都城隍廟
第二節 北京の経済(続き)
商業の繁栄 明朝廷の商人に対する苛斂誅求
永楽初年、北京の商業はまだたいへん不景気(蕭条)で、当時は「商人(商賈)がまだ集まらず、市の喧噪(市塵 )はなお疏(まれ)」で、城外の交通はたいへん困難で、城内は至るところ広い空地であった。ここに建都後、明朝朝廷は前後して皇城の四門(大明門、東安門、西安門、北安門)、鐘鼓楼、東四牌楼、西四牌楼、及び朝暘、安定、西直、阜成、宣武各門付近に、数千軒の民家を建築し、一部は「民を召集し居住」させ、一部は「商人を召集し貨物を居」き、何れも「廊房」と呼んだ。このようにして、街の様子(市容)はかなり賑やかだった。
その後、運河が通じ、北京と通州の街の内外で、また前後して多くの新しい「客店」と「塌坊」を建設した。「客店」は専ら客商(行商人)を呼び寄せ休憩させ、売買の紹介に責任を持つ仲買店(牙店)であった。「塌坊」は貨物を保管する倉庫であった。
北京城の郊外にもたくさんの集市(マーケット、バザール)が出現した。北郊の碧霞元君廟は、市が立つ期間が来る度に、たくさんの農民がここに駆けつけ、糧食、農具など日用の必需品を売買した。城内には米市、豚市、騾馬市、菜市、驢馬市、果物市があった。徳勝門橋頭と崇文門外には窮漢市があり(一説には正陽橋に窮漢市があった。劉侗『帝京景物略』巻4『城隍廟市』参照)、ここは貧しい市民、中小商人、小規模商人が交易をする場所であった。西城旧刑部街の都城隍廟(全真教の道教寺院)は、永楽年間に建設され面目を一新した。毎月1日、15日、25日の廟会では、商品の陳列が三四里にも達し、綾衣やラシャ、磁器、書画、紙など、品種がたいへん多く、更に雑技場や食品の屋台があった。都城隍廟は明朝北京の繁華な娯楽(文娯)場所で、また北京城内で最も古い廟会(寺社の縁日)であった。また東城の灯市は毎年正月11日から18日まで開催され、会期になると各業界の商人がここで商いをし、真珠や宝石、玉、綾衣やラシャ、繻子や緞子が売られ、また各種の花火や飾り灯籠が販売された。皇城東安門の内市(宮中の人々が不要になった物を売る市場)では、しばしば多くの珍品が売りに出され、例えば園廠の漆器、景泰御前作坊の琺瑯器などのようなもので、ここは王公、勲戚、宦官、大臣が活動する場所であった。
この他、北京の街市では、多くの大小の店舗が新たに店を開き、これらの商店は舗戸、或いは舗行と称された。舗戸はただ専ら商品を売るだけで、前述したように、少数は作坊(工房)を付設した店もあった。
舗戸の中には、数千両、一万両以上、甚だしきは数万両の資金を持つ者もあり、店主は農村に土地を持ち、自身は土地を貸して利益を得る地主であった。彼らは北京に店を開き、自身は働かず、大部分が店員を雇って労働をさせた。これらの人には「富戸」(「富戸」は永楽年間に全国各地から北京に移って来た地主たちを指す。これらの北京に来た人は全部で3800戸で、明朝朝廷は彼らを徳勝門と安定門の城厢(城壁近く)を手配して住まわせた。その中のある者は幾つかの商業を兼業し、「一軒が何か所かで店を出す」者もいた)、一部の「軍戸」(軍戸中の一部の人は豊かな財産を持っていた。彼らは農村の中で軍屯地を領有していたが、屯田を「人に貸して、食糧(子粒)を分収」し、事実上搾取し地租を得る地主で、自分たちは都市に住み、別に生計を立てた。)、「匠戸」(当時一部の人は、食糧生産の賦役を避けるため、「匠戸」と偽称し、北京に来て店舗を開いた。)、「民戸」(民戸にも一部の地主が含まれ、彼らは農村で大量の土地を占有し、同時に城内では工商業を兼業していた)が含まれ、更に資金が豊富な大商人もいて、完全に城内の消費者で搾取者であった。その間に更に「貴戚舗行」があり、これは勲戚(功績のあった王族)たちが家人を駆使して開設した店舗で、彼らは権勢を頼みに、市場を独占し、商人に対し強奪行為を行い、どんな不正もやらないことはなかった。明朝の人々は、貴戚舗行は京城の一大災難だと非難した。
またある舗戸は百両かそこら、或いはそれ以下の資金しかなく、彼らは中小の商人、小手工業者で、都市の下層に属した。ある店は自分ひとりや家族全員で働き、個別には一二名の丁稚(学徒)や店員(店伙)を雇い、普段は「人から店を借り」、時には街角で臨時に雑貨を売ることもあった。これらにも一部の「軍戸」、「匠戸」、「民戸」が含まれ、一般には自力によって生活し(自食其力)、これ以外は他に生活の術が無く(別無営生)、長期間生活は貧困に窮し、また封建国家と大商人の搾取を受け、いつでも元手を割って欠損を出し(賠本)、失業する可能性があった。
明朝朝廷は北京の全ての舗戸の財産、人丁(人口。働き手の人数)を戸冊(戸籍)に登録し、また舗戸を三等九則に区分し、臨時の軍需があったり、内府の各衙門で足らない物があると、戸籍により舗戸に買弁を派遣した。明朝朝廷は北京の舗戸を132行に規定した。これは当時の業種により区分され、その目的は「官に応じて用を取」るためであった。自分の業種を督促する責任のある舗戸は国に代わって買弁の仕事をする人を「行頭」と呼び、佥(同業の人々)の中で買弁役とされた人は「当行」と呼んだ。 当行の人は随時朝廷に賦役を提供しただけでなく、多大な資財を立て替えなければならなかった。勲戚の官僚たちが開いた店舗は、国から賦役免除(「免帖」)され、富豪巨商も勲戚たちと結託(勾結 )し、賄賂(行賄)を用い、あらゆる方法を講じ(千方百計)「当行」となるのを避け、本当の「当行」となった人は圧迫された地位の小手工業者、中小商人であった。
『皇都積勝図巻』(部分)
北京は孝宗の弘治年間(1488-1505年)には既に「人口が絶えず増加(生歯日繁)し、貨物は益々満たされ、坊市の人跡は、ほとんど容れるところが無」かった(呉寛『瓠翁家蔵集』巻45『左都御史閔公七十寿詩序』)。城内の住民は既に満ち、多くの人々は城外に住んだ。世宗の嘉靖年間、南郊の人口が増大し、京城南郊に位置する外城城壁も修築された。外城は新たな商業区となり、全国各地から北京に来た商人たちは、外城に部屋を借りて住み、民営の客店(規模の小さい旅館)、塌坊(一時預かりの倉庫)、大店舗はもっと数が多く、正陽門外大街は既に北京で最も繁華な街市のひとつとなっていた。『皇都積勝図巻』の中で描かれた正陽門外の商業の情況は、明代嘉靖末期から万暦初頭に至る北京の商業の繁栄する情景を反映していた。大明門前に位置する棋盤街、ここも「天下の士民工賈各々牒を以て至り、ここに雲集し、肩が触れ轂(こしき。車輪の中心の太く丸い部分)を撃ち、一日中(竟日)喧噪が止まなかった」(蔣一葵『長安客話』巻1『棋盤街』)。
この時期、全国各地の商品の多くが北京に集まった。ここには、蘇州、杭州二州の錦緞(花柄の絹織物)、松江の三棱(ひ。杼)布、江西の南豊大篓紙(明代、江西省南豊県特産の竹紙(竹を原材料に作った紙)で、竹籠に入れて販売された)、景徳鎮の磁器、佛山鎮の鉄鍋などがあった。ここでは、全国から来た生銅(製錬されていない銅)、熟銅(製錬された銅)、響銅(銅、鉛、錫の合金で、楽器などに使われる)、生鉄、熟鉄、鋼材、桐油、綿花、各種染料があり、また全国から来た薬剤、香料、茶葉、蔗糖(しょとう)、海産物(干物、海鮮)などがあった。『酌中志』の記載によれば、熹宗の天啓年間以前、毎年北京に来る貨物は、朝廷が直接徴税し、宝石、金珠、鉛、銅、砂汞(辰砂(しんしゃ)や水銀)、犀象(犀の角、象牙)、薬剤、布帛、絨貨の他、テン(貂)の毛皮1万枚余り、キツネの毛皮6万枚余り、平機布(機械織りの布)80万匹余り、粗布(太さの不揃いの糸で織った布)40万匹、綿花6千包、定油(印刷インク)、河油4万5千篓、荆油3万5千篓、焼酒(白酒)3万5千篓(籠の数。京師で醸造されたものは含まず)、ゴマ3万石、草油2千篓、南絲5百馱(家畜が背負う荷の数)、楡皮3千馱(各香舗に提供して香を作るのに用いた)、北絲3万斤、串布10万筒、江米3万5千石、夏布20万匹、瓜子1万石、醃(腌)肉(塩漬けの豚肉)2百車(1輌の車に載せられる分量)、紹興茶1万箱、松羅茶2千馱、大曲、中曲、面曲140万塊、四直河油5千篓、四直大曲20万塊、玉5千斤、豚50万匹、羊30万頭などがあった。もちろん、これはおおよその推定数であるが、これは明朝後期の商品経済の発展を反映していて、その中の大多数が封建貴族、官僚、地主の享楽に供する消費物であった。
また、多くの貨物が北京を経由して西北の韃靼、東北の女真などの少数民族地区へ転送された。万暦年間、沈徳符が北京会同館前で、貨物の積み込み状況を見ると、磁器の積み込みだけでも、車一輌毎の木箱の高さが3丈余り(約10メートル)で、全部で数十輌にも達した。ルソンから伝わったタバコは、天啓年間には「北土でも多く之を植え」、思宗の崇禎15年(1642年)、北京では既に「売る者が四方に満ち」た。そしてとっくに「九辺」(辺境地域)に伝わっていた。
この時、白銀(銀。銀貨)は既に北京市場で通用する貨幣となっていて、商品は多くが銀で勘定した。労働者を雇うのも、銀で給与を計算し始めた。都市郊外に住む貧民は商店で雇われ、朝早く出勤して夜遅く帰宅し、給料は毎日25文か30文で、30文毎に約銀4分に換算された。内府で皇后や妃に雇用されたコックは、こまごまとした褒美以外に、毎月更に受け取る工食銀(銀で受け取る給料)が数両になった。
商品貨幣経済の発展に伴い、明朝朝廷も嘉靖45年(1566年)こう規定した。上二等の舗戸を除いて、それ以外の7等の舗戸は一律に銀両(銀。両はテール(tael)、銀貨の単位)を納めることになり、銀で以て賦役に代えた。1579年(万暦7年)北京の132行中の網衬、針篦、碾子(ひき臼)、焼煤、刊字、淘洗(洗濯)など32行は、皆「当行」(職人に対する賦役)を改めるという名目で、その納銀を免除した(『宛署雑記』巻13『舗行』)。このことは、当時の都市の工商業の繁栄にとって有利であった。しかし別の面では、明朝の統治者はまた商人に対し種々の制限と掠奪を行った。武宗の正徳年間以降、北京にはより多くの官営の店舗が出現し、著名なものには福徳店、福順店、和遠店、宝源店、順寧店、普安店などがあった(皆今の王府井大街一帯にあった)。(『酌中志』巻16『内府職掌』)北京に来た商人は大多数が官営の店で荷下ろしし、彼らはただ官営の店の紹介を通じて、貨物を各商店に販売することができた。こうした官営の店は宦官が管理していて、毎年商人から税として銀を数万両徴収し、既に皇室の巨大な収入となっていた。万暦の時、神宗は崇文門と張家湾の官営店を彼の兄弟の潞王と皇帝の第三子の福王に賜い、彼らはそこで店租(店舗の家賃)を徴収し、また商税(商業税)を徴収し、外地の商人を招いたり止めたりし、また商品を卸売りし、また皇帝より専売権を取得し、付近の仲買の利権も一律で奪い取った。万暦24年(1596年)神宗はまた宦官を方々に派遣し商税、礦税(一部の有色金属に対する特別税)を徴収した。北京も中国全土と同様、徴税監の張嘩、王忠が大挙商業税を徴収し、商業税の額は10万余りにまで増加し、そして「河西での税務は外税、また通湾で税の調査があった。崇文門の税務は内税で、また視察して回り損害を取り締まった。城中にはまた税課司があった。」「北京の東は要害の地で、水運、陸運が合流し、重複して徴税され、数倍から数十倍になった」というような状況であった(『万暦実録』巻503)。城中の舗行に対しては、銀両を徴収するだけでなく、商人から搾取し、「命令下、搾取される者は死に赴くが如く、厚く賄賂を贈って税の免除を求め」、或いは「別途、貧民から代わりに搾取した」。(『明史』巻82『食貨』6『上供採造』、『万暦実録』巻373)こうした苛斂誅求(横征暴斂)の下、外地の商人が足を止めて北京に入って来なくなった(裹足不前)だけでなく、舗商も多くが倒産して取引をやめた。このことは工商業の発展に深刻な阻害要因となった。
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