佐藤功の釣ったろ釣られたろ日誌

釣り・釣りの思い出・釣り界のこと・ボヤキ.etc

ダボ鯊の戯言

2020-07-03 19:58:18 | 釣り

FW: 釣り描く「文学作品」 

 

以前、大阪で発行されていた雑誌「つり」に、後に文化勲章を受章される著名な民族学者(故人)が「釣の言葉」と題する一文を寄稿され、釣りの言葉は堅苦しい漢語がほとんどなく柔らかな響きの判りやすい言葉が多い、と絶賛され、だぼ鯊は大いに共鳴してガッテンを連発したものです。

 

 釣り描く「文学作品」

    漂う文化芸術の芳香

 

 ところが、読み進めると、「判りやすい釣りの言葉」と釣りに「理論がない」ということがじつは内面でつながっていて、それが釣りの文化的な低さの表れといわなくてはなるまい、とあり、いささか釣りを愛する端くれとして心中穏やかでありませんでした。あたかも釣り人が文化的に低いと言われたように感じたからです。

 理論とは何か。試しに広辞苑を引くと「科学において個々の事実や認識を統一的に説明し予測することのできる普遍性をもつ体系的知識」とあります。科学において、ということは「個別の専門分野の学問において」ということと同じです。

 つまり、もし、釣りで技術を理論づけるとすればその理論は漁獲法の知識として「水産学」の理論になりうるかもしれない、魚を理論づけるならば「魚類学」、リールなどメカの理論づけは「機械工学」系、「電子工学」系の分野だし、釣り糸やロッドは「高分子化学」系、エサの虫や貝類、海藻などは「生物学」系…「理論と学問」の結びつきは際限なく広範です。

 理論の発展のためにはその概念は常に文字として記録され論述されねばなりませんが、釣りはそんなものとは無縁で、魚を釣り上げた一瞬の限りない喜びと満足を巡って趣味として発展してきたのは事実です。

 たしかに趣味の釣りは常に野外での直接的な経験であり「文字=漢語」の必要はなかったかも知れません。ミチイト、ハリス、ヒロ、アタリ、アワセ、バラシ、耳で聞いてすぐピンとくる判りやすい言葉こそ必要でした。ノート片手に釣りをする人があるだろうか、とまでいわれると、ごもっとも、と頷かざるを得ません。

 それでもまだ、だぼ鯊は「釣りが科学=学問から遠いので、文化的に低い」のだろうか、との疑問のこだわりを払しょくできないでいました。

 ところが昨夏、あの有名なノーベル文学賞受賞作品アーネスト・ヘミングウェイ著「老人と海」の新たな翻訳本(小川高義訳)が光文社古典新訳文庫として出版されたことを知り、早速購入し、老いた釣り人と巨大カジキとの釣りの闘いを描いた壮大な釣り物語をあらためて噛みしめ、発表以来六〇年間もの長きにわたり世界の釣り人を魅了し続けた「文学」がいかに香り高いものかを再認識しました。

 日本の文学作品ではイシナギ釣りを題材にした男のロマン「秘伝」(高橋治著)が直木賞(昭和五八年下期)に輝いたことは記憶に新しいところです。

 釣り自体は趣味と片付けられる側面を有していても、釣りと魚を背景にした「赤裸々な人間像」を描いた釣りの「文学作品」は高尚な芸術の芳香を漂わせている事実は揺るぎません。

 この分野では、文化的に低いとは決して言わせない、と,

だぼ鯊は少し胸のつかえが下りる思いですが、しかし、この機会に、文化とはいったいなんぞや、ということを、“戯言目線”で語っておかねばならないなぁ、とも思うわけです。 (からくさ文庫主宰)

 

 

 

 

 

 

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