午後3時25分過ぎ、北上川河口の防潮林(松林)を超えてきた津波を目撃した広報車が引き返す。
後続の広報車もUターンして「高台に避難してください」「松原を津波が通過しました、避難してください」と
呼びかけながら、県道を戻っていった。
広報車が大川小前を行きと帰りで通過する際、スピーカーの呼びかけを聞いた児童もいる。
教諭たちの間では裏山に逃げるべきか、校庭にとどまるべきかで議論していた、
市教委の報告書には<教頭は「山に上がらせてくれ」と言ったが、釜谷(地区の)区長さんは
「ここまで来るはずが、ないから三角地帯に行こう」と言って、けんかみたいにもめていた>と記されている。
教頭と教務主任という、学校現場の両責任者が、山に逃げようと主張していたにもかかわらず、
なぜ行動にうつせなかったのか、
この点が、未だに赤らかにされずにいる、学校の裏山は、ソリ滑りができるほど傾斜の緩やかな場所があり、校庭から40秒から50秒でたどり着く、
子供たちにとってシイタケ栽培の学習でなじみの場所でもあった。
子供たちの列は崩れて丸くなり「大丈夫だぞ」「こんなところで死んでたまるか」などと励ましあっていた。
この間、A教諭は,、校舎の2階に避難が可能かどうか確認しに行っている。
午後3時29分、迎えに来た母親の一人(死亡)が、「子供と学校にいます」というメールを夫に宛てて
送った、町の側溝からは水が噴出し、堤防からは水があふれ始めた、児童の一人が学校の前の住民の
「津波がきたぞ!」と言った声を聞いた。
子供たちが逃げた経路
午後3時35分すぎ、教頭先生が「三角地帯(釜谷地区の入口にある北上川の堤防)へ逃げるから
走らず列を作っていきましょう」と呼びかけ、子供たちの移動が始まった。
なぜそれまで裏山か校庭かの議論になかった三角地帯を目指すことになったのか、
これも明らかにされていない。