅舍寒灯的底下,或街頭漫歩的時候,悩乱我的心霊的,是男女両性間的種種牽引,以及国際地位落后的悲哀。”
・肥碩 fei2shuo4 (果実が)よく実って大きい。(体が)大きく太っている
・滑膩 hua2ni4 すべすべしてきめの細かい
・諳熟 an1shu2 熟練する。熟知する
・揖別 yi1bie2 拱手(きょうしゅ。両手を胸の前で組み合わせておじぎをする、中国式の挨拶)して別れる
もう一人の風流人、郁達夫の見識はもっと豊富で、彼は《雪夜》の中でこう書いている。「日本の女性は、例えばやさしくかわいらしい。彼女たちが歴代受けてきたのは、開国以来今日まで、男性に従順であれ、という教育である。またこれまでずっと人口が多くなく、衣服や日常生活が粗末であった結果、一般の女性の身を守る観念が、我々中国のように執拗ではない。それに加え、纏足(てんそく)して家の奥深くで暮らすという習慣が皆無で、あくせく働き、町を出歩き、行動は男性と変わらない。したがって、体はたいていよく太って美しく、決して風にそよぐ柳のように弱々しかったり、菊の花のようにやせ細ったりということはない。また島国で火山や鉱泉が多く、水分にミネラルを豊富に含むことから、箱根の東西の山地の付近一帯の女性は、皮膚がきめ細かくつややかで、陶磁器のように白く、東北の内地の雪国の若い女性は、日本でも雪国美人の名称があり、彼女たちのふっくらと白く美しいことは、言うまでもない。したがって日本の言語習慣に習熟し、自ら独立する経済的な糧を求めて、親戚兄弟に拱手(きょうしゅ)して別れ、一人東京に住まいを定めて以後、旅の空でも、街をそぞろ歩いても、私の心をかき乱すのは、男女間の様々なかけ引きや、国際的な地位が低いことの悲哀である。」
■ 郁達夫的処女作也是成名作《沈淪》的主題,則是他対于日本女子的愛憎交織的複雑情緒。在他的小説里,日本女子若非“可望不可及”的良家尤物,就是玩弄中国学子感情的蕩婦。而日本男人几乎都是中国学子的情敵,奪他所愛,給他傷害。主人公対他們充満敵意,同時又陷入自卑感。郁達夫除了曾在日本嫖歌舞伎以外,従未享受過異国愛人的艶福。
・沈淪 chen2lun2 落ちぶれる。零落する
・可望不可及 ke3wang4bu4ke3ji2 遠くから眺めるだけで近づけない。望んでも到達できない。“可望不可即”、“可望不可親”ともいう。
・尤物 you2wu4 優れた人や物。美人
郁達夫の処女作で、有名な《沈淪》のテーマも、彼の日本女性に対する愛憎の交錯する複雑な感情である。彼の小説の中で、日本女性は「遠くから眺めるだけで近づけない」箱入り娘であり、中国人の学生を弄ぶ、尻軽女である。そして日本人の男性はほとんどが中国人の学生の恋敵であり、彼の愛したものを奪い、彼を傷つける。主人公は彼らに敵意を充満させ、同時に劣等感に陥る。郁達夫は日本で芸者を買ったことがある他は、異国の愛人の艶福を享受したことがなかった。
■ 中国名人娶日本妻子的例子很多,挙不勝挙。
・挙不勝挙 ju3bu4sheng4ju3 枚挙にいとまがない。=不勝枚挙
中国の著名人で日本人の妻子をめとる例はたいへん多く、枚挙にいとまがない。
■“名将之花”蒋百里迎娶日本妻子。軍事学家、前陸軍大学代理校長蒋方震(百里)的愛妻左梅(佐藤氏),原是日本駐華公使館的看護長,也是日本女子。在奉派看護蒋百里時,両人相互由敬慕生愛而結合。他們的女儿、鋼琴家蒋英留学徳国,后来成了銭学森的妻子。所以人們開玩笑説:銭学森是半個日本女婿呢。
「名将の花」蒋百里は日本人の妻子をめとった。軍事学者で、前陸軍大学代理校長、蒋方震(百里)の愛妻、左梅(佐藤氏)は、元日本駐華公使館の看護長で、日本人女性であった。蒋百里の看護に派遣され、二人はお互いに敬慕し合い、愛が生まれ、結ばれた。彼らの娘は、ピアニストの蒋英で、ドイツに留学し、後に銭学森の妻になった。したがって人々は冗談でこう言う。銭学森は半分は日本人の娘婿であると。
■ 蒋百里被誉為中国最有才的軍事学家,抗戦期間因労累過度在睡夢中猝死。当時,馮玉祥在香港報上発表文章,一口咬定,説蒋是被妻子打毒針致死的。女儿蒋華知道后,立即打電報堅決否認。左梅追随丈夫終生,跟従他抗日,早就断絶了与日本娘家親人的一切来往,也不教孩子們説日本話。蒋百里死后,她一直留在中国為蒋家守寡,1978年在京去世。
・猝死 cu4si3 突然死する
・一口咬定 yi1kou3yao3ding4 一言で断言する
・守寡 shou3gua3 後家を通す
蒋百里は中国で最も才能のある軍事学者であると称えられ、抗日戦争期に過労のため、睡眠中に突然死した。当時、馮玉祥は香港の新聞紙上に文章を発表し、蒋は妻子に毒薬を注射されて死んだと断言した。娘の蒋華はそれを知ると、直ちに電報を打ち、それを断固否定した。左梅は終生夫に付き従い、彼と抗日に従事し、とっくに日本の実家の親族とは一切の連絡を絶ち、子供たちにも日本語を話させなかった。蒋百里の死後、彼女はずっと中国に留まり蒋家の為に後家を通し、1978年に北京で亡くなった。
■日本郡主嫁給前清皇弟溥傑。嫁給前清皇弟溥傑的日本郡主嵯峨浩,是才貌双全的貴族。在溥傑出獄后仍回到婆家団聚,最后死在中国。她回娘家在日本的時期,堅決要求大女儿嫁一個中国丈夫:“你父親是中国人!你是中国人的女儿!応該按照中国人的礼節,遵父命嫁給中国人!”結果竟造成大女儿和日本男友双双殉情。周恩来得知后,還曾過問此事。
・郡主 jun4zhu3 王族の娘
・才貌双全 cai2mao4shuang1quan2 才色兼備
・団聚 tuan2ju4 別れ別れの肉親や親友が集まる。団欒する
・双双 shuang1shuang1 ふたりそろって
・殉情 xun4qing2 愛情のために命を絶つ
日本の王族の娘が清朝の皇帝の弟、溥傑に嫁いだ。清朝の皇帝の弟、溥傑に嫁いだ日本の王族の娘、嵯峨浩は、才色兼備の貴族であった。溥傑の出獄後も、実家に帰り肉親と再会したが、最後は中国で亡くなった。彼女が実家の日本に戻っていた時期、長女にある中国の男性に嫁ぐよう強く言いつけた。「あなたの父親は中国人です。あなたは中国人の娘です。中国人の礼節を守り、父親の命を守り中国人に嫁ぎなさい。」その結果、遂には長女は日本人の恋人と心中してしまった。周恩来はこのことを知り、
■郭沫若与陶晶孫的連襟情誼。1892年,郭沫若出生在四川楽山。1914年7月考取官費留学日本,進入東京第一高等学校預科。預科畢業后転入岡山第六高等学校攻読医学。安娜原名佐藤富子,1895年出生在日本仙台,父親佐藤右衛門是基督教牧師。安娜21歳那年,母親佐藤初没跟女儿商量便給她訂了親,安娜離家出走,来到了位于京橋区的東京聖路加病院,做了一名護士。在這所教会医院里相識,浪漫才子郭沫若与佐藤富子相愛同居。這段姻縁,中日両国人民耳熟能詳。
・連襟情誼 lian2jin1qing2yi4 姉妹の婿同士のよしみ
・攻読 gong1du2 専攻する
・耳熟能詳 er3shu2neng2xiang2 聞き慣れているので詳しく説明することができる
郭沫若と陶晶孫は姉妹の婿同士のよしみである。1892年、郭沫若は四川省楽山に生まれた。1914年7月、日本への官費留学の試験に合格し、東京第一高等学校の予科に入学した。予科卒業後、岡山第六高等学校に転入し、医学を専攻した。安娜の元の名は佐藤富子で、1895年仙台に生まれ、父、佐藤右衛門はキリスト教の牧師であった。安娜が21歳の年、母親の佐藤初が娘に相談なく彼女の縁談を決めたので、安娜は家を出、京橋区にある東京聖路加病院で看護士になった。このミッション系の病院で知合い、ロマンチストの才子、郭沫若と佐藤富子は愛し合い、同居した。この二人の縁(えにし)は、中日両国の人々はよく聞いて知っている。
■ 而陶晶孫作為郭沫若的連襟兄弟,他的異国情縁,則鮮為人知。陶晶孫在日本帝国大学跟郭沫若一起学医,娶了佐藤富子的妹妹佐藤操。陶晶孫是無錫北塘人,生于1897年,不到10歳就随父親去了日本。28歳畢業后担任帝国大学医学部教授助理,后来回国做了上海東南医学院教授。1930年父親要他回郷開設医院,謹遵父命,陶晶孫創立“厚生医院”。
陶晶孫は郭沫若の義理の兄弟になったのであるが、彼の異国での情誼の縁は、知る人が少ない。陶晶孫は日本帝国大学で郭沫若と共に医学を学び、佐藤富子の妹の佐藤操を娶った。陶晶孫は無錫北塘の人であり、1897年に生まれ、10歳にならぬうちに父親に従い日本にいった。28歳で卒業後、帝国大学医学部の教授助理となり、後に帰国し上海東南医学院の教授となった。1930年父親が彼に郷里に戻り開業するよう要求すると、父の命を守り、陶晶孫は“厚生医院”を創設した。
■ 陶晶孫多才多藝。他是中国現代預防医学与寄生虫研究的先駆;他在小説、音楽、美術等方面都有一定造詣,1927年出版小説集《音楽会小曲》;他精通日文和徳文,翻訳過一些文学作品。佐藤操受過良好的教育,喜愛文藝,她与陶晶孫相識的時候,在仙台一所女子学校当英語教師,他們的浪漫交遊由鋼琴開始。
陶晶孫は多才多芸であった。彼は中国現代予防医学と寄生虫研究の先駆者であった。彼は小説、音楽、美術等の面で造詣があり、1927年に小説集《音楽会小曲》を出版した。彼は日本語とドイツ語に精通し、いくつかの文学作品を翻訳した。佐藤操は十分な教育を受け、文芸を好み、彼女は陶晶孫と知合った時、仙台のある女学校の英語教師をしていたが、彼らのロマンスはピアノから始まった。
■ 郭沫若娶的姐姐佐藤富子,改称中国姓名為郭安娜;陶晶孫的妹妹佐藤操,改称中国姓名為陶弥麗。無論命運如何坎坷多難,她們一直成為家庭的支柱,忠于中国丈夫,并把中日聯姻的結晶-混血儿子女全都撫養成人,受畢高等教育。佐藤姐妹倆都是典型的日本式賢妻良母,可敬可佩。
・坎坷 kan3ke3 (道の)でこぼこ。不遇である。
郭沫若が娶った姉の佐藤富子は、改名して中国名、郭安娜となった。陶晶孫が娶った妹の佐藤操は、改名して中国名、陶弥麗となった。運命が如何に不遇であっても、彼女たちはずっと家庭の支柱となり、中国人の夫に忠実であり、また中日の国際結婚の結晶である混血の子女を成人に育て上げ、高等教育を受けさせた。佐藤姉妹二人は典型的な日本式の良妻賢母で、敬服すべきである。
■ 辜鴻銘与康有為的日本情縁。辜鴻銘認為:日本女子,即使是貧苦的下層女子身上,也有某種名貴的気質,她們柔弱、温順、純潔、敏感、真誠、高雅、甜蜜、勇敢、女人味十足;這種気質,本為古代(特別是漢唐)中国女子所有;可惜宋代以后,由于理学変得越来越庸俗,越来越小気,逐漸閹殺了這種可貴的気質。因此,若想找回能够体現中華文明的理想女子,只有到日本去尋求了。辜鴻銘対日本女子的賛揚并非紙上談兵,而有実践体験:他娶日本女子吉田貞為小妾,甚至到了没有她調理就不能入睡的程度。
・十足 shi2zu2 満ち満ちている
・理学 li3xue2 理学。性理学。宋、明代の唯心論哲学思想。朱熹などを代表とする客観的観念論と、王陽明を代表とする主観的観念論を含む。
・庸俗 yong1su2 俗っぽい。卑俗である。
・紙上談兵 zhi3shang4tan2bing1 机上の空論
辜鴻銘と康有為の日本での情誼の縁。辜鴻銘はこう考えていた。日本の女性は、たとえ貧しい下層階級の女性の身にも、ある種気高い気質があり、彼女たちは柔らかで弱弱しく、従順で、純潔で、敏感で、誠実で、高雅で、甘く、勇敢で、女性としての味わいが満ち満ちている。こういった気質は、元々古代(特に漢、唐)中国の女性も備えていたが、残念なことに宋代以降、理学が益々卑俗になり、益々ケチくさくなり、次第にこうした尊い気質を消し去ってしまった。したがって、中華文明を体現できる理想の女性を捜そうと思うと、日本に行って捜すしかない。辜鴻銘の日本女性に対する賛辞は机上の空論ではなく、実践体験がある。彼は日本女性、吉田貞を妾とし、彼女が世話をしてくれないと寝ることもできない程であった。
■ 康有為晩年娶了日本少女市岡鶴子為小妾。1911年6月7日,康有為応梁啓超之邀,従新加坡移居日本,次年春,搬至須磨“奮豫園”,適妻子何旃理懐孕,儿女又年幼,便雇了16歳的神戸少女市岡鶴子作女傭。1913年康有為回国不久,市岡鶴子也来到了上海。在辛家花園的遊存廬,鶴子正式成了康有為的第四妾。1925初,28歳的鶴子懐了身孕,這年康有為68歳。秋,鶴子回日本生下一女,取名凌子。有人伝言康凌子并非康有為的骨肉。鶴子甚至但求一死以表清白。堅貞壮烈不下于蝴蝶夫人。
・堅貞 jian1zhen1 節操を固く守ること
康有為は晩年、日本人の少女、市岡鶴子を妾にした。1911年6月7日、康有為は梁啓超の招きに応じ、シンガポールから日本に居を移し、翌年春、須磨“奮豫園”に引越し、ちょうど妻の何旃理が妊娠し、子供たちも幼かったので、16歳の神戸の少女、市岡鶴子を女中として雇った。1913年に康有為が帰国して間もなく、市岡鶴子も上海に来た。辛家花園の遊存廬で、鶴子は正式に康有為の四番目の妾になった。1925年初め、28歳の鶴子は懐妊したが、この年、康有為は68歳であった。秋、鶴子は日本に戻り一女を生み、凌子と名付けた。康凌子は康有為の実の子ではないとうわさする者がいた。鶴子は遂には一死を以って身の潔白を証明しようとした。貞節壮烈なこと、蝶々夫人にも劣らない。
■ 回顧歴史,孫中山、梁啓超、蒋介石、周恩来、汪精衛等留学日本的革命家都找過日本愛人,且許多人与日本女人結過婚,所以,“中日応子子孫孫友好下去”,此話意味深長呀。
歴史を振り返ると、孫中山、梁啓超、蒋介石、周恩来、汪精衛等の日本に留学した革命家は皆日本人の愛人をみつけ、その多くは日本女性と結婚したことがある。したがって、「中日両国は子々孫々仲良くしなければならない」という話は意味深長である。
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読んでみると、興味本位の内容ではなく、中国近代の革命家たちと日本女性のかかわり、その気質を称えたお話であり、非常に読後感が爽やかである。また、女性の描写表現も参考になると思う。
■ 我講一個故事你可以告訴台湾同胞。在元朝有一位画家叫黄公望,他画了一幅著名的《富春山居図》,79歳才開始創作的,完成之后不久就去世了。几百年来,這幅画輾転流伝,但我知道,現在一半放在浙江博物館,一半放在台北故宮博物院,我希望両半幅画什麼時候能合成一整幅画。画是如此,人何以堪。
私はひとつの物語を台湾の同胞の皆さんにお話することができる。元朝の時代に黄公望という画家がいて、彼は有名な《富春山居図》を描いた。79歳で創作を開始し、完成後間もなく世を去った。数百年来、この絵は次々と人手に渡り、転々としたが、私の知っているところでは、現在は半分が浙江博物館にあり、半分が台北の故宮博物院にある。私はふたつの絵がいつの日かひとつの絵に合わさることができたら、と望んでいる。絵がこのようであるのに、人はこのような悲しみをどうして我慢できるだろう。
・輾転流伝 zhan3zhuan3liu2chuan2 次々と人手に渡り、転々とする
・人何以堪 ren2he2yi3kan1 このような苦しみ、悲しみをどうして我慢できるだろう。
[出典]《世説新語》 原文:“昔年種柳,依依漢南。今看揺落,凄愴江潭。樹猶如此,人何以堪”。また“物猶如此,人何以堪”と書かれる場合もある。 堪:耐え忍ぶ。こらえる。
杭州、台北両相望 《富春山居図》合璧会有期
人民網記者 陶世安
2010年03月26日 来源:人民網-《人民日報海外版》
杭州、台湾双方は《富春山居図》が一か所に並べられることが実現することを望んでいる
・合璧 he2bi4 二つのものをいっしょに並べること。“璧”は薄くドーナツ状に作った玉の装飾品。
■ 温総理提到的這幅伝世名画,由元代著名画家黄公望在79歳時創作,全図以浙江富春江為背景,用墨淡雅,山水布置疏密得当,墨色濃淡干湿并用,極富于変化,是黄公望的代表作,被称為中国十大伝世名画之一。
温総理が語ったこの歴史的名画は、元代の著名な画家、黄公望が79歳の時の創作であり、絵全体が浙江省の富春江を背景にし、墨のあっさりした趣で、山水は密度が適当で、墨の濃淡、乾湿を併用し、変化に富んでおり、黄公望の代表作で、中国の十大歴史名画の一つに称される。
融衆家之長 与造化争神
多くの画家の優れた点を融和し、大自然と素晴らしさを競い合う
■ 黄公望,字子久,江蘇常熟人,与呉鎮、王蒙、倪瓚并称“元四家”,声望最高。
黄公望、字は子久、江蘇省・常熟の人で、呉鎮、王蒙、倪瓚と共に、「元四家」と称せられ、中でも声望が最も高い。
■ 他的山水画師法董源、巨然,并受到趙孟頫的熏陶,融衆家之長為一体。他又“臥青山,望白雲”長期生活在大自然中,更加深了対山水的深刻理解。
彼の山水画の師は法董源、巨然で、また趙孟頫の薫陶を受け、それぞれの長所を融和し一体とした。彼はまた、「青山に臥し、白雲を望む」長期の生活を大自然の中で行い、山水の深い理解をより奥深いものにした。
■ 最初,黄公望結茅于杭州郊外赤山筲箕泉,后往虞山,“探閲虞山朝暮之変幻,四時陰霧之気韵,得之于心而行于画。”
最初、黄公望は杭州郊外赤山筲箕泉に庵を結び、その後、虞山に行き、「虞山の朝夕の変化を探索し、始終、陰霧の気運に触れ、心に感じたところを絵にした。」
■ 晩年的黄公望来到富春江,定居下来。這里有六朝文人呉均賛美的“奇山異水,天下杜絶”的迷人景致。黄公望終日沈浸其中,眼前景、胸中筆,彼此交滙通融,解之切,感之深。
晩年、黄公望は富春江にやって来て、ここに居住した。ここは六朝の文人、呉均が賛美した「奇山異水,天下杜絶」の人をうっとりさせる景色である。黄公望は一日中その中に浸り、眼で前景を追い、心の中で筆を走らせ、それらを集約し融和させ、解釈は適切で、感動は深かった。
■ 誠如明人李日華在《紫桃軒雑綴》中所記:“陳郡丞嘗謂余言:‘黄子久終日只在荒山乱石叢木深顛中坐,意態忽忽,人不可測其為何。又毎往泖中通海処看急流轟浪,雖風雨驟至,水怪悲詫而不顧。’噫!此大痴之筆,所以沈郁変化,几与造化争神奇哉!”《富春山居図》是其最為后世瞻仰的偉大作品。
・瞻仰 zhan1yang3 仰ぎ見る
誠に明の李日華が《紫桃軒雑綴》の中で書き記しているように、「陳郡丞が嘗て私に語ったことには、「黄子久(公望)は終日、ただ荒山乱石叢木の中に座り、ぼんやりしているように見えるが、それがどうしてかは他人には推し量れない。また水の流れの穏やかなところから海に通じるところで急流や轟く波を見るたび、風やにわか雨にあっても、流れの様子が変わっていて、物悲しいと、気にもかけなかった。」ああ!こんな変わった人の筆によるので、流れの静まりや変化を、大自然とそのすばらしさを競い合っているのだ!」《富春山居図》は後世の人々に仰ぎ見られる偉大な作品である。
■ 為了最完美的芸術境界,黄公望苦心孤詣,嘔心瀝血,歴経三四年,在82歳完成這幅作品。原作為6張紙連成的画卷,高尺余,長約二丈。作品描写富春江一帯的初秋景色。画面上山巒起伏,丘壑連綿,逶迤変化,不可端倪;樹木亭台,村台小橋,漁舟人物等,錯落穿插,安排有致,甚得平淡天真之趣。観画者鄒之麟在題跋中写道:“筆端変化鼓舞,右軍之蘭亭也,聖而神矣!”黄公望専意于山水画,水墨紛披,蒼率瀟洒,境界高曠,把董、巨一派山水画推向了画壇主流地位。他善用湿筆披麻皴,為明清画家大力推崇,存世作品有《富春山居図》、《溪山雨意図》、《快雪時晴図》、《九峰雪霽図》、《富春大岭図》、《九珠峰翠図》等。
・苦心孤詣 ku3xin1gu1yi4 苦心して他の追随を許さない成果を収めること
・嘔心瀝血 ou3xin1li4xue4 苦心して文章を書くこと。心血を注ぐ
・山巒起伏 shan1luan2qi3fu2 起伏の多い連山。
・逶迤 wei1yi2 道、山、川などがくねくねと続きている様
・披麻皴 pi1ma2cun1 山水画で山や岩の立体感を出すための技法である皴法(しゅんぽう)のひとつで、麻の葉に似ていることからこの名がある。
最も完成した芸術の境地に至るため、黄公望は苦心惨憺、心血を注ぎ、三四年を経て、82歳でこの作品を完成させた。原作は6枚の紙をつなげて絵巻物とし、高さ1尺余り(約30cm)、長さは約2丈(6.6m)。作品は春江一帯の初秋の景色を描いたものである。画面の上で、山並は起伏し、丘や谷は連綿と続き、くねくねと変化し、際限がない。樹木亭台、村台小橋、漁舟人物などが錯綜し、配置がおもしろく、極めて平淡、天真の趣がある。絵を見た鄒之麟は題辞の中でこう書いた。「筆端の変化が鼓舞し、右軍の蘭亭なり、聖なるかな、神なるかな!」黄公望は専ら山水画を得意とし、水墨が伸び広がり、墨が青々としてあか抜けており、気高く伸び伸びとした境地に達していて、董、巨一派の山水画を画壇の主流に持ち上げた。彼は湿筆、披麻皴の技法を得意とし、明清の画家に大いに尊敬され、現存する作品には、《富春山居図》、《溪山雨意図》、《快雪時晴図》、《九峰雪霽図》、《富春大岭図》、《九珠峰翠図》等がある。
神品伝世路 曲折復坎坷
神品の世に伝わる道は、紆余曲折、不遇であった
■ 《富春山居図》問世后,被人視為神品。此画是黄公望為謝無用道士所作,画卷上黄氏題跋云:“至正七年(1347年),僕帰富春山居,無用師皆往。暇日于南楼援筆写成此卷。興之所至,不覚亹亹布置如許;逐漸填答,閲三四載,未得完備。蓋因留在山中而雲遊在外故尔。今特取回行李中,早晩得暇,当為著筆。無用過慮,有巧取豪奪者,俾先識卷末,庶使知其成就之難也。……”由此可知這幅長卷創作之艱難曲折。
・巧取豪奪 qiao3qu3hao2duo4 (金品や権利を)だまし取ったり力ずくで奪ったりする
《富春山居図》が発表されると、人々は神品と見做した。この絵は黄公望が謝無用道士のために作ったもので、画卷の黄氏の題辞に言う。「至正七年(1347年)、私は富春山居に帰り、無用師も同行した。暇な時に南楼で筆の援けでこの巻物を書いた。興味の至るところであるが、知らず知らず時間が経ち、このような按配である。次第に答えを埋め、見ること三四年、未だ完成しない。蓋し山中にいたり外を雲遊したりしているためであろうか。今、行李の中から取り出し、朝晩暇をみて、筆を走らせている。無用はたいへん心配して、だまし取ったり力ずくで奪う者がいるだろうから、先に卷末でその成就するの難しきを知らしめるようにと言う。」ここから、この巻物の創作の艱難辛苦、紆余曲折が窺える。
■ 《富春山居図》一度為無用和尚擁有。明成化年間,由書画家、“呉門派”始祖沈周高価購得。以后,此卷几度易手,明万暦二十四年(1596年),為董其昌購得。崇禎九年(1636年),董其昌将画押給了宜興人呉正志。清初,呉正志伝子呉之矩,之矩伝子洪裕。呉洪裕在家中特建“富春軒”藏之,愛若至宝,順治七年(1650年)臨終之際,竟嘱人将此図投入火中,焚以為殉。眼看墨宝化作青煙,其姪呉子文乗其不備,以別画易之,迅速従火中搶出《富春山居図》。遺憾的是,画已焼成両半。前段較小,称“剩山図”;后段画幅較長,称“無用師卷”。此后,較長的后半部為呉子文收藏。
《富春山居図》は一度は無用和尚の所有となった。明成化年間、書画家で、“呉門派”の始祖、沈周が高価で購入した。その後、この巻物は何度か持ち主が代わり、明万暦二十四年(1596年)、董其昌が購入した。崇禎九年(1636年)、董其昌は絵を質の糧に宜興人呉正志に渡した。清初、呉正志は子の呉之矩に伝え、之矩は子の洪裕に伝えた。呉洪裕は家に“富春軒”を建てこれを蔵し、至宝のように愛した。順治七年(1650年)臨終に際し、この絵を火に投じ、燃やすことで自分に殉じさせるようにと言いつけた。水墨の宝が青い煙に化していくのを見て、その姪の呉子文は皆が目を離した隙に、これを別の絵とすり替え、急いで火の中から《富春山居図》を取り出した。残念なことに、絵は既に焼けてふたつの部分になっていた。前半はやや小さく、“剩山図”と呼ばれる。後半の絵は比較的長く、“無用師卷”と呼ばれる。その後、比較的長い後半部分は呉子文の收藏するところとなった。
■ 后段《富春山居図》頗多磨難。順治十四年,即焼図后的第八年,画家程正揆在泰興季寓庸処見過此画,可見其時《富春山居図》已易主。程正揆臨倣一本,于題跋中予以説明。后高士奇、王鴻緒、安岐等一度成為《富春山居図》的擁有者。乾隆十年(1745年),乾隆皇帝広征名画,此卷被征入宮。1925年,北平故宮博物院成立,此図入藏其中。1931年,日本侵占東三省,北平岌岌可危,為免不測,包括《富春山居図》在内的近百万件故宮文物被運往南方,1948年輾転到了台湾,后入藏台北故宮博物院。
・岌岌可危 ji2ji2ke3wei1 危険きわまりない
後段の《富春山居図》は多くの困難に遭った。順治十四年、すなわち絵が焼かれてから八年後、画家の程正揆は泰興に寄寓していた時、この絵を見かけたが、このことからその時《富春山居図》は既に持ち主が代わっていたことがわかる。程正揆はこの絵を模写し、その題辞でそのことを説明している。後に高士奇、王鴻緒、安岐等が《富春山居図》の所有者となった。乾隆十年(1745年)、乾隆皇帝は広く名画を徴収し、この絵も徴収され、宮廷へ入った。1925年、北平故宮博物院が成立し、この絵もそこに収められた。1931年、日本が東部三省を侵略占領した際、北平は危険きわまりない情勢となり、不測の事態から免れるよう、《富春山居図》を含む百万件近い故宮文物が南方に運ばれ、1948年に移され、後に台北故宮博物院に収められた。
■ 重新装裱后的“剩山図”卷,在康熙八年(1669年)為王廷賓所得,后来就湮没無聞輾転于諸收藏家之手。至抗日戦争時期,為近代画家呉湖帆所得。在浙江博物館供職的沙孟海得此消息,心想,国宝在民間輾転流伝,保存不易,只有国家收藏,才是万全之策。于是数次去上海与呉湖帆商洽,暁以大義。呉得此名画,本無意転譲。但沙先生并不灰心,仍不断往来沪杭之間,又請出銭鏡塘、謝稚柳等名家従中周旋。呉湖帆被沙老至誠之心感動,終于同意割愛。1956年,経歴了300余年的曲折伝承,“剩山図”卷入藏浙江省博物館。
・湮没無聞 yan1mo4wu2wen2 (人材などが)世に知られずうずもれる
・至誠之心 zhi4cheng2zhi1xin1 あふれる真心
新たに表装し直した“剩山図”は康熙八年(1669年)王廷賓の所有となり、その後世に知られずうずもれ、何人かの収集家の手を転々とした。抗日戦争時期になり、近代画家の呉湖帆の所有となった。浙江博物館で職務についた沙孟海はこの知らせを聞き、心の中で、国宝が民間で人手を転々とするのは、保存が容易でなく、国家の収蔵こそ、万全の策だと思った。そして何回も上海へ行き、呉湖帆と交渉し、大義を知らしめようとした。呉はこの名画を得て、元々譲渡するつもりはなかった。しかし沙先生が気落ちすることなく、絶えず上海と杭州を行き来し、また銭鏡塘、謝稚柳等の著名人に周旋を依頼した。呉湖帆は
沙孟海のあふれる真心に感動し、遂に割愛に同意した。1956年、300余年の紆余曲折の伝承を経て、“剩山図”は浙江省博物館に収められた。
明清倣臨本 迷倒乾隆爺
明清の模写 乾隆老を惑わす
■ 明清画家中多人倣臨過《富春山居図》,有籍可査的就有沈周臨本(現藏北京故宮博物院)、周穎侯臨本、向摹本、鄒之麟拓本、沈摹本、程正揆臨本、王翬摹本、呉歴臨本、王宸摹本、貫潜倣本等。這些臨本,除沈周的背臨本外,向、鄒之麟所倣的可能是《富春山居図》全景,其余多倣臨残卷。臨摹本各具特色,如沈周評価自己的摹本為“物遠失真”,不很像原作;向摹本則“略得大意”等。臨摹本中確実有摹得好的倣品。
明清の画家には《富春山居図》を模写した者が多くおり、書籍から調べられるものは、沈周の模写(現・北京故宮博物院蔵)、周穎侯の模写、向の模写、鄒之麟の拓本、沈の模写、程正揆の模写、王翬の模写、呉歴の模写、王宸の模写、貫潜の模写などがある。これらの模写は、沈周の模写を除き、向、鄒之麟の模写は《富春山居図》の全景である可能性があり、その他は残巻の模写である。模写はそれぞれ特色があり、例えば沈周は自分の模写を「本物とは遠くかけ離れている」と評価し、原作とは異なっている。向の模写は「おおよそ大意を得たり」としている。模写の中にも確かに優れた模写がある。
■ 1745年,《富春山居図》被征入宮。乾隆皇帝以《富春山居図》帰入内府上等品,“乾隆御覧之宝”、“石渠宝笈”、“乾隆鑑賞”、“三希堂鑑璽”、“宜子孫”五印,并題詩一首。此后50余年,乾隆皇帝不時将画卷取出欣賞,且時常在画上留詩題句,加蓋鑑賞印,長達6米的巨幅画卷空白処,几乎填満了乾隆的御書、藏印,可見乾隆対此画的珍愛。就在此図征入内府的第二年,即1746年,地方官又呈進一幅《富春山居図》!両図一模一様,難辨真偽。乾隆皇帝経多方対比論証后,認定被他題詩、印的前一幅是黄公望真跡,后者是贋品。由于后者近乎完美无瑕,簡直到了“以假乱真”的程度,乾隆同時收入内府收藏。両幅《富春山居図》皆著録于《石渠宝笈》。
・以假乱真 yi3jia3luan4zhen1 本物の中に偽物を混ぜる。偽物を本物と言って人をだます。
1745年、《富春山居図》は徴収され宮廷に入った。乾隆皇帝は《富春山居図》を内府上等品とし、“乾隆御覧之宝”、“石渠宝笈”、“乾隆鑑賞”、“三希堂鑑璽”、“宜子孫”の五印を捺印し、題詩一首を著した。その後50年余り、乾隆皇帝は時々画卷を取り出して鑑賞し、時には絵の上に詩や文を題し、更に鑑賞印を押し、長さ6mに達する大きな画卷の空白部分は、ほとんど乾隆の御書、蔵書印で埋め尽くされ、乾隆のこの絵に対する愛着が見て取れる。この絵が内府に徴収された二年目、すなわち1746年、地方官がまた一幅の《富春山居図》を献上した。ふたつの絵は瓜二つで、真偽の判断がつかなかった。乾隆皇帝は多方面から対比論証の後、彼が題詩を著し、印を押した前者こそ黄公望の真跡であり、後者は贋作であると認定した。後者は完ぺきで欠点がなく、「偽物を本物と言って人をだます」域に達しており、乾隆はこれも同時に内府に収め、収蔵した。二枚の《富春山居図》は何れも《石渠宝笈》に記録されている。
■ 清亡后,清宮所藏両幅《富春山居図》的真偽問題被提了出来。持不同意見者各執己見,争論不休。近年,有人以有力的証据推翻了乾隆皇帝的判断,認定1746年入宮的《富春山居図》是黄公望原作,被乾隆皇帝定為真跡的“石渠”本,応該是清順治庚寅到丁酉之間的摹作。曠日持久的争辧有了結論。而今,這両卷《富春山居図》都存放在台北故宮博物院,不論是真、是摹,都已成了画苑奇葩,這也為《富春山居図》増添了伝奇色彩。
・曠日持久 kuang4ri4chi2jiu3 時間を無駄に費やして事を長引かせること
・奇葩 qi2pa1 珍しい花
清滅亡後、清宮所蔵の二枚の《富春山居図》の真偽問題が提出された。異なる意見を持つ者が各々自分の見解を主張し、論争は止むことがなかった。近年、ある人が有力な証拠により乾隆皇帝の判断を覆し、1746年に宮廷に入った《富春山居図》が黄公望原作であると認定し、乾隆皇帝が真跡と定めたものは“石渠”本とされ、清順治庚寅から丁酉の間の模写であるに違いないとした。いたずらに時間を費やした論争に結論を出した。現在、これら二巻の《富春山居図》は何れも台北の故宮博物院に置かれており、真跡であれ模写であれ、もはや画苑の奇花となっており、このことも《富春山居図》に伝奇的色彩を加えている。
両岸斉努力 神品定合璧
両岸がいっしょに努力し、神品を一つに戻そう
■ “画是如此,人何以堪。”温家宝総理深情講起元代黄公望名作《富春山居図》“分居”大陸、台湾両地的故事,言辞懇切,令人動容。総理提到的“杭州博物館”,就是浙江省博物館;浙江富陽正是《富春山居図》的故郷,作品里描絵的也正是富春江岸的秀麗風光。多年来両岸画家和有識之士多方努力,希望《富春山居図》早日“破鏡重圓”、合璧重輝。今年恰逢《富春山居図》問世660周年。争取《富春山居図》合璧展出,更是浙江各界努力多年的心願。
・言辞懇切 yan2ci2ken3qie4 言葉づかいが丁寧である
・破鏡重圓 po4jing4chong2yuan2 離散または離縁した夫婦が再びいっしょになる。元のさやに収まる
「絵がこのようであるのに、人はこのような悲しみをどうして我慢できるだろう。」温家宝首相は元代黄公望の名作《富春山居図》が大陸、台湾の両地に「別居」している話を感慨深く話したところ、言葉づかいが丁寧であり、人々を感動させた。総理が言った“杭州博物館”とは浙江省博物館のことで、浙江富陽は正に《富春山居図》の故郷であり、作品の中で描写されているのは富春江岸の美しい風景である。何年にもわたり両岸の画家、有識者が多方面から努力しており、《富春山居図》が早期に「元のさやに収まり」、再び一つになって輝きだすことを希望する。今年はちょうど《富春山居図》が世に出て660周年に当たっている。この期に《富春山居図》を一つに並べて展示することは、浙江各界が何年も努力してきた心からの願いである。
■ 令人高興的是,浙江省博物館与台北故宮博物院已就《富春山居図》合璧展出有了実質性接触。台北故宮博物院已明確発出邀請,希望“剩山図”卷能够到台湾,与“無用師”卷合璧展出。浙江省博物館希望,《富春山居図》在台湾合璧展出后,能够在祖国大陸完整展出。台北方面為此還需付出努力。一張660年的伝世名画,一件承載着太多悲歓離合的伝奇国宝,跨越海峡,合璧重圓,該何等的盛事!両岸同胞正熱切地期待着。
・悲歓離合 bei1huan1li2he2 別れ、めぐり会いなど世の中の喜びや悲しみ、人生の常ならぬ移り変わり。変転不沈。
喜ばしいことに、浙江省博物館と台北故宮博物院は既に《富春山居図》の合同展示について実質的な接触を行っている。台北故宮博物院は明確に招請を出し、“剩山図”巻が台湾に来て“無用師”卷と合同展示を行えることを希望している。浙江省博物館は、《富春山居図》が台湾で合同展示を行った後、祖国大陸で完全な展示を行えることを希望している。台北方はこのため、尚努力する必要がある。一枚の660年伝えられてきた名画、あまりに多くの悲喜・離合を繰り返してきた伝説の国宝が、海峡を越え、割れた玉がひとつに合わさることは、なんとすばらしいことであろうか!両岸の同胞は心から期待している。
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以前、NHKの《故宮》という番組で、北京、台北の二つの故宮博物院に分かれて収蔵されている文物を紹介していたが、実際の文物の交流展示が進みそうだ。
今年は、従来は台湾から大陸への一方通行の経済投資であったものが、大陸企業の台湾投資もスタートする。既に観光目的で大陸から台湾への入国も活発化している。
アメリカから武器購入といった、きな臭い話もあるが、双方の関係はより発展し、新たな一歩を踏み出しそうである。