佐藤功の釣ったろ釣られたろ日誌

釣り・釣りの思い出・釣り界のこと・ボヤキ.etc

誕生日

2022-02-12 16:33:23 | 日々の思い

昭和13年2月12日、大阪にて生まれる

小学1年生で和歌山の妙寺というところに集団疎開に行かされた。姉とともに、姉は一つ先の笠田と言ったと思うところに2人とも行かされた、戦争がきつくなり幼いものは田舎がある人はその田舎にないものは集団で決められたお寺に預けられることになって、無理やり生かされた、親元を離れてですから、寂しくて途中で泣きながら脱走を図った子もいました。

戦争が終わり阿倍野に帰ってきたら周辺は焼け野原でした我が家のある周辺だけが助かっていました、聞くと1T爆弾が不発だったそうで後日4軒隣の家から発掘されました。

お陰で戦災孤児にならずに今日まで生き延びています。

小学、中学、高校と歩いて行ける範囲の学校でして夜間の大学に通っている2年目に胸を患いました、勤めていた心斎橋の久榮工務店が良くしてくれて、面倒を見てくれました、ありがたかった、その後退院してから、現場は無理だろうと、工芸の山本先生の配慮にて今度は、設計事務所(泉設計)に努めることになり、私の人生が始まりました。

そこで今は亡き女房と知り合い結婚して49年の長きというか、あと1年で50年やなと言いながら先に旅立たれたのですが、よくしてくれました、子供が出来なかったことから、僕のわがままをよく通してくれて、好きにやらしてくれました。

現在このように色々なことができてるのもすべて亡き女房殿のお陰と感謝してます。でも僕が次の世で会えることが出来たらいいが,多分嫌がるでしょう、もう面倒みきれんと・・・

後、何年生きれるかしれないが、好きな事これだけやって来たからもういいかと・・・面倒見てやってなと言われた、富子にもいろいろと迷惑をかける事やから・・・これからの年寄りの人生とはむつかしいものでしょう。

未だ設計事務所の看板を挙げて仕事をしてますが、これもいつまでやれるか、仕事は好きなので、何でもやりますが、力仕事はダメやし、頭もよくないのでむつかしいものです。

お陰で今も長年やって来た処理場の仕事をやらせてもらっていますが、これも長きにわたりやって来た経験でいただいています、2年前の冨田の梅の処理場に続いてのものですが、今回は和歌山のケイズさんからの仕事で、工場の排水処理場です。

コロナのお陰で外に出ることがないので頑張っています。

84回目の誕生日のお祝いをしてくれる話も、皆さんに今回は順延としてもらいました、残念ですが仕方がない、もう少し落ち着けばやれるでしょうと・・・

楽しみの麻雀も魚釣りも今しばらくは一服です、治まったらまた再開もしますがそれまでは我慢です。

製作した本「磯っ子物語り」も全国にて1000部発売されて、何とか半分ぐらい売れたそうで嬉しいなと思っています、私の方で売れた分のお金は、小学校の魚好きの子供に差し上げたい本の製作代金に代えさせてもらうつもりです。

私の所では250冊ほど売れました(無理やり押し付けたのもあり?)有難うございました。もう少し皆さんに迷惑かけながらもがんばるつもりですのでよろしくお願いします。

串本の掛かり釣りでの10キロのブリ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
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