いよいよ桶狭間の戦いですね
まさか、桶狭間の戦いまで勘助の策略だったとは??
驚きを通り越し少し呆れている僕なのです
いまだに行軍の進路を迷っている義元。
毛嫌いされている事を逆手に取って、桶狭間以外
の進路を進言する勘助。
義元の性格を見事に利用して寿桂尼に恨みを果し
た事になりますね。
このドラマでは勘助の策略が功を奏した事になる
のです。
桶狭間の後、今川の家臣が首無しの遺体を持って帰った
と言われていますが、後に今川の家臣達の願いを聞き入
れた信長が、首を返還したといいます
ドラマで義元は、公家被れした嫌味な武将として描かれ
ていますが、実際の義元は内政・外交と辣腕を発揮して
今川家の最盛期を作ったのです
長続きはしませんでしたが…
義元は流通の統制や商業の保護など行政手腕にも優れた
ものが有ったようです
決して凡庸な武将ではなかったのですね。
大規模な検地をやったり領国内の法整備も整え、「東海
道一の弓取り」と言われるまでになった処を見ても、並
みの武将ではなかった筈です

沓掛城から出発した義元が突然の豪雨の為、桶狭間で休
憩する。
義元軍の休息を察知した信長が,豪雨に紛れて奇襲攻撃。
降りしきる雨の中,毛利新助が義元の首を討ち取ったと
言うのが桶狭間の定説ですよね
しかし、この説は明治時代に陸軍参謀本部によって作ら
れたものだと云うのです
陸軍参謀本部は何故この様な説を作ったのでしょうか??
当時の軍事史の研究は軍に都合の良い解釈を採用してい
た為だと言うのが真相の様なのです
今の憲法解釈にも通じるものが有りますよね。
日本では伝統的に奇襲が強いという事を知らしめる為、
大袈裟に奇襲説を強調する必要が有ったのです
第二次大戦の悲惨な特攻隊の発想も、この辺りが原因な
のかも知れませんね。
源義経しかり、楠木正成しかり、彼らを英雄視する意味
がここに有った訳なのです

もう一つ
義元の目的が上洛だということが疑問視されているのです。
個人的に調べていないので確証はないのですが、義元が上洛
するにあたり、朝廷に対して工作した形跡が全くないと言う
のです
また,この頃には長男の氏真に家督を譲っているとも言われ
ています。
亡くなる二年前頃から氏真と政務の分担をしていたらしいの
ですが、上洛という大事業の前に果たして家督を譲るのだろ
うか??
家康のように天下を取った後ならいざ知らず、大事の前に家
督を譲るなんてとても考えられません
家臣の士気にも係わりますよね。
又、桶狭間の戦いは一般的な国境争いの延長線上にあり、
百歩譲っても、尾張の統一程度の事だったのではと云う
説が有力なのです
個人的にはこの説が正しいのではと僕は思っていますが…
本気で天下を取りに行くには余りにも杜撰な計画の様な
気がしてなりません
兵を伴っての上洛なら謙信はじめ数名の大名が行ってい
ますが、天下を取るとなると一大名だけでは無理なのです。
まず尾張を自分の領土とし、京都近隣の大名と通じてから
天下取りの為の上洛を考えていたのではないでしょうか??
そう言う意味では、義元は大事の前に頓死した事になるの
でしょうね
果たして、真相はどうだったのでしょうか…

まさか、桶狭間の戦いまで勘助の策略だったとは??
驚きを通り越し少し呆れている僕なのです

いまだに行軍の進路を迷っている義元。
毛嫌いされている事を逆手に取って、桶狭間以外
の進路を進言する勘助。
義元の性格を見事に利用して寿桂尼に恨みを果し
た事になりますね。
このドラマでは勘助の策略が功を奏した事になる
のです。
桶狭間の後、今川の家臣が首無しの遺体を持って帰った
と言われていますが、後に今川の家臣達の願いを聞き入
れた信長が、首を返還したといいます

ドラマで義元は、公家被れした嫌味な武将として描かれ
ていますが、実際の義元は内政・外交と辣腕を発揮して
今川家の最盛期を作ったのです

長続きはしませんでしたが…
義元は流通の統制や商業の保護など行政手腕にも優れた
ものが有ったようです

決して凡庸な武将ではなかったのですね。
大規模な検地をやったり領国内の法整備も整え、「東海
道一の弓取り」と言われるまでになった処を見ても、並
みの武将ではなかった筈です


沓掛城から出発した義元が突然の豪雨の為、桶狭間で休
憩する。
義元軍の休息を察知した信長が,豪雨に紛れて奇襲攻撃。
降りしきる雨の中,毛利新助が義元の首を討ち取ったと
言うのが桶狭間の定説ですよね

しかし、この説は明治時代に陸軍参謀本部によって作ら
れたものだと云うのです

陸軍参謀本部は何故この様な説を作ったのでしょうか??
当時の軍事史の研究は軍に都合の良い解釈を採用してい
た為だと言うのが真相の様なのです

今の憲法解釈にも通じるものが有りますよね。
日本では伝統的に奇襲が強いという事を知らしめる為、
大袈裟に奇襲説を強調する必要が有ったのです

第二次大戦の悲惨な特攻隊の発想も、この辺りが原因な
のかも知れませんね。
源義経しかり、楠木正成しかり、彼らを英雄視する意味
がここに有った訳なのです


もう一つ
義元の目的が上洛だということが疑問視されているのです。
個人的に調べていないので確証はないのですが、義元が上洛
するにあたり、朝廷に対して工作した形跡が全くないと言う
のです

また,この頃には長男の氏真に家督を譲っているとも言われ
ています。
亡くなる二年前頃から氏真と政務の分担をしていたらしいの
ですが、上洛という大事業の前に果たして家督を譲るのだろ
うか??
家康のように天下を取った後ならいざ知らず、大事の前に家
督を譲るなんてとても考えられません

家臣の士気にも係わりますよね。
又、桶狭間の戦いは一般的な国境争いの延長線上にあり、
百歩譲っても、尾張の統一程度の事だったのではと云う
説が有力なのです

個人的にはこの説が正しいのではと僕は思っていますが…
本気で天下を取りに行くには余りにも杜撰な計画の様な
気がしてなりません

兵を伴っての上洛なら謙信はじめ数名の大名が行ってい
ますが、天下を取るとなると一大名だけでは無理なのです。
まず尾張を自分の領土とし、京都近隣の大名と通じてから
天下取りの為の上洛を考えていたのではないでしょうか??
そう言う意味では、義元は大事の前に頓死した事になるの
でしょうね

果たして、真相はどうだったのでしょうか…