頤和園全景
中華書局出版社1984年発行の『名勝古跡史話』の中から、前回『避暑山荘史話』を日本語でご紹介しましたが、今回は『頤和園史話』をご紹介します。頤和園の歴史は、なんといっても、清朝末期に西太后が海軍の整備費用を流用して作られた皇室庭園として有名です。
頤和園史話
中国の著名な古典庭園(中国では普通「園林」と言う)、頤和園(いわえん)は、北京城(城壁で囲まれていた旧市街)の西約10キロの郊外にある。園内には、明るく澄み切った湖水、青々として秀麗な山々、極彩色に輝く殿宇、たいへん手の込んだあずまやや回廊がある。おだやかな風がのどかに吹きそよぐ春の日、或いは天高くさわやかな秋の日、頤和園の門前はいつも車や人の流れが途絶えることが無い。それは万寿山と昆明湖で形作られる美しい庭園の景色の一場面で、もはや首都北京の象徴のひとつと言うことができる。この庭園の建設の経緯やその盛衰は、一面では中国近代、とりわけ過去百年の歴史を反映している。
それでは、先ず頤和園の前身である清漪園(せいいえん)から話を始める。
一、清漪園について
頤和園の前身は清漪園は、清朝の北京入城後、第4代皇帝、乾隆が在位の時、建設を主導した。この時の建設がその後の頤和園全体の基礎を打ち建てており、頤和園を語るには必ず清漪園から話を始める必要がある。
今から八百年余り前、今日頤和園がある場所は、山があり水の流れるすばらしい場所であった。ここの山は、北京西側の群山の支脈のひとつで、名を甕山と言った。ここの水は、西側の群山の中から流れ出る多くの泉からの水の流れが集まってでき、甕山の麓で広大な湖を形成し、それが甕山泊と呼ばれた。こうした青々とした山と美しい水の流れる自然の景観は、北方の原野では得難いもので、それゆえ当時ここを統治した金朝の皇帝はここに行宮を建立し、しばしばこの地に来て遊んだ。元、明の両朝になって、北京城は大規模な修築を経て、中国全土の政治文化の中心となり、甕山一帯の風致地区は一層人々に重視され、次第に開発、利用されるようになった。甕山泊の水域は魚の養殖や菱の栽培に利用され、広く稲が植えられ、農業や各種の作物が生産されるようになった。毎年夏になると、この湖の中では蓮や菱が群生し、岸辺には柳の枝が緑したたり、木々の間に村落が見え隠れし、至る所水田が広がり、美しく豊かな景色は、あたかも江南の水郷のようであった。甕山の山間には、十数ヶ寺が次々建てられた。古刹の赤い壁、緑の瓦、夕方の太鼓、朝の鐘の音により、更に当地の景色に多くの優雅で厳かな情趣を加えた。
ここは次第に人々が暑気を払い夏を乗り切るに良き場所となり、多くの名士がここに来て湖で遊び山に登り、多くの当地の景色を賛美する詩句を作った。例えば明代の江南の名士、文徴明が『西湖詩』(甕山泊は北京の西側にあるので、明代にはまたここを西湖と呼んだ)の中で詠んだ「十里青山行画里、双飛白鳥似江南」、清代の著名な画家、「揚州八怪」のひとり、鄭板橋が『贈甕山無方上人二首』の中で吟詠した「雨晴千嶂碧、雲起万松低」、何れもこのような佳句である。わたしたちは更に明代専ら山川の風景の描写を得意とした詩人、王直の『西湖詩』を取り上げ、彼が甕山の風景をどのように描写したか見てみよう。
玉泉は東に匯(めぐ)り平沙を浸す,八月の芙蓉は尚花有り。
曲島の下鮫女室通ず,晴波は深く梵王家を映ず。
常時鳧雁は清唄を聞く,旧日魚龍は翠華を識(し)る。
堤下に雲を連ね粳稲熟す,江南の風物は未だ宜く夸(ほこ)らず。
(詩中の「芙蓉」は、ハスの花。「鮫女」は、伝説で海中に住むという龍女。「鮫女室」は、湖水の人里離れて静かなことを形容している。「梵王家」は仏寺を指す。「清唄」は、仏教の儀式の中で仏を称賛する歌声を指す。「翠華」は、皇帝の儀仗(その中にカワセミの羽で飾った旗を使ったものがあった)を指す。ここでは皇帝がここに遊覧に来たことを指す。)
甕山一帯には、明代の皇帝や高位高官の人々(達官顕宦)が多くの遊覧のための人工の施設、例えば湖景を鑑賞する望湖亭、釣魚台などを建造した。明の神宗がまたここで「水猟」活動を行った。しかしながら、ここが真に皇室が独占する宮廷の苑囿(園林)になったのは、やはり清王朝が興って以後のことであった。
1644年(明崇禎17年)、清軍が入関(万里の長城を居庸関を越えて北京に入城)し、北京を占領した。満州族貴族が建国した清王朝は、明末の農民蜂起を鎮圧し、明王朝の残余勢力を消滅させて後、次第に中国全土の統治を行った。長い年月を経て、満州族貴族が山野を駆け回る(馳騁)兵事(金戈鉄馬)の生活が習慣になっていたが、入関以後、彼らの最高の首領である清朝の皇帝は紫禁城内のものものしく深奥な宮殿に住むようになったが、相変わらず山林を駆け狩猟をする風習を守った。彼らは自然美を備えた山林の風景地区と華麗で堂々とした宮廷の宮殿と結合した宮廷園林にあこがれた。それゆえ、北京の西北郊外の風景の秀麗な地域は、程なく彼らの極めて大きな興味を惹きつけた。
清朝入関後の第一代皇帝、順治帝は在位の1644-1661年、主な力を全国統一の軍事行動上に置いた。第二代の康熙帝が在位の1662-1722年、清王朝は中国全土の統治を遂に確立したので、康熙帝と第三代雍正帝(在位1723-1735年)は、北京の西の地域に大規模な園林の建設を開始した。清朝は当初、野蛮な土地の囲い込み(圏地)政策を実施したので、北京付近の広大な土地は次々と皇室や貴族が強奪したので、このため皇室の園林の建設は短期間で進められ、清朝第四代乾隆帝が皇位を継承する前には、北京西郊には既に静明園、静宜園、暢春園、円明園が連なった広大な皇室園林ができ上っていた。
18世紀中葉、清王朝は建国して既に百年となり、国内は統一され、政治は安定し、農工業を担う民衆の労働の下、農業、手工業の生産レベルが向上し、商品経済も発展し、社会的な富の蓄積は次第に増大した。ちょうどこのような歴史的な条件の下、1736年清の高宗乾隆帝が皇位を継承してから、数十年続くいわゆる「乾隆盛世」が出現した。
乾隆帝
乾隆帝は歴史上業績を上げた皇帝のひとりであり、同時にまた自らの手柄をたいへん喜ぶ統治者でもあった。彼は即位以来、国家が表面上繫栄が真っ盛りな局面にあることいに陶酔し、大量の金銭財物を投入して宮殿を建造し、風景を飾り立て、金を湯水のように使い、思う存分享楽をほしいままにした。今日、北京の故宮(紫禁城)や三海(北海、中海、南海)を含め、中国国内の多くの名所旧跡は、依然として乾隆帝の時代に再建、或いは新築した時の基礎と規模のままである。遊覧の便を図るため、乾隆帝は目と鼻の先にある(近在咫尺)北京西北郊外の園林に対して、大規模な拡張と装飾修理を行った。彼は静明園、静宜園、暢春園、円明園等、いくつもの園林を改めて改築、拡張しただけでなく、1749年(乾隆14年)から、甕山一帯で工事を始め、新たな庭園を建造したが、これが後の清漪園(せいいえん)である。
清中葉の北京西郊の皇室諸庭園の位置図
1751年(乾隆16年)、乾隆の母、鈕祜禄(ニオフル)氏が60歳を迎え、乾隆は甕山の景勝地に皇太后の長寿を祝う主要な場所を建てる準備をし、それでここの造園工事を急がせた。当時、甕山に元々あった廟宇、圓静寺を基礎として、専ら長寿祝いのために大報恩延寿寺を建造し、且つ甕山を万寿山と改名し、西湖と改名していた甕山泊を昆明湖に改名し、その後正式にここに新たに建設する園林を「清漪園」と命名した。
1752年(乾隆17年)、皇太后の60歳の誕生日を過ごしたが、 清漪園の建造工事は依然終わることがなく、ずっと1764年(乾隆29年)まで継続し、前後で15年の時間を用いた。
清漪園の建造は、乾隆本人が直接関与したもので、この自ら風雅を以て自任している皇帝は、この園林の設計とレイアウトに頗る心血を注いだ。彼は即位以来、何度か江南を巡幸し、中国南方の秀麗な自然の景観や園林芸術を十分に賞美した。彼の意図に基づき、清漪園の建造は、漢以来の皇室の園林の中の蓬島(中国古代の伝説中の海中の仙島。蓬莱島)、瑶台(彫刻や装飾が華麗で、精巧な構造の楼台で、古人が空想した神仙の住むところ)、一池三山(中国古代の皇帝は海中に仙島ありとの伝説を宮廷庭園の中に人工に作った湖沼と島嶼で再現した。例えば漢の武帝は長安で章宮の北に太液池、池の中に蓬莱、方丈、瀛洲などの島嶼を作った。後に歴代の帝王の宮廷庭園の多くはこの方式を踏襲し、頤和園の昆明湖と湖中の島嶼もこうしたレイアウトに沿って作られている)の伝統的レイアウトを踏襲しただけでなく、江南の自然の景観や文人や士大夫の園林のすっきりして抜きん出た情趣を大いに吸収、模倣し、これをゆったり大らかで、豪華で、偉大な勢いがあるだけでなく、精緻で趣がある住宅の特色を備えた大型の宮廷園林にした。
今日、わたしたちはちょっと比較してみれば、清漪園当時のもとの様相を基本的に保った頤和園が、中国の南方の江蘇、浙江一帯の多くの優秀な園林と共通点があることがはっきりと分かる。例えば今日の頤和園の昆明湖は、杭州の西湖の構成を真似たものだった。とりわけ湖の西側の長い長い土手、及び土手の上に、あまり距離をおかずにひとつひとつ形式が各々異なった石橋が架かり、全部で六つの石橋が架かっており、これは西湖の蘇堤と堤の上の有名な六橋とたいへんよく似ていた。昆明湖の西側のはるか向こうの玉泉山と山上の塔影は、西湖西岸の宝石山と山上の宝俶塔と同様、「借景入画」の作用を引き起こしている。万寿山東麓の恵山園(今の諧趣園)は、無錫恵山の寄暢園を真似て、南方の文人、士大夫の園林がそれぞれ作者の個性を発揮し、たいへん手が込んでいる特徴を際立って体現していた。この他、清漪園の中には更に中国の少数民族の建築を真似た部分があり、例えば万寿山の裏山の巨大な寺院群は、チベット仏教の寺院建築を再現しており、その建物の形や構造は、清漪園と同時期に建立された承徳避暑山荘外八廟の普寧寺の構成とたいへんよく似ている。要するに、中国内の代表的な風物や建物を一園に集め、乾隆帝が語るところでは、この上なくすばらしい統治を誇示し、思う存分楽しみを享受するものであったが、中国古代の造園芸術の傑出した成果と清代前期の領土を統一された多民族国家の発展の歴史を客観的に反映していた。
清漪園の建設は、その後の頤和園の基礎を打ち立てた。頤和園の主要な風物は、清漪園の時代には大部分が当初の規模を備えていた。雄壮で威厳のある佛香閣、山に依り水に臨む楽寿堂、永遠に船出することのない大船の石舫、虹のようにきらびやかで美しい回廊は、何れも清漪園の時に作られたものである。これら一切の建造については、清王朝が財政上でも小さくない代価を支払った。記録によれば、中国全土で合計480万両の白銀を消費し、その間の人的労力や物量の浪費は驚くべきものだった。故宮に保存されている清代の歴史档案の記載によれば、頤和園の万寿山の上に高く聳える佛香閣は、当初建築された時は、現在のような八角形で三重の軒のある楼閣ではなく、九層の高塔であった。1758年(乾隆23年)、塔が八層まで建てられた時、突然「遵旨停修」(皇帝の命令で建築が停止され)、続いて全部取り壊され。その後楼閣に改築された。ただこの一度建築したものを取り壊すことで、白銀46万両余りを浪費した。万寿山の上の塔は、庭園全体の工事の一部に過ぎず、工事全体での浪費が如何に巨額であったかは推して知るべしであった。
清漪園が建設されて後、当時の北京の西北郊外には人々が言う「三山五園」、すなわち玉泉山の静明園、香山の静宜園、万寿山の清漪園、及び暢春園と円明園であった。
清漪園は歴史上百年存在した。
乾隆年間以後、清王朝の国勢は次第に衰退に向かい、封建統治者たちは日増しに反動的で腐敗していた。1840年のアヘン戦争の後、外国資本主義勢力の侵入により、中国社会は半封建半植民地化の道を歩み出した。1856年(咸豊6年)、英仏資本主義の侵略者は中国に対し第2次アヘン戦争を引き起こした。1860年(咸豊10年)、英仏侵略軍は北京を攻撃、侵入し、城内の宮殿区と城外西北郊外の皇室園林を、ほしいままに焼き討ち、掠奪をした。彼らは群れをつくり共謀して西郊の諸庭園に侵入し、珍宝を掠奪し、建物を破壊し、最後には三山五園を全て焼き払ってしまった。
侵略し強奪、残らず奪い去られる目に遭って後の清漪園は、西郊の他の庭園同様、至る所で破壊され崩れ落ちた光景が見られた。曾ては高く大きく堂々とし、きらきら輝いていた建物が、銅亭、智慧海、多宝琉璃塔などが銅や石でできていたため残存した他は、その他はひとつとして残ったものは無かった。今日頤和園の万寿山の裏山には、清漪園時代に英仏侵略軍に焼き討ちされて後の無残な光景がまだかすかに見ることができ、それは色あせてはいるが輪郭がなお残った絵のようで、当時の外国資本主義侵略者が中国の民衆に犯した犯罪を再現している。
清漪園の建物は、清王朝が最盛期の時代の産物であり、清漪園が破壊されたことは、清王朝の衰退、没落の証拠であった。清漪園の興廃は、ある面では清王朝の隆盛から衰退の歴史を象徴的に反映していた。
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