毛沢東(中央)と会食するアペイ・アワンジンメイ(右)。左はバンチェンラマ10世か?
最近、中国のマスコミの報道は随分表現が穏やかになりましたが、久々に“帝国主義侵略勢力”、“親帝分裂分子”といった表現を目にしました。特に前回では、文章が後に行けば行くほど、口調が厳しくなり、中国のチベット政策の厳しい一面を目の当たりにしました。中華民国時代の軍閥が跋扈する国内情勢に於いては、チベットは“西蔵政府”という表現で良いところを、敢えて“西蔵地方政府”というところに、中国の立場が如実に表れていると思います。
さて、今回ご紹介する部分は、チベットの平和解放に関する《17条協議》の交渉についてですが、ここで、チベット側首席代表で出てくる、アペイ・アワンジンメイは懐かしい名前です。1959年から1993年までの長きに亘り、全人代常務委員会副委員長を務め、1993~2009年、全国政協副主席を務められていて、よく耳にした名前です。2009年12月、100才の長寿を全うされて逝去されました。
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■[1]
( ↓ クリックしてください。中国語原文が表示されます)
・観望 guan1wang4 傍観する。成り行きをみる。
・伺机 si4ji1 機会を待つ。“伺机”は単独では使えず、必ず後ろに他の動詞を伴う。
・留守 liu2shou3 皇帝が都を離れる時、大臣に命じて都を守らせること。日本語の「留守」とは異なり、日常生活では使わない。
・(口偏に“葛”)厦 ga2xia4 チベット語で役所のこと。“ga2”は命令。“厦”は建物。
・和談 he2tan2 和平交渉。和議。
・従速 cong2su4 速やかに
・啓程 qi3cheng2 旅行に出発する。
・感召 gan3zhao4 感化する。
・随即 sui2ji2 すぐさま。直ちに。
□ 1951年1月2日、ダライラマ14世はチベットの亜東に移り、一方では中国の情勢を観察し、一方ではイギリス、アメリカ、インド、ネパール等に支援を求め、国外へ逃亡する機会を窺ったが、何れの国も表立って「チベット独立」を支持しなかった。チベット地方政府もそれに対応し、留守居役の「ラサ政府」と臨時の「亜東政府」の二つに分けられた。その後、チベット地方政府の「官僚会議」は正式に代表を北京に派遣し、中央人民政府と和平交渉を行うことに決定した。ダライラマは、中央人民政府に宛てた平和交渉を望む書簡の中で、こう語った。「私がまだ幼く権力を掌握する以前は、チベット族と漢族の間の関係はしばしば破壊に遭ったが、最近アペイと随員を速やかに出発し北京に向かわせると通知した。時間に間に合わす為、私たちはアペイと二人の助手を、インド経由で北京に向かわせる。」中央人民政府の民族平等政策とチベットの平和解放の方針に感化され、チベット地方政府は中央人民政府との和平交渉の全権代表団を派遣し、アペイ・アワンジンメイを首席代表とし、カイモ・スオアンワントゥイ、トゥダンタンダ、トゥドゥンリエメン、サンポゥ・ドゥンゾンドゥンジュを代表とした。代表団は二手に分かれて出発し、1951年4月27日に北京に集結し、中央人民政府の歓迎を受けた。直ちに、中央人民政府は交渉代表団を組織し、李維漢を首席全権代表とし、張経武、張国華、孫志遠を全権代表とした。友好協議を経て、中央人民政府とチベット地方政府は1951年5月23日に北京で《チベットの平和解放の方法に関する協議》(《17カ条協議》)を締結した。
■[2]
・貧瘠 pin2ji2 土地がやせている。
□ 中央人民政府のチベットの平和解放問題に関する「十大政策」が交渉の基礎であった。「十大政策」の主な内容は:英米帝国主義侵略勢力をチベットから駆逐する。チベットの民族区域の自治を実行する。チベットの現行の各種政治制度は原状を維持し概ね変更しない。宗教の信仰の自由を保障する。チベット経済と文化・教育を発展させる。チベットの様々な改革事項はチベット人民及びチベットの指導者が協議する形で解決する。人民解放軍がチベットに進駐する、等であった。交渉の初期には、チベット地方政府代表は、「十大政策」の中の「人民解放軍の進駐」は受け入れられないと強調した。当時、中央人民政府代表は決してチベット地方政府代表に無理強いすることはせず、二日間の休会を提案し、代表団の北京見学を手配し、同時に粘り強く説得し、チベットが中国の不可分の一部分であることを認める以上、人民解放軍のチベット進駐を拒む理由は無いと表明した。同時に、チベット代表が提起した、チベットの経済が遅れており、資源が乏しく、人民解放軍の兵站供給がたいへん困難であるという問題を充分考慮し、中央政府は、「チベットに進駐しても、土地の物は食べず、一切の経費は中央が負担する」ことの保証を行った。双方は最終的に、チベット地方政府が人民解放軍がチベットに進駐し、国防を強化することに積極的に協力することを協議の上確定した。
■[3]
・挑唆 tiao3suo1 そそのかす。
・圓寂 yuan2ji4 仏教用語。円寂(えんじゃく)。僧、尼が亡くなること。
・坐床 zuo4chuang2 活佛によるチベット仏教で最も重要な宗教儀式のこと。
・確鑿 que4zao2 きわめて確かである。確実である。[用例]~的事実(動かぬ事実)。証据zheng4ju4~(証拠が確かである)。
・観礼 guan1li3 (招かれて)式典に参列する。
□ ダライラマとバンチェンガルダ二の間の団結の問題は、交渉で解決しなければならない重要な問題であった。帝国主義侵略勢力にそそのかされ、バンチェンラマ9世は1920年代初頭にダライラマ13世と不和になり、チベットから内地に追い出され、1937年12月にチベットに戻る途中、青海玉樹で亡くなった。1949年8月10日、国民政府の承認により、バンチェンラマ10世が青海ダール寺で“坐床”の儀式により位を継承した。チベット地方政府代表団は交渉の初期には、バンチェンラマ10世の合法的な地位を全く承認していなかた。中央人民政府交渉代表団はチベット地方政府交渉代表団に、元国民党政府が、バンチェンラマ10世がバンチェンラマ9世が霊童に転生したことの認定を承認した全ての公式文書、及びダライラマ側の代表が参加したバンチェンラマ10世がダール寺で“坐床”の儀式で継位した時の写真を示した。きわめて確かな証拠を前にして、チベット地方政府交渉代表団は遂にはバンチェンラマ10世の合法性を承認した。交渉時期はちょうど「5月1日」のメーデーに当たっていて、中央人民政府はチベット地方政府交渉代表団とバンチェンラマ10世を天安門の城楼での共同の式典参列に招待した。アペイ・アワンジンメイとバンチェンラマ10世は友好裏に面会し、また毛沢東の接見を受けた。
■[4]
・採納 cai3na4 意見や要求を受け入れる。聞き入れる。
・譯倉 yi4cang1 秘書処の意味で、その位置付けは葛(口偏)厦ga2xia4 より低いが、ダライか摂政の直接の指導を受けた。ダライラマの印鑑は譯倉が管理し、葛(口偏)厦の公文書は、譯倉で捺印され、初めて発行された。譯倉は仲譯zhong4yi4(秘書長)4名で構成され、全てが僧官で、身分は四品以上の“堪窮”が担当した。
・切身 qie4shen1 身をもって。自ら。身にしみる。
□ 大部分の条文の協議は、チベット内部の関係と内部事情の処理に関わることであった。これらの問題で、中央人民政府全権代表は、中央人民政府の民族政策とチベット地区の実際の状況に基づき、自主的に一連の提案を提出した。チベット地方政府交渉代表団も若干の提案を行った。中央人民政府は正しい所は要求を聞き入れ、総合的に検討し、不合理な所は辛抱強く説明した。チベット地方政府代表のトゥダンダンダァは、自分自身の経験に基づき、こう語った。「私は秘書処から派遣された僧官で、交渉の過程で、宗教の信仰、寺院の収入等に関し提出した提案が比較的多かったが、中央は何れも聞き入れてくれた。」交渉が始まってすぐに、中国語、チベット語2種類の協議書を作り始め、2種類の言語の文の修正は、毎回同時に行い、且つチベット地方政府交渉代表団の同意を得た。交渉終了後、中国語、チベット語の協議書が同時に作られ、調印後、いっしょに公布された。
■[5]
□ チベット地方政府全体の交渉代表は全権代表となり、正式交渉に入る前に、協議の上、以下のような作業原則を取り決めた:「判断できる問題は直ちに決定し、解決できない事は、亜東に報告する」。指示を仰ぐのが間に合わない時は、「全権代表が先に決定し、後でダライラマに報告することができる」。チベット地方政府交渉代表団がダライラマと政府当局に指示を仰ぐチャンネルは終始滞りなく確認が進み、全ての問題の指示も、チベット側内部で協議、確定した。交渉開始から間もなく、人民解放軍のチベット進駐問題で、チベット地方政府交渉代表は、カイモ・スォアンワンドゥイとトゥダンダンダァが持って来た暗号発生器を通じて亜東のダライラマと政府当局に電報を送り、交渉中のその他の問題は何れも大したことはなく、人民解放軍のチベット進駐と国境地帯守備を承認しなければ、交渉はおそらく決裂するだろうと説明した。その間、チベット側はバンチェンラマとの関係の問題で、「亜東政府」と二度連絡をした。20日余りの交渉で、双方の代表は若干の問題では論争と意見の不一致があったが、終始友好的で真摯に、話し合いの雰囲気の中で交渉が進み、最終的にチベットの兵若い方の全ての問題に就き協議が成立した。協議書調印式で、双方の代表は協議書上に署名し、更に個人の印章を捺印し、丁重さを示した。
■[6]
・順理成章 shun4li4 cheng2zhang1 [成語]筋が通れば自ずと良い文章ができる。物事が道理にかなっていること。
□ 協議内容の執行貫徹を保証する為、中央人民政府とチベット地方政府は交渉中に二つの協議書付属書に調印した。うち一つは《人民解放軍のチベット進駐に関する若干の事項の規定》である。人民解放軍のチベット進駐問題で、チベット地方政府全権代表は交渉の中でチベット進駐部隊の具体人数、進駐軍の部署及び兵站等、人民解放軍のチベット進駐に関わる具体的な問題を提出した。これらの問題は軍事機密に属するので、公表が必要な協議書の中に書くことができず、この付属書に調印する必要ができたのである。二つ目は、《チベット地方政府がチベット平和解放を責任をもって執行する方法の協議に関する声明》である。協議に対し、ダライラマが承認を与え、ラサに戻るなら、チベットの平和解放はすんなり完了するだろう。もしダライラマが何らかの事情で暫時ラサに戻らない場合、チベット地方政府交渉代表団はこう提案した。中央人民政府は、ダライラマが協議内容執行の第一年目内は、何らかの必要により自ら居住地を選択することを認めてほしい。もしこの期間内に職務を返上する時は、その他のポストや職権の変更は認めないと。これに対し、中央人民政府は同意したが、この内容を協議書に書くと、様々な論議を引き起こす可能性があった。双方は起こるかもしれない状況について事前に予防的な規定を作成し、かかる付属書に調印した。この二つの付属書は、協議実施細則と協議で論議が尽くされていない事項の補充事項である。
■[7]
・堪布 kan1bu4 元々、チベット仏教で戒律を授ける者の称号で、漢族の仏教寺院の“方丈”に相当する。その後、仏教経典に深く通じたラマのことや、寺院や僧侶が経典を学ぶ学校の主催者のことも、“堪布”と呼ぶようになった。
・甲本 jia3ben3 チベットでの軍人の官位の音訳。百夫長(部下百人を従える、下級の軍官)。
・呈文 cheng2wen2 上申書。申告書。
・裨益 bi4yi4 益がある。役に立つ。
・無以倫比 wu2yi3 lun2bi3 匹敵するものが無い。
・葛(口偏)倫 ga2lun2 ガロン。旧チベット地方政府の高級官僚。
□ アペイ・アワンジンメイが北京からラサに戻ると、チベット地方政府は9月26日から29日まで、全ての僧籍と非僧籍の官吏、三大寺院の“堪布”、チベット軍の“甲本”以上の軍官等、300人余りによる「官僚会議」を開催、ダライラマへの上申書が決裁された。「調印された《17条の協議書》は、ダライラマの偉大な業績、チベットの仏法、政治、経済の諸方面について、大いに役に立つこと、他に比類無く、当然内容を守って執行しなければならない。」10月24日、ダライラマは毛沢東に電報を打ち、協議内容を支持すると述べた。その電報の全文は次の通り:「今年チベット地方政府はガロン・アペイ等5人の全権代表を特に派遣し、1951年4月末北京に到着、中央人民政府指定の全権代表と和平交渉を行った。双方代表は友好の基礎の下1951年5月23日チベットの平和解放の方法に関する協議に調印した。チベット地方政府とチベット族の僧侶、一般人民は一致してその内容を守り、毛主席及び中央人民政府の指導下、積極的に人民解放軍チベット進駐部隊が国防を強化することを支援し、帝国主義勢力をチベットから駆逐し、祖国の領土、主権の統一を保護することを、謹んで申し上げる。」10月26日、毛沢東主席はダライラマに返電し、彼のチベット平和解放協議実行の努力に感謝した。
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