人々は孔子を「聖人」と呼び、荘子を「神人」と呼ぶ。孔子が儒家の代表であるなら、荘子は道家の化身である。荘子の文章は、自由奔放な想像力に満ち溢れ、辛辣な風刺や皮肉に満ち溢れている。荘子の思想は、私達現代人に、どのような啓示を与えてくれるのだろうか。
■[1]
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・身家 shen1jia1 本人とその家や家庭。
・叮当 ding1dang1 [擬声語]金属や磁器がぶつかり合う音。ちりんちりん、かちん、という音を表す。
・家財万貫 jia1cai2 wan4guan4 巨万の財産。
・富比連城 fu4 bi3 lian2cheng2 富の豊かさの程度が隣り合った幾つもの町を越えるほどの大金持ちであること。
・異化 yi4hua4 異化する。同じ、或いは相似の物が次第に違った物に変化すること。
・文凭 wen2ping2 証書。一般には卒業証書を指す。
・心為形役 xin1 wei2 xing2yi4 心や気持ちが生活や功名心に駆られ、それに酷使されること。
・不値得 bu4zhi2de ……する値打ちが無い
・諡号 shi4hao4 (死者に対し、故人を称えてつける)おくり名。
・辛棄疾 xin1 qi4ji2 南宋の詩人。
・了却 liao3que4 果たす。
・身后 shen1hou4 死後。
□[1]
実際、私たちは今日、たった10元の金しか持っていない人であっても、必ずしもその人の幸福が、その家に何万もの資産を持つ人に及ばないとは限らない。つまり、その手にどれだけの金銭を持っていようと、決して心の中の重さを決めることはできないのだ。実際、現在の社会で、最も幸福な人は、貧しくて何も無くてすっからかんの人でもなければ、巨万の財産を持った、富がいくつもの町に跨るような人でもなくて、しばしば衣食に困らない程度から、まずまず安定した暮らしができる人である。それというのも、そういう人たちの生活のベースは、それほど困窮している訳でもなく、また財産に縛られ、それが転じて、財産のことを心配するまで至っていないからである。実際、はっきり言って、私たちはおそらく、ここに座っておられる一人一人が、この社会の多数を占めるだろうが、幸福になる資格のある人であるが、幸せかそうでないかは、心の持ち方による。
実際、このような人を見たことがある。私の友達の一人は、マスコミ出身で、後に不動産業を始め、資産は益々増えた。マスコミを離れる時、彼はとても悲しそうで、彼が言うには、マスコミの仕事は自分の一生で最も好きな仕事だったのだが、どうして不動産の仕事に変わらないといけないかというと、子供ができたら、子供に責任を持たないといけない、子供に幸せな生活を送らせてやらないといけない。彼は、だから自分の心に背き、もっと大きな金銭的な利益を得ないといけないと言った。その後、彼は結婚し、たいへんかわいい子供ができた。その時、彼はそこそこ金を儲け、生活もまずまずであるように思えた。その後、彼は移民しなければいけないと言った。実際、ある遠い遠い国に移民し、先ず奥さんに子供を連れてその国へ行かせ、自分は国内に残って金儲けをしている。それで私たちは尋ねた:あなたはどうしてこのように奥さんや子供と離れ離れでいるの。あなたはあんなに子供をかわいがっていたのに、どうして子供と別れるの。彼の答えは、おそらく皆さんは想像できないだろう。彼はこう言った:自分達の今の財産であれば、この子がもし国内で学校に上がると、私は毎日この子が誘拐されないか心配しないといけない。だから自分は子供を遠くに行かせるのだと。実際、これは皆さんとは関係の無い話だが、もし皆さんの身近でこのような事が起こったとしても、この“利”が本当に大きければ大きいほど良いと言うだろうか。
今、ネット上で流行っている、こんな話がある。人生なんて何枚かの紙きれのために過ぎないと言う。一生は何枚かの紙きれのためにある。それは金であり、何枚かの人民元紙幣のためである。それは名声であり、何枚かの賞状、証書、功績記録のためである。人が死んでからは、それは墓誌銘のためであり、紙銭を燃やすためである。一生のことを考えてみると、本当に何枚かの紙に過ぎない。荘子が生きていた時代は、これらの物はあまり重要視されなかった。だから、“利”で彼を縛ることはなかった。彼はこう感じていた:自分が心配しているのは、“利”のために自分の自由や心の機智が失われてしまうことで、自分が功名心に駆られる程の値うちも無いと思うように心掛けた。この道理は、或いは高尚な人は理解できるかもしれない。けれども、その次の段階の、名を捨てることは、利を捨てることよりも難しい。多くの人は、自分は金のために動かされることはないと言う。けれども、私たちは古今到来、どれだけ多くの人が生前、死後一つのおくり名を追封されるよう努めてきたことか。君王から彼は忠であったとか、孝であった、文、武であったと。これはおくり名にいつも見られることである。このおくり名が墓誌銘に刻まれさえすれば、その人は生前の一切の失ったものをこの永遠の墓碑の上で補うことができると思っていたに違いない。これこそが辛棄疾のいわゆる、君王が天下の事を果たし、生前に死後の名声を勝ち得たとしても、悲しいかな、その時には老いさらばえて白髪頭になっている。人の一生というものはこのように過ぎていくのだ。
ことわざに、「雁は過ぎて声を留め、人は過ぎて名を留める」という。利を捨てることは容易でないが、名を捨てることは更に難しい。どれだけの人が、利のためには惑わされずとも、名のために惑わされたことか。たとえ高潔な人でも、名を歴史に残すことを望むものである。それでは、荘子は名声を気に留めなかったのか。高い官位や名誉を前にし、荘子はどのような態度を取ったのか。
■[2]
・雄才大略 xiong2cai2 da4lve4 [成語]傑出した知力と遠大な計略。(主に歴史上の偉人についていう)
・遊蕩 you2dang4 ぶらぶらと働かずに遊びまわる。
・梧桐 wu2tong2 アオギリ。
・栖 qi1 鳥が木に止まる。
・猫頭鷹 mao1tou2ying1 フクロウ。ミミズク。
・嘎 ga1 [擬声語]アヒルや鵞鳥のガアガアという鳴き声。
・名位 ming2wei4 名誉と地位
□[2]
荘子は名声を気にしなかったのだろうか。荘子という人は、傑出した知力と遠大な計略を持っていたが、自ら進んで語ろうとしなかった。なぜなら、世の中の人が迷って悟っていないのに、真面目な事を言っても仕方がないからである。人間社会で、彼は対話すべき前提を何も持たなかった。天地はたいへん美しいが、自ら語ろうとはしない。だから彼は自分からは何も話そうとしなかった。このようにして、彼は各地をぶらぶらと歩き回った。この時、彼はちょうど彼の良き友、恵施と出会ったのである。恵子という人は梁国で宰相をしていた。荘子はぶらぶらとちょうど梁国にやって来た。そうすると多くの人が恵子に駆け寄って言った。荘周という人は弁舌の才があり、雄弁なことといったらあなたを遥かに上回る。彼が話をしないと考えてはいけない。もし話し出したら、あなたの相手ではない。実は、恵施は当時、有名な《堅白論》を著し、天下に聞こえた雄弁家であった。恵施はそれを聞くと、焦り、恐れた。梁国は大きくないので、配下の者を動員し、街中で荘子を捜した。必ず彼を探し出し、決して彼が直接、梁恵王に会わせないようにした。万一、宰相の位を彼に与えたらどうしよう。荘子はこの話を聞き、彼の方から恵子を訪ねてやって来た。
恵子:あなたの方から私を訪ねて来られたのは何か特別な目的があるのですか。荘子:南方に宛雛(鳳凰のような鳥)という名の鳥がいて、南海から北海に飛ぶ時、こんなに遥かな道のりであるのに、アオギリの木でなければ休まず、竹の実でなければ食べず、甘泉でなければ飲まないそうです。ある日、宛雛が一羽の鴞鳥(フクロウの仲間の猛禽)の頭上を飛んでいると、この鴞鳥はちょうど腐ったネズミを食べているところでした。鴞鳥は宛雛がネズミを奪い取らないよう、上を向いて一声鳴き叫びました。あなたは今、私にガアガアと一声鳴き叫ぼうとしているのですか。名誉や地位は、俗世間に対しては、設ける必要があるでしょうが、高い智慧のある人にとっては、旅館のようなもので、記念として残す値打ちもないものです。
■[3]
・順道 shun4dao4 通りすがりの。
□[3]
実は、これが荘子の考えている“名”である。もちろん、皆さんはこう言うかもしれない:これは通りすがりのことで、彼は元々、その宰相の位を狙っていたのではない。しかも梁国は小国なので、彼は気にかけていなかったと。けれども実は更に大きな宰相の地位が届けられたのだ。皆さんは楚国が大国であることをご存じだろう。私たちは先ほど斉国、楚国、秦国が大国であると言った。これは戦国時代の最も大きな三国である。それでは、楚王が大臣を荘子の所に遣わし、自ら彼を訪ね、楚国の宰相の位を彼に授けたいと望んだ。荘子はその時、何をしていたか。当時、彼は自由気儘に蒲水で魚釣りをしていた。この時、二人の大臣が来、うやうやしく彼に、我が国の事を、よろしくお願いします、と語った。たいへん丁寧に、出仕して宰相になってほしいと頼んだ。荘子はここでまた物語を語り始めた。たいへん回りくどいけれども。
荘子:聞くところによると、楚国に神亀がいたそうで、三千年前に死んで、その骨は宗廟に置かれ、占いに使われているそうです。神亀は死んで骨を留め、人に厚く敬われることを望んでいるでしょうか、それとも生きて泥の中を転げまわっていたいと思うでしょうか。大臣:きっと、泥の中を転げまわっていたいと思うでしょう。荘子:それなら、お帰りなさい。私も亀と同じで、尻尾を引きずって泥の中で転げまわっていたいので。
■[4]
・労頓 lao2dun4 疲労する。疲れ切る。
・交待 jiao1dai4 申し開きをする。
・堂而皇之 tang2 er2 huang2zhi1 公然と。堂々とした。
・淪陥 lun2xian4 陥落する。
・無事忙 wu2shi4mang2 つまらない事で忙しいこと。
□[4]
荘子はその時、一笑して彼らに、私は尻尾を引きずり泥の中で暮らしたい、どうかお帰りください、と言った。実はこれが、荘子が家に届けられた名誉に対し、取った態度である。皆さんはお分かりになっただろうか。人の心はどうしたら自由でいられるのか。自由とは、自分が気に留めないからである。実際、人の一生は、本当に気にかけた事情によってのみ、真に拘束されるべきものである。だから、人生の疲れが積み重なったら、先ず目的は何か問うてみるべきである。多くの事が互いに繋がって循環している。ひょっとすると、あなたのところが起点であるかもしれず、自分に対する申し開きは、たいへん高尚な答えである。例えば、家人のため、自分の成果のため、社会貢献のため、というように。言ってみると、すばらしい名声である。しかし、背後に隠された動機は何であったのか。私達は一人一人、心に問うてみるべきだ。これは私たちが名声や利益を得るために、公然と口実をつくっているのではないか。時には、名利のために先に少しずつ引っ張り込まれ、人が余計な事でばたばたするという人生の隘路に陥ってしまっているかもしれない。
(この項続く)
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