中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

『徐霞客遊記』を読む(2)遊雁宕山日記

2021年10月04日 | 中国文学

 

雁宕山yàndàngshānは雁蕩山(発音は同じ)のことで、浙江省温州市楽清市東北に位置しています。約1億年前に火山活動によって誕生した山塊が、長い年月をかけて侵食され、奇妙な岩峰となって残ったものです。山頂に湖(また「蕩」と言う。「蕩」は浅い湖のこと)があり、昔は湖が年中涸れることがなく、春に雁が北に帰る時、多くこの地に宿ったので、「雁蕩山」と呼ばれるようになりました。徐霞客は明の万暦41年(1613年)、天台山に続き、4月9日から15日までの間、雁宕山を巡りました。同行奢は天台山と同じく、江陰迎福寺の蓮舟和尚でした。文章では、苦労して登攀する過程と、途中で見た特異な風景を記述し、歩くにつれ景観が変化する、雁宕山諸峰と龍湫瀑布の姿が生き生きと描かれています。最後に、作者は、山の頂上に登り、雁湖を探したいと願いますが、道が険しく危険で、結局雁湖まで行きつくことができませんでした。

 

 

四月九日、台山(天台山)を離れ、黄岩(今の台州市黄岩区)に着いた。日は既に西に傾き、南門を出て三十里歩き、八嶴ào(浙江、福建の沿海部での山間の平地の呼称)に宿泊した。

天台山と雁蕩山の位置関係

 

十一日、二十里行き、盤山嶺(浙江省楽清市山門郷)に登る。雁宕山の諸峰を望むと、芙蓉の木が天を衝いて聳えていた。一片一片の花びらのような景色が見る者の目に飛び込んできた。また二十里行き、食事を大荊驛(驛站。昔の宿場。楽清市東北で、黄岩との境界)で取った。

行程:大荊→接客僧→東石梁洞→霊峰寺→霊岩寺

 

南に一本の渓流を渡ると、西側の山の峰に丸い石が一個あるのが際立ち、召使たちは二頭の駱駝岩だと言い、私は老僧岩ではないかと疑ったが、どうもそれらしくはなかった。五里行き、章家楼(大荊驛の南、明の人、章巘が建てた)を過ぎ、初めて老僧岩(接客僧)の本当の姿が現れた。

老僧岩

 

袈裟を着て、頭のてっぺんが禿げあがり、本当に人のような姿で直立していた。高さはおよそ百尺(30メートル)。傍らには一人の子供が腰を曲げ背中を曲げて後ろをついて来るかのような石像があったが、通常は老僧によって覆い隠されてしまっていた。章家楼を出て二里行くと、山の中腹に石梁洞(東石梁洞)があった。

石梁洞

 

洞窟の入口は東に向いており、洞窟の入口に石梁(石橋)があり、洞窟のてっぺんから斜めに地面まで挿し渡され、空の虹が垂れ下がっているかのようだった。石梁の側面の隙間から一層一層と階段を上がると、上面は高く広々としていた。座ってしばらく休憩してから、下に降りて出発した。右側の山麓から謝公嶺(楽清県東北。晋の詩人、謝霊運が曾てこの地を遊覧したことから名付けられた)を越え、一本の渓流を渡り、渓流に沿って西へ向かった。これは霊峰(高さ270メートルほど。右側の倚天峰と合わせると手のひらのように見えることから、「合掌峰」、「夫妻峰」と呼ばれる)へ向かう道であった。山の中腹を回るやいなや、両側の岩壁が切り立って直立し、天まで届くほどで、険しい峰が何重にも重なり合い、その姿かたちは様々であった。あるものは刀で削られたように直立し、あるものは峰の群れに取り囲まれたようであり、あるものはタケノコが並んだよう、あるものはまっすぐ伸びた霊芝のようであり、あるものは筆のように直立し、あるものは頭に被る頭巾のように斜めに傾いていた。洞窟の入口は巻かれたとばりのようになっており、池の淵は清く澄んだ藍のような青色だった。双鸞峰、五老峰が翼を接するように並んでいた。このように数里進み、霊峰寺に着いた。

霊峰

霊峰寺

 

寺の横の山道に沿って、霊峰洞に登った。霊峰の真ん中は中空になっていて、特異な感じで寺の後ろに聳えており、側面には隙間があって、中に入ることができた。隙間のところから数十段の石段を登ると、洞窟の上に直接到達できた。

霊峰洞

 

その一番奥の平らな台の周りは広くなっていて、そこには十八羅漢などの塑像が置かれていた。台に座ってあたりの景観を眺め、日が暮れて暗くなってから霊峰寺に戻った。

 

十二日、 食後、霊峰の右側の山すそから碧霄洞を探しに行った。もと来た道を引き返し、謝公嶺の麓に着いた。南側から響岩を経て五里進むと、浄名寺(北宋の太平興国二年(977年)建立)への分かれ道だった。更に進んで水廉谷を探した。水廉谷は、両側の崖が迫り、崖のてっぺんから水が流れ落ちる所だった。水廉谷を出て五里行くと、霊岩寺(北宋の太平興国年間建立)に着いた。

霊岩寺

 

ここでは四方が絶壁に取り囲まれ、切り立った崖が天を衝くように聳え、曲がりくねった小道が中に通じ、まるで別の広い世界が開かれたかのようであった。霊岩寺はその真ん中に位置し、南に向き、背後は屏霞嶂píngxiázhàng(「嶂」は屏風のように切り立った山)であった。

屏霞嶂

 

屏霞嶂の頂上は平らで整っており、岩石は紫色を呈し、高さは数百丈(300メートルあまり)あり、幅と高さはつり合いが取れていた。屏霞嶂の最も南のところには、左側に展旗峰、右側に天柱峰があった。

霊岩寺付近

展旗峰

天柱峰

 

屏霞嶂の右脇に、天柱峰を介して、先ず最初に見ることができるのは龍鼻水(龍鼻洞)である。

龍鼻水(龍鼻洞)

 

龍鼻水の洞穴は、岩の隙間からまっすぐ上を向いていて、霊峰洞のようであったが、大きさはやや小さかった。洞穴内の岩石の色は黄みがかった紫色で、ただひとつある隙間にはひとすじの石紋があり、赤みがかった青色でしっとり湿っていて、龍の鱗や爪のような形をしていた。洞窟の頂上から洞窟の底までつながっていて、落ち込んだ一方の端は人間の鼻のようで、鼻の先端の石の穴は手の指を入れることができ、水は石の穴から下に垂れ、石の盆に注ぐようになっていた。これが屏霞嶂右側の第一の奇景である。屏霞嶂の西南には独秀峰があり、天柱峰より小さいが、高さと岩の鋭利さは遜色なかった。

独秀峰

 

独秀峰の下は卓筆峰で、高さは独秀峰の半分、岩石の鋭利さはどちらもほぼ同じである。

卓筆峰

 

南側の山間の平地には、滝が轟音を響かせ流れ落ちていた。これが小龍湫瀑布(落差70メートル)である。

小龍湫瀑布

 

小龍湫瀑布を隔てて独秀峰と相対しているのが玉女峰である。玉女峰の頂上にはあでやかで美しい春の花が満開に咲き誇り、玉女のもとどりに挿した装飾のようであった。

玉女峰

 

ここから双鸞峰を経て、天柱峰が一番端に位置していた。双鸞峰はふたつの峰が並んで聳えているだけだった。峰の端にが「僧拜石」があり、袈裟を纏い、背中が曲がっている様子で、年老いた僧侶のようであった。屏霞嶂の左脇から、展旗峰を介して中間の場所は、一番前が安禅谷で、安禅谷はすなわち屏霞嶂の下の岩である。南東の面は石の屏風で、形状は屏霞嶂に似ているが、高さ、幅はそれぞれ屏霞嶂の半分で、ちょうど屏霞嶂の端に挟み込まれている。石の屏風のてっぺんには「蟾蜍石」(ヒキガエル石)があり、屏霞嶂側面の「玉亀石」と相対している。石の屏風から南に行くと、展旗峰側面のしわの中に、細い道がまっすぐ峰のてっぺんまで通じていて、石段の終点は、石の敷居で隔てられている。体を石の敷居でかがめて覗き見ると、下は地面が見えず、頭の上には高い天空がはめ込まれている。展旗峰の外にはふたつの丸い穴が開いていて、側面には長い穴がひとつあり、光が穴から中に差し込み、格別の境地である。これが「天聡洞」で、屏霞嶂の左側の第一の奇景である。

天聡洞

 

尖った峰と高い山が重なり合い、左右がめぐって相対し、奇異で緻密な景観が次々現れて尽きず、本当に天下の奇観に恥じないものである。一方、小龍湫瀑布の水は下に流れ、流れは天柱峰、展旗峰を経て、石橋が渓流の上に横たわり、霊岩寺の山門は石橋に面している。石橋の外側は、含珠岩が天柱峰の麓にあり、頂珠峰は展旗峰の上にある。これもまた霊岩寺の外観である。

 

十三日、霊岩寺の山門から出発し、山麓に沿って右に進む。道は崖だけが見え、岩壁は高さがまちまちである。流れる霞と山間の色彩が互いに照り映えていた。高く険しく、頂上が平たく横に延びているのが、板嶂岩である。板嶂岩の下に聳える、尖って狭いのが、小剪刀峰である。更に前へ進み、折り重なった岩の上に、まっすぐしっかりした峰がまっすぐ雲天に刺さっているのが観音岩である。

観音岩

 

観音岩の側面には馬鞍嶺が前方に横たわっていた。険しい山道が曲がりくねり、山間の窪地を越えて右に曲がり、渓流は力強く流れ、谷川の川底の石は細かい砥石のように平らであった。山間の渓流に沿って進み、霊岩寺をおよそ10里あまり離れ、常雲峰を経て、大剪刀峰が渓流の傍らに単独で聳えているのが見えた。大剪刀峰の北面には重なった岩が突然聳え立っていた。これは連雲峰と呼ばれている。ここから、山は輪を描き水は巡り、峰は向きを変え岩壁は合わさり、遂には崖が尽きた。大龍湫瀑布(落差197メートル)の水は、轟きながら流れ落ち、まっすぐ池の淵を打った。

大龍湫瀑布

 

岩が開けてそそり立ち、流れ落ちる水は川床で受け止められることなく、空中に舞い上がり、空を漂い、下に落ち、しばし見る者はめまいをおぼえ、恐れおののいた。池の淵の上方には寺の廟が建てられ、伝え聞くところでは、諾詎那羅漢(伝説では、唐代、眉州(今の四川省)の人で、羅堯運と呼ばれ、最初、雁蕩山に入り、大龍湫で滝を見て、悟りを開き、仙人になったと言われる)が滝を眺めたところだと言う。廟堂の後ろから石段に沿ってまっすぐ登ると、岩壁の上に高殿(亭榭)が鳥が羽を広げたように鎮座していた。滝の方を向いて胡坐をかき、しばらく眺めてから、山を下り、庵に戻って食事をした。しとしと降る雨は降りやまず、一方私の心は早くも雁湖の山頂に飛んでいた。雨の中、常雲峰に至り、常雲峰の中腹の道松洞の外から、たいへん険しい石段を三里あまり登り、急ぎ白雲庵に赴いた。人はおらず、庵は既に崩れ、一人の僧が草むらにいたが、客が来たのを見て、ちょっと眺めるとどこかへ行ってしまった。更に一里進むと、雲静庵があり、それでここに投宿した。清隠和尚はもう病で伏して十年になるが、なお客と談笑することができた。私は周囲の山が黒い雲ですっぽり覆われ、細かい雨が止まないのを見て、もの寂しいやら寒いやらで、明日朝の旅程を心配せざるを得なかった。

 

十四日、天気が思いがけず晴れてきたので、清隠和尚に無理を言ってお願いし、和尚の弟子に道案内をしてもらった。清隠和尚は、雁湖は一面雑草が生い茂り、荒れ果てた土地になってしまっていて、そこに行っても、他に見るべき所は無いが、私たちを峰の頂上までは送ってあげると言ってくれた。私は、峰の頂上に着きさえすれば、雁湖を遊覧できると思った。それで、各自が手に杖を持ち、深い雑草の生い茂る道を登り、一歩行く度に息を切らして数里の道を進み、ようやく高い峰の頂上に到達した。四方を一望すると、白雲が一面に広がり、白色が山の峰の下に平たく敷かれていた。ひとつひとつの峰は雲海に咲く花のようで、峰のてっぺんだけが露出し、太陽の光が峰の頂の上を照らした。この景観はまるで氷を盛った玉の壺のようで、けがれの無い真っ白な玉の台は神仙の世界のようで、どこに雲海があり、どこに山や川、陸地があるか、見分けることができなかった。しかし、その雲海の中の玉環山は軽やかな一筋のリボンのようで、身をかがめれば手で拾えるかのようであった。北の遠くの方を望むと、山間の窪地の中の岩壁が削り立ち、その中を石筍がびっしりと密生しており、大小まちまちで不ぞろいだった。三方を緑の木々で覆われた山の崖がぐるりと取り囲み、景色は霊岩寺よりもっと美しかった。しかし渓谷は人里離れ、地形は急峻で、たださらさらと流れる水音だけが聞こえ、それがどこから聞こえてくるのか判断できなかった。はるか四方を眺めれば、山の峰や尾根が折り重なり、低く伏せたものは小さな土まんじゅうのようで、ただ東側の山の峰だけが昂然とひとり上に高く聳え、最も東側の常雲峰が、なおこれに匹敵できそうだった。道案内をしてくれた僧は別れる時、指さしながら雁湖は西側の中ほどの山の峰の上にあり、あと尖った山を三つ越えなければならないと言った。私は道案内の言に従い、尖った山をひとつ越えたところで、道は途絶えてしまった。もうひとつ山を越えようと、登ろうとする山の頂上を見ると、そこはもう天空への途中であった。私は、こう考えた。『大明一統誌』に、「雁蕩(雁湖)は山頂に在り、龍湫瀑布の流水は、すなわちこれ雁蕩から来る」とある。現在、山の地勢は次第に下降しており、一方、龍湫に上がる渓流は、東側の高い峰から源を発していて、ここからは渓谷をふたつ隔てている。それで、行程を改め東に行き、東側の諸峰の中の高く険しい峰を目指して行くべきだと。蓮舟和尚は疲労困憊していて、私に付いて来ることができなくなった。和尚はもと来た道を下山し、私と二人の召使が東に向け山嶺をふたつ越えると、人跡は完全に消え失せた。更に、前方の山は益々高く、山の尾根は益々狭隘になり、両側を挟む岩壁は直立し、刀の背の上を進んでいるかのように感じられた。しかも石の角は切っ先が突き出ていて、尾根をひとつ越える度に、急峻な峰に遭遇し、刀や剣のように鋭利な石片の隙間をよじ登った。このようにして何度か登ったが、地勢は足を踏み入れるのも困難なほど狭いのに、どうやったらこの上に湖を収容することができるのだろうか。既に高い峰が尽きる所では、石の壁が刀で割ったように切り立ち、私はずっと鋭利な石片で手が切れやしないか心配だったが、ここまで来ると、足を置く石すら無くなってしまった。崖の上で再三躊躇したが、もと来た小道を引き返すこともできなくなった。見下ろすと南側の岩壁の下には石段があったので、召使たちが足に巻いていた布を四本脱がせて、それを結んで縄にし、断崖の上からぶら下げ、先ずひとりの召使を布に沿って降ろし、私が二番目に後に付いて降りて、そうすればよじ登る道が見つかるだろうと考えた。石段のところまで降りると、わずかに足を踏み入れることができるだけで、それ以上余分な空間は無かった。はるかに岩壁の下を見下ろすと、たいへん急峻で、深さは百丈もあり、なんとか再びよじ登ろうとしたが、上方に岩石が空中に三丈あまりの高さで突き出たところがあり、飛び越えることができなかった。手で布の縄を引っぱり、試しに上に登ろうとしたが、布の縄は飛び出した鋭利な石で締め付けられ、突然切れてしまった。もう一度布の縄をつなぎ直してそれをぶら下げ、力の限り布の縄を引っ張って空中に飛び跳ねて跳躍し、再び上方の岩の上に登ることができた。なんとか危機を脱し、雲静庵に戻った時、太陽は既に西に沈もうとしていた。私と召使たちの衣服と靴は皆破れてぼろぼろになり、雁湖を見つける興味も大いに減退してしまった。それで清隠和尚とお弟子さんに別れを告げ、下山し、再び龍湫瀑布に行った。渓流の水は雨水を蓄え、荒れ狂ったかのように勢いを増して流れ落ち、形勢の変幻は極めて大きく、滝は雪を噴き上げるかのようで、水の音の大きさは雷鳴が轟くようで、水の勢いは昨日の二倍に増していた。空が暗くなるまでずっと座ってから、ようやく山門を出、南に四里道を行き、能仁寺に宿泊し休息した。

 

十五日、能仁寺の裏山でシホウチク(四方竹。中国語は「方竹」。中国中・南部が原産、一般のタケ類は円柱形の茎をもつが、このタケだけは鈍四稜形の茎を有する。竿は杖として用いられる)を何本も探した。

四方竹

 

竹は木の枝のように細く、竹林で新しく成長した竹は、大きいもので直径が一寸(3.3センチ)あったが、柔らかくて、杖にするにはふさわしくなかった。古い竹はもうほとんど刈り取られてしまっていた。それで、分かれ道から四十九盤嶺を経て、一路東海に沿って南に向かい、窯嶴嶺を越え、楽清県へ向かった。



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