慈寿寺塔(明万暦6年(1578年)建立)
第五節 明代の北京の文化
寺院と園林
明代、北京の人々は、北京城の郊外に多くの大小の寺院を建設した。明代の北京の寺院は全部で千か所以上あり、宛平県の1県だけでも570ヶ所あった。いくつかの寺院は、今日でも完全な状態で残っている。(沈榜『宛署雑記』巻言、闕名『燕京雑記』)
これらの寺院には、道教、仏教、ラマ教の寺院や、回教の清真寺が含まれていた。寺院の建物には、漢族、蒙古族、チベット族、回族、ウイグル族等、各民族の独特な芸術やスタイルが表され、同時にまたベトナム、朝鮮、インド、ネパールを含めた東方の各国の民族の芸術スタイルが混ぜ合わされていた。北京の安定門内、東四、牛街、錦什坊街の回教四大清真寺は、 牛街清真寺が明朝期に再建されたのを除き、その他は何れも明代の創建である。数多くのチベットとモンゴルのラマ教僧侶が絶えず往来したことにより、明代の北京では、チベット、モンゴルの建築様式の寺院が増加していった。
香山の弘光寺は、朝鮮人鄭同が建立し、その中の円形の殿宇は完全に朝鮮金剛山圓殿の様式を模倣したものであった。(『帝京景物略』巻6)五塔寺の後ろの石塔はインドの造形手法を採用し、塔の上には更に黄緑色に光輝く瑠璃亭が建築された。この美しい建物はずっと今日まで、北京の西の郊外に聳え立っている。
五塔寺石塔
大鐘寺外景
明代、北京に建設された各種の寺院では、更に当時の人々が木彫り、石刻、銅像、塑像、絵画などの面で、すばらしい成果を残した。北京石景山模式口法海寺、西直門外大慧寺、阜成門外宝塔寺、城内東四の清真寺、北海の天王殿では、明代の壁画、彩色画が保存されている。拈花寺(ねんかじ)の壁面の瑠璃の仏像群、長春寺の金箔か金粉で表面を覆った(渗金)銅塔、摩訶庵の石刻金剛経、五塔寺の石刻仏像と梵文、万寿西宮のとぐろを巻いた龍の模様の刻まれた(盤龍花紋)大鼎炉、大鐘寺の大鐘など、これらひとつひとつが高度な芸術レベルを備えていた。
永楽年間に釣鐘鋳造工場で鋳銅の職人が制作した大鐘は、今日に至るまで北京西郊外の大鐘寺の中で保存されている。この鐘は総重量8万7千キロ、鐘の表面、内面に華厳経(譲廉『春明歳時瑣記』(京津風土叢書参照))全81巻が刻まれていて、品質の良い銅を使い、彫刻は細かく、この鐘を衝くと鐘の音は数十里先まで聞こえた。このような大鐘は世界でも極めて珍しいものだ。
大鐘寺大鐘
人々は北京城郊外に更に多くの静かで美しい園林(庭園)を建設した。明代、北京城郊外の風致地区に園林が盛んに作られたのは、それ以前の如何なる時代も上回っていた。当時、有名な大園林には、定国公園、成国公園、英国公園、李皇親園、恵安伯園、宜園、曲水園、米万鐘の勺園など、その他の小庭園は枚挙に暇が無かった。これらの園林、別荘は上品できれいにレイアウトされ、山、水、石があり、泉水が流れ、花や木があり、あずまや、高殿、回廊、楼閣があり、欄干や橋梁があり、うねうね曲がった小道がきれいな風景の場所をめぐり、花や木が群生していた。明代、園林が大量に修築されるのは、中期以後であり、勲功のある皇族、官僚、大地主、大商人が北京城郊外の川や泉、山林地区を使って園林を切り開いた。
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