中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

北京史(四十二)清代(1644-1840年)の北京(4)

2024年02月09日 | 中国史

順天府衙署

第四節 清朝の政治体制と民衆の蜂起

清朝の北京での地方行政組織

 清代の北京の地方行政組織は、互いに独立した三つの部分で成り立っていた。すなわち、民政を管理する順天府、主に警備の責任を負う九門提督、治安の掌握を主とする五城御史である。

 順天府 清は明に倣い、依然順天府を北京に置いた。衙署(役所)は地安門外にあり、鼓楼の東、すなわち明代の順天府旧址であった。大興、宛平の両県を管轄した。順天府尹(知事)は正三品官(一般の知府は従四品)であった。府尹の下属官には府丞、治中、通判、経歴などがあった。順天府の職権は「京畿治理」(北京首都圏の治安維持)、「刑名銭谷」(刑事訴訟、地租や税金の徴収)などの事務の掌握であった。清の統治者は毎月115日に、全国各州、府、県は、郷約(郷里で皆が遵守すべき規約)により人々全般に康熙皇帝の『聖諭広訓』を読み聞かせなければならないと規定し、京師が所在する順天府はそのうえ「先為開導」(先に諭し導く)し、全国の模範となるよう要求した。科挙の試験では、順天府は郷試、会試の事務を負う以外に、殿試の傳臚日、すなわち殿試の後、皇帝が進士に合格した席次を公布する日にちになると、更に長安門外に榜(掲示)を貼り出し、進士に合格した人の名簿を公布した。府尹、府丞が榜を貼り出すところで、上位三名(状元、榜眼、探花)の合格者に、「髪に花を挿して赤い襷を掛け、府宴(役所主催のお祝いの宴会)へ連れて行って、宴会が終わると、状元をその人の屋敷まで送った」。

清順天府行政管轄区略図

 九門提督  九門提督は、正式な職称が「提督九門巡捕五営歩軍統領」と言い、俗に 九門提督と言った。衙署(役所)は地安門外にあった。九門とは内城の九門、すなわち徳勝門、安定門、東直門、朝陽門、崇文門、正陽門、宣武門、阜成門、西直門を指した。 九門提督は正二品の武官であり、専ら満州族の皇帝の腹心(親信)の大臣が兼務した。その職責は「守衛巡警」(守衛と警官)、「城門合閉」(城門を閉ざす)、「分訉巡緝」(うわさを調べ、捜査して逮捕する)を掌握することだった。

 「儀仗の棍棒を手に、駕籠は前進をせきたてる。横丁を曲がり、振り向いて雷のように叫ぶ。更に鞭を振るって叱咤する。灰色の街並みに威風が沸き起こる。」

これは 九門提督の城をパトロールしている様子であった。

 九門提督とそのグループの権力はたいへん大きく、人々の面前で威風を振りかざし、京城で綿密な統制を行った。北京城はいたるところに堆拨房、つまり巡察兵の歩哨所があり、内外城、及び城壁上に全部で1100ヶ所、城外を併せると1461ヶ所になった。城内の大通りや胡同には方々に柵が立てられ、柵は全部で1746ヶ所あった。どの柵にも出入りするための門があり、起更(最初の夜番が回る時刻で、午後7時)を過ぎると門を閉ざし、「皇帝の命令(奉旨)で遣わされた緊急の軍務であれば、直ちに門を開く」が、それ以外は「王以下の人々は、官民問わず、一律に通行することができず、歩軍校(八旗歩軍営を主管する官職)などはそれぞれ通りを指定して、交替で宿直し、歩軍協尉は引き続きパトロールを行」わねばならず、全城で夜間の外出禁止(宵禁)を実行した。京師の警戒を強化するため、白塔山(すなわち北海の瓊華島)上、及び内城の九門にはそれぞれ信炮(号砲を鳴らす大砲)五門を設置し、旗竿を五基立てた(その後、内城の九門にはそれぞれ大砲を十門、外城の七門には大砲を五門設置することが定められた)。緊急事態になると、号砲を撃って警報を表し、一ヶ所で大砲を撃てば、他の場所の号砲も皆それに呼応した。官兵は砲声を聞くと、直ちにそれぞれ武器を準備し、出撃の命令を待った。

 五城御史 都察院に隷属する五城を巡視する御史で、略称が 五城御史である。京師(首都)は東、南、西、北、中の五城に分かれ、各城毎に満・漢の御史が各一人設けられ、全部で十人である。その下には五城兵馬司指揮、副指揮などの属員がいた。主要な任務は「綏靖地方(地方の支配権を保ち)、厘剔奸弊(不正行為を取り除く)」、「巡緝盗賊(盗賊を捜査して捕まえ)、稽検囚徒(囚人を審査、検査する)」(『清史稿・職官二』)ことであったが、実際には大衆が蜂起し反抗するのを防ぐことだった。このため、 五城御史は「非合法の悪質分子」を逮捕しなければならず、無為、白蓮、聞香など群衆の秘密宗教結社を取り締まった。こうしたいわゆる「邪教」に参加している者に対しては、「設法緝拿(なんとかして捕まえ)、窮究奸状(徹底して偽りの行為を追求し)」、「加等治罪(罪を一等加えて処罰)」しなければならなかった。 五城御史は更に一定の訴訟処理の権利を持ち、懲役刑以上を刑部に送るのを除き、「五城の訴訟は、御史が直接担当し、審査、判決」した。

 康熙帝以後、京師の五城に司坊官(刑務官)を設け、全部で15名いて、これがつまり「司坊分理」(監獄を別に管理する)である。司坊管轄区域には城門外の通りや住民の居住地区、郊外の一部を含み、清河、海淀は何れもこの管轄内であった。これは人々に対し厳密に管理を行うためだった。乾隆以後、特に門牌、戸冊を重視し、司坊官に所轄地を厳しく調べるよう要求し、「外来の人に遇えば、詳しく来歴を調べなければならず、不法の徒が市塵に紛れ込ましむことなかれ」。京師の戸口門牌に対しては「随時稽査更正(随時審査、校正し)、核実辧理(事実を確かめ、処理)」した。

 清の統治者は群衆が集まり騒ぎを起こすのを恐れ、芝居小屋まで厳しく制限した。清初の規定では、京師内城は「常に戯館の開設を禁止」し、それ以後には更に外城に対して「一律に夜唱を禁じ」、また当時人々に最も喜ばれた新しい節回しである秦腔(陝西省の地方劇)を禁じた。更に八旗官兵、一般の官吏、宦官が芝居小屋に行って芝居を見るのを許さないとの命令を何度も下した。もし違反者があれば、 五城御史は軍の統領(旅団長)、順天府と歩調を合わせ、厳しく取り調べ、名指しで糾弾した。

 順天府、九門提督、 五城御史、これらはそれぞれ専門職で互いに協力し、北京城の人々を統治する職能部門を形作り、清の統治者が北京の人々に対する警備、鎮圧を強化する重要な措置で、これによって幅広い人々が清統治者の厳しい監視の下に置かれ、反抗を企てるのが難しかった。

清朝中期、北京の民衆の貧困と統治階級の堕落

 清朝が入関、北京を首都に定めて40年後、中国国内は新たに統一が実現した。この後の百年間、社会は安定し、人々は生産に努め、物質的な富は絶えず増加し、国が繁栄し富み強くなる局面が出現した。しかし18世紀中葉以後、つまりおおよそ乾隆末期から嘉慶に到る時代、土地所有の集中が加速し、統治階級の生活は日増しに腐敗し一般大衆の境遇は更に悪化した。各地で大規模な人々の蜂起が起こった。例えば、苗疆(湖南墻西部、貴州省ミャオ族居住地区)、川楚五省(四川、湖北、陝西、河南、甘粛)で白蓮教の蜂起が、続けざまに起こり、勇猛に清政権を攻撃した。清朝の統治は既に至るところに危機をはらんでいた。

 北京は貧富の格差が甚だしいところである。北京城の労働者の人々は、「西山から石炭を運搬する者が多く」、「顔は竈(かまど)の底の鍋のよう」に真っ黒な石炭運搬の苦力(クーリー)であろうと、「街頭で寒さに耐え」他人のため古着を繕う「お針子の貧しい婦人」、それとも「婦女子が三年間冬に頑張って、夜通し休まず集めた」都市郊外の貧しい家でも、休まず血を流し汗をぬぐって働かぬ者をいなかったが、それでも生活は楽にならなかった。「普通に暮らしても金が残らず、日1日と高利貸しから借りた金を引き出しては返済に当てないといけない」、このように高利貸しの厳しい搾取を受けていた。「可哀そうに搾り取られてすっからかんで、怒りをこらえてじっと我慢しても、どうにもならない。」毎日貧困にあえぎ、生命線上であえぐしかなかった。

 これだけでなく、この時期北京城では更に何千何百の民衆が、絶え間なく流民となって現れた。このことは、土地が併合され、毎年水害や日照りの災害が続き、農民たちを甚だしい貧困に陥れ、次々と土地を失い、ふるさとを追われたことによりもたらされた。北京城の流民は乾隆晩期以後益々増加した。清の統治者はこうした情況を目の当たりにして、警備を強化して用心し、「無職の浮浪者」を「本籍地に送り帰らせた」が、防ごうとしても防ぎきれず、問題を解決しようにも解決しきれなかった。激しい変化を防ぐため、同時にまた五城御史に命じて救済して落ち着かせた。早くも順治初年(1643年)から粥廠を設け、木綿の衣服を置き、栖流所(難民、流民を収容する専門機構)を建立したが、焼け石に水で、何の問題も解決できなかった。道光年間、五城粥廠の数は清初と同じで、依然として各城に二ヶ所で、ただ米を炊く量が一石から二石に増えただけであった。冬になって放出された木綿の衣服も、普及するには遠く及ばなかった。道光帝旻寧(みんねい)は一度は勅諭の中で承認したが、各廠の身寄りのない老人、弱者は「千名から34千名と各々異なり」、置いている木綿の衣服は「250件余りに過ぎず、回しても貧しい人々に行き渡らせることができなかった」。ここからも問題の厳しさを見て取ることができた。そして決められた各城に一ヶ所設けた栖流所では、その人数が十数万と見積もられる流民、貧民に対しては、なおさらものの役にも立たなかった。

 「やせ細った人々は通りの辺にいて、乞食たちは争って列侯の銭を取る」

 「金橋玉洞は俗世間を隔て、蔵すを得たり乞食のかさぶただらけのライ病の身、

もう三旬(30日)も米粒を絶たれても訴えるところもなく、人に丘長春のようだと指さされた」

 北京の街頭には昼間は乞食、夜には野宿をする者が、そこかしこに見られた。ものの本に依れば、1796年(嘉慶元年)2月のある寒い夜、街角で野宿していて凍死した者は8千人に達したと言うが、実際の状況はもっとひどかった。

 北京では、漢族、回族などの貧富の格差が甚だしかっただけでなく、満州族内部も急激に分化が進んでいた。旗人下層で土地を失う者が次第に増加していた。清の入関時、満州族の兵丁(兵士)と家族は均しく内城に住み、彼らは北京周辺で囲い込んだ土地を分け与えられ、漢人の奴僕(しもべ)を遣って耕作をさせ、その収穫物を享受した。しかし兵役が多くて負担が重く、八旗の兵丁は兵役に服する時に馬、食糧や馬の餌、兵器は全て自分で用意しなければならず、ひいては八旗の兵丁をして「借りると言えど返す能わず、遂には困窮し切羽詰まった状態になる」者が益々増えていった。同時に人口が増加し、兵役に就いて兵糧を受け取ることのできない八旗の余剰者が益々増加したのに、土地を分けて相続させる元の土地の面積は増やすことができなかった。おまけに奴僕が逃亡し、彼らはまた「身は京城に在って自分では作物の種を蒔くことができず、限られた土地では荘園の管理人を設けることもできず、人を遣って小作料を取り立て、往復の旅費や所得は勝手に使われるに任せた」(『清世祖実録』巻127、順治168月壬辰)。然るにその生活は「日々贅沢を続け」、「少しも節約をすることがなく」(『清仁宗実録』巻113、嘉慶85月)、金が足りなければ、漢人に旗地を質入れするのが「必然の情勢となった」(『八旗公産疏』、『清朝経世文編』巻35参照)。清初の規定によれば、満州族、漢族間で土地取引きは禁じられ、旗人の土地は漢人に売ることはできず、且つ清統治者は「八旗の生計」が困窮することで統治に危機が及ぶのを危惧したので、康熙帝政権以来、絶えず国庫の銀(帑銀)を出し、八旗の兵丁(兵士)に下賜(賞賜)したり、(質草に入れた)旗地を請け出し(贖出)たりしたが、何の足しにもならな(無済于事)かった。兵丁は賞銀を手にしても、「わずか数か月で、すっかり使い果たしてしまい(罄尽無余)」、請け出した旗地は元の持ち主が買い戻す力が無いため、必ずや別の旗人が「買うことに同意(認買)」し、こうして地主に土地を兼併する機会を提供した。このため益々多くの旗下の人が土地を失い、生活に困窮し(衣食拮据)、没落して貧民となった。嘉慶時代になると、国庫が空っぽになったため、朝廷はもはや大量に国庫銀を支出して下賜したり土地を請け出す力が無くなり、 八旗の生計問題は一層厳しくなり、一部の清王室一族の子孫(覚羅)は内城にも「身を寄せる場所が無かった(栖身無所)」。清政府はこの大量に出現した八旗の仕事が無く遊んでいる(閑散)人丁の重い負担から脱却するため、彼らを東北に移して開墾をさせざるを得なかった。この作業は1741年(乾隆6年)に八旗の余丁3千人を吉林に移すことから始まったが、大規模に実施したのは嘉慶時代以降のことである。1812年(嘉慶17年)に命令を発し、駐京八旗で仕事の無い人員を双城(今の黒竜江省ハルピン市)堡(砦)に移し駐屯、開墾をさせた。翌年、京師宗室の仕事の無い人々を盛京(瀋陽)小東門外に移し、土地を選んで家を建て住まわせた。1824年(道光4年)、また駐京八旗の仕事の無い人丁を伯都納(吉林扶余)に移し、駐屯、開墾をさせた。しかし行きたがる者は「あまり進んで出ては来ず」、「人数は甚だ少なかった」。乾隆初めから道光中期まで東北各地に移って開墾をした旗人はわずかに5千戸余りに過ぎず、そのうちの相当多くはまた北京に逃げ帰った。北京城内の仕事の無い八旗の人丁は依然たいへん多く、それに加えて大量に集まった漢族の貧民、流民が、清中葉以降の重大な社会問題であった。

 上で述べたことと明らかに対照的なのだが、北京はまた高位高官(達官顕貴)の楽園であった。こうした北京に住む満州、蒙古の王公貴族、漢族の大官僚、大地主、大商人たちは大量の土地や家屋を保有していた。例えば懐柔の大地主、郝(かく)氏は「肥沃な田地を数多く持ち(膏腴万顷)」、京師の糧商、祝氏は「富は王侯を越え、所有する家屋は千間以上に達し、園亭はたいへん美しく、十日遊覧して回っても、見尽くすことができなかった」。けれども祝氏と肩を並べる大富豪として、他にも査氏、盛氏がいた。懐柔の郝氏は乾隆帝弘歴を接待したことがあり、お上に水陸の珍味を献上すること、百品以上に及んだ。その他の王公や近習、及び下層の人々(輿台)や奴隷に到るまで、皆にごちそうを供し、一日の食事の費用が十万余りに達した。(昭槤『嘯亭続録』巻2、本朝富民之多条)こうした一族は上記の貧民と比べると、まるで雲泥の差(天壌之別)があった。

 乾隆帝弘歴を首とする統治グループは、更に極めてぜいたくで糜爛(びらん)した生活を送っていた。1798年(嘉慶3年)ちょうど北京の街頭で飢えた人々が群を成し、西南の苗族や四川や湖北の白蓮教の反乱軍が清統治者に猛烈に攻撃を仕掛けていた時、太上皇となった乾隆帝が宮殿内に鰲山(ごうざん。陝西省宝鶏市の秦嶺山脈の主峰)に似せた築山を築き、花火を上げ、宴席を催しほうびを下賜し、ほとんど手持無沙汰にしている間が無かった。

 この当時、全国の大小の官吏の間で汚職が習慣となり、乾隆後の二十年は和珅(ヘシェン。わしん)が権力をほしいままにし、大いに賄賂をむさぼり、一家の財産の額が敵国に数倍し、搾り取って収蔵した真珠の逸品だけでも2百串以上、皇室の収蔵品の数倍に達し、「且つ真珠の大玉は皇帝御用の冠の頂に使われたものより尚大き」く、各種の珍宝は数えきれず、捜査し没収された金銀は白銀換算で4百万両あった。この他にも家屋が1千間以上、土地1260ヘクタール以上、質屋20軒あった。その家族も数十万の財産を保有していた。和珅の不正や賄賂の収受により、国全体で不正がはびこり、ほとんど大吏で汚職をしない者は無く、その中には大がかりな案件も多々あり、このような事態は歴史上も稀であった。

和珅



最新の画像もっと見る

コメントを投稿