李自成軍北京入城
第四節 北京での大順政権
李自成の農民軍が北京に進軍
明朝末年、地主階級は気が狂ったように土地を併呑し、農民に対し極端に残酷な搾取と掠奪を行い、幅広い農民が着るもの食べるものの当てもなく、貧困絶望の深淵に陥り、次々と破産し逃亡し、階級間の矛盾が既に極めて激しくなり、農民戦争は一触即発の状態であった。
1627年(天啓7年)、陝北澄城県の飢えた人々が、県城になだれ込み、知県を殺し、明末の農民大蜂起が幕を開けた。これより、農民蜂起が野火のように中国全土各地で瞬く間に燃え上がった。
明末農民蜂起
蜂起の勢いが明朝の統治者を震撼させ、統治階級は慌てふためいた。農民軍は厳しく鎮圧すべきと主張する者がいた。「宣撫(招撫)」政策を採り、農民軍を分裂、瓦解させるべきと主張する者もいた。その他少数の人は土地問題の重大性を見て取り、「限田」、「均田」の方法を提起し、これにより階級矛盾を緩和し、ぐらぐらして今にも倒れそうな明政権を救わんと企てた。崇禎帝を首とする保守派は如何なる改革を行うことも拒絶し、武力で蜂起を消滅させようとした。
1640年(崇禎13年)、ちょうど明の統治者が北京で「限田」問題について言い争いが絶えない頃、李自成が指導する農民軍が既に河南で甲高く「均田免賦(農地を均等に分け、一定期間税も免除する)」のスローガンを呼びかけ、農民に新たな希望をもたらした。農民は熱烈に支持し、蜂起軍を擁護し、先を争い(踊躍)蜂起軍に加した。
わずか二三年のうちに、李自成の農民軍は河南、湖北、陝西等を占領した。1644年(崇禎17年)正月、李自成は西安に大順政権を打ち建てた。同年2月、農民軍は陝西から長躯北京を叩き、途中幅広い人々の歓迎を受け、「国を挙げて次々、尽く時雨の大雨のよう」(顧炎武『明季実録』)であった。
この時、北京城内の勲戚、官僚は、既に自分たちの終わりが間もなくやって来るのが分かっていた。何人かの人は一日中酒に酔って夢を見ているかのようにぼんやりし(酔生夢死)、「ただ今日のことだけ考え、明日のことは考えなかった」。何人かの人は急いで金銀や金目のもの(細軟)を整理し、如何に逃げるか考えた。北京の住民たちは公然とこう言いふらした。農民軍が「やって来たら、門を開けて入ってきてもらう」と。少しも飾らず彼らは農民軍に期待した。当時、北京城では農民軍のことをこう噂した。「人を殺さず、財を愛さず、姦淫せず、掠奪せず。安く買い安く売り、銭や糧食での賦役を免除(蠲免)し、且つ富家の銀銭を貧民に分け与えて救済する。」「すこぶる学問を重んじ、秀才を迎えると、先ず銀貨を与え、続いて照合し、一等は府を、二等は県を担当させた。」このため、幅広い都市住民が「大門を大きく開いて闖王、李自成を迎える」準備をしたので、幾分失意の士大夫までも、宮殿の壁に「ここには人を留めず、自ずと人を留める所有り」という張り紙を出した。
統治者はこの期に及んでも、断末魔のあがき(垂死挣扎)をしなければならなかった。明朝朝廷は三大営の軍隊に命じて城外に駐屯し防衛させ、全ての城門と城内の各街路と路地に守備軍を配備し、大砲を据え付けた。崇禎帝は逃亡しなかった勲戚、官僚たちに金銭、物資面の支援をした。
しかし農民軍の侵攻はたいへん迅速で、明朝廷の作戦部署がまだ準備ができていないうちに、彼らは既に柳溝(今の延慶県東南)から明陵を攻略し、突然北京城下に出現した。3月16日、農民軍は北京城を包囲した。
農民軍は北京城を攻め落とした
李自成は城攻めの前に、投降を勧める文書を矢文にして城内に入れたが、崇禎帝は投降を拒絶し、大衆をあくまで敵と見做した。
3月17日、戦闘が開始した。北京城外の三大営はちょっと攻撃すればすぐ潰れてしまい(一触即潰)、輜重(軍隊に付属する糧食、被服、武器、弾薬などの軍需品の総称)、大砲は尽く農民軍が分捕った(繳獲)。
3月18日、農民軍は大風やにわか雨(驟雨)を冒して、彰儀、西直、平則、徳勝などの城門を猛攻し、戦闘はたいへん激しかった。農民軍は皆黄色の甲冑を身に着け、四方から望むと黄色い雲が野を覆いつくすようだった。北京郊外の住民たちは矢や石が雨のように降り注ぐ中、争って大きな石を背負い、溝を埋め堀を塞ぎ、農民軍の城攻めを援けた。
城を守る士卒は皇帝のために命がけで働くを良しとせず、監督者が「一人を鞭打ち起たせると、一人がまた横になった」。軍士の中には城の上から農民軍に向け手を振って意図を示す者がおり、農民軍が行ってしまうのを待ってから、空砲を放った。
18日の夕刻、彰儀門が攻め落とされた。農民軍は外城を占領して後、直ちに内城の各門に対し更に猛烈な攻撃をかけた。その勢いは暴風雨に遭ったかのようで、その情勢がますます明らかになった。
崇禎帝は大勢が既に決したと思い、無理やり周皇后を自殺させ、妃嬪公主数人を手打ちにし、数百人の宦官が同行する中、夜半に城を脱出しようとした。しかし北京城は既に農民軍にブリキの桶のように取り囲まれていた。こうした強情で独りよがりで、頑固で考えを変えない皇帝は、人々の正義の制裁を受けるのを怖れ、密かに万歳山(すなわち現在の景山)に逃れ、寿皇亭の前の槐(エンジュ)の樹の下で首を吊って亡くなった。
これと同時に、農民軍の猛将(驍将)劉宗敏、李過は、自ら率先して北京城に登った。城を守る兵士たちは鎧兜を捨て、狼狽して逃亡した。徳勝、斉化、平則、宣武、正陽の諸門は速やかに攻略を受け開放され、農民軍は勝利の雄叫びを上げ、潮流のように城内になだれ込んだ。
19日早朝、北京城内の家々は皆、家の門の上に「永昌元年順天王万々歳」、「新皇帝万々歳」などの字句を貼りだした。住民たちは色絹で飾ったランタンを吊るし、テーブルを設けてお香を焚き、大通りの両側と胡同の入口に一斉に立って、蜂起軍を迎える準備をした。お昼に、農民軍の大部隊が城内に入った。その中で黒いぶちの馬に乗り、フェルトの笠、縹(はなだ)色(うすい藍色)の衣服を着た人が、農民軍の指導者、李自成であった。
北京城は農民軍に占領され、270年余り続いた明王朝は打ち倒された。元々ずっと社会の底層で侮辱され圧迫され尽くした農民が、初めて北京の政治の舞台に登ったのだった。北京の歴史は新たな一ページを開いた。
李自成軍の北京攻略
李自成の農民軍の軍紀
李自成が指導する農民軍は、北京でトータル43日駐留したが、北京の人々の心にすり減らすことのできない印象を残した。
農民軍の紀律の厳正さは、封建歴史学者までも承認せざるを得なかった。『明史』は李自成の軍令をこう記載している。「白金を蔵するを得ず、城邑を過ぐるに室処を得ず、妻子の外に他の婦人を携えるを得ず、寝興は悉く単布の幕綿を用うべし……馬の田苗に騰󠄁入するは之を斬る」。農民軍は城に入る度に、指導者たちは必ず何度も命令し戒め(三令五申)、厳格に自分の部下を束縛した。農民軍が北京城に入ると、李自成は矢を抜いて矢じりを取り去り、後ろに向け続けて三本矢を放ち、こう宣言した。「軍人は入城し、敢えて一人傷つければ殺して赦さず」。入城後、李自成は直ちに各衙門の吏書(秘書)班の下級役人を引見し、彼らに民間に告示させ、通常通り運営させた。同時に、軍政府も掲示を出して民心を安定させた。「大師の城に臨み、秋毫も犯さず、敢えてほしいままに民を掠えば、凌遅(死刑の一種。人体をばらばらに切る)し死に処す」。李自成の軍隊は大部分が城外と城壁の上に駐屯し、入城した官兵は勲戚や官職にある人の屋敷や金持ちの住宅を分散して占有し、一般の市民は少しも侵し騒がすことはなかった。極めて少数、財貨が蝕まれるのが堪えられず、そのため法に背き紀律を乱す者は、軍法による厳しい制裁を受けた。このため、市民たちは皆「以前のように安堵」し、且つ「安心して店や市を開き、普段と変わらずにこにことして」暮らした。農民軍が北京にいた期間、基本的に質素でよく艱難辛苦に耐える優れた伝統を保持した。彼らは毎日、携行していた「黒く砕かれ干された」干飯だけを用い、水で飲み込み、たいへん苦しい生活を送った。北京の住民は、彼らに多くの食物を贈ったが、彼らは一一丁寧に辞退した。
農民軍と北京の住民の関係はたいへん打ち解け、多くの住民が自分の娘を農民軍の官兵に嫁がせ、農民軍と縁組みできることを栄誉とした。農民軍が北京を撤退する時、これらの婦女の多くが農民軍と一緒に関中に戻った。
農民軍の将校は北京に入った後も、依然として方巾(文人、処士が被る帽子)布衣(質素な服)で、紗帽(文官が被った帽子)を被らず、官袍を身に着けず、そのまま4月以降になっても、冠を帯びた者は十中一二に過ぎなかった。その中で比較的突出していたのが、例えば、農民軍将校の劉宗敏は北京滞在の期間、終始或いは方巾を身に着け、或いは白絨帽を被り、出入りする時、四五騎の先導しかなく、「無冠で儀仗衛士や随従を帯びず」、生活はたいへんつましかった。彼が対処する仕事は特にまじめで積極的で、事の大小を問わず、自ら関与した。毎日早朝、彼は馬に騎乗し西華門を入って議事を行い、深夜になってようやく帰宅した。
李自成は幼い時から貧農の家庭に育ち、この世の辛酸と苦痛を嘗め尽くした。彼は色を好まず、飲酒せず、財貨を貪らず、終始「皮を除いただけの精米していない米で、配下と苦楽を共に」した。北京にいた期間、彼は古い毯帽を被り、青い箭衣(矢を射るため袖を窄め、体に密着した上着)を身に着け、最後に北京城を退出する時には、「一枚多く黄色い覆い」を身に着けただけであった。精力を忙しい仕事に集中させるため、彼は遅遅として皇帝の位に就くのに同意しなかった。毎朝早朝、彼は「米の飯を少し啜る」と、宮殿を出て仕事をし、夜が深まり人々が寝静まった(夜闌人静 )時分になっても、彼はまだ他の農民軍の将校と国家の重大事を議論した。更に良く時分を鞭撻するため、彼は明朝の乾清宮の扁額に書かれた「敬天法祖」を「敬天愛民」に改めた。彼はまた自ら一般の群衆に接見した。4月6日、9日の両日、彼は文華殿で二度にわたり北京城内外の各村の老人に会い、「民間の苦しみ」や農民軍が「民衆をかき乱していないかどうか」といった状況を尋ね、更に彼らにこう告げた。彼が挙兵した目的は「人々を深い災難から救い出す(救民水火)」ためであると。