昭和52年の総会時、全関西磯釣連盟は550の団体と3万人に及ぶ会員となっていました。
2月に行われたこの総会で、三木会長は自分の病状を公表し連盟の先行きを案じて、運営のまとめ役を兵庫の藤澤淳一郎氏に、そして全釣協に対する連盟代表を兵庫の中西暢氏に託されました。
昭和52年6月、三木会長が他界される前後から全関西連盟内部において色々な不協和音が出始めました。
三木会長はこのことに大変腹ただしかったようで、連盟の機関紙「いそつり」326号に釣り界百年の計として書いておられます。
昭和53年5月、男女群島の立神で日本釣魚所属の木村俊一氏が、新記録のイシダイ84.5センチを釣られました。
イシダイ一筋の彼は現在、尼崎にてイシダイ専門のプロショップ経営する傍ら石鯛釣技会の会長として活躍中で、このイシダイの剥製が今も彼の店に飾られてあります。
昭和54年には堤野嘉之さんが、鹿児島県トカラ列島の諏訪之瀬島にて超ド級のカッポレ「150センチ」を上げられています。
余談ですが、私はこの年の始めに兄としても慕っていた今は亡き同じ北摂FCの簗瀬氏とテニアン島に行き、ビッグゲームを楽しみました。
三木会長亡き後、大阪磯釣クラブ会長の大内正雄氏が昭和53年から58年まで2代目連盟会長として、変わり行く連盟組織をまとめていかれました。
そして59年から岩田良和氏が3代目連盟会長として2年ほどされましたが、この時期に現在ある西日本磯釣り連合会や、日本釣連盟連絡協議会が全関西から分かれて設立されました。
全関西磯釣連盟はその後、牧田敏郎氏が4代目として昭和61年から平成4年まで活躍されました。
平成5年から15年までの長き間を吉川幾久雄氏が連盟の会長をやられる傍ら、平成16年まで大阪府釣り団体協議会の会長としても大変苦労されました。
平成17年、私は吉川氏からそのバトンを受けました。
2月に行われたこの総会で、三木会長は自分の病状を公表し連盟の先行きを案じて、運営のまとめ役を兵庫の藤澤淳一郎氏に、そして全釣協に対する連盟代表を兵庫の中西暢氏に託されました。
昭和52年6月、三木会長が他界される前後から全関西連盟内部において色々な不協和音が出始めました。
三木会長はこのことに大変腹ただしかったようで、連盟の機関紙「いそつり」326号に釣り界百年の計として書いておられます。
昭和53年5月、男女群島の立神で日本釣魚所属の木村俊一氏が、新記録のイシダイ84.5センチを釣られました。
イシダイ一筋の彼は現在、尼崎にてイシダイ専門のプロショップ経営する傍ら石鯛釣技会の会長として活躍中で、このイシダイの剥製が今も彼の店に飾られてあります。
昭和54年には堤野嘉之さんが、鹿児島県トカラ列島の諏訪之瀬島にて超ド級のカッポレ「150センチ」を上げられています。
余談ですが、私はこの年の始めに兄としても慕っていた今は亡き同じ北摂FCの簗瀬氏とテニアン島に行き、ビッグゲームを楽しみました。
三木会長亡き後、大阪磯釣クラブ会長の大内正雄氏が昭和53年から58年まで2代目連盟会長として、変わり行く連盟組織をまとめていかれました。
そして59年から岩田良和氏が3代目連盟会長として2年ほどされましたが、この時期に現在ある西日本磯釣り連合会や、日本釣連盟連絡協議会が全関西から分かれて設立されました。
全関西磯釣連盟はその後、牧田敏郎氏が4代目として昭和61年から平成4年まで活躍されました。
平成5年から15年までの長き間を吉川幾久雄氏が連盟の会長をやられる傍ら、平成16年まで大阪府釣り団体協議会の会長としても大変苦労されました。
平成17年、私は吉川氏からそのバトンを受けました。
楽しみに読ませていただいております。
表に出なかった釣り界の歴史を
掘り下げて執筆されることを期待しております。
(必ず本音で書いてくださいね)
いろいろ怒られて書いてます。
また教えて下さいよ。