中国語学習者のブログ

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頤和園史話(4)

2024年03月20日 | 中国史
頤和園十七孔橋

四、美しい頤和園

 頤和園は美しい。その美は、自然の山、自然の水だけにあるのではなく、山間や水面にちりばめられた、不揃いで、様々な形をした人工の建築群にあり、自然の景観と芸術的な建築の両者が高度に完璧に調和し統一しているところにある。ここの建造物は、中国の古典庭園建築芸術が新たな高度なレベルに到達したことを示している。

 中国古代の造園芸術は、2千年以上の悠久の歴史を備えている。早くも紀元前11世紀の西周の時代、周の文王は山水に樹木、禽獣、魚、虫を擁する大型の宮廷庭園を造営した。史書では「霊沼」、「霊囿(れいゆう)」と称した。中国古代の最初の詩歌集『詩経』の中で、周文王の宮苑の中で、麀鹿(メス鹿)が出没し、鶴が飛び魚が躍る活き活きした景色を詳細に描述した。秦漢時代になり、秦の始皇帝と漢の武帝が相次いで阿房宮、上林苑など広大な園林を建設した。とりわけ漢の武帝の上林苑は、庭園の四方が3百里、その中に七十ヶ所余りの離宮が建てられ、更に珍しい草花が植えられ、希少な鳥や珍獣が飼い馴らされていた。

 唐宋両朝の時代、中国の造園芸術が更に発展し、長安の曲江池、芙蓉園、汴梁(今の開封)の艮岳(万歳山)など、皆占有する土地が極めて広大で、自然の山水を敷地内に含む皇室の名園であった。同時に、各地の官吏や名士、富豪が個人的に作った園林も益々盛んに造営された。とりわけ明代には、山紫水明(山は緑したたり、川は水清らか)、優れた文人が集まった江南一帯では、士大夫の造園の習慣が一時期極めて盛んであった。多くの著名な文人や画家が自ら園林の企画や設計作業に参加し、ここから中国江南の文人、士大夫の園林の、美しく雅(みやび)で垢ぬけし、このうえなく緻密で巧みな独特の風格が形成された。今日、天下に名声がとどろく蘇州の拙政園、留園などは皆、この当時作られた庭園の傑作である。

 つまり、中国の園林芸術は、清代以前にたいへん高いレベルに到達し、優秀な伝統を有していた。而して自然の山川の景色と人工的に作られた芸術的建造物を結合させ、美しく調和のとれた効果を上げるのが、中国の庭園が欧州の「幾何学式の庭園」(18世紀以前の欧州の庭園の主要な特徴は、自然の山水の姿の再現ではなく、一切の山水や地形、樹木、草花を皆、建造物を形作るのと同様、幾何学形状に構成することだった)と異なる主要な特色であった。

 清代前期、国力が強盛で、農業、手工業、商品経済が発展し、このことが、庭園芸術の一層の向上を含む文化の発展に、有利な物質的基礎を提供した。康熙から乾隆年間まで、中国の庭園建設のレベルは新たな段階にまで発展し、承徳と避暑山荘、北京北西郊外の三山五園のような優秀な庭園が出現した。清漪園とその後身の頤和園は正にこれらの庭園の代表であった。その建造には、中国北方の山や川の雄渾で広大な勢いと、南方の水郷の婉曲で様々な表情を持つ自然の景観が一体に溶け合い、帝王の宮殿の雄壮豪華と民間の邸宅のこのうえなく精緻で巧みという、性質の異なるものを併せ持ち、同時に宗教寺院の建造物の荘厳で神秘な雰囲気をもにじませ、これらにより山水が秀麗で、様々な景色を含んだ皇室宮苑を形作っている。これらの造形物のひとつひとつが、何れも中国の造園芸術史を研究する上で、貴重な実物資料となっている。

 今日の頤和園は、総面積約4,300畝(287ヘクタール)、自然の地形上は、主に北側が高く聳える万寿山、南側は広大な昆明湖で構成され、そのうち水面面積が園全体の面積の4分の3を占める。景勝地と建物のレイアウト上、全園はおおよそ東宮門内の宮殿区、万寿山前の建造物区、万寿山後方の風景区、昆明湖地区の四つの部分に分けることができる。


頤和園全図

宮殿区の景観

 頤和園の正門は東宮門と言い、きちんとして威厳があり、重々しい古建築である。この門は西側に東を向いて鎮座し、門の戸のかまち、軒の下は全て彩色のペンキできらびやかで美しい図案が描かれ、六枚板戸の大門は、目にまぶしい朱色を呈し、上面には一列一列きっちりと黄色のリベットが嵌め込まれ、門の前に高く掲げられた大きな扁額には、「頤和園」の三文字が題されていた。東宮門は当時は清朝の皇后の出入りに供し、今日は観光客が園に入る主要な入口となっている。



東宮門

 東宮門を入ると、一面華麗で堂々とした宮殿建築群で、主に仁寿殿、楽寿堂、玉瀾堂、徳和園などから構成され、ここは慈禧と光緒帝皇后が園内で主に活動した場所、すなわち政治活動と生活居住区であった。

 仁寿殿はこの宮殿区の第一の場所で、最大の建造物で、慈禧が日常の政治事務を処理した場所であった。殿内の設計は宮廷内の帝王の儀仗を真似、宝座、御案、鶴灯、鼎炉、掌扇などがあり、室内には他に多くの美しい文物や外国からの贈り物が並べられていた。仁寿殿は庭園内の宮殿建築であるので、庭園内には他に様々な銅の鋳物で作られた珍獣や、自然の山の石や植物などが飾り付けられ、宮廷内の大殿のような味気ない謹厳さはなかった。


仁寿殿

 仁寿殿の南側から前方に進むと、曲がりくねった回廊を通って、 玉瀾堂に到ることができた。玉瀾堂は当時、光緒が園内にいる時の居所で、大型の四合院になっていて、北側に南向きに建つ母屋が 玉瀾堂である。1898年戊戌変法の失敗後、慈禧は命令を出して 玉瀾堂の前後の通路を封鎖させ、玉瀾堂の後ろの宜雲館に住む光緒后妃さえも入ることができず、ここを光緒を監禁する活きた棺桶にした。現在も玉瀾堂の後ろには相変わらず当時積み上げたレンガ壁が保存されていて、これは慈禧が戊戌変法運動を扼殺(やくさつ)した証拠である。


玉瀾堂

 仁寿殿の北側の通路に沿って中に入ると、徳和園に到る。ここは専ら慈禧のために芝居を演じた場所であった。清代末、堕落した統治者たちは酒色に溺れ、腹を満たしてもすることが無く、観劇が彼らが時間をつぶす主な娯楽となった。慣例により、園内では毎月1日と15日は、芝居上演の日だった。端午節、中秋節、七夕節(7月7日)には各々芝居が三日間上演された。正月には、大晦日から1月15日までずっと芝居の上演が半月間続いた。それ以外に慈禧、光緒、皇后の誕生日にも、芝居が演じられた。一年を通じ、こんなに多くの時間芝居が演じられたが、とりわけ慈禧自身が芝居マニアであったので、徳和園の建物はことのほか凝って作られていた。園内の大舞台は、慈禧の60歳の誕生日に巨額の費用を費やし建設され、中国に現存する旧式の舞台の中で最高、最大のものである。舞台の高さは21メートル、上中下の三層に分かれ、各層の舞台には可動の床板が付いていた。上演の際、せりふの内容に基づき、俳優は「天から降ってくる」ように、上層から下層に飛び降りてくることができ、また「地を割って出てくる」ように、下層から上層に通り抜けることができ、その効果でたいへん真に迫ったイメージを表現することができた。記録によると、慈禧が誕生日の時、いつも新機軸を出すために三組の出演者が三層の舞台それぞれで同じ演目を演じ、同じ時間に開演し、節回しも全く同一で、これにより賑やかさとめでたさを表した。慈禧は芝居見物が好きで、役者たちは自然と演義をほめられるのを受け入れた。例えば名優の譚鑫培は慈禧の高い評価を受け、一時たいへん人気があり、遂には「譚貝勒」(「貝勒」は清王室の貴族の高級な爵位の名称)と呼ばれた。


徳和園

 徳和園を出て西に向かい、「水木自親」門を入ると、慈禧の寝宮、 楽寿堂であった。楽寿堂は昆明湖に面し、万寿山を背にし、東は仁寿殿に到ることができた。西は長廊(長い回廊)に接し、園内で最も好位置にある居住、遊覧の場所であった。楽寿堂は清漪園であった時には元々二階建ての楼閣の建物が建っていたが、光緒年間に再建後、平屋の殿堂に改められた。堂内の西暖閣は慈禧が就寝する場所で、彼女は晩年の大部分の時間をここで過ごした。堂内のレイアウトはたいへん豪華で、様々な有名な磁器、漆器や、細かい彫刻のされた玉や象牙の彫刻などの工芸品が置かれ、更に様々な貴重な木材で作られた家具が置かれ、これらは慈禧の当時の極めて贅沢な生活を反映していた。楽寿堂の周囲には更に多くの貴重な花木や岩石が配置され、例えば楽寿堂の南側の巨大な青石の景観、青芝岫(せいししゅう)があり、これは明代の有名な勺園(今の海淀北京大学内にあり)にあったものである。


楽寿堂


青芝岫

 楽寿堂の西側の小門は「邀月門」と呼ばれ、この門を出ると、有名な回廊(渡り廊下)である長廊を見ることができる。こうした回廊は、中国古代の園林(庭園)の中でしばしば使われる建築様式で、強い日差しや雨、雪を遮ることができ、また園内の景観をより豊かにすることができる。頤和園のこの回廊は、中国内で現存するものの中でも最長で、 邀月門から石舫の岸辺の石丈亭まで、全長728メートル、全部で273間(二本の柱と柱の間が一間)あった。長廊は時にはまっすぐ、時には湾曲し、昆明湖の北岸をめぐる七色の錦帯のようであった。


長廊


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