中国語学習者のブログ

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《西蔵和平解放60年》白書に見る、チベットの歴史(1)

2011年07月21日 | 中国史

 今年は、チベット解放60周年ということで、7月17日に習近平副主席を代表とする代表団がチベット・ラサに入り、記念式典が開催されました。一方、ダライラマ14世はワシントンでオバマ大統領と会見、中国政府の動きに牽制をかけました。
 チベットの動きというのは、こうした時々表面化するダライラマと中国政府の軋轢や、青蔵鉄道に代表される中国のチベット開発の動きなどは耳にするものの、チベットの歴史については、あまりよく知られていないのが実態ではないでしょうか。
 7月11日に国務院新聞弁公室より、《西蔵和平解放60年》白書が発表されました。この冒頭で、中国側公式見解としてのチベットの歴史が記されています。今回は、このチベットの歴史について、取り上げたいと思います。

 白書、White Paperというのは、元々イギリス政府が外交報告書の表紙に白紙を用いたことからこの名があるようですが、現在は一般に政府の公式の調査報告書のことを言います。中国語では、“白皮書”bai2pi2 shu1と言います。

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■[1] 
 ( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます。)


・戍辺 shu4 bian1 国境を守る
・多封衆建 duo1feng1 zhong4jian4 明朝のチベット政策の説明で使われ、チベット僧を“国師”などの名称で分封し、チベットをチベット族による封建統治を実施したことをいう。
・貢市 gong4shi4 外国や異民族の商人を政府使節に同行させ、指定する場所で交易をさせること。
・覊縻 ji1mi2 つなぎとめる。籠絡する。
・金瓶掣籤 jin1ping2 che4qian1“掣籤”はくじを引くこと。“金瓶”は“金奔巴瓶”ともいい、高さ34cm、口径12cm、腹部の直径21.3cm、重さ2.8Kgの黄金でできた壷で、中に5本の同じ大きさのクジ引き用の象牙の棒が入れられた。チベット仏教では活佛の後継者は童子に生まれ変わる(“転世霊童”という)とされ、その童子が本当に活佛の生まれ変わりかどうかを見分ける方法として、清の乾隆帝の時に制度として定められた。
・革除ge2chu2 罷免する。

□ 13世紀、元朝は釈教総制院と宣政院を設立し、チベットの軍政事務を直接管理し、正式にチベットを元朝の行政管轄下に入れた。その後、元朝はチベットの管轄を次第に規範化、制度化した。その中には、チベットの行政機構の直接の掌握、チベットの地方官吏の任命権、駐屯軍の国境守備、数度に亘るチベットの人口・戸籍調査が含まれた。明は元の制度を踏襲し、チベット僧による分封や、貢市の実施による籠絡を行った。清朝はチベットの管理を強化した。清朝皇帝は1653年、1713年にそれぞれダライラマ5世、バンチェンラマ5世を冊封し、これより正式にダライラマ、バンチェンアルダニの封号と、彼らのチベットの政治、宗教的地位が確定した。1727年、清朝は駐蔵大臣を設置し、清朝を代表しチベット地方行政の監督を行った。1751年、清朝は正式にダライラマ7世にチベットの行政を管轄させ、郡王掌政制度を廃止し、4人のガルンから成るチベットの地方政府を設立した。1793年、清朝はグルカ人勢力の侵入を除き、有名な《欽定蔵内善後章呈29条》を公布し、清朝のチベット統治の種々の制度を完成させ、ダライラマ等の活佛の転生は“金瓶”を使ってのクジ引きを経て認定され、朝廷に報告して承認を得るものとした。清朝はその後、5人のダライラマのうち3人を「金瓶でのクジ引き」により認定し、2人は清朝皇帝が金瓶によるクジ引きは不用と認めた。清朝皇帝は更に1706年、ダライラマ6世・ツァンヤンガチェの称号を罷免し、1904年と1910年には前後2回、ダライラマ13世・ラトダンガチェの称号を罷免した。

■[2] 


・頻仍 pin2reng2 たえず。続けざまに。しばしば。(よくない事について用いることが多い)[用例]外患~(外患がしばしば起こる)。

□ 1911年、辛亥革命の勃発で清朝が倒され、中華民国が建国された。1912年3月11日、中華民国最初の憲法である《中華民国臨時約法》で、中央政府のチベットでの主権が明確に定められ、「チベットは中華民国の領土の一部である」と宣言され、「漢族、満州族、蒙古族、回族、チベット族から成る、五族共和の実行」が提起された。7月17日、中華民国政府は蒙蔵委員会を設立し、チベットに対する行政管轄を行使した。1940年、国民政府はラサに蒙蔵委員会駐チベット事務所を設立、中央政府のチベット地区の常設の政府機関とした。歴史上の事実からみて、中華民国期は軍閥の内戦で、内乱が頻発していたが、中央政府は大変困難な条件下でもチベットの主権を維持した。ダライラマ14世・ダンゾンガチェは当時の国民政府から「金瓶でのクジ引き」による活佛位の継承の免除を許可した。国際的にチベットの独立を承認した国家、政府は一つも無い。

■[3]


・淪 lun2 沈む。成り下がる。(悪い状況に)陥る。[用例]~為殖民地(植民地に成り下がる)。
・掀起 xian1qi3 巻き起こる。
・瓜分 gua1fen1 土地や領土を瓜を切るように分割する。
・染指 ran3zhi3 してはならないことに手を染める。手を出す。
・簒改 cuan4gai3 改竄(かいざん)する。
・西姆拉 xi1mu3la1 Simla(シムラ)。インド北部、ヒマーチャル・プラデーシュ州の州都で、インド有数の避暑地。イギリス統治下のインドで、夏の首都として夏季に首都機能が当時の首都、コルコタから移転してきたという。
・唆使 suo1shi3 (悪事を働くように相手を)そそのかす。
・奉命 feng4ming4 命令を受ける。命令を守る。
・照会 zhao4hui4 (外交用語)覚書を提出する。口上書を手渡す。
・破産 po4chan3 (比喩的に用いて)失敗する。破綻(はたん)をきたす。

□ 1840年にイギリスがアヘン戦争を起こしてから、中国は次第に半植民地半封建社会に成り下がってしまった。19世紀末、帝国主義勢力の間で中国分割の狂気の嵐が巻き起こり、イギリスの侵略者達は機会に乗じてチベットに手を出した。イギリス軍は1888年、1903年の前後2回、武装してチベットに侵入したが、チベットの軍・民の抵抗に遭い、失敗した。武装侵略によってはチベットを植民地に変えるという目的を達することができないことから、帝国主義勢力はチベットに親帝国主義の分裂勢力の育成を始め、チベットを中国から分裂させる活動を画策し、「チベット独立」を煽動した。1907年8月31日、イギリスとロシアは《チベット協定》を締結し、初めて国際的な文献の中で中国のチベット地方での主権を「宗主権」と改竄した。1913年、イギリスはシムラ会議を画策し、チベット代表をそそのかし、初めて「チベット独立」のスローガンを唱えさせたが、すぐさま中国政府代表の拒絶に遭った。イギリス代表はその後いわゆる「折衷」案を出し、中国のチベット地方の主権を「宗主権」に改竄し、チベットを「自治」の名目で中国政府の管轄から離脱させようと企てたが、中国政府と人民の断固とした反対に遭った。1914年7月、中国政府代表は命令を守って《シムラ条約》への署名を拒否し、いかなる同様の条約や文書も一切承認しないとの声明を発表し、同時にイギリス政府に口上書を手渡し、ここにシムラ会議は遂に失敗に帰した。1942年、チベット地方政府はイギリス代表の支援の下、突如「外交局」の成立を宣言し、公然と「チベット独立」活動を行ったが、全国の人民、国民政府の反対に遭い、当初の意図を変更せざるを得なかった。

■[4]


・厳正交渉 yan2zheng4 jiao1she4 (外交用語)厳重に抗議する。→よく使われる言葉です。オバマ大統領がホワイトハウスでダライラマと会見したことに対しても、中国政府は“厳正交渉”しました。
・混迹 hun4ji4 まぎれこむ。
・駆 qu1gan3 追い払う。

□ 1947年、イギリスが背後で画策し、チベットから代表を出し、「パン・アジア会議」への参加を招聘し、会場にアジア地図と万国旗を掲げ、チベットを一つの独立国家のように扱ったが、中国代表の厳重な抗議により、会議主催者はそれを改めざるを得なかった。1949年7月8日、チベット地方政府は「共産党がチベットにまぎれこむのを防止する」ことを口実に、国民政府駐チベット事務所の人員及びそれに関係する人員をチベットから追い出すよう命じ、「漢族追放事件」を引き起こした。1949年11月、チベット地方政府はいわゆる「親善使節団」をアメリカ、イギリス、インド、ネパール等の国に派遣することを決定し、「チベット独立」への政治支援と軍事援助を求め、国家分裂の活動を強化した。1949年末、アメリカ人のラウル・トーマスは「ラジオ評議員」の名義で、チベットで「ワシントンがチベットにできるだけの援助を与える」ことができるかを探り、アメリカの雑誌紙上で「アメリカはチベットが独立し自由になることを承認する用意のある」国であると宣言した。1950年上半期、アメリカの銃、弾薬一式がカルカッタ(現コルコタ)経由でチベットに持ち込まれ、中国人民解放軍のチベット進駐に対抗するために用いられた。

■[5]


・緊鑼密鼓 jin3luo2 mi4gu3 [成語]銅鑼や太鼓をしきりに鳴らす。鳴り物入りで。(けなす意味を含むことが多い)
・義師 yi4shi1 正義のために起こした軍隊。義勇軍。
・傾訴 qing1su4 腹を割って話す。思いのたけをぶちまける。

□ 帝国主義勢力とチベット地方政府上層の反動勢力が鳴り物入りで「チベット」独立活動を画策していたのに対し、1949年9月2日、中国共産党は新華社に《外国の侵略者が中国の領土――チベットを併吞するのは決して許さない》という表題の社説を発表する権限を授けた。この社説で、列強がこの百年にチベットを侵略した過程のあらましを述べた後、次のように指摘した:「チベットは中国の領土で、如何なる外国の侵略も決して許さない。チベット人民は中国人民の分かつことのできない一部であり、如何なる外国の分割も許さない。これは中国人民、中国共産党、中国人民解放軍の断固変わることのない方針である。」社説が発表されると、チベット各界は次々とそれに共鳴し、この方針を擁護し、解放軍の早期のチベット進駐を望んだ。1949年10月1日、バンチェンラマ10世は中央政府に電報を発し、「速やかに義勇軍を派遣し、チベットを解放し、帝国主義勢力を駆逐する」よう求めた。11月23日、毛沢東、朱徳はバンチェンラマ10世に返電し、「中央人民政府と中国人民解放軍は必ずやチベット人民のその望みに応えることができるだろう」と応えた。12月2日、元チベット摂政のラチェン5世活佛の近習、ラチェン・イシチュチェンが青海省西寧に赴き、人民解放軍に帝国主義者がチベット内部の団結を破壊する罪行を行っていると訴え、速やかにチベットを解放するよう要求した。1950年初め、チベット族の遊牧民、青年、婦人と民主人士の代表百名余りが解放されたばかりの蘭州で集会を開き、チベットの解放を要求した。西康省甘孜白利寺のゴーダ5世活佛、康北玉隆地区の首領、シャガダオダン、康南の巨商、バンダドゥジが派遣した代表が北京に赴き、中央人民政府の毛沢東主席を表敬し、チベット族同胞が切に解放を願っているとの思いを切々と訴えた。

■[6]


□ 国際情勢の複雑な変化とチベット地方の厳しい局面に対応し、チベット人民の早期解放を求める思いに応える為、1949年12月、毛沢東主席はソ連を訪問し、途中、満州里で中国共産党中央に手紙を出し、「チベット進軍は早期に行うべきで、遅れてはならない」との戦略決定を行った。

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・醞醸 yun4niang4 下準備する。根回しをする。
・西康省:中華民国が設置した省で、中華人民共和国成立後、1950年に西康省蔵族自治区に改名、1955年に廃止された。現在の四川省西部の甘孜蔵族自治州、涼山彜族自治州、攀枝花市、雅安市から、チベット東部の昌都地区、林芝地区にわたる地域。
・借鑑 jie4jian4 手本とする

□ チベット解放を準備し検討する過程で、チベットは特殊な民族地区であることを考慮し、人民解放軍が順調に進駐でき、チベット人民の利益になり、民族の団結の強化に有利になるよう、中国共産党は平和解放の方式を打ち立てた。1949年3月、毛沢東主席は人民解放戦争がやがて全面的勝利となる情勢に基づき、こう指摘した。これから解放を待つ地域は「北京方式」で平和解放の可能性が増えるであろうと。その後、湖南、寧夏、及びチベットに隣接する新疆、雲南、西康等の省が相次いで平和裏に解放され、チベットの平和解放の手本となった。1950年1月20日、チベット地方政府がいわゆる「親善使節」を派遣したことに対し、毛沢東主席は中央人民政府外交部スポークスマンに授権し、次のような談話を発表した:チベット人民が求めているのは中央人民政府の統一の指導下で適度の地域自治を行うことであり、「もしラサ当局がこの原則の下に代表を北京に派遣しチベットの平和解放の問題を話し合うのであれば、このような代表は自ずと受け入れられるだろう。」

■[8]


・勧合 quan4he2 仲裁する。
・啓程 qi3cheng2 旅行に出発する
・征程 zheng1cheng2 長い旅路。道のり。

□ チベットの平和解放実現の為、中央人民政府は多くの政治工作を行った。1950年に、西南局と西北局は前後4回、代表もしくは代表団をチベットに派遣して仲裁を行い、ダライラマ14世、チベット地方政府の代表と中央人民政府とでチベットの平和解放実現の方法を探った。2月1日、西北局が派遣したチベット族幹部、張競成は、青海省人民政府副主席の廖漢生のダライラマ14世と摂政、ダザ・アワンソンラオ宛ての書信を携え、チベットへ赴き連絡を取った。3月末、中国共産党中央の承認と西南局の差配により、チベットの政治・宗教界に良好な関係を持つ漢族の高僧、志清法師が成都から出発してチベットに赴いた。7月には、ダール寺の当才活佛を団長とする青海寺院赴蔵勧和団が西寧から出発した。青海省人民政府副主席で、著明なチベット族学者のシラオガチェはダライラマとチベット族同胞に向けラジオ演説を行い、チベット地方政府が「速やかに全権代表を北京に派遣し平和協議を進める」よう呼びかけた。7月10日、西康省甘孜白利寺の五世格達活佛一行10人が白利寺を出発、チベット仲裁の道へ足を踏み出した。しかしながら、これら一連の仲裁と会話促進の活動は、帝国主義侵略勢力とチベット親帝国主義分裂分子の度重なる妨害を受け、仲裁メンバーは追い出されたり軟禁されたりし、ある代表団はばらばらにされ、ゴーダ活佛は昌都で毒殺された。

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・慫慂 song3yong3 (あることをするように)そそのかす。たきつける。煽動する。
・把持 ba3chi2 (貶義語)地位や権利を独占する。一手に握る。
・陳兵 chen2bing1 兵を配置する。

□ これと同時に、チベット地方政府は帝国主義侵略勢力の煽動とチベット上層の親帝国主義分裂勢力の専横の下、チベット軍を極力拡充し、その主力の7つの代本(師団に相当)が金沙江西岸に沿って昌都を中心とする周辺地区に兵を布陣し、人民解放軍がチベットを解放するのを阻止しようとした。昌都は西南からチベットにはいるのに必ず通らなければならない土地である。1950年8月23日、毛沢東は、昌都を占領することは「チベットの政治変化をもたらし、来年ラサに進軍するのに有利であり」、「チベット代表団を促し北京で折衝し、平和解決を求めることができる可能性がある」と表明した。10月6日から、人民解放軍のチベット進駐部隊は南北二つの路線からそれぞれ金沙江を渡り、昌都解放の作戦任務を遂行した。10月19日、昌都は解放された。そうした状況下で、昌都地区の第1次人民代表会議が開催され、選挙により昌都地区人民解放委員会が誕生し、昌都地区僧侶・一般人民チベット平和解放促進委員会が成立した。昌都戦役は平和折衝の扉を開き、チベット平和解放促進の為、必要条件を生み出した。

(以下次回)

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