函館 Glass Life

函館市田家町で眼鏡店「サポートGlass」を営む店主の趣味と感じたことの
日記です。

利休失脚!!

2009-07-27 | 歴史
利休は何故切腹したのでしょうか??

ドラマでは、政治に口を出す利休に対し秀吉が腹を立てた
と云うのが表向きの理由になっている様ですが…
聚楽城内に屋敷も構え3000石の領地も秀吉から貰っていた
ほどの茶人政治家だったのに何故??

大徳寺三門の改修の件や、娘を秀吉の妾にとの申し出を断
ったとか?安物の茶器を高額で売り私腹を肥やしたとか?
色々言われていますね

秀吉の弟・豊臣秀長が言ったとされる「公儀のことは私に、
内々のことは宗易に」という言葉の中に真相が隠されてい
るのでは?

額面通り秀長の言葉を受け取ると、利休は豊臣政権の政務
に深く関わっていた事になります。
そうだとすれば台頭して来た石田三成をはじめとする文治
派にとって面白い筈がありません
三成らにとって利休は目の上の瘤状態。
利休失脚には文治派が深く関わっていた筈です

天下人・豊臣秀吉ですら一目置いていた利休、ある意味秀
長亡き後、歯に衣を着せず秀吉に意見出来るのは利休だけ
になっていたのかも知れませんね

実は、秀吉が大徳寺三門の件でも前田利家に仲立ちを頼ん
でる節があるのです
秀吉からすれば利休にお灸を据える位の感じだったのかも
知れません。
謝れば秀吉は許す筈と再三忠告されていた様ですが、利休
はこれを拒否
自ら切腹を選んだのか?それともそんな事は出来ないとた
かをくくっていたのか?
何れにしても秀長亡き後、利休の力が大きくなるのを防ぎ
たかった輩がいたのは間違いない様です

それにしても、豊臣政権の大黒柱、豊臣秀長の死がこれほど
軽く扱われるとは
秀吉の実弟ですが、欲が無く豊臣の為だけを考えていた秀長
だからこそ秀吉からも厚い信頼を得ていたのです
お船のリアルな出産シーンを描くのなら秀長の死をもっと描
いて欲しいと思ったのは僕だけでしょうか
豊臣の凋落は秀長の死から始まったと僕は思っていますが、
秀長にもう少し寿命があったのなら徳川幕府もおそらく出来
ていなかったでしょうね
戦国末期に登場した傑物と言っても過言ではありません。
早死にが惜しまれますね

秀長が生きている間は文治派と云えども動く事が出来なかっ
たと思われますが、秀長が亡くなって直ぐに利休切腹という
流れはあまりにも拙速過ぎる気がします
結果的には利休失脚は秀長の死によって確定していたのかも
しれません。
後ろ盾だった秀長を失くした利休はもはや豊臣政権では生き
延びる術がなかったという事でしょうか??
権力闘争の中で敗れた去った利休の辞世の句です
「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足
の一太刀 今此時ぞ天に抛」
『70年かけて磨き上げた茶の湯、これで天下人さえ及ばぬ物
になる』と言った利休の確固たる意志を感じる句ですね。

利休切腹の折、利休奪還を目指す大名がいるかも知れないと
云うので屋敷の周りを警固するのですが、その警固の任にあ
たったのが上杉家です

ドラマでは太平の世の為、秀吉が真の天下人になる為の見せ
しめには利休切腹もやむお得ないと言っていた三成に、情を
忘れれば人はついてこないと反論した兼続ですが、結果的に
利休の最期を看取ったのは上杉だった様ですね



サポグラ 8月号 のCMです




コメント (2)
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