大順政権による「追贜索餉」
第四節 北京での大順政権(続き)
大順政権の政治措置
時代条件や階級意識の制約のため、農民軍は封建制度を廃除し、新たな社会制度を打ち建てるよう努めることは無かったし、不可能であった。しかし、既存の社会を深く恨み、すばらしい生活を渇望していた農民軍は、北京にいた期間にも彼らの経験、智慧や才能を活かし、明朝の政治経済制度に対し、一連の改革を行い、何とか彼らの理想の社会秩序を実現すべく努力した。
政治経済改革の実施の責任者は、李自成、劉宗敏、李過、田見秀など二十人余りから成る指導部であった。これら農民軍の指導者は、互いに兄弟と呼び合い、「一緒に座って飯を食い」、「何事も衆議を集めて計画し」、終始共同で議論する民主的なやり方を保った。
早くも1640年(崇禎13年)、李自成が湖北省襄陽にいた時、中央政府の組織の建設に着手した。1644年(崇禎17年)正月、李自成は陝西省で正式に政権を打ち建て、西安を西京とし、国号を大順とし、元号を永昌とした。北京を攻略して後、大順政権の政治制度は更に完全なものとなり、中央に内閣と六政府などの機構を設立し、同時にまた明朝が設置したいくつかの無用な機関を廃止、併合し、人数が万に及ぶ宦官を宮廷から駆逐した。
この時、大順政権が統治した地域は直隷(今の河北省)、山東、山西、河南、陝西の五省及び湖北、安徽、江蘇、甘粛、青海の大部分或いは一部であった。大順政権が統治した地域には、軍が駐屯、防衛し、官吏を派遣し統治した。地方の官職には、節度使、府尹、州牧、県令があった。
大順政権支配地域
中央政治機構の改組、拡大と地方政権の増加に伴い、大順政権は大量の官吏の必要に迫られ、農民軍の将校と山西、陝西一帯から軍に随行してきた貧しい士大夫に頼るだけでは、この需要をはるかに満足させることができなかった。李自成が北京に入って間もなく、次のように命令した。「およそ文武官員は皆21日に朝廷で謁見を受け、故郷に帰ることを願い出た者は各自の都合に任せ、従属を願い出た者は才能を評価して登用する。もし抵抗して出て来ず、罪に死刑が加わり、それをかくまった家も、併せて連座させる。」
明朝官僚は元々皆「衣冠のせいで罪過を招くのを恐れ、悉くその進賢冠(皇帝に朝見する時の礼帽)を壊した」。この時、李自成の命令に接し、自分たちが昇格し金儲けができる好機が来たものと誤解した。そして、「しばしにこにこしながら、梨園の中から冠を捜して被り」、有頂天になって昇格の夢がかなうと思った。21日の朝、3千人余りの明朝の官僚が承天門前に集まり、争って官職希望の名簿に応募した。
大順政権はこれらの官僚に対して厳格に審査(甄别)した。三品以上の大官は、原則的に登用せず、四品以下の官吏も、犯罪、汚職、悪辣な行為をしていない者だけが、ようやく「才能を評価して官職を授けた(量才授職)」。審査の結果、92名だけ採用したが、「大部分が新たに科挙に合格した者が多くを占めた」。
大順政権はまた試験を通じて一部の官吏を採用した。科挙制度の弊害に鑑み、まだ西安にいる時、農民軍は八股文の廃止を明確に命令し、「政策論を以て士を取る」方法に改めた。北京では、依然として 政策論を以て士を取り、試験の題目には、「天下は仁に帰す」、「大雨数千里」、「もし大旱魃で雨雲を望む」などがあった。採用の基準は、受験者が実学の才能を備えているかどうかを見るだけでなく、彼らの農民軍に対する態度も見た。採用の基準はかなり厳しかった。当時は「受験を希望する儒者が、市を埋め尽くした」が、最後に挙人50名だけが採用された。採用者は皆才能を評価して官職を授けた。歴史史料の記載によれば、「新たに兵部に選ばれ従事する有り、朝の中から出づ。「賊兵」は坐して問うて云う。「汝何の職を選ぶや」すなわち実を以て告ぐ。乃ち其の背を拍いて説く。「また好し、また好し。但し前朝の如く銭を要すべからず、我主に法を立つるを厳しくし、官を貪り吏を汚すは、便ち梟首(きょうしゅ。さらし首)を要す」。「偽官」は恭順して去る。」これは大順政権が自分の官吏に対する要求で、幅広い農民の官吏に対する希望でもあった。
農民軍はこれらの新たに採用された官吏に対して決して警戒を失っていなかった。大順政権の多くの最重要の職務が労働者出身の農民軍指導者の担当であった。北京にいた期間、鍛造工出身の劉宗敏が軍政の司法の大権を掌握し、文武の将校は皆彼の管轄を受けなければならかった。順天府では「刑名を管轄し、都察院堂の比餉に坐す」のは僮僕(童僕。召使の少年)出身の制将軍、魏某であった。後軍都督府の張家は元々鍋の繕い人であった。赴任してきた地方官は、家族を北京に「人質」に置かねばならなかった。大順政権は明確に彼らにこう宣告した。必ず着任後1、2年「うまく治められれば」、はじめて北京に戻って家族を連れ帰ることが許された。
大順政権は賢明で能力ある人の選抜に力を入れ、それに加え「号令がおごそかで厳しく」、「立法が厳密」であるので、「土地を守る官吏を派遣するところ、敢えて民を暴する無し」、政治は清明、民心は安定した。とりわけこうした官吏が各府県に着任後、農民軍の階級路線を遵守することができ、横暴な地主を鎮圧し、「体罰を加え(拷掠)(農民軍の)軍糧を援助し(助餉)」、貧しい農民を救済したので、大順政権は幅広い人民群衆の歓迎を受けた。李自成は北京で劉宗敏、李過が主管する「比餉鎮撫司」を設立し、専ら明朝の勲戚、顕宦(高官)、豪商から隠匿した贓品(ぞうひん。窃盗など財産に対する罪に当る行為によって得た財物)を取り立て(追贜)、軍糧を請求(索餉)した。3月24日、農民軍は一部の明の勲戚、廠衛(明朝の東廠、西廠、錦衣衛の総称)の武将を処刑した。続いて、「比餉鎮撫司」が北京で大規模な「追贜索餉」を展開した。農民軍は「卿相(大臣)の所有財産は、盗んだものでなければ搾取したもので、皆贓品である」、「衣冠が蓄えるものは皆贓品のみ」とし、このため「追贜」の対象は貪官汚吏(汚職をし法律を捻じ曲げる役人)だけに限定するのでなく、明朝の全ての大小の官僚、「各店舗、絹織物商などの業界、全ての郷紳、富豪」が含められた。明朝の官吏に対し、三つのクラスに分けて処分が行われた。一、罪悪が顕著な者は、家財没収、死刑。二、貪官汚吏は刑を厳格にし、隠匿した贓品を取り立てる。三、「清廉潔白」な者は、寄付(捐輸)をさせ、刑罰で責め立てることはしない。寄付の金額は、官位の高低や家財の多寡で決められ、だいたい、内閣は10万、部院京堂錦衣帥は7万、科道吏部郎は5万、3万、翰林は1万。部下は千で数え、戚勲は金額を定めなかった。一般の郷紳、金持ちの家、及び大商人は、「その資産の十分の三を税として徴収」した。
追贜の過程で大順政権はまた前後して大量の、罪悪の甚だしい、累々たる血なまぐさい犯罪を犯した悪辣なボス、廠衛の名の知れた者、要職にある狡猾な小役人や権臣、勲戚をを死刑に処し、その中には一貫して貪婪(どんらん)で狂暴、「平民を鞭打ち財産を掠奪」した陽武侯薛濂 。専ら「借金を貧民たちに負わせ、利息を取り、寝室には貯めた銭が常に満ちて」いた嘉定伯周奎。「家の資産は数百万、経営している質屋は数十ヶ所、女中や妾は数知れず」の徽商汪簑が含まれていた。北京の市民はこれらの悪党どもが処刑された知らせを聞き、気持ちが晴れ晴れとし、意気が上がり、手をたたき称賛しない者はいなかった。
農民軍の追贜索餉政策は人々の利益を代表したので、北京の幅広い人々の熱烈な擁護と支持を得ることができた。追贜の過程で、各官庁の小役人や召使、貧しい市民は、自然と農民軍に、役人や金持ちに関する汚職やゆすり、家財の多寡の情報を提供した。彼らは積極的に農民軍に協力し、逃亡したり隠れている役人や金持ちを追跡して逮捕し、彼らが隠していた金銀や財宝を探し当てた。幅広い人々の積極的な協力により、不正や汚職にまみれた官吏で逃亡、脱走できた者はたいへん少なかった。追贜の結果、銀7千万両を獲得し、そのうち勲戚のものが十分の三、宦官のものが十分の三、百官のものが十分の二、大商人のものが十分の二を占めた。
追贜、助餉の過程で、大順政権の法律の執行は厳しく公正であった。不正や汚職にまみれた明の東閣大学士魏藻徳を尋問した時、魏藻徳は恥知らずにも彼を尋問した旗鼓の王某に言った。「どうか将軍、私を救ってください。私の娘は十七で美しいので、将軍にお仕えしたいと願っています。」王旗鼓は「蔑んで之を蹴り」、正しい道理を踏まえ、言葉厳しく魏藻徳の買収を拒絶し、法に依り彼を死刑に処した。
農民軍は追贜政策を実行すると同時に、封建的な賦役の免除を行い、貧しい労働者階級の人々を救済する政策を実行した。