燕雲十六州の契丹(遼)への割譲
第一節 遼代の南京と北宋の燕山府
遼代の南京
燕雲十六州の割譲 西暦936年、後晋の石敬瑭が身売りし契丹を頼り、契丹の支持を頼みに、後唐に代わり帝を称した。媚びを売り謝礼をし、彼は恥知らずにも契丹の主を父皇帝と称し、歳幣を貢納し、今日の河北、山西両省北部の燕、雲等十六州の地を契丹に割譲した。(平州等の地は先に手放していた。)これより、契丹は、華北大平原に勢力を伸ばした。中原地区は直接、契丹の軍事の脅威の下にあることが露見した。
幽州の背後は燕山を枕に、西は太行山脈に依り、東は渤海に臨み、地勢的にたいへん重要な場所であり、歴史的に中原王朝の東北方面の要衝であった。ここは北側を古長城と楡関(山海関)、松亭関、古北口、居庸関、紫禁関など五関の天険に依り、沃野千里の華北大平原を力強く守り、北方の遊牧民族の騎兵が南下するのを阻止した。
燕雲十六州の地勢図
地形から見て、幽州以北は、軍都山が聳え、漠北草原に通じる階段の第一段目を形作った。居庸関は固より天険と称されたが、北口から南口まで、地勢は急峻に下り、北方の侵略者は見晴らしの利く有利な地勢を占め、守りの面から見るとたいへん不利であった。このため、居庸関の天険は山後の諸州をその障壁とし、その中でも宣化(張家口)、大同の地位はとりわけ重要であった。ここから更に北に向けて、陰山が横たわり、地形的には階段の第二段目に相当した。このため、陰山の防衛線は、またその北側の大ゴビを垣根としなければならなかった。我が国の歴史の上で、中原王朝と北方の遊牧民族の統治者との長期にわたる付き合いの中で、統一があれば、紛争もあった。漢唐の全盛時代には、漠南、漠北全てがその直接管理の下にあり、国家は統一されていた。統一された情況下、幽州は漢族と北方少数民族間の経済文化交流の要となり、積極的な役割を果たした。ひとたび漠北で少数民族政権が割拠すると、幽州は中原王朝の東北方面の最前線の軍事的要衝となった。一般的に、こうした情況下では、当時の中原王朝がゴビの南縁を守ることができれば、垣根を固め、北方の辺境の災禍は効果的に抑えることができた。もし陰山を失うと、消極的な受け身の体制となり、防備には骨が折れた。更にそれを下回って、双方が燕山で争うと、あちこちで戦いが起き、歯止めが効かなくなる。ひとたび幽燕を尽く失うと、中原王朝は大平原でこれと対峙することになり、騎馬での戦いが得意な北方民族は彼らの優位性を十分に発揮することができ、長躯し縦横に動き、都を汴梁(開封)に建てた中原王朝(北宋)は、彼らの鉄騎の脅威を目の当たりにし、形勢は極めて不利となった。
後周と北宋の統治者は一度ならず努力し、燕雲を収復しようとした。西暦959年(顕徳六年)、周の世宗は北伐を行い、三関の地を収復したが、不幸にも陣中で疫病で死去した。北宋の統治者は南方を統一し、長期の準備の後、西暦979年(太平興国四年)、宋の太宗が太原に盤踞する北漢を滅ぼし、勝利に乗じて幽燕を回復しようとした。文臣の趙昌言は追随して言った。「これより幽州を取るは、鉄板を熱して餅をひっくり返すようなものだ。」将軍の呼延賛はこれに反駁した。「書生の言は信じるに足りない。この餅はひっくり返すのが困難だ。」宋軍は鎮州に集結後、北進して燕京城に到り、諸将を監督し城を攻めた。城を包囲すること三週間、穴を掘って進入した。城中の漢人は多くが二心を抱き、遼の将軍、耶律隆運は全力で守った。宋軍は太原の戦役の後、既に兵士たちは疲れ、士気が落ち、それに加えて孤軍で敵陣に深く入り、援軍も続かず、このため、遼の将軍、耶律斜軫が大軍を率いて南下し救援に入ると、両軍は高梁河(現在の北京西郊)で交戦し、宋軍は全軍が潰走した。西暦985年(雍熙二年)、宋の太宗は再び曹彬らにルートを分けて北伐させたが、同様に失敗に帰した。これより、双方は白溝を境界とし、南北対峙の局面を維持した。契丹の騎兵の南への侵攻を阻止するため、宋は燕南一帯でいわゆる溏泺(とうらく)政策を推進し、滹沱河(こだが) 、易水、白溝河などの川や湖沼を利用し、堤防を築いて貯水し、西は順安軍(今の河北省高陽の東)を起点とし、東は海に達する、東西三百里あまり、南北五、七十里の土地を、煙霧のかかっているところは水田や湖沼とし、寨(とりで)を設置して兵に守らせ、船舶を備え、防備を進めた。北宋が毎年大量の歳幣を輸送し納める状況下、宋、遼の間で、おおむね平和共存の状態が保たれた。
遼の南京建設 契丹が燕雲十六州を得て後、幽州は契丹(遼)の五京の一つの南京に昇格し、また燕京とも称した。府名は幽都(開泰元年(1012)に析津府(せきしんふ)と改称した)、軍号は盧龍(ろりゅう)で、檀、順、涿(たく)、易など六州と析津、宛平など十一県を統括した。
契丹(遼)の五京
遼析津府行政管轄区略図
幽州地区は古来より中原と北方や東北の少数民族との経済連携と文化交流の架け橋であった。契丹と東北のその他の少数民族はここで漢族の先進文化を吸収し、これにより自分の社会の経済発展を加速させた。阿保機は毎回南侵時に幽州地区の漢人を東北に移り住ませ、幽州の制度のように、城郭、邑屋(ゆうおく)、廛市(てんし)を管理させた。上京臨璜府(りんこうふ)の中に、社区や商店を組織させ、綾織や錦織など諸工業に従事する漢人は多数が幽州人であった。彼らは東北の各少数民族と一緒に、懸命に働き、東北地区をより一層開発していった。
契丹が燕雲十六州の土地を得てから、国内の政治体制と経済状況には何れも重大な変化が起こった。当時、契丹人はまだ漁撈、狩猟、牧畜を主とする遅れた生産社会にあったが、燕雲地区は定住し農業を行っており、高度に発展した社会であった。契丹の統治者は、直ちに先進的な漢文化を受け入れて、自分たちの遅れた生産方式を改めることができず、また自分たち民族の独自の方式を強化して燕雲地区を管理し改変することもできなかった。そのため、国家の行政組織の上で、いわゆる「胡漢分治」の方式を採り、「国制を以て契丹を遇し、漢制を以て漢人を遇す」こととした。中央では北、南のふたつの枢密院を設置し、北院は契丹と北方の遊牧民族を統治し、南院は漢人を統治した。燕雲地区の地方の統治機構について言えば、おおむね唐以来の旧制度を踏襲した。大部分の南面の官僚と燕雲の地方官僚も漢人が担当した。燕京の韓、劉ふたつの姓の人々は、皆遼代の有名な有力宗族であった。阿保機補佐の韓延徽は、城郭を建て、市里をふり分け、以て漢人の投降者を居住せしめた。また配偶者を定め、開墾技術を教えることにより、生計が立つようにしたので、逃亡する者が少なく、阿保機の燕京繁栄政策に対して決定的な役割を果たした。彼の孫の韓徳譲は聖宗の朝廷で大臣を拝命し、大丞相、蕃漢枢密使、南、北面行営に何れも配置され、耶律の姓を賜り、名を隆運とした。韓氏の一族の中で、相前後して中央では、執政に七人、大官に九人、一般の官吏に二百人余り任命された。幽燕地区の社会経済構造も、基本的には変更されなかった。地主が大量の土地を占有し、小作地を農民に分配して耕作させ、小作料の徴収を行っていた。胡漢分治政策の推進により、幽燕地区の契丹への繰り入れ後も社会経済の破壊や後退は引き起こされなかった。しかも、長期にわたり、辺境の侵略により引き起こされた戦禍が停止されたことにより、人々に安定がもたらされた。幽燕地区の漢人と契丹人の間の関係は基本的に良好であった。毎年冬には、契丹の遊牧民が燕の土地に入って避寒を行い、彼らは放牧、居住をしたが、荒地に入るだけで、漢人の農地には侵入しなかった。経済の連携と、両民族の人々の文化交流の強化に従い、両民族間の格差は次第に縮小した。聖宗時代(西暦983年より1030年まで)、契丹は封建社会に入り、漢化の程度も大いに強まった。
南京地区は、遼王朝の財政収入上極めて重要な地位を占めていた。南京の官吏の多くは財賦官(財政官)であり、政府の毎年の収入の半分はこの地区で取得された。田賦(地租)の面では、「囲桑税畝」(桑を植えた面積に依って最終製品の絹で税金を徴収する)、この他にも義倉粟(非常時に備え、一定額の粟を納めさせ、備蓄する)、三司塩鉄銭、農器銭、商税、房税、酒税、諸雑税、院務課程銭などの徴税項目があった。徭役には、驛運、馬牛、旗鼓、郷正、庁隷、倉司などの項目があった。契丹の統治者はまたいくつかの地域を馬の放牧地としたり、狩猟場とした。毎年更に大量の戦馬を雄州、覇州一帯で放牧した。幽燕地区の農民の経済負担は少なくとも北宋統治下の人々と同様に甚だしく重いものだった。遼代後期、歴史文書に幾度か見られる南京流民の記載があった。大安四年(西暦1088年)南京を凶作が襲い、一般人民が自らを売って奴隷となることが許可された。耶律、肖、韓の三姓の貴族は、また毎年燕の地の良家の女子を強請って妻妾にし、民は安らぐ所が無かった。人民の生活が困窮したことは、想像に難くない。
南京の規模 遼の南京はおおよそ相変わらず唐代の藩鎮の城の旧来の規模を踏襲していたが、遼の五京のうち、南京は最大且つ最も繁栄した都市であった。城の周囲は二十里(約10キロ)あまり、城壁の高さは三丈(約10メートル)、幅は一丈五尺(約4メートル)。堅牢な敵楼や戦櫓(何れもやぐら)を910基配置し、地塹(ざん。堀)は三重になっていた。城門は八つ設けられた。東に安東、迎春。南に開陽、丹鳳。西に顕西、清晋。北に通天、拱辰の各門である。内裏(皇居。宮殿)は城の西南角にあり、周りを城壁で囲み、周囲五里(2.5キロ)あった。南側正面に啓夏門、東に宣和門があった。その中には元和、仁政、洪政(武)の諸殿があり、建物はすこぶる壮麗であった。遼の皇帝はしょっちゅう城外に狩猟に行き、いわゆる「春水秋山」、「四時捺鉢」(いつもゲル(テント)で暮らす。「捺鉢」は契丹語で「行帳」の意味)で、たいてい春と秋にのみ、南京に来て短期間滞在した。通常は重臣が南京留守兼府尹(府知事)に充てられ、軍民を統轄した。また、南京統軍司を設置して軍事を統轄し、転運使などが租税を管理した。
遼南京城
城中には二十六坊があり、各坊にそれぞれ門楼があり、その上には大きな字で坊名が書かれていた。例えば、罽賓、粛慎、盧龍、棠陰、永平などの名前である。これらの名前は大多数が唐代の旧称である。城内は、「居民が密集し、路地の入口は直列し、商店は百室」にもなった。市街地は城の北部にあり、「陸海の百貨が、その中に集ま」った。居民の風俗は皆漢服を着て、また多くが胡服を着た契丹人、渤海人等であった。
経済概況 南京の手工業と商業は何れも頗る高いレベルにあった。許亢宗が南京地区の富の実態を描写した時に言った。「錦や刺繍が綺麗に織られ、天下に比べるものが無い」、「水は甘く土は肥沃で、人々は技巧が豊かである」。西暦1005年(宋景徳二年)、宋真宗は遼から贈られた美しい絹織物を近臣たちに分け与え、同時に前朝の時に献上された贈り物と比較し、過去の製品は明らかに品質が粗雑で、今はずっと精巧になっていると指摘した。その原因はもちろん幽州の織物の職工の技術レベルのおかげであった。遼朝廷は南京で政府御用の色鮮やかな緞子を密造するのを禁じ、また三司の塩、鉄、銭を絹に換算して納めさせ、より多くの絹織物を得ようとした。磁器の品質もかなり高かった。南京西郊の龍泉務には磁器の窯があり、その製品は主に白磁で、釉薬の色がぴかぴか透き通った白色、ややしみ通った青色など、半透明状を呈していた。遼政府は磁窯官を設置して管理を行った。順州(今の順義)の北側には銀冶山があった。書籍の印刷もたいへん発達していた。このことは『大蔵経』の印刷から説明することができる。有名な金瀾酒は、金瀾水を用いて醸成したもので、味はたいへんコクがあり、遼の南京の名産であった。
南京はまた松漠(「平地松林」とも言う。内蒙古克什克騰旗一帯。奚族、契丹族が活動した場所)、ないしは蒙古草原と内地の間で商業取引を行う際の中枢であった。ここは南側を宋、遼間の交易場を通じて、有限の通商を保持していた。北側は楡関路、松亭関路、古北口路、石門関路など驛道(古代、朝廷の文書を伝達するための街道で、途中に驛站(えきたん)が設けられた)を通じて、塞外と互いに行き来していた。高麗、西夏ないしは西域とも商業取引があった。南京の市場では銅銭で交易が行われ、こうした銭は少量が遼自身で鋳造されたのを除き、大部分が五代、北宋で鋳造されたものだった。遼の聖宗の時、更に大安山(房山と門頭溝)を掘ってみると、劉仁恭が埋蔵した銅銭が見つかったので、それが用いられた。
農業製品では、「野菜や瓜、果実、稲、高粱の類は、産しないものは無い。桑や柘(ヤマグワ)、麻や麦、羊や豚、雉やウサギは需要を問わない。」水稲は南京近郊の主要な農作物であった。道宗の清寧中期(西暦1055年から1064年)、高勲は南京近郊に空き地が多いので、空いた田畑に稲を植えるよう言った。耶律昆は反駁して言った。高勲は異心があるに違いない。彼の建議に基づき稲を植え、水を畔に引いて、もし南京を占拠して謀反を起こす者がいれば、官軍は入ることができない。朝廷は彼の意見を受け入れ、南京の人々が水門を開けて水を放水し、うるち米を植えるのを禁ずる命令を出した。咸雍中期(西暦1065年から1074年)になって、ようやく軍隊が行軍する地域を除き、その他の地域では稲を植えられるようになった。栗も昔からの名産で、朝廷はここに栗園を設けた。有名な契丹文学家、肖韓家奴(しょうかんかど)は曾て栗園管理の命令を受けた。ある時、聖宗が彼に外地で何か珍しい出来事は無かったか尋ねた。彼は焼き栗を譬えに、皮肉めかして皇帝を諫めて言った。私の知るところでは、栗を焼く時、小さいのに火が通っても、大きいのはまだ生である。大きいのに火が通ると、小さいのはもう焦げてしまっている。大きいのも小さいのも均等に火が通ってこそ、全てが美味しくなる、と。焼き栗の歴史から、既に少なくとも千年近い歴史があることが分かる。
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