中国語学習者のブログ

これって中国語でどう言うの?様々な中国語表現を紹介します。読者の皆さんと一緒に勉強しましょう。

于丹 《論語心得》3.処世之道(2)

2011年06月05日 | 中国文学

(“子張学干禄”(子張、禄を干(=求)むを学ぶ) 本文参照)

 中国師範大学の人気教授、于丹の《論語心得》第3回、処世之道の2回目です。前回は人と人の関係で、“過憂不及”、過ぎたるは及ばざるが如く、適当な距離を保つことが大切であると学びました。それでは、こうした関係は、仕事の面ではどのように応用するべきなのでしょうか。

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 (クリックすると、中国語原文と語句解説が見られます。)
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□ 《論語》は私たちにこう言って戒めている。友人に対してであれ、上司に対してであれ、一定の距離を保ち、親しみと疎遠の頃合いを見極めなければならないと。それでは、自分が最も親しい家族とは、距離を置かなくてもよいのか。父母と子供の間、夫婦の間、恋人との間にも、適当な距離を保つ必要はあるのか。心理学に一つの定義があり、それによると、現代人の人との交際の中に、「非愛情的行為」と呼ばれる行為がある。それはどういうことかというと、愛情という名で最も親しい人に対して非愛情的な掠奪を行うことである。こうした行為はしばしば夫婦の間、恋人との間、母と子の間、父と娘の間、つまり世の中で最も親しい人との間で発生する。
 夫婦や恋人の間でよく次のような場面が起こる。一人がもう一人に対してこう言う。見て、私はあなたを愛しているから、これこれをあきらめたのよ。私はこの家のためを思って、このようにしたのだから、あなたは私に対してこうしてくれなくっちゃ。母親達は少なからず子供にこう言う。ご覧、おまえを産んでから、仕事もだめになったし、体も老けて醜くなった。私が全てを犠牲にしたのは、皆おまえの為なのに、おまえはどうして一生懸命勉強しないの。これらは全て、非愛情的行為である。というのも、それらは愛という名目で行われる強制的な束縛で、相手に自分の願望に基づき行動をさせようとしているからである。

■[2]


□ 私は嘗て、如何に人の親になるべきかを書いた本を読んだことがある。作者はイギリスの心理学の女性博士である。彼女は本の冒頭でたいへん良い事を言っている。彼女は言う。この世の中の全ての愛は一つに寄り集まることを最終の目的としているが、一つの愛だけが別れを目的としている。それは父母の子供への愛である。父母の本当に成功した愛とは、子供をできるだけ早く独立した個体としてあなたの生命から分離させることである。こうした別れが早ければ早いほど、あなたはより成功したと言えるのである。この意味から言うと、距離と独立とは人格に対する尊重であり、こうした尊重はたとえ最も親しい人との間にも、持たねばならないものである。父と子、母と娘との間であれ、長年連れ添った夫婦の間であれ、一旦この距離、この尊重が無くなり、この尺度を越えると、《論語》の中で言われる“数”shuo4(しばしば)の段階であり、お互いがもはや独立しておらず、隠れた危機が忍び寄り、お互いが疎遠になる、場合によっては二人の関係が破綻を迎えるのもそう遠くないであろう。《論語》が私たちに教えるのは、公平で理性的な態度で一人一人の人を尊重し、お互いの間に程良い距離を保ち、ゆとりを持ちなさいということである。
 これは禅宗が尊重する境地にたいへんよく似ており、「花未だ全て開かず、月未だ圓(まる)からず」と呼ばれる。これは人の世の最も良い境地である。花は一度満開になると、ほどなくしぼんで散ってしまう。月は一旦満月になると、すぐに欠け始める。まだ満開でなく、まだ満月でないと、心の中では依然、期待やあこがれの気持ちを持たせられる。友人との関係、肉親との関係も、また同様である。少し距離を保つことで、しばしば心が開けてわだかまりを無くすことができる。友人に対しても肉親に対しても、程良い距離をつかんでおくべきで、程合いが最も良いのである。

■[3]
 

□ それでは仕事については、熱心であればあるほど良いのだろうか。自分の役割内の仕事であれ役割外の仕事であれ、やらないといけない仕事は多ければ多いほど良いのか。仕事についても、程合いを知っておく必要はないか。子曰く:その位に在らざれば、その政(まつりごと)を謀らず。(《論語・憲問》)つまり、どんなポストであれ、本来やるべきことをきっちりやるべきで、出しゃばって、職位を飛び越えて、する必要のないことをしてはならない。これは現代社会でとりわけ提唱しなければならないプロフェッショナルな仕事の態度である。 
 多くの大学生の諸君は外資企業で実習をしたことがあるだろう。会社に一歩入ると、人事部の担当者がJob Description、つまりあなたの仕事のポジションについて書かれたものを渡してくれ、あなたにこの職場で何をすべきか教えてくれる。事務員、秘書、タイピストから高級管理職に至るまで、それぞれ自分のポストについての記述がある。中国の多くの会社に今欠けているのが、正にこのポストについての記述である。私たちはポストを通常その内容で見るが、その仕事の分量では見ない。私たちはいつもこう言っている。若いうちは一生懸命やらなければならない。一人で三人分の仕事ができたら良いと。これは結局、責任者の代わりに困難を助けてやっているだけだ。実際には、このような考えは現代企業の管理精神に適合しない。自分の仕事は自分がちゃんとできるよう配慮する。こうすれば、全部集めてはじめて、一枚の碁盤になるのである。
 孔子は「その位に在らざれば、その政(まつりごと)を謀らず」と提唱した。ここにはある前提が隠されている。すなわち、「その位に在れば、その政を謀らねばならない」、先ずあなた自身の職位の仕事をちゃんとやるべきで、他人のことを心配する必要はないのである。それでは、その位に在って、どのようにその政(まつりごと)を謀るのだろうか。

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□ 先ずは仕事を行う原則である。「子曰く:君子の天下に於けるをや、適無く、莫も無し。義にこれ与(とも)に比(した)しむ。」何を「義にこれ与に比しむ」と言うのか。つまり、「道義」をお手本とし、法則とするのである。孔子の言った意味は、君子は天下の事を行うのに、あれこれ言って無理強いしないし、理由もなく反対しない。依怙贔屓もしない。一切を道義に基づき行う。道義は、つまり政治を行う原則であり標準である。
 次に、仕事を行う方式である。「言葉」と「行動」の中で、孔子はとりわけ「行動」を重視した。彼は口先だけで大げさにまくし立てる人を好まなかった。彼は言う:「巧言令色、鮮(すく)なし仁。」(《論語・学而》)きれい事を言って、人に取り入ろうとする、このような人の中に、本当の仁者は見つからない。孔子が奨励したのは何か。言葉は少なく、より多く仕事を行うことである。仕事は積極的にし、言葉は慎み深くあるべきだ。孔子が言った「言を慎む」とは、話す内容に注意を払い、できもしない事は言わないことである。一般庶民の言葉で言うと、「災いは口から生じる」。そこまで厳しく言わないまでも、少なくとも「言葉数が多いと、失言を免れない」ということである。

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□ 孔子の弟子の子張は、「禄を干(=求、もと)む」ことを学ぼうと思った。「禄を干む」とは何か。仕官することである。子張は社会で何か仕事に就こうと思い、先生にどうしたらよいか尋ねた。孔子は彼にこう言った。「多く聞き疑わしきを闕(か)き、慎みてその余りを言わば、則(すなわ)ち尤(とがめ)寡(すくな)し。多く見て殆(うた)がわしきを闕(か)き、慎みてその余りを行えば、則ち悔い寡(すくな)し。言に尤(とがめ)寡(すくな)ければ、行に悔い寡(すくな)く、禄はその中に在り。」(《論語・為政》)「多く聞き疑わしきを闕(か)く」とは、先ず耳をそばだてて、多くのことを聞き、疑問に思ったことは、ひとまず置いておく。私たちはよくこう言う:ある人が自ら体験し、努力してきたこと、それは直接経験と呼ばれる。一方、他人の経験や教訓、その中にはその人が経験してきた紆余曲折を含むが、そういうものを聞くことは、間接経験と呼ばれる。間接経験を多く聞くことにも、メリットがある。「慎みてその余りを言う」とは、自分が理解できたことだけを言い、話す時も慎重にするということである。「則(すなわ)ち尤(とがめ)寡(すくな)し」とは、不満を減らすことができるということである。「多く見て殆(うた)がわしきを闕(か)く」とは、多く見て、疑問に思ったことはひとまず置いておく。戸惑いが多いのは、視野が狭いからで、井の中の蛙がどうして海や空が広々としていることを知ることができるだろうか。
 経験が豊かになった後も、行動は依然として慎重であるべきである。こうした慎重さを《論語》の中ではこう概括されている。「深淵に臨むが如し、薄氷を履(ふ)むが如し」(《論語・泰伯》。一人で仕事をする時は、深い淵の傍に立っているように慎重に行動し、薄い氷の上を歩く時のように注意深くしなければならない。

■[6]
 

□ 多く考え、多く聞き、多く見、言葉を慎み、慎重に行動する。このようにすることのメリットは、「悔いを寡(すくな)くする」ことで、自分自身にとっての後悔も減らせるのである。世の中に、好き好んで相手に後悔させるような人はいない。間違ったと分かった時には、全てがもう定まっており、挽回はできない。話の中に人から非難されたり怨まれたりすることが少なく、行為の中の、自分がこれまで後悔した様々な経験を減らすことができれば、その人は出仕し仕事をしても、成功することができるだろう。


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[安徽発]“金点子”、「金のアイデア」とは何か?~一般民衆から12次五カ年計画への建言を募集

2011年06月04日 | 中国ニュース

  今年に入り、全人代の政府活動方針をはじめ、最近の全人代常務委員会での議決内容でも、民衆の生活の改善を主眼にしたものが眼につきます。安徽省では、ネットを使って、一般民衆から、今年から始まる12次五カ年計画への提案、建言を募る、という活動が行われました。
 “金点子”とは「金のアイデア」、すばらしい献策、アイデアのことです。

■[1]
 (クリックしてください。中国語原文、語句解説が見られます)
    ↓




□ 「安徽の12次五カ年計画に焦点を当て、我々が立ち上がるのを助けるため、良いアイデアを献策しよう。」

□ 安徽省のインターネットで12次五カ年計画建言募集活動が終了、10の人気の「金のアイデア」が誕生

□ 人民網北京5月27日電(記者 楊伊)先ごろ、安徽省の「12次五カ年計画」に意見具申する「金のアイデア」募集活動のインターネット投票が終わり、ネット上での投票の結果、《資金が途切れる等の問題の解決への建議》、《民生の改善を加速するには「三つの歩みを速めて」進まねばならない》など10のネット投稿者の建言が36本の候補の中から頭角を現し、「金のアイデア」の称号に浴した。最高の「金のアイデア」は3千名近いネット読者の支持を集めた。「金のアイデア」賞を獲得した10名のネット応募者は、1200元の賞金と賞状を獲得、26名の奨励賞のネット応募者も、300元の賞金と賞状を獲得した。安徽省共産党委員会監査室の職員は今後約10日以内に賞を獲得したネット応募者と連絡、確認を行う。

■[2]


□ 今回行われた安徽の「金のアイデア」募集活動は、人民網(人民ネット)と安徽省共産党委員会監査室が共同で実施し、テーマは「安徽の12次五カ年計画に焦点を当て、我々が立ち上がるのを助けるため、良いアイデアを献策しよう」というもので、ネット投稿者のメッセージを募集し、ネット上の投票で評価し、最終結果を公表し、表彰・奨励するという四つの段階で展開された。活動は3月末以来、累計で全国各地のネット投稿者のメッセージが700通を超えた。メッセージの内容は全て安徽省の「12次五カ年計画」展開に関わるものである。安徽省共産党委員会監査室は活動の準備段階でこう表明した。「2011年は12次五カ年計画の開始年である。このスタートをうまく立ち上げるのに、幅広い皆さんの関心と支援が欠かせない。今回の活動は、より一層人民の声に耳を傾け、民意を理解し、人民の智慧を結集し、幅広い人々に政治への参加、政策の議論の機会を提供し、幅広い人々の情熱と力を引き出し、それらを集め、安徽が立ち上がるのを加速するため、良好な環境を作り出すためのものである。」

 それでは、ネット投稿者のアイデアの中から、特に支持を集めたものを二つ読んでみましょう。

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☆ 資金が途切れる等の問題の解決への建議

□ 現在、安徽省の“三農”対策の資金に、「循環が断たれる」という現象が起こっている。安徽の農村部の経済基盤は脆弱であり、早急に農村専用の発展基金創設が必要である。
 建議:(1)工業企業の税収の中から5-10%を取り、農村発展基金に充当する。(2)営利的な大型インフラ建設項目(例えば高速道路、大型水力発電所等)から将来の支援準備資金を捻出し、これらの施設が利益を上げている期間、1-5%の支援基金を捻出する制度を作り、一時的な補償を、動的で、長期間効果のある補償メカニズムに改める。
 農村部では人材の「断絶階層」がある。近年、安徽の現場の第一線の幹部の「後継者不足」は益々深刻になっており、人材が「入って来ず」、「定着しない」という二重苦が存在する。このため早急に人材の「循環」と「現場投入」を奨励するメカニズムを作らなければならない。大学の卒業生が町、団地、村に行き、教育、農業、医療を支援する具体的な措置を採り、大学卒業生が現場に行って就職するのを奨励し、若い幹部が現場の第一線に行って訓練するのを奨励するよう建議する。
 村の組織は「停電」して閉塞状態である。現在、安徽のいくつかの地方では、村の職員の団結力、覇気が弱く、多くの村の幹部はやりがいが持てず、軟弱で、消極的で、だらけるといった現象が起こっている。このため、考え方を変え、「村の官吏」を選抜し、待遇を向上させ、「村の幹部」を励まさなければならない。チャンネルを広げ、「村の財政」を拡大し、メカニズムを完備させ、「村の規則」を規範化する。計画的に一部の優秀な村の幹部を選抜し、上級の県、郷で仕事をさせる。彼らの退職金、養老年金の待遇を改善し、解任された村幹部の補助金基金などを創設する。
 いわゆる“三農三産”は「断線」して相互のつながりを欠いている。現在、農業、農村、農民(すなわち“三農”)政策のテーマ、中心、主体が不明確である。一次、二次、三次産業(すなわち“三産”)の三者の間のつながり、連体、連鎖が欠落している。これらの問題はすなわち安徽の新農村建設を推進する上で重要な制約要素となっている。したがって、体制を一新し、農業サービス、耕地流動、農村融資、農業技術普及等の有効なメカニズムを完備させ、実践を通じて新農民、新産業、新環境を育成し、とりわけ積極的な政策を制定し、流出した青年、働き手が故郷に戻り起業しやすくし、新農村建設の主力を充実させるべきである。 (2783票)

■[4]




☆ 民生の改善を加速するには「三つの歩みを速めて」進まねばならない

□ 「11次五カ年計画」の時期に、安徽省の各クラスの党委員会や政府は、民衆のために政治を行うという理念を持ち、民生は大幅に改善した。各クラス、各地方で民生プロジェクトが実施され、人民大衆の最も直接的で、最も現実的な要求に着眼し、光り輝く大称賛を勝ち取ることができた。「12次五カ年計画」開始に当たっては、安徽は経済社会発展六大目標を提出し、地域発展の協調性の強化、都市・農村住民の収入を普遍的に迅速に増加させ、社会建設を目に見えて強化させることをその中に加えた。このことは、現在も今後の一定期間も、民生の速やかな改善が安徽省発展の主旋律であることを表している。 
 私の見たところ、民生の迅速な改善という一代巨編をやり切るには、「三つの歩みを速めて」進まねばならない。公共の権力は節約して行政を行わなければならない。これが解決するのは、民生の投入資金が不足する可能性があるという問題である。公共機関の運営には一定の経費の保障がなければならないが、それにも節度が必要で、むやみに、濫用してはならない。とりわけ大衆が注視しているのは“三公”消費(公費での飲食、公用車の私的利用、公費での海外出張)で、これらを公共財政の「ブラックホール」にしてはならない。安徽省内で“三公”消費の整理、厳格運用を展開し、公用車改革の試験運用を展開し、長期的に有効なメカニズムを創設することを建議する。こうすれば、民生に投入する資金にもっと余裕が生まれる可能性がある。 
 民生への投資は金を惜しまない。近年、我が省の民生プロジェクトは絶えず拡大し、民衆の生活の様々な方面に渉っている。しかし依然としていくつかの民生プロジェクトへの「金の使い方」は不十分である。例えば、現在全国各地で試験運用されている「新型農村社会養老保険」で、安徽は全国の先頭を切って「全地域をカバー」しているだろうか。例えば、教育、就業、医療衛生面の投資の重点をもっと大きくできないだろうか。総じて、「12次五カ年計画」の期間、民生の迅速な改善の要諦は、惜しみなく金を使ってやることである。 
 断固として「抜け目なくうまい汁を吸おうとする」行為を防がなければならない。投資を拡大すると同時に、監視を強化し、公開・透明を旨としなければならない。つまり、全ての資金には、「じっと眼を光らせ」、陽光の下に晒し、断固として「抜け目なくうまい汁を吸おうとする」行為を防ぎ、権力によるゆすり、たかりを断固防止しなければならない。全ての問題資金に対しては、徹底的に調査し、厳しく問責しなければならない。最後に提起したいのは、以上の「三つの歩み」は、進み出したら「速さ」に注意しなければならない。速ければ速いほど実際の効果は明らかである。いずれにせよ、「12次五カ年計画」は既に始まった。時は私達を待ってくれない。 (1621票)

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  実際は、ネットも当局に管理されていますから、ネットによる政治参加といっても、どこまで本音が語れるか、制約があるとは思いますが、農村部の行政組織の実態、或いは一部の公務員の実態が垣間見られ、興味深く読ませていただきました。


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7月1日中国鉄路ダイヤ改正、京滬高鉄運行開始

2011年06月03日 | 中国生活

  “京滬高鉄” jin1hu4 gao1tie3、北京~上海間新幹線の本格運行開始に伴い、7月1日に中国の鉄道が大々的なダイヤ改正を行うことが発表されました。今日はその話題をお伝えします。

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 (クリックしてください。中国語原文が見られます。)
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 “列車運行図”lie4che1 yun4xing2tu3は、「列車ダイヤ」。“調図”tiao2 tu3は「ダイヤ調整(改正)」、“現図”は「現行ダイヤ」となります。   
 “対”dui4は二つで一組になったものを数える量詞。普通は、“一対夫婦”(一組の夫婦)などという言い方をしますが、ここでは、上り下りの「往復」の意味です。したがって、“2128.5対”という“0.5”という端数が出てしまっています。 
 “票価浮動”piao4jia4 fu2dong4とは、「乗車料金を変動させる」、300キロの営業運転の高速列車は、より高い料金設定をするということです。

□ 7月1日より、全国の鉄道で新しい列車ダイヤの運行が実施される。今回のダイヤ改正後、全国の鉄道路線で運行される旅客列車は2128.5往復で、現行ダイヤより195往復増加し、輸送座席数は401.3万に達し、現行ダイヤより35.1万増加、旅客輸送能力は9.6%増加、貨物輸送能力は6%増加する。

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  “三種混合運行”というのは、運行速度帯の異なる三種類の列車を同時に走らせる、ということですが、上の文章を読むと、運行速度帯の異なる線路が三種類存在することが分かります。当然、何れも1435㎜の標準軌の線路ですから、列車は異なる規格の線路を互いに乗り入れられる訳です。
  “動車”dong4che1は、分散動力型の新幹線電車の登場により生まれた言葉で、「電動車」、或いは「電車」と訳すべきでしょう。ちなみに、中国では、日本で言う近郊電車のことを、“軽軌”qing1gui3と言います。

□ 新たな運行ダイヤでは、「三種混合運行」の列車運行の新モデルが全面的に実施される。すなわち、時速300キロの高速路線では、時速300キロと時速200-250キロの2種類の電車列車が同時に運転され、時速200-250キロの路線では、時速200-250キロの電車列車と時速120-160キロの普通客車が同時に運行され、時速200キロ以下の路線では、普通客車と貨物列車が運行される。 
 紹介によれば、「三種混合運行」の列車運行の新モデルの実施は、乗客がそれぞれ異なる速度等級と、異なる乗車運賃の選択を満足させる手助けとなる。

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 北京~上海新幹線は、当初は時速300キロ、将来は時速350キロという高規格の営業運転の実現にこだわっています。それは、「速達」という付加価値により、高い料金設定を実現するためです。今回の新ダイヤでは、時速300キロの列車と時速250キロの二種類の速度の列車を運行し、運賃を区分するとしています。
 “京滬一站直達”とは、「北京・上海直通ノンストップ」。“省城之間直達”は「途中の都市間直通列車」。“沿線車站交錯停車”は、「途中駅交互停車」です。
 北京・上海以外でも、多くの都市の間で高速鉄道の整備が進められています。この記事で紹介されているのは、“武広高鉄”は「武漢・広州高速鉄道」、“鄭西高鉄”は「鄭州・西安高速鉄道」、“滬寧城際高鉄”は「上海・南京都市間高速鉄道」。“城際”の“際”は「相互の間」の意味ですから、“城際”で「都市間」となります。

 □ 高速鉄道の運行を最適化することが、今回の運行ダイヤ調整の主要な眼目である。すなわち営業運転を開始する北京・上海高速鉄道の運行ダイヤは既に作成が完了した。北京・上海高速鉄道の初期の営業運転の最高速度は300キロに確定し、時速300キロと250キロの二つの速度等級の列車が同時に運行され、二種類の乗車料金が設定される。当初は毎日電車列車が約90往復運行され、それには北京・上海直通ノンストップ、途中の都市間直通、途中駅交互停車の三種類の列車が含まれる。
 同時に、武漢・広州高速鉄道、鄭州・西安高速鉄道、上海・南京高速鉄道でも時速300キロと時速250キロに二つの速度等級の同時運行モデルが採用され、二種類の料金が設定される。武漢・広州、鄭州・西安、上海・南京都市間高速鉄道の1日平均の電車列車はそれぞれ80往復、22往復、110往復設定される。
 北京・天津都市間鉄道、上海・杭州高速鉄道は、時速350キロの営業運転を維持する。北京・上海高速鉄道が他の路線を跨いで電車列車を運行するのに合わせ、鉄道部門は北京・天津、青島・済南、上海・南京、上海・杭州等の高速鉄道の運行ダイヤを同時に調整し、併せて南昌・九江、合肥・南京、合肥・武漢の電車列車の運行プランについて、最適化の調整を実施している。  

 この他、6月1日より、不正乗車防止の為、航空券のように乗車券に乗客の実名の登録、記載が始まり、また北京・上海高速鉄道の乗車券はインターネットでの購入が可能になるそうです。


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于丹 《論語心得》 3.処世之道(1)

2011年06月01日 | 中国文学

 “豪猪的哲学” ヤマアラシの哲学とは? ―― 本文参照のこと。


 中国師範大学・于丹教授の《論語心得》の第三話は、処世の道、人間関係についてである。キーワードは、“過憂不及”、「過ぎたるは尚及ばざるが如し」。

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  (クリックしてください。中国語原文と語句解説が見られます)
     ↓


□ 現代の社会は、人と人の関係がより近くなったと言えるし、より疎遠になったとも言える。しかし何れにせよ、対人関係は全ての人ひとりひとりが対面する問題である。公正でない待遇を受けた時、私たちはどのような気持と態度を保たなければならないのか。自分と親しくなった人に対し、私たちはどのような原則を持たなければならないのか。入り組んで複雑な社会環境の中で、私たちはどうしたら対人関係をうまく処理できるのだろうか。《論語》という本は、私たちに多くの処世術や礼儀作法を教えてくれる。これらの道理は見たところたいへん素朴で、これらの方法は時には原則の中に多少の融通も垣間見えることがある。簡単に言うと、それが私たちに語るのは、物事を行う原則と、原則を保つ上での頃合いである。 
 私たちはしばしば、「こういう事はやるべきだ、こういう事はやってはならない」、或いは「これは良いことだ、これは良くないことだ」などと言う。しかし実際は、多くの場合、一つの事を判断するのに、決して簡単に「べき・べからず」、「良い・悪い」の区分をすることができない。いつこの事を行ったか、この事をどの程度行ったかが、この事の性質に直接影響を与える。孔子は物事を行う頃合いを特に強調しており、「やり過ぎ」と「不十分」は極力避けるべきとする。孔子は仁愛を提唱しているが、彼は決して原則を失した仁愛の心で全ての人の過ちを許すべきとは考えていない。

■[2]


□ ある人が尋ねた。「徳を以て怨みに報いるは、如何。」孔子の回答は、「直(率直さ)を以て怨みに報い、徳を以て徳に報いる。」孔子が出した回答は、私たちはちょっと聞くと意外に思うかもしれないが、実はこれは正に孔子が私たちに教えてくれる処世の「頃合い」なのである。孔子がここで提唱しているのは一種の人生の効率と人格の尊厳である。彼はもちろん怨みで以て怨みに報いるのは賛成でない。もし永遠に一種の悪意や、一種の怨恨で以て別の不道徳に対するなら、この世界は悪性の循環に陥り、それが止まったり休んだりすることがなくなる。私たちが失うものは、自分の幸福に止まらず、子孫の幸福も失ってしまう。徳を以て怨みに報いるのも同様に採用できない。つまり、恵みや慈悲を与え過ぎても、値打ちの無い思いやりで自分がするに値しない人や事に対するのは、ある意味、人生の浪費である。これら二つの他に、三つめの態度がある。それは、公正で、率直で、正直で、大らかで細かい事にこだわらない態度。つまり、高尚な人格で、平然と一切の事に対することである。孔子のこうした態度は、私たちに、限りある思いやりの心、限りある優れた才能を、最も使うべき所に残しておくべきであると、教えてくれる。
 今日、私たちは誰でも資源の浪費を避けようと言うが、心の荒廃と自分自身の生命エネルギーの浪費に注意していない。物質文化の繁栄、生活テンポの加速は、より一層、私たちが一つの事に対処するのに、迅速に判断を下し、自分のできる、最も価値のある生活方式を選択するよう求めている。

■[3]


 □ 私たちは生活の中でしばしば次のような困惑に陥ることがある:父母の子供に対する関心、愛情は至れり尽くせりであるのに、しばしば子供の反感を招く。昵懇(じっこん)の間柄の親友であるのに、しばしば互いに傷つけあうような事態になることがある。時にはいろいろ知恵を絞って上司や同僚と親しくなろうと思うのだが、しばしばその反対の結果になることがある。どうしてそうなるのか。どのような関係が「良い関係」と言えるのか。孔子は、疎遠すぎるのも親密すぎるのも良くなく、いわゆる「過ぎたるは尚及ばざるが如し」であると考えた。どうして二人の間が大変親密であるのが、人と付き合う最も良い状態ではないというのか。
 孔子の弟子の子遊はこう言った。「君に事(つか)えるに数(たびたび)すれば、斯(そ)れ辱められん。朋友に数(たびたび)すれば、斯(そ)れ疎(うと)んじられん。」(《論語・里仁》)“数”shuo4は「しばしば」という意味である。もしあなたが用事があっても無くてもいつも国王(或いは上司)の傍に居るなら、如何に親しみを表しても、自分が辱めを受ける可能性が大いにある。あなたが用事があっても無くても友人の傍に居るなら、たとえ親密に見えても、あなた方二人が疎遠になる可能性が大いにある。

■[4]




□ ある哲学的な寓話があり、その名を《ヤマアラシの哲学》という。ヤマアラシは、体中に鋭い刺(とげ)が生えており、集団で寄り集まって暖を取って冬を越す。彼らは群れの中でどのような距離を保てばよいか分からず、お互いが離れていると、互いに熱気を受けることができないので、いっしょに寄り集まる。一旦寄り集まると、鋭い刺が互いに体を刺すので、また間隔を開けて離れる。しかし離れ過ぎると、皆がまた寒く感じる……何度も失敗を繰り返し、ヤマアラシ達は遂にちょうどよい距離を見つけ出す。それはお互いが傷つけ合うことのない前提で、群れ全体が温かさを保てる間隔である。
 私たちの今日の社会、とりわけ都市では、元々の寄り合い住宅は撤去され、集合住宅が建設され、中庭を挟んだ一軒が餃子を作ると、隣近所にお裾分けするなどという事はもうなくなってしまった。同じ敷地の隣人同士一緒に年越しをすることはもうなくなり、大人、子供それぞれ別々にテーブルを持つようなご時世である。一つの集合住宅に三四年住んでいても、隣近所を全て知っている訳ではないということがしばしばある。周囲の人との交流が疎遠になったことにより、人と人の間のコミュニケーションの障害が益々増えてきている。こうした障害が多くなると、どうなるのか。自分たちが信頼する数人の友人の身にかかる負担が更に重くなる。あなたはこう感じるかもしれない。私の親友は私にもう少し良くするべきだ。私も彼にもう少し良くするべきだと自覚している。あなたはこう感じるかもしれない。あなたの家で何かプライベートな事件が起こったら、例えば夫婦喧嘩をしたら、どうして私に言ってくれないの。私はあなた方の間を仲裁してあげる。多くの人は皆このように考えている。
 皆さんは真剣に子遊のこの言葉に耳を傾けるべきだ:「君に事(つか)えるに数(たびたび)すれば、斯(そ)れ辱められん。朋友に数(たびたび)すれば、斯(そ)れ疎(うと)んじられん。」距離が近すぎると、必然的に他人を傷つけてしまう。それでは、どのように友人と付き合うべきなのか。

■[5]
 

□ 子貢は嘗て彼の師の孔子に質問したところ、孔子はこう答えた。「忠告して善く之を道(みちび)く。可(き)かざれば則(すなわち)止む。自らを辱められること勿れ。」(《論語・顔淵》)友人が正しくない事をしているのを見たら、真剣に忠告し、善意で指導するべきである。しかし、もし彼がそれを聞いてくれないなら、仕方がない。それ以上説得する必要はない。さもないと自分が厭な思いをする。だから、親友とお付き合いするのも節度がなければならず、どんな事でも一切合財引き受けてしまってはならない。


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